それは、日常を隠す密会


 ジェイドの選んだ本と説明は魔法が使えないユウにもわかりやすく、レポートとは関係のないことをつい聞いてしまう程、ユウの興味を刺激した。
 授業では知っていて当たり前のことをユウはほとんど知らない。話の流れで推測することは出来ても完璧に理解することは出来ないでいた。授業だから仕方がないとはいえ、どの先生もユウの為に説明してくれはしない。限られた時間で教えるという行為の上で、ユウ一人を優遇するわけにはいかないのだ。
 だから先生方は「子供でもわかる魔法入門」という絵本のような教材を与える。

 では、それでもわからない箇所が出て来るユウは誰に問えばいいというのだ。

 行き場のない疑問だけが募り募って、脳内メモリーからも忘れられていくばかりだった日々の中で、ジェイドの存在は異質だった。何を聞いても必ず答えてくれる存在はユウにはありがたかった。
 ノートにジェイドから教わった知識を文字にして埋めていく。必要だと言われた箇所は赤いラインが文字の下に引かれている。

「私、属性の理解がいまいち出来ていなくて……」
「地属性、星属性、人属性、無属性の違いですね? 具体的に何がわからないのでしょうか」
「波動の違いは判るんですけど、それぞれの役割、と言えばいいのか、機能と言えばいいのか……」
「なるほど……そうですね」

 ふむ。と人差し指の背に顎を当てて考え始めたジェイドは、ユウのノートに手を伸ばした。

「監督生さん、少しこちらのノートを拝借してもよろしいですか?」
「はい」
「では失礼して」

 閉じたノートを左手に、右手にマジカルペンを握ったジェイドは、本棚から分厚い本を取った時と同じようにペンを振った。すると光る粒子がノートを包み込んで、ポン。と何かが弾けたような軽い音を響かせた。

「あれ……? 表紙の色、変わってませんか?」
「はい。これは星属性の魔法です」
「色が変わる魔法……ですか?」

 ユウは手元に返って来たノートをまじまじと見つめた。さっきまでは白い表紙だったのに、今は薄い紫に変わっている。
 そういえば、ハーツラビュル寮でなんでもない日のパーティの準備でエースとデュースが薔薇の木の色を白から赤に変えていたな、なんてことを思い出し、ジェイドに訪ねれば、男は「惜しいですね」と答えた。

「正確には変換する魔法です」
「変換……色変え魔法とは違うのでしょうか?」
「色変え魔法はこの星属性に属する魔法なんです」
「なるほど……?」

 わかったような、わからないような。そんな中途半端な理解しか出来ないでいるが、これ以上嚙み砕いて説明してもらうのもなんだか悪い気がして、ユウは星属性とはそういうものなのだ。と自分の中に常識として押し込もうとした。が、納得や理解をしないと覚えられないものだ。押し込もうとする意志とは裏腹に、理解が出来ないと脳が抗議し、ユウの眉間には深い皺が刻まれている。

 それを見透かしたようにジェイドは問うた。

「そうですねぇ。ラギーさんのユニーク魔法がどういったものか知っていますか?」

 ジェイドの問にユウはこくりと頷き答えた。

愚者の行進ラフ・ウィズ・ミーですよね」
「そうです。あのユニーク魔法は、短時間の間、自分の動きを相手に真似させることが出来る。というものです」
「はい」

 グリムも引っかかっていたし、マジフト大会の時も大勢の人に使用していたから印象に残っている。
 それと星属性の変換魔法が何が繋がるのだろうか。と小首を傾げるユウにジェイドは、マジカルペンでユウのノートに棒人間を描き始める。
 耳の生えた棒人間の頭には、ラギーさんと書かれているのが何だか可愛らしく見え、ユウは小さく肩を揺らした。

「動きを真似させる。というのは、相手の意思決定権を奪ったとも言えますが」
「ふふ、はい」

 耳の生えた棒人間の両腕が上がり、愚者の行進ラフ・ウィズ・ミーと言っている絵面があまりにも可愛くてユウは遂に笑い声を漏らしてしまった。

「笑っている場合ではありませんよ」
「すみません。私の為に教えてくれているのはわかるんですけど、イラストが、その、あまりにも可愛くて」

 軽く叱られてしまったが、ユウの心は沈んでいなかった。むしろ、目の前のノートの中にいるラギーもそうだが、これを描いているジェイドも可愛く見えていた。
 流石に本人も可愛い。とは言えないが、笑ったわけを話せばジェイドはニコリと笑みを浮かべた。

