それは、日常を編む策士


 黒焦げクッキー事件が風化されつつあったある日。ユウはジェイドに呼び出されモストロラウンジの一席に座っていた。大きな水槽を背中に何人もの従業員が料理を片手に歩いている。
 随分と賑わって忙しいだろうに、従業員の動きは忙しなさを感じずむしろキメ細かい動きに優雅さすら覚える。

 アズール先輩の教育なのか、ホールリーダーの教育がいいのか。
 バイト経験というものがないユウには判断付かないものだったが、学生の接客レベルではないことはわかる。右から左、左から右に流れていく給仕の生徒を見続け飽きが生じて来た頃、漸く呼び出した張本人が姿を現した。

「ご来店頂きありがとうございます」
「いえ。随分忙しそうですが、大丈夫でしょうか?」

 トレーの上に何枚もの皿を積み上げ足早にラウンジ内を歩く給仕を見ながらジェイドに問えば、困ったように眉尻を下げ形だけ口の端を上げた。
 こんな予定ではなかった。と表情が語っている。

「嬉しい悲鳴なんですが……タイミングが悪かったようです」
「出直しますか?」
「いえ監督生さんはどうかこのまま。僕がお呼びしたのに帰らせるわけにはいきません」
「ですが……」

 こうして堂々と一席――かなりいい席を占領するのは良心が苦しむ。と眉間に皺を寄せると、長身の男の影からもう一人そっくりな男が顔を覗かせた。

「小エビちゃんは此処にいてもいいんだよぉ」
「――! フロイド先輩!」

 飄々とした動きで三人掛けのソファに一人座るユウの隣に座って機嫌よく頭を撫でるフロイド。

「呼び出されたのに放置されて可哀想だねぇ」
「フロイド」
「そんなことは決して……!」

 ないです。と否定しようと口を開くも、実際なんで呼び出されたのかもわからないまま放置されていた為一瞬口を噤んだ。その隙を見過ごすフロイドではない。

「ここにいても詰まんないってぇー、ジェイドぉ」
「そんなことは……! ただ、呼び出された理由がわからなくて困っているというか、どうしたらいいのかわからないというか……」
「教えてもらってねぇの?! ますます小エビちゃんが可哀想になってきたオレ〜」
「フロイド、貴方、休憩は?」
「もう終わった。次ジェイド入っていいってアズールが言ってた」
「それを早く言って欲しかったですねぇ」

 そう言うや否やジェイドはユウに断りを入れてから背を向けて立ち去った。
 一体なんなのだろうかと首を傾げると今度はアズールがフロイドを呼びに来て、またもや独りぼっちになってしまい、存在感のある水槽を見ることにも飽きてしまい指先を弄ること数分。
 「お待たせしました」の声に反応して顔をを上げると、ケーキスタンドとティーポットやカップをトレーに乗せたジェイドがそこに立っていた。

「今日お呼びした理由はこちらなんです」
「これは?」
「先日のお礼です」

 丁寧な手つきでテーブルの上に並べられていく食器たち。ハーツラビュル寮主催なんでもない日のパーティーで良く見るそれらは俗にいうアフタヌーンティーと言うものだろう。
 四段のケーキスタンドには一口か二口程の大きさにカットされた様々な種類のケーキが三段分。残りの一段には一口サイズのサンドウィッチが並べられている。
 パッと見るだけでも相当手が込まれているのがわかる。これが“先日のお礼”なのだとジェイドは言ったが、何かお礼をされるようなことをしただろうか。
 そんな記憶は…………あった。一つだけあるが、いくら何でもコレがあの出来事のお礼に該当するようには思えないが、それ以外思い浮かばない。

 なんとなくそんな気はするけど、違うものであって欲しい。そんな感情を隠すことも出来ないユウは小首を傾げてジェイドのヘテロクロミアを見つめた。

「お礼ってまさか、あのクッキー……の成れの果てのお礼ですか?」
「はい。お礼をしますと申し上げたはずですよ。ラウンジが忙しくて時間が空いてしまいましたが」

 本当にあのクッキーのお礼だった! 何を考えているんだこの男は!
 あの黒焦げクッキーの袋一つでここまでされるとは思ってもみないじゃない!

