それは、日常を飾る秘事


 ユウは悩んでいた。
 何をお礼にしたらいいのだろうか。と。

 ジェイドがレポートの面倒を見てくれたお掛けで、クルーウェルに褒めてもらい、浮き足立つその足でオンボロ寮でふて寝するグリムを叱った。
 「ふなふな」と耳を垂らすグリムを叱るのは胸が苦しいが、これは仕方がないことなのだと心を鬼にして、子供に躾をするような口調で何がダメなのか、どうするべきだったのかを説明した。

 それが終われば、夕食の支度をする時間だったが、ユウの頭の中はジェイドへのお礼を何にしようかでいっぱいだった。出来ればお金をかけないで済む方法がいい。向こうは自分で稼ぎしている身であるのに対し、こっちは苦学生もいいところだ。何か高価なものは買えないし、買えたとしてもジェイドの稼ぎで購入出来るような額しか手が出せない……下手したらその額ですら買えない可能性の方が高いのだが。
 兎にも角にも、ユウは何かいいものはないか。とキッチンに立って思案に暮れた。それでも夕飯を作る手を止めないのだから、日々の慣れとは恐ろしいものだ。

 何か、何かないか。とキッチンを見回しても必要最低限の調理器具と、グリムのおやつ用のツナ缶二つにサムから安く仕入れた野菜しかない。
 うん。これでは何も作れない。どうしようか。と本格的に頭を悩ませていると、大人しくテーブルについているグリムが思い出したかのように声を上げた。

「そういえば、今度の金曜日にハーツラビュルの奴らがまたあのお菓子食い放題のなんちゃらをやるんだゾ!」
「お菓子食べ放題って……ハーツラビュル寮のなんでもない日のパーティーでしょ」
「そんな名前だったっけか?」
「そうだよ。トレイ先輩がお菓子を作って……はっ!」

 トレイ先輩がいるじゃないか!
 あの毎月一回パーティーをしているのではないか。と密かに思っているあのハーツラビュル寮が誇るパティシエがいるではないか!

「グリムナイス!」
「ふなっ?! オレ様はいつもナイスなんだゾ! それよりも夕飯はまだなのか〜? オレ様もうお腹と背中がくっつきそうだ……」
「あぁ、ごめんね。もう出来るよー」

 利口にも椅子に座りフォークを持っているグリムの尻尾と耳が垂れている。せっせとユウがグリムの前に素早く皿を持っていくと、力なく垂れていた尻尾と耳がピンと立ち上がり、尻尾に至ってはゆらゆらと揺れている。
 苦学生よろしく、ミステリーショップで手に入れた格安の野菜に、どこの部位のかもわからない切れ端の肉。
 調味料も少なく、基本は塩と胡椒での味付けだ。
 家で毎日同じ味付けのものが出てきたら、げんなりするものだが、幸いなことにグリムは喜んで食べている。
 なんでも「美味いんだゾ」と元気に頬張るグリムを見てからユウは自分の皿に手を付けた。

 よく言えば素材の味を最大限にまで活かしている味付け。悪くいえば味気ない料理。
 いいや、ここは素材の味を活かしている。と言うべきだ。決してお金が無い所為で素っ気ない味付けになっているわけではない。断じて!

 …………母親の作った料理が恋しいなんて思ったら最後。ユウの涙腺が刺激され涙が零れる。しかもそれは止まることを知らず、グリムを困らせてしまうだろうから、グッと堪える。奥歯を噛み締める作業はもう慣れた。

 そう考えたら母親の味に似ても似つかない味気ない……もとい、素材の味を活かしている味付けでいいのかもしれない。
 思い出さないくらいが丁度いい。

 腹も満たされ微睡む中、ユウは学園長から支給されたスマホを手に取って、手早くロックを解除しマジックカメラテレグラムのアイコンをタップした。
 繋がっている連絡先一覧の中から目当ての名前を探す為、スマホの画面の上を親指が滑る。
 トレイという文字をタップすれば、メッセージアプリのように吹き出しのやり取りが出てくる。
 因みに前回は、エースの居場所を知らないか? というやり取りをしていた。――四日前の話だ。

 今晩は。と単発のメッセージを最初に送り、ユウは要件を打ち込んでいった。
 すぐには既読にならないだろう。と高を括るユウとは裏腹にすぐに既読が付き、トレイから返信が送られてきた。

“どうした? 何かあったのか?”
“トレイ先輩にお願いがあって……”
“なんだ?”
“お菓子の作り方を教えて欲しくて”
“いいけど、監督生、渡したい奴がいるのか?”

 かくかくしかじかで……。とトレイに理由を話せば、トレイから返事がやってきた。

“相手はあのジェイドか……。これは気合い入れた方が良さそうだな”
“……見るからに舌が肥えてそうですもんね。あ! でも、あの人いっぱい食べるらしいので、案外大丈夫かもしれないですよ!”
“ハハッ。ジェイドが喜びそうなお菓子作ってやろうな”
“はい! よろしくお願いします!”

