ポツリと明かりが灯り始め光で出来た道を前に、千尋は漸く眼下に広がる街から視線を逸らして、隣に腰をかける斎藤を見つめた。
「歪んでるってのは、どういう意味か聞いても? 僕の目にはただの、魔術が使えるだけの女の子に見えるんだけど?」
「歪んでるよ。だって──」
──殺してやりたいと思った相手に愛情を向けているのだから。
紡ぐ音は和のものでそこに不快感はないはずなのに、強烈な違和感を覚える響き。斎藤は咄嗟に己の心臓を服の上から掴んだ。
心臓がどくどくと大きな音を立て、振動が血管や筋肉を伝播し掌に繋がる。ただの少女の言葉にどうして此処まで不安になるのか。一瞬の思考の末に辿り着いた答えが、不安定が少女の形をしているからだというものだった。
そしてその答えは奇しくも当たっていた。
斎条千尋という名の女は酷く不安定な存在だった。
考え方も、感じ方も、在り方も。発展途上に過ぎない歳でありながら、全てを悟ったような態度をする。桃色の唇が語る全てに嘘はない、故にその真実が不気味さを増してるのだ。
感情を何処かに置いて来た話口があまりにも機械的だから。
泣きそうだと思っていた少女はセピア色のまま目を伏せた。世間話の続きをするかのように軽い口振りで話し出す。
「義母はね、不意に私と会うとさっきと同じ反応をするの。なんでかわかる?」
「……人の心が残ってんなら、間違いなくあんたを逃がすだろうぜ」
「そうだろうね。あの人はね、私の顔を見る度に苦しんでるんだよ。子供を産めなかった己の胎に憤りを感じてるんだよ」
「それがどうした」
それが千尋の言う歪みと何が関係しているのだ。意味が理解出来ないと表情に浮かべながら小首を傾げる。
「セイバーって血反吐を吐く思いで努力して、無敵の剣を手に入れたんだよね」
「そりゃな。けどそれがあんたに何の関係があるんだ」
「私もね、血反吐を吐きながら沢山のものを与えられたよ。回路も刻印も」
移植している光景は刹那に見た。その一瞬はスローモーションと思えるほど長く、斎藤の眼に影が焦げるほど鮮明にこびりついている。
義父に抱えながら戻って来たかと思いきや、痛みでなのか急に目を開け苦しみ始め、口から血を吐き出し、線が切れたように眠る。そんな時間を何度繰り返しただろうか。寝ている最中ですら呻き声を上げ涙を流す少女は、何度一人でそんな夜を過ごしたのだろうか。
想像は同情に変わり、同情が憤りに変わる。言い知れぬ不安を奏でる心臓から手を離した斎藤は、勢いのまま千尋の手首を掴んで持ち上げた。
──少女の瞳は見開かれ、小さく揺れていた。
「俺の血反吐は自分で選んで決めたもんだ! けど、あんたのそれは違う! わかるだろそんくらいのことは!!」
「同じだよ。同じなんだよ、セイバー」
その声は震えていた。
この展望台に来てから、初めての千尋の感情の揺れだった。
千尋は語る。刻印を移植する時の痛みを。神経が焼き切れるようだと。己の中に他人のモノが入り込む度、痛みと苦しみで息が止まりそうになると。やめて欲しいと、助けて欲しいと願わずにはいられないのだと。それでも二人は儀式を途中で止めたりなんかしない。そこで止めるようなら初めから、赤の他人に刻印を移植するなんてことをしないのだと。
「だからあの時、セイバーに助けを求めてごめん。私が弱かったから、関係のないセイバーを巻き込んだ。本当にごめん」
「違うだろ。あんたは助けて欲しかったんだろ、この僕に。なのにどうして! 助けを他人に求めるって、最初からわかっていたならどうしてあの時提案に乗らなかった!」
「それは私の願いだからだよ」
千尋は語る。己の歪みを。
義両親はね、私を引き取って一方的に魔術師になるように強要して、魔術師として歩むべき道を綺麗に作って、その上を歩く私を見て悦に浸るような人なんだけどね。悪い人ではないんだよ。義母は私が転んで泣いたりしていたらあやしてくれたし、テストで満点を取ったり新しい魔術を成功させたりしたら、好物を作ってくれるの。頑張ったわねって言う口調はずっと優しくて、温かいんだよ。小さい頃は服も作ってくれていたらしいの。私は記憶にないんだけど、写真屋さんで撮った私の服、大半は手作りなんだって。凄いよね。
義父は厳しい人だけど、案外心配性なの。夜遅くなるよって報告する時は、作業をしていても手を止めて、私の顔を見て“あまり遅くならないように”って言ってくれるし、魔術以外に関心がないって顔をしておきながら、小学生の時、毎年運動会にも来てくれて、リレーにも出てくれたんだよ。一番を取ってくれた時は嬉しかったなぁ。
学芸会とかにも来てくれてね。機械苦手なのに頑張って私が出てる劇を録画してくれたみたいだよ。夜、たまにテレビに繋げてみてるみたい。私にバレてないと思ってるみたいだよ。
「私から家族を奪って、一方的に道具に仕立てあげた一方で、私に家族としての愛情を与えてくれたの」
──殺したいと思わせ続けてくれた方がまだマシだった。