 ユウの肩がわなわなと震えた。
 黒焦げクッキーのお礼がこんな素晴らしいアフタヌーンティーだなんて聞いてないし考えてもみなかった。
 確かにお礼はすると言っていた。言っていたけど……!

「これは過分に過ぎると思います!」
「いえ、足りないくらいですよ。あのクッキーのおもし――愛らしさに比べればまだまだ足りないくらいです」
「今面白いって言いかけましたよね」
「気の所為ですよ」

 ニコリと得意の笑みを浮かべこれ以上の追及を受け入れないという姿勢を取ったジェイドの意志を察し、本当かな。疑いの目を向けたユウは溜息を吐きながらテーブルの上に用意されたケーキスタンドと、湯気の立つ紅茶に目を向けた。流石モスロトラウンジと言うべきなのだろう。使用している食器――スプーンやミルクピッチャーに至るまでこだわりを感じられる。
 アズールのこだわりがラウンジの品格を底上げしているのだ。学生の身でありながらその才覚と嗅覚、そして血反吐を吐く思いの努力をし続けた先にある理想なのだと思うと、脱帽しかない。
 こんな努力自分には出来そうにない。
 それがユウの正直な感想だった。

「綺麗でなんだか食べるのが勿体ないです。……魔法で防腐することって出来るんですか?」
「出来ないことはないでしょうが、するメリットがない。と言うのが一般的ですね。魔法薬に使われる薬草も新鮮なものの方が好まれますから」
「そういうものなんですか。折角先輩が作ってくれたんだから取っておきたいなって思ったんですけど仕方がないですね」
「はい。僕としても食べて頂いた方が嬉しいです」
「それもそうですね」

 小皿の上にはケーキスタンドから選んだケーキが三つ。どれも美味しそうで目移りするユウを見かねたジェイドのおすすめだ。鏡のように綺麗に磨かれたフォークを両手の親指で挟み合掌して小さく「頂きます」と呟けば、ジェイドは遅れながら「どうぞ。気に入って頂けると嬉しいんですが」と漸くユウが座っているソファに拳二つ分あけて腰を掛けた。

 長身の身体に見合った長い脚を組んでティーカップを持つその姿はなんて絵になるのだろうか。
 小皿の上に乗っている一口サイズのケーキにフォークを刺して口に放り込む。口一杯に広がる甘味に目を輝かせ頬が落ちないように片手で押さえた。この世界に来て甘味を食べるのは酷く久し振りのことだった。
 グリムはよくハーツラビュル寮のなんでもないパーティに遊びに行ってるが、その時間ユウは勉強をしている為にそのパーティのおこぼれにも預かっていない。たまに食堂やミステリーショップで甘いものを見つけては買おうとするも、財布事情を考えると甘味は不要の買い物にジャンル分けされてしまい、結局レジに持って行くことは出来なかった。

「――! 美味しい、です!」
「それは良かった。トレイさんの作るデザートに比べれば劣るかもと不安に思っていたので」
「どちらも美味しくて私は好きです」
「フフッ、それはそれは」

 一つ一つのケーキの味を噛み締めるように味わいながら口の中に吸い込ませていけば、真横からじっと温度を感じさせない視線が一つ。食べても美味しくない……むしろ毒を孕んでいそうな瞳が水槽の中の魚を観察するような目つきで見ている。

「あの……食べ難いんですけど」
「お気になさらずにどうぞそのまま」
「いやこれだけ見られても気にしないで食べられるのグリムくらいですよ」
「僕も気にしないタイプですよ」
「あー、確かに先輩も人の視線とか気にしなそうですね」
「……気になる視線はありますけど、まぁそれはいいです。それよりもどれか気に入ったものはありますか?」

