それは、日常を潜む懇願


 図書室で資料を探し始めて、ものの二十分でグリムは戦力外になってしまった。
 いつもはピンと立って炎を灯している耳が、萎れたれてしまっている。
 これはもう一度集中力を上げるのは難しいかもしれないな。

 オンボロ寮は常に財政難だ。ユウは着の身着のまま異世界から来た身で、お金なんてものは持ち合わせてなかったし、グリムは入学する権利を持ってないくせに、ナイトレイブンカレッジの門を叩いた喋れる猫──猫と呼ぶと怒るので魔獣と称しておく。
 なんにせよ、オンボロ寮で暮らす二人は、元々金品になりそうなものは所持しておらず、保護者兼監督者として、クロウリーからマドルをもらっているのだ。
 食費を切り詰めて漸くお小遣いが出るような生活は、クロウリー曰く「良い言い方をすれば、慎ましくもいじらしい生活じゃないですか」とのことだが、当の本人たちは苦労をしているのだから、言い方も何もあったものじゃない。

 余裕があれば、グリムにおやつとしてツナ缶を出すことも出来るのだが、生憎と今月は出費が嵩み、グリムにおやつのツナ缶をあげる余裕がないのだ。
 好物を持ち合わせていない今、ユウにあのグリムのやる気を取り戻すのはかなり難しい問題だった。

 とはいえ、グリムがやる気を出さないとユウ一人でレポートを完成させることは不可能だった。
 それはナイトレイブンカレッジの図書室にある本は、意志を持ったように宙を浮いているからだ。

 大半の本は天井まで届く本棚に収まっているが、何を思ったのか突然そこから抜き出て移動し始める。
 目当ての本が宙に浮いていれば魔法で引き寄せる。ここの生徒たちは呼吸するかのように、当たり前にやってのけるが、魔力がないユウには出来るわけもない。
 だからグリムが必要なのだ。

「グリム、モストロ・ラウンジのドリンクはいいの?」
「この調子じゃもう終わってるんだゾ」
「いやいや、まだ初めて二十分くらいだよ。頑張れば行けるよ。もうちょっとだから一緒に頑張ろう?」

 机に突っ伏してふて寝していたグリムは「ウゥ……」と唸りながら上半身を起こした。
 多少のやる気は出たらしい。よかったとユウは胸を撫で下ろし、グリムを抱えて必要な本を取りに行った。

 乾燥マンドレイクの作り方を詳細に記している本は案外少ない。というのも、作り方自体簡単である上に、α波を出す感覚は人それぞれであり、そこにやり方はないからだ。
 定義としてフラットな魔力。と位置づけされているが、ユウにはそんなもの理解のしようがない。

 それ以外のものをレポートで書くしかないとなると、この図書館にある無尽蔵と思われる書物の中から、関連書籍を見つけなければならない。

 これは……中々に骨が折れる。
 確かこの辺に会ったはずだ、と本棚を見上げれば、目当ての本が一冊ユウの目に飛び込んだ。身長より随分と高い場所にあるそこに腕を伸ばしたって意味はないだろう。ユウの目当ての本は天井近いところにあるのだから。
 そうなればグリムの出番だ。ユウの腕で抱えられている、喋るツナ缶が大好きな魔獣に魔法で取ってもらおうと、グレーの毛並みに指を沈めた。

「グリムあそこにあるワインレッドの背表紙の本、取れる?」
「何処にあるんだ? オレ様には見えねぇんだゾ」
「本棚の上から三番目の……ほら、濃い青と、赤茶の色にある……植物学問って本、見える?」

 「ふなぁ……?」。グリムは眠たげなシアンの瞳で本棚を見上げた。耳はまだ垂れているままだ。

「出来そう?」
「オレ様に出来ねぇことはないんだゾ!」
「頼んだ!」

 グリムのまろみを帯びた前脚から光る粒子が飛び出し、目当ての本とは全く違う本に当たった。

「あぁ! 惜しい!」
「次は当てるんだゾ」

 繰り返すこと十五回。徐々にワインレッドの背表紙に近付いていったが、当たる気配がまるでない。頑張れ、頑張れ。と慰めるユウの口調も覇気が無くなっていく。「もう嫌なんだゾ〜」と完全に心が折れたグリムはユウの腕の中から藻掻きながら飛び出して、軽やかに着地した。
 その様はまるで猫のようなしなやかさで、やっぱり魔獣じゃなくて猫に近いじゃん。とユウはグリムの存在に小首を傾げた。

