「魔術師から逃げたいって思ったことはなかったのか?」
「ないよ。私、強欲だから貰えるものは全部貰っておきたいもん。回路も刻印も技術も、ね!」
「へー、案外強かな女なこって」
「知らなかった?」
「いーや? 知ってましたよ」
肩を竦ませる斎藤を前に千尋も肩を小さく揺らして笑った。一頻り笑ったあと、千尋は力をふっと抜き上半身を倒して斎藤の胸に額を預けた。随分と軽い体重の掛け方に斎藤はどうしたものかと、一瞬展望台の天井に目を向けて胸元にある旋毛に視線を戻した。一度触れてしまえば、次その髪に触れることに躊躇いはない。そうだというのにどうしてか、今、千尋の艶のある髪に触れる行為に戸惑いを感じる。
――さて、女子に触るのがこんなに難しかったっけなあ。いやはや、死して尚知ることがあるとは、恐れ入ったもんだ。
「マスターちゃん、そろそろ本格的にお月さんが顔を出している時間だ」
「ん、帰ろうか。私たちの家に」
私たちの家。その言葉に違和感を持たないのは、千尋が心の底から斎条の家を帰る場所だと思っているからだろう。
だからこそ、この少女は心を壊し掛けてまで苦しんだのだろう。自責し自戒し追い詰めた。道具として愛してくれた人間を、人間として愛してしまったのに殺意を抱くのは罪なのだと、愛情には愛情を返さないと等価にはならないと、感情が作られる脳のシステムが歪んでいるのだと。湧き上がる情はシステムと呼ぶには些か冷たすぎるが、自然の摂理だと認めてしまえば、千尋は更に自分を責めるのは目に見えて明らかだった。
システムの歪み。それが千尋の逃げ道であり、斎藤がそれを指摘すれば千尋の柔らかくも冷たい目に見えない器官が音を立てて壊れてしまうだろう。
――その姿は、見たくねえなぁ。
「そうだ。本格的な稽古つけてよ。セイバーの教えてくれる型って私の父さんが教えてくれたものにそっくりで、同じ流派だと思うんだよね」
「おー、そりゃな」
「うん? それでね、聖杯戦争が始まる前までに少しでもレベルアップしたいの! いいでしょ? はい、決定!」
「この強引なところは誰に似たんだかなぁ」
胸の前で両手を合わせてパン、と音を立てる千尋は、困った顔をして遠くを見つめる斎藤を前に小首を傾げる。たまに斎藤が何を言っているのかわからなくなる時があるからだ。専ら、そういう時は聞かなかったことにしているのだが。とはいえ何も感じないわけじゃない。いつも先を行く斎藤のことが理解出来なくて少しだけ物悲しくなる。だから聞かなかったことにしているのだ。己には何も話してくれないのだから。
「あのさ、セイバー。令呪を全部使い切ったとしても、私の傍にいてくれる?」
「そりゃ勿論。俺のマスターちゃん。……出来ればずっとあんたと一緒にいたいと思ってるくらいだ」
「聖杯戦争が終わっても、一緒にいてくれるってこと……? そんなの──ッ!」
受肉以外にないじゃない。
千尋は目を皿のようにして斎藤を凝視しするも、見つめられている男はどこ吹く風と軽い調子で首を傾げている。まるで自分がした発言の大きさがわかっていないかのように。
「マスターちゃんは世界旅行に行きたいのはどうして? 見聞を広げたいから? それとも斎条家から物理的に遠い所に行きたいから?」
「どっちかって言うと前者かな。旅をして色んな国に行って文化や習慣、価値観や考え方に触れたいって思うから。……っていや、そうじゃなくて!」
「じゃあ僕もその旅に同行しようかな」
あの日、同じ質問をした日。斎藤は納得のいく答えが得られないのなら共にいないと言った。芯のある断り方だと思ったし、サーヴァントとして適切な回答でもあったと思う。願望機に懸ける望みがないのであれば、マスターである魔術師を勝利に導いて契約満了、はいおさらば。それが一番手のかからない、もっと言えば千尋が知っている斎藤らしい回答だと思っていた。
それがどうしてセイバーは聖杯戦争が終わっても、共にいてくれると言ってくれるんだろうか。
はらはらと均衡を保っていた殻が剥がれて行く感覚に千尋は戸惑いを覚えた。なんの殻が剥がれていっているのかはわからない。でも、硬く、固く、堅く守っていた場所が音を立てて崩れて、触れるだけで壊れてしまうような繊細なものが剥き出しになっていく。
止めて。それ以上壊さないで。近付いて来ないで。触れないで。私に期待をさせないで。
