それは、日常を漂う魔法


 パシッ! と黒板に鞭が当たる音が響く。次いで飛んでくるのはクルーウェルの怒声だ。
 ユウも所属している一年A組の教室内はクルーウェルの怒号が常に飛び交っている為、ユウは鞭が黒板に打たれる度、今度は怒鳴るな。と予想を立てている。今の所外れたことはない。

「ステイだ! 駄犬ども!!」

 一度は静かになるのに、どうしてクルーウェル先生がなにか話す度に騒ぎ出すのだろうか。これでは、授業が一向に進まない。
 向こうにも騒ぐ奴はいたけれど、ここまで酷くはなかったな。

 ユウが窓の外に広がる青空を見た回数は三回程度。クルーウェルが怒鳴ったのは七回。授業が開始してからまだ十五分の出来事である。
 その後三回連続で黒板が鞭の痛みに耐えながらも、乾いた音を立てた。

「いいか駄犬ども、今回作成するのは乾燥マンドレイクだ。作り方を説明しろ……デュース・スペード!」

 クルーウェルに名指しされたデュースが肩を固く震わせた。驚いたからではない。答えを脳内の引き出しから持って来ることが難しかったのだ。生のマンドレイクを用意するのはわかっている。そのマンドレイクを一度蒸す作業があるのもわかっているが、なんの葉っぱで包んで蒸すのかをデュースは思い出せず、眉間に深い皺を寄せている。
 が、そんなデュースを見ているクルーウェルの眉間が山脈のように隆起していく。終いには眉尻がピクリと生き物のように跳ねる。

 ——あぁ、折角の顔が台無しだけど、怒った顔はそれはそれで格好いい。

 自分に被害がないことを察したユウは、一人呑気にクルーウェルの顔の良し悪しについて議論していた。脳内会議の結果、クルーウェルはイケメンで間違いなし。という結論に至ったが、この脳内会議を起こしたのは今日で両手の数を超え、結論も毎回同じものだった。

 リドル先輩にクルーウェル先生の顔の良さについて話した時、は? って顔をされたなぁ。なんて、困惑したままのデュースを下から眺めているユウは、仕方がないか。と溜息を軽く吐いて、デュースに向かって小声で話しかけた。

「チリヌットの大葉を……?」
「そうか! チリヌットの大葉を蒸します!」
「バッドボーイ! カンニングしておきながら間違えるとは何事だ!」
「えぇ?!」

 間違えたことへの衝撃なのか、怒られたことへの衝撃なのか、デュースは大きく上半身を後ろに逸らし驚きの声を上げた。
 正直「えぇ?!」なのはこっちであると、ヒントを出したユウは肩を窄め、ヒントを出されながらも間違えたデュースを見たエースは右手でお腹を抑えて息を殺しながら爆笑していた。肩が激しく上下に動いている所為で、笑っているのは誰がどう見ても一目瞭然である。

「あ、そうか! チリヌットの大葉で生のマンドレイクを蒸します」
「そうだ。然し説明不足だな。何が足りない? エース・トラッポラ!」
「マジかよ、とばっちりじゃん。えーっと、蒸すときはα波を一定の強さで与えながら蒸します」

 げぇ。とあからさまに嫌そうな顔を出しはするものの、エースという男は要領が良く、また切り替えの早さにも定評がある。とばっちりと文句を言いはするものの、余裕の表情でクルーウェルの質問に答えることが出来た。

「正解だ。では、蒸した後はどうするのが正解だ。ユウ、答えてみろ」
「はい。乾燥させます。乾燥させるとき、カビが生えないようにすることは勿論、変色していないかをチェックします」
「よろしい。では最後にグリム。乾燥させる時間はどのくらいだ?」
「そんなの適当でいいんだゾ!」

 小さな前脚……お手てと言っても過言ではないまろみを帯びた前脚で、学園長から支給されたマジカルペンを握っているグリムは、クルーウェルの質問に満面の笑みで答えた。まさに、それが答えであるかのように。
 勿論、乾燥させる時間だって決まっている。長さ十五センチ、直径四センチの蝋燭が溶けきるまで。教科書にも書いてある正規のやり方だ。
 それを「適当でいい」なんて答えたあかつきには、クルーウェルの怒号が飛んでくるに違いない。とユウは咄嗟に己の両耳を塞ぎ、状況を理解していないデュースに目配せした。
 何かを訴えていることに気が付いたデュースは、ユウの真似をして耳を塞いだその瞬間、クルーウェルの怒号と黒板を叩く鞭の乾いた音が教室に響き渡った。

 その後、乾燥マンドレイクを作ったが、無属性のα波を出すことが難しいグリムと相棒の監督生は、クルーウェルが提示した合格基準を満たすことが出来ず、魔法の使えない監督生を考慮したクルーウェルは、レポートを放課後に提出するように言いつけたのだった。

「まぁ、ドンマイ監督生!」
「そういう日だってあるさ! レポートの提出大変だろうが監督生なら出来るぞ」
「デュースは合格点ギリギリだったくせに」
「ウッ!」

 痛いところを突かれた、とデュースは肩を軽く落として、首を横に振って「それでも合格はした!」と胸を張った。確かに合格はしているから技術的には問題がない。ということだ。

