月宮殿

 ──「真名を知ったからと言って、名前で呼ぶのはナシな」
 人差し指を口元に立てたその姿が、いつになく格好よく見えたのは一生言わないでおこう。

 千尋が斎藤について知った情報としては、名前と生前の役職くらいなもので、それ以外の一面と言えば、案外情に厚いところがあったのだなあ、というくらいだった。
 とはいえ、近代の英雄はそれだけでサーヴァントとして弱い。他六騎のサーヴァントがいつの時代に活躍していたのかは知りもしないが、此処まで近代のサーヴァントではないのは確かだ。マナ濃度が薄い時代、つまり近代に近いほどサーヴァントとしての力は弱い。

 つまり、うちのセイバーが一番の最弱ってことか。

 黒板にチョークが当たる音が何度も教室に響く。古典の授業中にノートの上に立てた消しゴムを人差し指でデコピンする要領で軽く弾くと、消しゴムは背中から倒れた。
 魔術刻印を移植し、まともに動けるようになったと首と手に巻いていた包帯も取れた日、斎藤に聖杯に懸ける本当の望みを、約束通りに話そうかとしていた日は運が悪く平日で、学生の本分を疎かにすることは出来ないと、千尋は後ろ髪を引かれる思いで制服で身を包み、草臥れたローファーを履いて通い慣れた道を歩いて来たわけだが、道中も、授業中も頭にあるのは聖杯戦争の勝ち方だった。
 勝利条件で一番無難なのは、敵対するマスター全てを倒すことだけど……それはきっと難しい。
 一対一だと確実に負ける、と思う。どれだけセイバーを支援しても、私が魔術師として未熟だから大した支援にならないかもしれない。となれば、漁夫の利を狙った方が確実に点が取れる。デメリットはマスター同士の戦いになりやすく、そうなればセイバーの助けを受けられないから自衛を頑張らないといけない。
 戦える術がないわけじゃないけど、どうしたって他の魔術師と比べると一枚も二枚も劣る。

 セイバーは強いわけじゃないけど、決して弱いわけでもないと思う。
 私が上手く活用できれば、あるいは──。

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ。これは百人一首の作者である藤原定家が詠んだ和歌で──」

 教科書に載っている和歌の一つを教師が読み上げた。今まで窓の外ばかりを眺めていた千尋は、深い息を吐いて教科書に視線を戻せば、五・七・五・七・七のリズムで紡がれるたった三十一文字にどんな思いを込めたのだろうか。

「まつほの浦。兵庫県にある海岸の松帆浦という地名と、待つをかけたもので、来ぬ人を合わせると、来ない人を待つ。という意味で、焼くやもしほのは──」

 淡々と進んで行く和歌の解説をノートに書き留めながら、教師の話しに耳を傾ける。黒板に説明を書き終えた教師が、チョークを置いて教卓に両手を付いた。

「では、この和歌を訳してみなさい」

 ノートに書き込んだ情報を頼りに千尋は、シャープペンを握り何度か芯の先をノートに突くと小さな汚れが幾つか出来た。
 そのままの訳をすれば、来ない人を待っています。松帆の浦の夕暮れに焼く藻塩が焦がれるように、私の恋も焦がれているのです。になる。だけどそれでは味がないような気がしてならない。

「誰かに答えてもらうか。……斎条」
「はい。えーと……来ない人を待つ夕暮れに、私は今も貴方を想い胸を焦がしています」
「素晴らしい」

 咄嗟に答えた回答は教師の合格点を越えたようで、千尋はホッと息を吐いた。
 藤原定家が紡いだこの和歌は、誰を思って誰に向けて詠んだものなのだろうか。来ない人を胸を焦がしながら待つほどの恋は、どれほど胸を苦しめるものなのだろうか。好きだと思う人は過去にいたけど、藤原定家のように焦がれたりしなかった。

 わからないな。千尋はチャイムが鳴ると同時に教科書を閉じた。

 幾日ぶりかの学校は思いの他疲れを感じ、部活に精を出す必要もないからと理由を付けて千尋は昇降口で上履きからローファーに履き替え外に出た。
 冬の風はまだ肌寒く、首元を掠める風に春はまだ少し先にあるのだと感じれば、耳の内側で斎藤の声が響く。

「“あんな昔の和歌も習うんだなあ”」
「“セイバーも習った?”」
「“僕は学とは無縁の人生だったもんで”」
「“ふーん”」

 とはいえ、藤原定家の名前を知っているくらいには学があると。というか、しれっと授業を覗き見ていたのか。霊体化しているセイバーを目視するのは不可能だから、千尋は進路方向を向いているが、隣に斎藤が並び歩いていれば間違いなく一睨みは入れただろう。
 聞こえる靴音が一つしかないのが悔しいと、空を睨むも、普遍的な空はただの少女の一睨みで模様を変えることはなかった。

 斎条の私有地に入り趣のある日本家屋の前で立ち止まって息を吐く。家の中に入ろうとしたところで、玄関が開き中から女の姿が見えた。五十を越えている女は、その視界に千尋の姿を見せると、驚き一瞬視線を逸らして口の端を上げて笑った。
 誰がどう見ても作り笑いをしている。千尋にとっては見慣れた母の微笑みだった。