 が、今はそんなことを気にしている暇は一瞬もない。

「グリム!」

 そうユウが呼び止めてもグリムは振り向きもせず、一目散に図書室から出て行った。
 ことの時ユウの中に二つの選択肢が頭の中に浮かんだ。一つは、グリムを追いかけること。もう一つは、グリムを諦め自分でレポートを提出すること。放課後が終わるまでに持って来いと言われている以上、やらねばならないとユウは責任を感じている。相棒が逃げたから出来ませんでした。という言い訳は使いたくないのだ。

「……頑張るか」

 植物学問と背表紙に記されたワインレッドの本を諦めたユウは、自分の身長でも取れる資料を探しに再び歩き出した。
 グリムにも反省してもらわないといけない。さてどうやって怒ろうか。なんて考える片手間で、ユウは何かいい資料はないか。と探し回った。同じところを何度も行き来し、めぼしいものはないかと字面を追いかける。
 正直ユウにはツイステッドワンダーランドの言葉は難解なものだった。
 圧倒的に、知識量が足りていないのだ。「バヴィルスの呪文」「薔薇のギフト」「鳴泣の仮面」「幻惑草の調理法」「人魚の解剖図」「魔法医学白書」……等、今ユウが持てる知識では到底理解出来そうにない本が大半を占めている。これでは何に手を伸ばせばいいのかがわからない。

 ――エースかデュースに事情を話して、助けてもらうべき? でも、クルーウェル先生は私とグリムに課題を科したのだから、他の人に手伝ってもらったらダメなのかも? でも、どの本を参考にしたらいいのかなんてわからないし……。

 天井まで伸びる本棚の間をウロウロと歩いていたユウの足がついに止まった。
 顎に指を当て、足元に視線を落とし考え込むユウの眉間には皺が寄っている。あの世界的モデルのヴィルが見れば美しくない! と一括しただだろう眉間皺の深さがユウの困り具合を表している。

「うぅーん……」

 どうすべきなのか、唸り声をあげて考え始めたユウの背中に近付く一つの影。人の気配に敏感な性格をしていれば気が付いたかもしれないが、生憎とユウは人の気配を気にして生きてきたことはなく、近付く影に気が付きもしないで悩んでいる。

「何かお困りですか?」
「――! ……ジェイド先輩でしたか」
「僕でよろしければお手伝いさせて頂きますよ」

 革手袋で包まれた左手を胸に当てているジェイドはユウの身長に合わせるように、僅かに上半身を前に倒している。

「な、んで、此処に……今日、モストロ・ラウンジに……」
「はい? あぁ、お二人から事情を聴きましてこちらに寄ったんです」
「え? ってことはもう部活の時間が?!」

 エースとデュースには部活までに終わらなかったら、ドリンク券を使う代わりにジェイドに事情を話して欲しい。とお願いしていた。それでジェイドが図書室にいるとなれば、もうとっくに部活が終わっている。と、いうことになる。
 ユウは咄嗟に図書室の壁に掛けられている時計を探すも、本棚に間にいる所為で時計を見ることが叶わず、結局今、何時なのか把握することは出来ず、視線をさ迷わせていると、ターコイズブルーの男の左耳を飾るピアスが揺れた。

「フフッ、今はまだ部活に励んでいる最中ですよ」
「そ、うですか。ありがとうございます」

 良かった。まだそんなに時間は経ってなかった。と胸を撫でおろしたユウは再びジェイドを見上げた。
 どうしてこの人がここにいるのか、その理由をまだ教えてもらっていないからだ。

「えっと、それで先輩は何をしに此処へ?」
「勿論、監督生さんのお手伝いをしに、ですよ。確かマンドレイクのレポートでしたね」
「あ、はい。そうですけど、本当にいいんですか?」
「良いとは?」

 胸ポケットに挿していたマジカルペンを取り出したジェイドは軽く振って光る粒子を本に向かって飛ばした。ついでマジカルペンで引き寄せる仕草をすれば、粒子が付着している本がひとりでに本棚から抜けて、ジェイドの手元までやってくる。

 ——魔法みたい。

「フフッ、魔法ですよ」
「! 私、声に出ていましたか……? 恥ずかしい」
「大変可愛らしかったです。それで、良いとはどういう意味でしょうか?」

 ユウの発言に疑問を覚えたジェイドは目的を持った足取りで前に進み出す。それと同時に本棚に収まっている本を魔法で次々と取っていくのだから、ジェイドの中でユウのレポートを手伝うというのは決定事項のようだ。