「僕、絵を描くの上手なんです」

 冗談か本気かわからないジェイドの一言に肩を揺らせば、ジェイドはノートの上に描かれたラギーの隣にもう一人の棒人間が追加された。頭の上には、監督生さん。と流れるような文字で書かれている。
 ノートの中のユウは、ラギーと同じように両腕を上げている。

 これは——。

「ふふっ、私、愚者の行進ラフ・ウィズ・ミーされちゃいましたね」
「はい。では、今監督生さんは何を変換されていると思いますか?」
「……変換? 意思決定権を奪われている、とさっきジェイド先輩言ってませんでした?」
「えぇ、ですがラギーさんのユニーク魔法は違います」
「うぇ?」

 奪うんじゃないくて、変換する? 一体どういうことなんだ。と本格的に頭を抱え始めたユウは唸り声を上げている。最も、本人は自分が唸り声をあげていることに気が付いていないのだが。

 うんうん。と眉間に深い皺を刻み悩むユウを十分に堪能したジェイドは、これ以上クルーウェルやトレインのように皺が刻まれるようになっては困ると、頭を抱えるユウの肩に手を置いた。

「では答え合わせをしましょうか」
「……お願いします」

 自力で答えに辿り着けなかったことが余程悔しいユウは、その感情を隠しもせずに唇を尖らせている。
 高校生にもなって子供っぽいことをした。と瞬時に気が付いたユウは尖らせていた唇を、今度は逆に歯に当てて、歯で軽く噛んだ。
 ジェイドに見られなかっただろうか。と心配したユウはおずおずと隣に座る男を見上げれば、ターコイズブルーの男は笑ってユウを見ていた。

「恥ずかしいところを、すみません……」

 羞恥で頬を赤く染めるユウは、ジェイドの視線から逃れようと、視線を横に逸らした。

「大変可愛らしかったです」

 ——心の中のシャッター、百回は押しました。
 その報告は心の中に仕舞ったジェイドは、ラギーと書かれた文字の上に新しく星属性と書き加えた。

「真似をさせることが出来る。ポイントは真似ではありません。させることが出来る、というところです」
「させることが出来る……」

 ジェイドの言葉にオウム返しのように呟いたユウは、ノートの中でユニーク魔法を繰り出しているラギーを凝視した。
 一体、どういう意味なんだろう。させることが出来る、変換魔法……これが一体何に……うーん? ん?

 ふと、ユウの脳裏に一つの仮説が思い浮かんだ。
 それが正しいのかは分からないが、閃いたそれを言葉にしない選択をユウは持っていない。

「もしかして、相手から自由意志のような、動かそうっていう思考を自分の思考に変換させている……? ですか?」

 言葉にするのが難しい! これじゃ伝わらないのに!
 なんと言えば正確に伝わるのだろうか。とユウは悩み、眉間に皺を寄せた。

「なんとなく伝わりましたよ。ほら、そんなに眉間に皺を作ると癖がついてしまいます」

 ジェイドはそう言って、ユウの眉間に寄った皺を人差し指の腹で軽く撫でた。
 勿論軽く微笑むのを忘れない。

「あ、すみません。伝えるって難しいですね」
「——えぇ。そうですね」

 ——全く本当に。自分の容姿に自信が無くなってしまいます。

 少しは意識してくれればいいものを、少女は全くと言っていいほどジェイドを異性として意識していない。
 好意を伝えている筈なのに、それすらも伝わっていないように感じてしまう。

「先輩?」
「……では、解説です」

 愚者の行進ラフ・ウィズ・ミーと星属性の関係性を、ジェイドはマジカルペンで文字を書きながら、口頭でユウにもわかりやすいように噛み砕きながら説明した。

「変換とはなんでもいいのです。ラギーさんの場合は、相手の行動意思をラギーさんの意思する、と言った具合に変換させているのです」
「そうです! それが言いたかったんです!」

 パッと表情を明るくさせたユウは、自分が答えた訳でもないのに、何処か清々しく、満たされたような感覚を覚えた。
 それと同時にジェイドの言葉選びに感動した。

 ──よくフロイド先輩が「ジェイドが嫌味言ってくるぅ〜」としょんぼりしていただけある。

 フロイドは殴る蹴る等の暴力を一番かつ最後の攻撃手段とするが、ジェイドは言葉の暴力を一番の攻撃手段として用いることが大半だ。
 相手を持ち得る語彙で罵って海に沈めると言っていた程だ。