「おかえり」
「ただいま戻りました」
「そんなところで何をしているの? 早く帰って来なさいな。外はまだ寒いでしょう」
「……少し、展望台の方に行って参ります。遅くならない時間には戻りますので」

 この女は誰だろうか。
 斎藤は霊体化したまま千尋の後ろ姿を怪訝な顔で見つめる。溌剌とした話し方をする女だと認識していた──実際千尋ははっきりとものを申す性格の人間だが。今己の前に立つ少女はかしこまった話し方をしている。猫を被り過ぎているのでは。と反射で思ってしまうくらいには話し方も、雰囲気も何もかもが違う。
 斎条千尋という人物は二人存在するのかと思うほどに。

「そう、気を付けてね」
「ありがとうございます」

 家の中に入ろうとしていた筈の千尋は、潜って来た門を引き返して山の中に向かって歩いて行く。途中まで舗装されていた道も、草木が目立ち始めると舗装されていない道に変わり、石や木の根が目立つ。千尋はお構いなしに上に向かって歩いて行く。千尋にとって歩き慣れた道だからだ。

「もういいよ」
「……展望台か、あそこはいいなあ。斎条家の中で一番好きだわ」
「私も」

 足音が一つ加わり、辿り着いた展望台は当たり前だが先客はおらず、眼下には千尋が暮らしている街の景色が広がっている。夜になれば夜景が見えるが、放課後のこの時間は人の暮らしの中に沈んでいく太陽が見える。夕日が街に射し込みオレンジ色に染まって、近付く宵に街灯がぽつり、ぽつりと灯り始め道を彩る。
 その光景を見るのが好きで千尋は不定期にこの展望台に足を運んでいた。
 ベンチに腰をかけ、オレンジ色に染まる世界を眺める千尋は、視線を眼下に広がる街から視線を逸らさないでセイバーに話掛けた。

「私が聖杯に懸ける本当の願いはね、自由になること、なんだぁ」

 今日の夕飯はなんだろうね。とでも言うかのような軽口で、斎藤にとっては突然と思えるタイミングで千尋は約束を果たし始めた。

「小さい頃、私は本当の両親から斎条家に引き取られて、魔術師として育てられたの」

 遠い春を偲ぶ風が二人の間を通り抜ける。寂しさを運んで来たのかと錯覚する侘しい温度に、斎藤はそっと横目で隣に腰をかける少女を盗み見た。
 オレンジの光を受けたその瞳は、今にも透明の雫が零れてしまいそうなほど、ずっと遠くを見つめている。

「回路が並の魔術師よりも多くあったんだって」

 力の入っていない指先が眼下に広がる街に向かって伸び、空間に文字を書き連ねる。緑の蛍光色が見たこともない文字の形を光らせ、伝播するかのように指の先から肩に向かって、模様を浮かび上がらせる。制服の上からでもわかる魔術回路の多さに、斎藤は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。

「少し魔術を教えれば、スポンジみたいに吸収して使えるようになったって、義父が言っていた」
「…………あぁ」
「義両親は笑っていたよ。最高傑作だって。……これ以上ないほど虫唾が走る褒め言葉だった」
「嗚呼」

 空中に描かれた文字を手を振って掻き消した千尋の感情は常に一定で、喋ることしか出来ない人形にも見える。
 過去に何があったのか語るその口に感情の揺らぎがなく、過去に何を思っていたのか、何を感じていたのか、全くわからない。わからないから斎藤は想像するしか出来ない。
 悲しい、悔しい、苦しい。そんなありきたりな感情しか己の中で再現出来ず、それすら全て間違っているように思えてならない。

 斎藤が知っている少女は、そういう人間だからだ。

「魔術師とは神秘を追い求める者。魔術師とは奇跡を求める者。魔術師は人ではなく、その為に人の道はなく、神秘の為に非道にも外道にもなれ。魔術に法はなく、秘匿とされし存在。故に魔術師は尊き存在である。千尋、お前は魔術師たれ。それが義父の口癖だった」

 ──意味が、分からなかった。
 ナニ、ソレ。それが魔術師が何たるかを教えてもらった時に抱いた疑問だった。
 突然平和そのものの時間を奪い取った大人が、子供に向かって今度は非道と外道になれというのだ。幼いながらに千尋は、この二人は頭が狂っているのだと恐怖した。いつも笑っている母も、厳しいけれど優しい父を子どもから奪ったその口は、くどいほどの甘言すら吐かない。理想を事実として語る口に淀みはなく、人を魔術を使うだけの道具に成り下げる。それが正しいのだと、それこそが正義なのだと、痛みを越え、苦悩を越え、いつの間にか忘れてしまったのであろうものを、他人に強いて喜ぶその姿は恐怖であり地獄であった。

 初めて殺意を理解したのは年端もいかない頃。

「私はね、歪んでいるんだよ。きっと」

 沈む夕闇に千尋はふと笑ってみせた。
 凡庸としている景色が美しかったわけではない。己の生い立ちに酔い感傷に浸っているわけでもない。ただ、願いを語るその口とは裏腹に、現実を見据える双眸が諦めているのだ。
 願いは理想でしかなく、心はどんなことをしてでも己の願いを叶えてやろうと燃えているのに、目の前に見える光景を処理し続ける理性が常に告げている。

 ──夢は夢なのだと。

 

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