長い物語を見ていた。
……違う。長い人生を見てきたんだ。
泣きたくなるくらい愚直に生きた男の半生。
針で神経を何度も刺される痛みは、今までも経験したことのあるものだったが、痛みに慣れることは全くなく、千尋は決まって憂鬱な目覚めを迎えるが、今回だけは違った。夢の中で己のサーヴァントの半生を見続けた千尋の額に、穏やかにも落ち着く温もりを感じ、悲鳴を上げたくなる痛みが心なしかいつもよりも柔らかいものに思えた。
それでも瞼を動かすのも億劫に思える痛みに堪え、ゆっくりと雌を開けるも、異常に瞼が重く感じてまた視界を暗闇に落とす。
何処までも落ちていく意識とは裏腹に、刻印と共に身体に入り込んできた痛みに深淵まで意識が落ちて行かない。夢現の状態を彷徨う千尋の耳に男の声が入る。寄せては返すさざ波の響きを伴った低い声に、千尋はもう一度目を開いた。
「──た、……ます──」
ぼやけた視界の中で青みがかった鼠色の髪が滲んで見える。
近くに斎藤がいるのだと知った千尋は、痛む腕を持ち上げ男に向かって伸ばせば、大きな手に包まれた。手袋越しじゃない、人肌の温もりに、忘れてしまった何時ぞやの記憶が薄っすらと蘇る。酷く穏やかで毛布に包まれているような安心感を覚える温もりは、間違いなくセイバーの暖かさだ。
「せい、ば……」
「マスター、ちゃん、目、覚ましたのか?」
「ん、なんとか。ね」
力なく目を細める千尋を見た斎藤は、またその瞼が閉じたまま開かなくなるんじゃないか、と一瞬息を止めたが、もぞもぞと動き出した千尋を見て杞憂だったと悟り、僅かに起こした上半身とマットレスの間に腕を通した。
踏ん張りがきかない身体を無理矢理起こした千尋は、軽く咳き込み、右手で口元を覆った瞬間、鮮血が唇から洩れ顎を伝い、掛布団のカバーに新しい赤い染みを作った。勢いを殺すことが出来ないまま、指の隙間から赤い液体が零れ、小さな染みが幾つか新しく生まれる。
「マスターッ」
「んー、だいじょうぶ。大丈夫」
「何処をどう見たら大丈夫に思えるんかね。兎に角、今拭くもん持ってくるから、壁に背中を預けて待ってろよ」
「ん」
極力短い返事しかしないのは、それだけ体力が根こそぎ落ちている証拠だろう。
千尋に背を向けた斎藤はローテーブルの上に置かれたティッシュの箱を取ろうと屈んだ。──その瞬間。
「敵に背を向けるのは、士道不覚悟で切腹?」
「──……覚えてたのか」
「忘れないよ。大事な記憶だもん」
千尋が長い夢を見ている間、斎藤も同じく短い夢を見ていた。輝かしい日々とはとてもじゃないが言えない血生臭い日々だったが、斎藤の人生を一番彩っていた若き頃。
他人の血すら見たことがないような少女に見せるには、刺激が過ぎる毎日の連続だったが、過ぎ去った日々を懐古すれば間違いなく瞬きの間に流れて何処かに行ってしまうほど、愛おしくも刹那の時間。
「セイバー、ごめんね……勝手に、過去を覗き見てしまって」
血が垂れる口元を隠しながら、弱々しく言葉を口にする千尋の姿に、かつての仲間を重ねてしまうのは、二人が見た夢の影響が大きい。
一瞬だけ視線を逸らした斎藤は、飄々とした態度を見せたままマットレスに膝をついた。ギシッとスプリンクが小さな悲鳴を上げるも、二人の耳には届かず、寧ろ斎藤は壁に背中を預けている千尋に近付く為、もう一歩分近寄った。
「気にするこたぁないですよ。それよりもまずは口の周りを拭かないと」
「んー……んぐっ」
何枚か掴んだティッシュを千尋の口に押さえつけて、無遠慮に口周りに飛んだ血を拭いて、手にも付着している血を新しいティッシュで拭き取れば、古い記憶を呼び覚ますトリガーは消え去った。それでも一度重なった景色はどうしても切り離せなくて、斎藤は両手で千尋の頬を包むように軽く持ち上げ、額同士を重ねた。
痛みで脂汗をかいている千尋は、斎藤の突然の行動に目を大きく開き、反射的に身体を後ろに反らそうとするも、斎藤の手から抜け出せることはなく、寧ろ構えないで動いた所為で身体に電気を流したような痛みが襲い、肩を震わせた。
「ッ、セイバー……?」
「おかえり。僕のマスターちゃん」
「──! ただいま。私のセイバー」
痛む腕を伸ばして斎藤の頬に触れれば一瞬だけ斎藤が笑った。安堵の息のようで、泣くのを我慢しているような、刹那の感情を読み取ることは、千尋にはまだ出来なくて、こんなにも近くにいる斎藤の全てを理解することは、決められた未来までの時間では足りなくて。それなのに、斎藤は泣くしか出来なかった身体の痛みを和らげてくれるから。
──本当に狡いなぁ。
どうしてこの人は、私に安心感を与えるのがこんなにも上手なのだろうか。どうしてこんなにも、この人の温もりに信頼を覚えるのだろうか。
この関係が終わってしまうことを、惜しいと思う。
セイバーにとってもそうだったらいいのに。
千尋は触れ合う額から移る熱に、そっと心を込めた。伝わらなくても、自分と同じように斎藤が安らぎを感じてくれたら、それがいい、と。