 使用方法を違えなければここまで感動出来るほど活用出来るのか。とユウはジェイド相手に失礼を承知で感激していた。
 それを本人に伝えることは絶対にしなかったが、ユウの思考がジェイドに読まれていない、なんてことはない。

 キラキラと水面に反射する光のように輝くユウの瞳を見てジェイドは、言葉でも力でもねじ伏せることが出来るか弱い少女相手に、満足感を覚え、輝く瞳の奥にある無礼な思考は見なかったことにしたのだ。

 あの瞳が自分のものになるのなら、そんなもの、些細なものだと。
 早く、早く——この手の中に監督生さんを仕舞ってしまいたい。尾鰭で少女の全身を絡め取り、海の底まで落としてしまいたい。
 そうしたら監督生さんはどんな反応を見せるのだろうか。泣き叫ぶのだろうか。陸に返してと懇願するのだろうか。全てを諦めるのだろうか。そんなつまらない反応をするのだろうか。

 ——嗚呼早く、僕はその瞬間を見たい。
 愛する彼女を早くこの手で囲ってしまいたい。

 ジェイドの手が無意識にユウの頬に伸びた。残り数センチ。

「先輩……?」

 ユウの白くまろみを帯びた頬にジェイドの手が触れそうになったその瞬間。図書室に一人の足音が響いた。
 何事かとユウの意識は目の前にいる男から足音に逸れた。
 顔ごと足音を立てている男を探す為に動かせば、視界の隅で黒の革手袋がピクリと動き固まった。
 明らかに意志を孕んでいた手が、力なく重力に従って垂れていく。

「ジェイド先輩――」
「副支配人!! ここにいたんですか! 大変なんです!」
「…………わかりました。今そちらに行きます」

 副支配人。と呼ばれたということは、モストロ・ラウンジで何かがあったのだろう、とユウはすぐに察した。
 それと同時にそんなに時間を取らせていたのかとと時計に目を向ければ、確かに部活が終わる時間が過ぎていた。

 いつの間にこんなに時間が経ってたんだろう。先輩だって部活とかあったかもしれないのに。

「先輩、あの、ありがとうございます。このお礼は必ず」
「いえ。お気になさらないでください。僕が貴方と一緒の時間を過ごしたかっただけですから」
「そういうわけにはいきません。兎に角、お礼は何か必ず!」

 律儀な性格をしているユウはお礼をすると言って譲らない。とはいえ、お礼と言う名の報酬を受けてしまえば、ジェイドの好意は労働になってしまう。どうしてもそれだけは避けたかったジェイドはユウのお礼を拒み続ける。
 終わらない押し問答。平行線のまま答えが出ない。どちらかが折れなければならないこの状況を変えたのは、ジェイドを副支配人と呼んだオクタヴィネル寮生だった。

「すみません! 急いでください! フロイド先輩が暴れているんです」
「先輩早く行ってあげてください」
「わかりました……監督生さん、申し訳ありませんが僕はこれで」

 急かす寮生に半ば引きずられるようにジェイドは、後ろ髪を引かれながらも立ち上がってユウに背を向けて歩き出す。その背中がいつもより丸まって見えたユウは、何を思ったか立ち上がって、自分から離れていくジェイドの制服の裾を掴んだ。

「――!」

 がくり、とジェイドの動きが止まった。
 振り返る海の生き物の目は困惑と、疑問に満ちていた。

「あ……、あの、お仕事、頑張ってください」
「……! ありがとうございます。監督生さんのお陰で頑張れそうです」

 口の端を上げてヘテロクロミアの瞳で弧を描いたジェイドは、機嫌良さげに寮生の後ろに続いた。
 それを見送ったユウは力が抜けたように椅子に座った。

 なんで一瞬でも引き留めちゃったんだろうな……。

 背凭れに頭を預け、天井と顔を向き合わせた。蛍光灯よりも淡い光がユウの瞳を刺激する。それが煩わしいユウは自分の腕で光を遮ったものの、瞼の裏にまで焼き付いた淡く滲む光に、どうしてか、この世界に来た時のことを思い出した。