 この男に視線を向ける人物なんてこの学園にいるんだ。肝が据わっていると言えばいいのか度胸があるというのか、向こう見ずと言えばいいのか兎にも角にもユウには想像も出来ないことをする人がいる。ということだけがわかった。

 まぁ、そんなもの自分には関係のないことなのだが。

「私は、そうですね……これと、コレ。あとこれも好きです」

 ユウが指で指したのはフルーツをメインに使っているデザートばかりで、ゼリーやクリームチーズ、ヨーグルトをベースにしたものが大半だった。

「監督生さんはあっさりとしたものがお好きなんですね」
「そうですね。あまりくどいお菓子は好きじゃないです。あんことかも苦手で」
「あんこ、とは?」

 苦手だったなぁ。なんて軽い気持ちで漏らしたソレをジェイドが拾った。

「私が住んでいる、いた? 国の甘味ですよ。小豆と砂糖を合わせたものです」
「なるほど……。どんな味なのかは想像出来ませんが、監督生さんは苦手だったのですね?」
「はい。あの甘さが少し苦手で」
「であればこれから先も食べなくて大丈夫ですね」

 男の言った言葉の意味が理解出来なくて、ユウは小首を傾げた。食べなくても大丈夫と言われたのが初めてだったというのもあるが、正しい言葉のように感じられなかったのが大きな原因だ。

「それは、どういう……」
「監督生さんが好きなものであれば僕も勉強して作れるようにならないといけませんが、嫌いなのであれば覚える必要もないですし、この世界にあんこなる食べ物は存在しないので、監督生さんもこれから先食べずに済むでしょう」

 なにがあってどうしてその思考になったんだ。
 元の世界に帰りたいと言っているにも関わらず、元の世界には帰れないと決めつけているその口ぶりに怒ればいいのか悲しめばいいのか呆れればいいのか。それすらも判断が付かない。

「僕が監督生さんのお世話を精神誠意、真心と愛情を込めてお世話させて頂きますね。これでもかというほど愛をたっぷりと込め――んぐ」
「ストップです先輩」

 止まらない語りに歯止めをかけるようにユウはケーキが刺さったフォークをジェイドの唇に押し付けた。切れ長の目を僅かに開き白黒させている男を気にも留めず、ユウは誤差程度に力を入れてジェイドの唇をケーキで汚していく。
 早く食べないともっと汚れてしまいますよ。と口にはしないものの目が語っている。
 ジェイドは大人しく口を開けてユウから与えられる咎めを受け入れ咀嚼した。大食らいのジェイドにとってはあまりにも小さいその一口サイズの咎は数回噛むことで喉を通り過ぎて行った。

「普通にあーんってしてくれた方が嬉しいです」
「……リクエストされると恥ずかしいので嫌です」
「つれないですねぇ」

 暴走のような語りが止まり深いことは考えないでおこうと思考を放棄したユウは、小皿の上に残っているケーキにフォークを刺した。

「監督生さん」
「なんです――」

 顔をジェイドに向ければ口を開いている男が一人。

「……はぁ」
「あーんって言ってくださいね」
「わかりました。――先輩、あーん」
「あーん」

 今度は唇を汚さないように気を付けながらフォークを運び、唇に挟まれたそれをするりと抜き取った。

「美味しいですよね」
「監督生さんのお陰です」
「先輩が作ったからですよ」
「では二人のお陰、ということでどうでしょう」
「賛成です」

 知らぬ間に肩が触れ合いそうなほど近くになっていた二人。それを指摘するような人間はこのモストロラウンジにはいない。紳士の社交場だから? そんなことはない。あのヘテロクロミアを前に割って入っていけるのなんて寮長か同じヘテクロミアを持っている男しかいない。
 あの男は一見真面目に見えて実質頭のネジが数本最初から備わっていない。そんな男の恋路を邪魔してどうなるかなんて考えるまでもない。海の藻屑になるだけなのだから。