 ユウはスマホの画面を暗くさせ「んふふ」と声を漏らすようにして笑った。
 ソファの背もたれに上半身を預け、頭をへりに乗せているから完全に顔は天井と向き合っている。

 これでもうお礼はばっちりだ。
 ――そのはずだった。

 トレイとお菓子を作り始めて三日と経たないうちにユウは追い詰められていた。
 目の前には長身のイケメン――もとい、ニッコリり笑うジェイド・リーチ――背中には壁。辺りに人気はないし声も聞こえない。
 日頃あんなにも男子校特有の騒がしさがあるというのにその喧騒も全く聞こえない。
 なんてこったパンナコッタ。父親からたまに飛び出すどうでもいいギャグが、これまた父親の調子のいい声で脳内再生された時だった――。

「どうして僕というものがありながらトレイさんと親密にしておられるのですか?」

 綺麗すぎる笑みを浮かべるジェイドが上半身を屈めて見下ろす。

「ヒェッ」

 息を吸い込み飲むような悲鳴がユウの喉から一つ。
 視界一杯に美人の笑み。これが花を見つめて綻ぶ笑みを浮かべていれば、眼福眼福とも思うが状況的にそんな余裕はない。寧ろ、美人は凄むと迫力が増すと現実逃避をしたくなるような現状だ。

 ――逃げたい。今すぐにでも逃げたい。

 鞄に隠している形の悪いクッキーが割れてしまわないよう小脇に抱えている腕が恐怖で震えている。
 誰だ私のことを猛獣使いなんて言ったのは! この状況を見てもまだ言えるか?! なんて勝手に一人怒ったところで状況は改善もしない。それどころか黙りになっている所為で悪化していくばかりだ。

「どうして黙ってらっしゃるのですか? 僕に知られたくない疚しいことでも?」
「――……それは……」

 思わず反応した。知られて疚しいことではないが、今この段階で知られるのは恥ずかしい。
 ――鞄の中のクッキーはチョコレート味でもないのに真黒だ。
 己を見下ろすように迫るジェイドのヘテロクロミアから目を逸らしてしまった。

「――へぇ?」

 僅かに下がった声色が耳殻を震わせた。
 瞬間的、反射的にヘテロクロミアの瞳と目を合わせた刹那激しい後悔が濤のように襲いかかる。

 ジェイドの瞳は笑ってなんかいなかった。

 本能が――生き残る為の本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。弱肉強食。その四文字熟語が脳裏に焼印を押したように焦げ付く。

「せ――」

 耳元で何かと石壁が擦れる音がした。一瞥する余裕もないユウは音と目前にいるジェイドの様子から状況を察するしかないのだが、察した状況があまりにも悪すぎる。危機回避能力は高い方ではない。むしろ低いと言ってもいいだろう。そもそも生まれた土地が穏やかなものだったから危険が少ないのだ。
 そんなユウでもわかる危機に、頭よりも先に震える脚が動いた。
 ――が、閉じ込めるようにジェイドの両手がユウを挟むように閉じこめる。

 これが巷でいうところの少女漫画やドラマのような壁ドンであれば、どれだけ胸をときめかせるものだっただろうか。
 実際にされるとこんなにも怖いものだっただなんて知らなかった。ううん、自分がこんな目に遭うなんて考えたこともなかった。

 逃げ口を塞がれ、退路を断たれたユウは縋るような目つきでジェイドを見上げた。
 本人にその自覚があったのかはさておき、ユウは確かに薄い水の膜を瞳に張っていた。

「あの……」
「監督生さんは僕というものがありながら、他の男にも手を出す悪い子だったのですね」
「そんなっ! というか、私先輩と付き合ってないです!」
「デーティングを設けると言ったでしょう」
「でもそれってお付き合いをする前の期間ということですよね」

 お互いを知る為の期間である。そう教えてくれたのは紛れもなく今ユウの逃げ道を両手で塞いでいるジェイドである。

「えぇ。ですが僕は既に監督生さんに好意を伝えています。そんな男を放っておいて、他の男と親密になるなんて……涙が出てしまいそうです」

 しくしく。と聞こえてくる泣き真似。フロイドやアズールだったら確実に放っておくその嘘。あまりにも嘘くさくて双子の片割れと幼馴染以外の生徒も気にしない雑な泣き。
 無視されてもいいと、何か少しでも反応が返ってきたら御の字。そんなスタンスの泣きを見せたジェイドの高い頭に小さな温もりが触れた。

「泣かないでください。私、先輩を泣かせたいわけじゃないんです」
「…………はい。では教えてください。どうしてここ三日、トレイさんと一緒にいたのか」
「……それは……教えることは出来ません」
「何故?」

