輪違い

 月明かりが窓から差し込む丑三つ時。カーペットにカーテンと男の影が映る。

「眠れないのかい?」
「…………バレちゃった?」
「そりゃあ、もぞもぞ動いてりゃなぁ」

 千尋がベッドの中に潜り込んだのは夜の十一時。ベッドの中がちょっと冷たいと言いながら横になり、頭の上に置いてあるライトをつけ、小難しいタイトルが印字されているハードカバーの本を暫く読み耽っていれば、「もう寝なさい」とここ最近召喚した新しい保護者——自称おじいちゃんが、千尋から本を取り上げ、手元を照らしていた明かりを消した為、手持ち無沙汰になった少女は渋々と目を閉じた。

 何度か身体の向きを変え、ゆっくり息を吐いて、寝ようと試みるも全く眠気がやって来ない。

 さぁ、これは困った。明日は大事な用事があるのに。
 ——大事な用事があるから、今、こうして眠れなくなっているわけなんだけど。

「明日のことを考えると、ちょっと、少し、半分……かなり憂鬱で」
「その用事、断れないもんなの?」
「うん。大事なんだよ。私にとっても、この家にとっても。凄くね」

 殆ど何も見えない天井を眺めていた千尋は、月明かりが射し込む窓辺に腰をかけ、奪い取った本に目を通している斎藤に視線を向けた。
 仰向けからうつ伏せになり、少しばかり上半身を起こして枕の上で腕を組む。人の声も街の声も何も聞こえない空間に、布が擦れる音が良く響き、斎藤は全体基礎魔術と書かれた本を右手で閉じ、靴音を幾つか鳴らしながらこの部屋に一つしか存在しないベッドに近付いた。
 宵闇によく紛れる黒いスーツを目で追いながら、千尋は頭の片隅で緊張して眠れない自分がいるのと同時に、心穏やかで息をしている自分が存在していることに気が付いて内心鼻で笑う。

 この人は私を必ず守ってくれる人じゃない。
 令呪を使い切ってしまえば、セイバーが私の傍にいて守ってくれる理由が無くなってしまう。そこに悲しいとか、寂しいなんて感情は湧いて来ないけど、聖杯戦争において、令呪はサーヴァントを従える絶対的命令権であり、サーヴァントは令呪の命令を拒むことは出来ない。
 信頼関係は目に見えなくて、私はセイバーをサーヴァントとして、一人間として信頼してもいいと思っているけど、向こうも同じことを思っているかもわからない上に、普段から何を考えているのかわからない。
 “おじいちゃんと呼んで”と言ったあの言葉だって、私はふざけているようにしか見えないけど、セイバーなりの真意があるとすれば、私たちの間にそれを理解するだけの関係性がないのが立証されてしまう。

「おじいちゃんが子守歌でも歌おうか」
「セイバーは言うほど老けてないでしょ。今はサーヴァントなんだから」
「いやいや、僕はれっきとしたお祖父ちゃんですよって」
「意味がわからないよ」

 斎藤がベッドの端に腰をかけると、重さでマットレスが沈んだ。
 うつ伏せになっている姿勢を仰向けに直せば、斎藤の手が千尋の額に掛かっている前髪を左右に分け、手の甲で剥き出しになった額を撫でられる。
 昼間、一瞬だけ重なった時、手袋越しに体温を感じたが、どうやら今は手袋をしていないようで、節くれだった指の感覚と一緒に、斎藤の体温が額に伝播する。

「ほーら、ねんねしなさい」
「ねんねって、子ども扱いしないでよ」
「僕からしてみれば十分子どもと変わんないでしょ」

 己の体温よりもずっと暖かい熱がじんわりと広がり、千尋はゆっくりと目を閉じた。
 与えられる温度に誘われるように。額を撫でる手が頭に移り、男の節ばった指が千尋の髪の間を通り抜ける。

「ね、私が寝るまでそこにいてね」
「仰せのままに。マスター」

 きっとこの時間は長い人生の中で一瞬の出来事で、遠くない未来までこの熱を覚えてはいない。それでも、殺伐と過ぎる日々の中に生まれた一瞬の微睡は、確かに存在していて、伝わる熱だって間違いなくここに在って。忘れたくないと、どうしようもなく泣きそうになる。
 この熱は私に対する情が温度となって伝わって来ているものだから。いつまでも覚えていたい。