「しっかし、ユウは今日、ジェイド先輩にモストロに誘われてたじゃん。どうすんの?」
「うーん。行けないって連絡したいけど、私連絡先知らないんだよね」
「あ! オレ、超名案思いついたんだけど! オレが監督生の代わりにモストロに行ってやるよ! 確かドリンク無料券も貰ってたよな?」

 善意の皮を被った欲望を隠しきれていないエースを前に、ユウは少しばかり考えた。
 それはそれで手柄を横取りされたみたいで嫌だけど、ドリンクの無料券を無駄にするよりはまぁいいか。ジェイド先輩への言付けもエースに頼めば一石二鳥だし。
 うん、そうしよう。とユウが懐からドリンク無料券を取り出すと、グリムが「嫌なんだゾ!」と声を荒げた。

「折角オレ様が貰ったチケットなのに!」
「貰ったのは私ね。しかも行けないのはグリムの魔法の所為でしょう」
「嫌なものは嫌なんだゾ!」

 シアンの目を吊り上がらせ、唸るグリムは何処からどう見ても駄々を捏ねている子供だ。
 グリムは我の強い性格をしている。こうなったらドリンク券をエースに譲るのは難しいだろう。とは言え、このドリンク券を無駄にしない方法は一つしかない。

「じゃあグリムモストロ・ラウンジの営業時間内にレポートを提出しないといけないんだけど、出来るってことだよね? サボってモストロ・ラウンジに行こうなんて考えてないよね?」
「んぐっ」
「うーわ。最低じゃん」
「グリムお前って奴は……」

 サボってモストロ・ラウンジに行く気満々だったらしいグリムは、ユウに言い当てられて言葉を詰まらせた。それを見たユウは「そうだろうと思ったけど」と言いながら、一枚はエースに、もう一枚はデュースに渡した。

「僕にもいいのか?」
「うん。合格おめでとうってことで。先輩に諸事情伝えておいてね」
「監督生がそれでもいいなら遠慮なくもらうが……」
「お前たちズリィんだゾ……」
「悔しかったらレポートを提出放課後までに提出すりゃあいいじゃん」

 ドリンク無料券を書かれたチケットをグリムに見せつけるエースの目は意地悪だが、案外穏やかだ。嗚呼成程、そういうことか。と納得したのはユウだけではないようで、デュースもドリンク券をグリムに突き付けた。

「お前がちゃんと頑張れば、返してやってもいい」
「本当か?!」
「男に二言はないからな!」
「よかったねぇ。グリム! 一緒に頑張ろうね!」
「勿論なんだゾ! そうと決まればさっさと図書室に行くんだゾ、子分!」

 元気なグリムは弾かれたように走り出した。三叉になっている尻尾を左右に揺らしながら廊下を駆けていくその姿に、さっきまでの悲壮感は感じられない。

「ありがとう。二人とも」
「ま? オレもこのまま貰ったら後味悪いし?」
「そうだな。……ん? エースは真っ先にこのチケットを奪わなかったか?」
「んなことねえって!」

 いや、そんなことあっただろう。とユウは数分前の出来事を思い出したが、本人がそう言うのであれば深く追求しなくてもいい話題か。と口を噤んで、もう一度二人にお礼を言った。

「部活終わってもメッセージ送ってなかったら、それ遠慮なく使って良いからね」
「……まぁ、ありがたく使うけどさぁ……オレあんまこれ使いたくなくなってきたわ」
「僕も同じ心境だ」
「なんで?」

 さっきまであんなに嬉しそうにしていたのに? と首を傾げるユウを前にしている二人は昼休みの光景を思い出していた。
 デーティングの話をした後のことだ。
 ジェイドは徐に話題を変え、懐から二枚のドリンク無料券を取り出しユウに手渡した。

「もしよろしければ、放課後ラウンジへ遊びに来てください。こちらは監督生さんとグリムくんのです」

 ユウは最初こそ悪いからと、チケットを受け取らなかったが、ジェイドの押しに負け、しっかりと両手でドリンク無料券を握っていた。

「せんぱ〜い。オレたちにはそういうサービスないんですか?」
「すみません。僕、同性に対して親切にする優しさは持っていないんです」
「同性ってか、興味のない奴全員にそうじゃん」
「ふふ、そうかもしれませんね」

 そんな会話を聞いたその日のうちに、ユウに渡したはずのチケットを持ってモストロ・ラウンジに行くとは、どんな肝試しだと、周りの人間に笑われるか心配されるかするだろう。ハーツラビュル寮でこの話をすれば、リドル辺りがエースとデュースを化け物か何かを見る目つきで、正気の沙汰ではない。と言うに違いない。
 むしろ二人にはそんなリドルの姿が明確に見えていた。

「あー、うん。ま、行くか行かないかは兎も角、伝言だけは頼んだよ」
「あーハイハイ」
「任せてくれ」
「オレたちの為にも早くレポートを終わらせろよ!」

 その言葉を最後に三人はそれぞれの目的地に向かって歩き出した。
 ユウはその日、モストロ・ラウンジに姿を現すことはなかった。