 然し、ユウの中ではジェイドにレポートを手伝ってもらうことは決定事項ではない。
 昼休みに貰ったドリンク券を友人に横流しし、しかも行けなくなった理由を言伝してもらい、挙句に手伝わせるとは、罪悪感がジェイドの左手に積まれていく本のようにユウの中に積もっていく。
 また一冊の本がジェイドの左手に積まれた。それと同時にユウの罪悪感が胸の奥を満たしていく。

 これはいけない。先ずはこの気持ちを知ってもらわないといけない。

 ずきずきと胸の奥を刺激する鋭利な何かを早急に撤去したくて、ユウは先を歩くジェイドの制服の裾を掴んだ。
 急に動きを制されたジェイドはピタリと動きを止め、そのまま後ろを振り返った。控えめに掴まれていた裾はあっさりとユウの手の中から離れていく。その光景がユウの目に、嫌にゆっくりに見えた。

「どうしましたか?」
「申し訳ないです。先輩に手伝ってもらうのは、凄く、悪い気がします」
「どうしてそう思うのですか?」

 ジェイドが小首を傾げると、フロイドとお揃いのピアスが左耳で「シャン」と小さく音を立てた。

 なんて言えばいいのだろうか。何て言えば正確にこの気持ちが伝わるのだろうか。
 悩んだ末にユウは視線を上げて、ヘテロクロミアの瞳を見つめ、再び視線を逸らした。
 そこには罪悪感があり、直視することを阻んでいる。

「だって、私、先輩から頂いたドリンク券、エースとデュースに渡しました」
「そうでしたか」

 平静としたジェイドの声にユウはまた視線を上にあげた。
 横流しにしたのに怒っていない? そんな疑問を直接確かめたくなったからだ。

「それで僕が監督生さんのお手伝いを拒まれる理由は?」
「横流しにした挙句、連絡先を知らないからって、先輩のことを探しもしないで二人に伝言を頼んで、それなのに、今度はジェイド先輩に手伝ってもらうとか、図々しいというか、面の皮が厚いというか……」

 言葉にしたら本当に酷い後輩だな。せめて行けないことくらい直接本人に伝えるべきだった。と後悔したところで後の祭りで、所謂、手遅れ。というやつだ。

 うぅ。と罪悪感で再びユウが俯けば、革手袋で包まれた右手がユウの頬に伸びた。大きな手はすっぽりとユウの頬を包み込む。

 ほとんど体温を感じない掌だった。

 頬に触れている右手が穏やかな力で、俯くユウの顔を上に向けると、ユウは抵抗することなくジェイドに促されるままヘテロクロミアの瞳を見つめた。

「僕が望んでいるのは、監督生さんの罪悪感ではありません」
「あの……?」
「お願いしてください。僕を頼ってください」
「え、っと?」
「さぁ、この口で、僕に、お願いをしてください」

 ジェイドの左手に積まれている本らが音を立てて床に落ちた。音に気を取られたユウが顔ごと落ちていく本に視線を向けた瞬間。許さない、と言わんばかりにジェイドの左手がユウの頬を包み込む。
 咄嗟にジェイドの双眸を見れば、はちみつを垂らしたような、とろりとした瞳がユウを見下ろしていた。

 あ、捕食される。

 ユウの中にギリギリ息をしていた危機管理能力が警報を鳴らし始めた。
 脳裏に響く甲高い音は酷く耳障りで、煩わしいのに、ユウの意識は警報ではなく、目の前にいる男に向けられている。

「おねがい、ですか」
「はい。お願いします、と言って頂ければ、いくらでも力をお貸しますよ」

 懇願されることを懇願されるとは……。
 どこでこんなことになってしまったのか。と数分前のことを思い出すも、ユウにはジェイドの思考なんてものは理解出来るはずもなく終わった。

 この甘言に乗ってしまおうか。今も罪悪感の影がユウの胸の内に存在している。その影をジェイドのお願いを叶えることで消せるならいいのではないだのろうか。

 ユウは己の頬を包むジェイドの手の甲に触れた。
 やはりそこには体温を感じない。

「……私のお手伝いをしてください」
「えぇ、喜んで」

 ヘテロクロミアの瞳がゆっくりと弧を描いた。