 さっきまで下がっていた眉尻が角度をつけ上がる。
 ヘテロクロミアの瞳がゆっくりと、捕食する獲物を観察するように細められる。
 フロイドやアズールが見れば一発で不機嫌だとわかるその声色。だが他の人間にはわからない。口角が上がっている所為で状況を楽しんでいるようにしか見えないからだ。
 勿論ユウにもジェイドの機嫌などわかりはしない。わかっていれば泣き真似をしている男の頭を背伸びをしてまで撫でたりなんてしない。

 肝心なところで何もわかってはいない。ユウはそういう人間だった。

「あと少し待ってくださいませんか?」
「僕に秘密を重ねるのですか?」
「秘密って……そんな仰々しいものではありません」
「では教えてくださっても構わないでしょう」
「それはダメです」
「監督生さん」

 暖簾に腕押し。お互いに一歩も引かないやり取り。最初に根を上げたのはユウだった。

「わかりました! 後悔しても知りませんからね!」
「はい?」

 なんの話だろうか。と小首を傾げるジェイドの胸元に叩きつけるように、ユウは鞄から取り出した黒いクッキーが入っている包みを手渡した。

「これは……」
「クッキーです」
「味はチョ――」
「プレーンです」
「形が――」
「形が歪でも味は変わりません」

 「どうせ炭の味しかしないのだから」。ぼそりと零すように吐き捨てたユウの唇は拗ねたように僅かにとんがっている。羞恥で頬は赤く染まり、気まずさでジェイドから目を逸らしている。

「これを僕に?」
「正確にはもっとちゃんと成功したものを先輩にあげたかったんです」
「どうして?」

 純粋な疑問だった。わざわざ苦手なものを克服してまで作る菓子を渡されるようなことはなにもしていない。
 そんな気持ちが手に取るようにわかるその表情をユウは一瞥し、また視線を逸らした。

「レポート手伝ってくれたので、何かお返しがしたくて」
「お礼は要らないと言ったのに?」
「私は凄く先輩に助けられたので、何かお礼をしたかったんです」

 何かとは言えお金がないこの身では、ミステリーショップで買おうにも経済事情が圧迫するし。むしろ高いものはジェイドのお金で買えそうだ。考えた末にトレイにお菓子を教えてもらう。という結論に至った。料理は出来るのだからお菓子作りだって出来る筈。これならすぐに渡せる。そう意気込んだユウを嘲笑うように物事は上手くいかなかった。
 トレイは口にはしないものの、内心思っていたはずだ。ユウのセンスは一体どこにあるのだろうか。と。
 自分でも思っているのだから師であるトレイが思わないわけがない。

 そう、ユウはお菓子作りのセンスを持っていなかった。センスが裸足で逃げ出したのか、母の胎に置いてきてしまったのか、はたまたツイステッドワンダーランドに来てしまった際、お菓子作りのセンスだけ移動し忘れてしまったのか。兎に角壊滅的に向いていなかった。
 なにがどう向いていなかったのかは割愛しよう。

「――ということで、何とか形になるところまでは行ったんです。でも、どうしてか焦げてしまって」
「んふっ、フフフ……」
「先輩?」
「ふふっ。ははははっ!」
「んな!?」

 大きな口を開けギザギザの歯を惜しげもなく見せて笑うジェイドは、大きく肩を揺らし腹を抱えている。
 何がそんなにおかしかったのだろうか。いいや、この男は人の不幸話が好きな類の男だ。この話が面白くないわけがないのだろう。
 こんなにも一所懸命に頑張ったのに。

 悔しくてやるせない思いが一気に募ったユウは、ジェイドが手に持っている黒焦げクッキーが入っている包みを奪い、もう一度ジェイドに向かって投げつけた。

「先輩なんて、それ食べて苦い思いをしたらいいんです!」
「おや、そんなっ、悲しいことを……ふ、言わないでください」
「もう知りません!」

 笑いの収まらないジェイドに背を向けてユウは足早に歩いた。
 正直ここがどこなのかもわからないけれど、今は一刻も早くジェイドの側を離れたかったのだ。

 それだというのに。

「今度僕がお教えしますね」
「大丈夫です。向いてないことがわかったので」
「それでしたら僕が作ったケーキを食べてください。トレイさんと比べると劣るかもしれませんが、誠心誠意作りしますので」

 ユウは足早に歩いているというのに、ジェイドは長い脚を生かしていつものように歩いている。
 悔しくてスピードを上げるもまたすぐに追いつかれ、ユウは立ち止まった。

「なんでですか」
「はい?」
「なんで作ってくれるんですか。私何もしていません」

 それはジェイドと同じ回答だった。

「嬉しかったのですよ。貴方が僕の為に何かしようと努力してくれたのが、とても」

 この人はこんなにも柔らかく笑う人だっただろうか。
 ユウはわからなくて俯き、そしてジェイドの目を見て笑った。