 嬉しいと心が花を咲かせる一方で、臆病者の私が部屋の隅で膝を抱えながら訴えている。
 この人に裏切られるのが怖い、と。

 だって私にはセイバーしかいない。でも、セイバーにとって私はただ聖杯戦争の為に己を召喚したマスターにしか過ぎない。
 この溝はどうやったって埋まらない。私たちを繋ぐ糸は目に見えないくらい細くて、少しのずれで切れてしまいそうなものだ。そんな頼りない繋がりしかないセイバーに私は縋るしかなくて、自分で自分を笑ってしまうほど、抜け出せない現状に吐き気と息が止まるほどの罪悪感を覚える。

 ——意識が落ちるその時まで感じていた熱は、翌朝には無くなっていて、寝惚け眼で起き上がった千尋が額に手を当てるも、冷えた指先の感触しか感じず、覚えられなかったか。と自嘲したのも束の間、千尋の部屋に近付く足音が聞こえ、部屋の扉が勝手に開くよりも先にベッドから飛び出して、千尋は廊下に顔を出した。

「あら、もう起きてたのね」
「おはようございます」
「朝食の準備が出来ているの。その後に移植の儀式を始めるわ。準備が出来たら一階に下りていらっしゃいな」
「わかりました。ありがとうございます」

 口の端を上げ目を細める。遂にやって来たこの瞬間は苦痛でしかないのに、感情とは裏腹に千尋は笑みを浮かべている。
 この家に引き取られてから千尋が身に着けた一番分厚い仮面だ。

 義母が階段を下りて行くのを確認した千尋は、部屋に戻り白いワンピースに着替えたところでセイバーの存在がこの部屋の何処にもいないことに気が付き、小首を傾げながら念話を試みれば、すぐ後ろで斎藤の声が聞こえた。

「なぁマスターちゃん」
「うわッ! 吃驚させないでよ」
「移植ってなんの話だ」
「話、聞いてたの?」

 ワンピースを仕舞っていたクローゼットの扉を閉めた千尋は、斎藤になんと説明しようかと考えを巡らせた。
 出自から語らないといけないのだが、生憎とそんな時間がない。とはいえ、言葉を濁すのも違う気がして、千尋は眉間に深い皺を作りクローゼットの扉に額を預けると、耳元でトン、と籠った音がした。音の正体に心当たりがない千尋が目を向ければ、扉に付いている大きな手があり、繋がる腕が後ろに向かって伸びている。

「セイバー?」
「あんたは今から“辛いこと”をしに行くんだろ」
「そう、だね。でも今此処で話している時間はなくて——」
「行くな」

 斎藤の腕が千尋の胴に回り、背中が斎藤の身体に軽くぶつかる。思いもしない斎藤の行動に何度か瞬きを繰り返し、視線を左右に走らせた千尋が、恐る恐る口を動かした。

「心配、してくれてるんだよね?」
「……移植が何の移植を指しているのか、大方の予想は着く。魔術師としてそれは必要なものってのも、知っている、が、あんたが拒むんだったら、僕があんたを逃がしてやれる。これでも僕——」
「ううん、大丈夫。確かに私にとって、この日は辛いことなんだけど、でも、私に必要な儀式でもあるから」

 斎藤の顔を覗き込むように見上げれば、何処にも怪我をしていないはずなのに、痛みを覚えたような、弱った表情を浮かべていた。

「なんであんたはこんな時でも笑うんですかね」
「それは多分、セイバーが私の心配をしてくれて嬉しいからだよ」
「その顔のまま戻ってくる保証は?」
「それは無理。でも戻って来るよ。ちゃんと安心してよ」
「このまま付いて行っても?」
「もし黙って付いて来たら、令呪を使ってでも追い返す」
「おー、怖い怖い」

 千尋のお腹に回る腕が離れようとしない。斎藤の顔を見ようにも肩口に埋めている為、どんな顔をしているのかも確認出来ない。
 捨てられる犬猫に見えるその姿に絆されたのは千尋だった。

「地下室にこの家の工房があるの。その扉の前までだったら良いよ」
「わかった」

 今度はすんなりと抱き寄せていた手を離し、解放された千尋はそのまま部屋を出て行こうとしたが、不意に立ち止まって振り返り、眉尻を下げた。

「もし私がセイバーの名前を呼んでも入って来ないでね。恥ずかしいから」
「仮に入ったら?」
「令呪を使って追い出す。くだらないことに令呪を使わせないでね」

 言いたいことだけ言った千尋は斎藤の返事も聞かず階段を下りて、家族三人で朝食を食べるとそのまま義両親と共に地下に向かう為居間を出た。いくつかの部屋を経由した後、とある部屋の扉を開ければ、地下に繋がる薄暗い階段がある。湿っぽい空気が纏わりついている所為か、少し肌寒いが、一番下まで降りれば重厚な金属で出来た扉が一つ。耳障りな音を立てながら開ければ、斎条家の工房があり、工房の隣にもう一つの部屋がある。
 普段は閉め切られている部屋は一か月前にも使用したばかりで、千尋の心臓が大きく音を立てる。