苦しみを与えるだけの存在てくれたら幸せだった。痛みを与えるだけの存在でいてくれたら楽だった。
思考と感情を持つ道具に対しての愛情だったのかも知れない。それでも幼い千尋にとってそれは親の愛情も同然だった。痛みと苦しみと絶望と嘆きを与えておきながら、同時に人の優しさも暖かさも安らぎも愛情も与えるのだから質が悪い。
斎藤は斎条の人間がしている行為を悪と断ずるのは容易いが、千尋にとってその行為を悪とは思っていないのが手に取るようにわかり、斎藤は言葉に詰まった。それは違うと、お前の義理の両親がしていることは、お前にとって害悪でしかないのだと。本当に愛情を向けているのなら、他人に魔術刻印を移植するなんて無謀ともいえるようなことをしない。もっと言えば、胎盤としての役目を押し付けたりなんかしない。
間違いなく道具として大切に扱われているだけだと、怒りの声を上げようとする斎藤の理性が喉を切らさんばかりに叫ぶ。
──その見せかけの愛情すらなかったら、今のマスターはいないのだと。
無条件で愛してくれる親から引き離され、道具としても愛されなかったらこの少女は一体どんな人生を歩んでいたのだろうか。
この双眸に光は灯らなかっただろう。溌剌とした笑みを浮かべなかっただろう。願いを叶えようと努力をしなかっただろう。聖杯戦争で出会ったとしても、三日で関係は終わっていただろう。
千尋は心に沢山の傷を負っているのを知っている。無理矢理開き続ける回路と刻印に身体が傷ついているのも知っている。それでもなお、あの少女は笑うんだ。
なんてことはない。空が綺麗だねって言ってへらりと笑うんだ。
だから僕にとってあんたはあまりにも眩しい。
「そんなことをされたら、愛してしまうでしょう? 愛おしいって思ってしまうでしょう?」
「…………マスターちゃん……」
「愛してしまったの。私から全てを奪った人たちを愛してしまったの」
それは罪を犯した罪悪感と同時に甘い蜜をしたらせる。私を私として見てくれない。私から意思と未来と選択を奪っておきながら、よく出来た人形だと言って悦に浸る二人をずっと見ていた。幼い頃からずっと、ずっと。目を瞑っていても瞼の裏に私を褒める光景が見えるほど。
血反吐を吐く私を見ても助けてくれない。呼吸が出来なくて唾液すら飲み込めない私を見ても手を差し伸べてくれない。痛みに怯える私を前に儀式を辞めようと言ってくれたことなんてない。
初めて抱いた殺意はずっと消えなくて、ずっと腹の底に淀んでいるのに。愛してしまったから。正反対の感情を同時に抱くことは辛くて、悲しくて、心が死にそうになる。
「逃げ出したいって思うよりも先に殺してやりたいって思ったよ。でも、それでも愛してしまった私は、歪んでいるんだよ」
千尋の眦から遂に小さな雫が零れた。大きな感情の揺れに心と呼ばれる目には見えない器官が、頑丈な水門を開いた瞬間だった。
「大好きなのッ、でも、どうしても私は、自由になりたい、好きに、生きてみたい。でも、あの人たちを、捨てたくはないっ!」
与えられた道以外の道を歩きたい。目の前にある選択肢を、魔術師ならという理由で選択したくない。斎条の家に縛られないで色んな景色を見てみたい。
千尋と同じ年頃の娘はきっと、そんな願いすら考えないだろう。将来を自分で考えるのも、何を選択するのかも、家に縛られないのも全部出来ているからだ。当たり前に出来ていることを聖杯に願わないと叶わない環境に置かれている。もっと言えばそこまで追い詰められている。
「聖杯戦争は、チャンスだと思った。願ってしまえば、容赦なく私の願いを叶えてくれるから」
「マスター、あんたの本当の願いは——」
魔術師を止めたい? 両親から解放されたい?
千尋の感情を察するには、共にいる時間が短すぎる。それでも斎藤は、千尋がなんて言うのか、何となくの予想は付いていた。
悪意の行為すら愛してみせる少女はきっとこう言うのだろう。
「自由になりたい。ただ、それだけだよ」
一字一句違わず千尋は斎藤の予想した言葉を口にした。
街灯が街の形を光で象り道を照らす。夕暮れは民家の後ろに姿を隠し、空には月が浮かんでいる。
「マスターちゃん」
「死にたいなって考えてない。死んだ先に自由を求めてない。私は自分の意思で、自由に生きたい」
「自由になったらどうするんだ?」
「取り敢えず、世界旅行、かな」
「いいな、それ」
怒りのままに掴んでいた手首を離し、指先を滑らせて千尋の小さな手に触れそのまま柔らかく掴んだ。
必ず、この少女の理想を、夢を、現実のものにしてやりたい。この手で、千尋の望みを叶えてやりたい。それがどれだけ過酷な道のりだろうが何だろうが、仮初の身体で命を懸ける理由は出来た。
あとはもう、刀を振るうだけだ。
斎藤は千尋の額に己の額を重ねた。
腹の中で燃える覚悟が少しでも伝わればいい。熱が少しでも伝わればいい。斎藤の思いとは裏腹に、千尋はくすぐったいと笑っていた。
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BAMBI