「ね、セイバー」
「なんですか」
「どっか、連れて行って……よ」
「どっかって?」
じんわりと身体の内側から籠る熱を何処かに置いてきたくて、千尋は身体の力を抜いて、斎藤に体重を預ける。そっと瞳を閉じたのは、篭った熱を何処にも逃がしたくないと思う二律背反。
衣擦れ音が耳を掠めた。同じ温度になった額の熱が外気の空気で下がっていく。
壁に背中を預けながら、二人並んでベッドに腰をかける。千尋の頭が男の手に誘導され大きな肩に乗る。
狡い男の手が一定の速度で千尋の頭を撫でる。
「どこでもいいよ。あ、でも空が近い、ところが、いい……なぁ……」
眠りに誘われるように、千尋はまた意識を手放した。
「…………おやすみ。千尋」
ずっと遠いところで名前を呼ばれた。それは遠い昔、桜色の花弁を攫ったあの風に似た穏やかさを伴っていた。
千尋が再び眠ってから二度目の八時を迎えた朝、枕に頭を埋めていた千尋の目がゆっくりと開く。閉め切られているカーテンの隙間から零れる日差しが、寝惚け眼を容赦なく刺激し、不快感の余り小さく唸り声を上げる。妙に冴えた脳と眠っていたいと反発する身体が切り結び、結果、千尋は身体を起こした。
いつの間にベッドで寝ていたんだろう。怠さが抜けきれない身体のまま、首をゆっくりと左右に動かして、今がどういう状況なのか把握しようと努めるも、刻印を刻まれる前を何ら変わらない部屋の様子に、千尋は痛む頭を押さえて深い息を吐いた。
「今、何時だろ……」
重たい腕で枕元に置いてある二つ折りの携帯端末を開けば、三日ほど日付が進んでいた。
道理で頭が痛いわけだ。千尋は眉間に寄った皺を解すように人差し指の背で山脈を解していると、不意に人の気配がないことに気が付いた。
斎条の家は基本的に静かだが、ここ最近召喚したセイバーの気配すら感じない。霊体化しているのかと窓の外を眺めながら、何処に行ったものやら。と飄々としている男の姿を思い浮かべながら、ベッドから降りればガクリと膝の力が抜けて勢いよく両膝が床に付いた。その勢いで床にお尻を付けて座り込むと、一人でに窓が開いてカーテンが揺れた。
「あれ? もう起きたのか」
「セイバー何処に行ってたの? 散歩?」
「似たようなもんだ」
「楽しかった?」
「まあな」
散歩していた範囲は斎条家の家と敷地の中だけだったが、それをわざわざ言う必要はないだろう。と言葉を濁した斎藤は床にへたり込む千尋に近付き、両脇に手を通して持ち上げた。介助付きで立ち上がった千尋は、今度こそ自分の脚でしっかりと立てば、僅かに唇を尖らせた。
「ありがと。でも、自分でも立てたよ」
立てなかったから床に座り込んでいたわけだが、千尋の中の小さなプライドがそれを認められないと主張した結果の一言。
両膝から崩れ落ちる光景は見てはいないものの、座り込んでいるところを目撃している斎藤は、千尋の強がりに似た意地を一蹴し、窓台に腰をかけた。
「それで? あんな夢を見た後なんだから、この一ちゃんに聞きたいこととか沢山あるんじゃないの?」
「一人称って一ちゃんなの? ちょっとウザいね」
「おじいちゃん傷付いた! マスターちゃんが僕のことおじいちゃんって呼んでくれないと治らないかも!」
「はいはい。おじいちゃんの心はガラスのように繊細ですね」
怠さの残る身体で千尋は斎藤の隣に立ち、同じように窓台に腰をかけると、寝惚け眼を刺激していた日差しが雲に遮られているのに気が付き、それでもまだ強い日差しを刺している太陽に目を細めた。
「斎藤一って名前なんだね。私歴史があんまり得意ではないから、詳しくはわかんないけど、大河とかで新選組のドラマやってるの見たな」
「へー。僕の役は誰が?」
「格好いい人だったと思うよ。ドラマだし」
「そこは僕だからって理由で二枚目を採用して欲しかったなあ」
「わかんないよ。セイバーの顔誰も見たことないでしょ」
「一応ポトガラは撮ってるんだけどねえ。……残ってるわけないよな。そりゃあ」
何処か残念そうに呟く斎藤の隣で、千尋は僅かに目を伏せた。
そうして夢の中で出会った斎藤一という男について夢想した。どんな性格で、どんな思想を持って、どんな人生を歩んだのだろうか。終わりゆく時代に何を思ったのか。
聞きたいことは沢山あって、でもその全てを言葉で聞くと味気がなくなってしまいそうで、でも、思ったこと全てを言葉で教えて欲しくて。
「楽しかった?」
「──もう一度、戻れるもんなら戻ってみたいもんだよ。やっぱり。試衛館の奴らともう一度、バカやりながら酒を酌み交わしてぇってのは、あるな」
「セイ──」
それは、聖杯に懸ける望みなのか。咄嗟に紡いだ言葉は、斎藤によって掻き消された。
「けど、今はマスターちゃんのそばにいるのも悪くねえって思ってるのも確かだよ。あんたの側は面白くってね」
隈がこびり付いた双眸が柔らかく歪む。
そこには嘘が一滴も入っていない。混じり気のない本音に千尋は照れたように笑った。
前頁 血に勝る縁 次頁
BAMBI