 階段を下りている最中から心臓が凄いバクバクいっている。そりゃそうだよね。嫌なものは嫌なんだもん。

「千尋、今回はいつもより大きな刻印を刻む予定だ」
「はい」
「その分より苦しいとは思うが、頑張ってくれ。我が斎条家の為に」
「わかっています」

 二つのベッドが隙間なく並んでいる。その足元には斎条家に伝わる魔法陣が描かれていて、等間隔で蝋燭台が立てられている。
 義父に促されたまま千尋が震える足でベッドに近付き、横たわれば、その隣に義父も横たわる。何度か深呼吸をして意を決したように義父と手を繋げば、頭上の方に立っている義母が淡々と儀式を行う為の宣誓を述べる。

 もうその頃には千尋の心臓が大きく跳ねて義母の声が遠く聞こえていた。まだ刻印が移植されたわけでもないのに、背中は汗で濡れているし、脚だって震えている。

 ゆっくりと異物が掌を通して、疑似神経を通して心臓の上に溜まり、形を形成していくのがわかる。自分の魔力回路を通過していく他人の魔力刻印は、筋肉や神経に棘を刺す痛みを伴いながら焦らすようにゆっくりと侵略してくる。早く終われ。そう願えば願うほど全身を駆け巡る痛みは加速し、内臓にまで傷をつけ始める。

「千尋焦るな! ゆっくりと呼吸をするんだ」
「はッ、……い、あッ!! ぐ、ァ……!!」

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!

 身体の隅々まで剣で刺される痛みがする。何度も何度も突き刺され、内側からも破かんとばかりに魔力が鋭さを持って暴れ回る。
 今まで経験したことのない激しい痛みに、千尋は声にならない叫び声を上げるも、繋がる手から送られる刻印は止まってはくれない。魔術回路が逆流し血管が千切れそうな痛み。目から幾つの涙が零れようとも、儀式は終わりを見せない。

 助けて。痛いの。嫌なの。誰か、助けて。

 ——セイバー。

「“マスター! 俺の声が聞こえるか!? マスター!!”」

 耳の内側から聞こえる声は明らかに焦燥としていてるが、千尋に返事をする余裕など何処にもない。精々出来るとすれば、呻き声と叫び声を斎藤に送ってやるだけだ。

「“クソ! 開けてくれ! 頼む!”」

 斎藤は工房に続く金属の扉を何度も繰り返し叩いた。せめて、せめて己のマスターがどういう状態なのかだけでも確認させて欲しい。その一心で、重厚な扉を殴り続けるも、千尋から返事らしい返事が返って来ない。寧ろ、苦しみに悶えている呻き声だけが耳に届くのだ。

「“たすげ……っ、せい、ばァ、あぁぁあああああああ!!!”」

 女の絶叫が斎藤を突き動かした。
 霊体化し壁をすり抜ければ、無人の工房がある。この地下室の中に千尋がいるはずなのだと耳を澄ませると、金切り声を上げ叫び泣く千尋の声が聞こえ、斎藤は駆け出した。

「“マスター!!”」

 斎藤の視界に映った景色の中に、さっきまで穏やかに笑っていた少女の姿は何処にもなく、苦しさ故にか、痛み故にか胸を掻き毟りながら涙を流し、上半身をこれでもかというほど反らしながら呻き声を上げている己がマスターがそこにいた。

「“今助けてや——”」

 助けてやる。斎藤が実体化するよりも早く、千尋の右手の甲が赤く光り、気が付けば斎藤は見慣れた部屋の中に立っていた。
 それは千尋からの拒絶でもあり、斎藤からの裏切りでもあった。
 その罪を償えを言わんばかりに、斎藤の耳には声が枯れてしまうほどの叫び声が響き、動かない身体を何度も拳で殴り付けた。

「頼む! マスター!!」

 拒絶されてもなお、斎藤は千尋に声を掛け続けた。縋りついて懇願するように、何度も。何度も。
 千尋の叫び声だけが脳裏に木霊している。

 


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