「どう、して……。だって、セイバーに、なんのメリットもない、よ」
「めりっとぉ? 俺があんたと一緒にいたら面白そうだと思った。それ以外に何か理由でも必要があるんだったら今すぐ考えるけど?」
「……ううん。セイバーは優しいね」
これ以上にないほど優しい嘘だと千尋は思った。
自分の意思で斎条家から逃げられない私は、もう聖杯に願いを叶えるしか道は残っていない。踏み出す勇気を私は持てないから。でも、セイバーはきっと受肉をしてこの時代で生き続けるなんて将来を心から望んだりはしていないと思う。ううん、確信を持って言える。だから“ずっと一緒にいる”なんて甘言は優しすぎる嘘なのだ。聖杯を手に入れた後の私が一人にならなくてもいいように、今、この瞬間だけの嘘。
「学校の屋上で刀を向けた時も、あれ、本当は怒ってなかったでしょ」
「あららー、バレてたか。……ま、そうですよ。ちょっと脅しゃあ、あんたはこの戦争から手を引くと思ってたんでね。結果、焚きつけるだけになったみたいだけど」
「あの時は怒っているのかと思ったけど、今思ったら違ったなって。──ありがとうセイバー。私の為に怒ってくれて」
優しい嘘を沢山ついてくれて。
千尋が斎藤の首に腕を回して抱き締める。二人の距離はゼロになって隙間が埋まった。どくどくと鼓動する心臓が同調し、魔術回路が触れ合う肌を通して魔力を通過させる。水の中を泳ぐ魚が新たな大海を目指して進むように、千尋の魔力が斎藤の身体に向かって流れていく軌道が、はっきりとした糸に変わり二人を繋いでいる。
「ありがとう。セイバー」
首元で何度も感謝の言葉を口にする千尋の背中に腕を回しても良いものなのか、迷った末に斎藤は「マスターちゃん」と声を掛けた。今まで千尋を呼んだ中で一等優しい声色だった。
「抱き締めてもいいのかい?」
「いいよ」
「そうか」
ゆっくりと斎藤の手が千尋の背中に回る。何度か抱き締めたことのある女の細身の身体に、斎藤は胸を締め付けられる。聖杯戦争という名を冠する戦いに行くような技術も身体も頭もないくせに、気前だけはいっちょ前。ずっと、ずっと守ってやれたらどれだけ安心出来るだろうか。己が作って来た血による伝承を見届けることが出来れば、どれほど嬉しいものだろうか。斎条千尋という女の一生を隣で見ることが出来るのであれば、どれだけ幸せを享受出来るのだろうか。
戦うからには負けない。無敵流の刀を何処までも轟かせてやる。その先で待ち受けるのが地獄でも奈落でも。
「先ずは何処に行く予定なんだ?」
「ヨーロッパ、とか? 南米にも行ってみたいかも。中東にも行きたいな」
「どんなところでも二人なら楽しいってもんでしょ」
「ふふ、そうだね。二人なら絶対に楽しい」
二人で、どこまでもが出来るのであれば、何があっても乗り越えていけるはずだ。
千尋は斎藤を抱き締める腕に力を入れた。どこまでも甘くて優しく穏やかで温かい、そんな夢。現実に目を向ければ呆気なく壊れて霧散する頼りない夢。こうして今、何も考えずに思ったことをそのまま口にすることだけが許されている。そんな時間すら愛おしくて、手放したくないと思ってしまう。
「私はセイバーのマスターとして、万能の願望機を求める一人の人間として、最後まで戦うよ」
斎藤の首に回していた腕を離して一歩後ろに下がった。近すぎた距離を正すように。
「セイバーは私のサーヴァントとして、最後まで戦ってくれる?」
小首を傾げる千尋の問いに呼応するように、斎藤は腰に差している刀を鞘ごと引き抜いた。中心部分を右手で持ち、腕を前に出せば夜空に浮かぶ月明かりに反射した鞘が淡く線を滲ませる。
「誓おう。俺はマスターの鞘であり刀身とこの身を変えよう。俺の一振りがあんたの一刀に変わり、あんたの受ける傷は全て俺が引き受ける。無敵流を貫いた、新選組三番隊隊長、斎藤一の一刀をマスター、あんたに預ける」
斎藤は左手で柄を握ると、僅かに鞘から刀身を出した。月明かりに反射して青光りする綺麗な波紋を真剣な眼差しで見つめたあと、引き抜くこともせず再び鞘に納め、太刀を腰に収める。
さっきの動作はなんだったのだろうか。と口を挟むよりも先に、斎藤が腰に差している一刀の打刀の鍔を上から握り空を見上げた。
つられて千尋も空を見上げれば、宵闇の中に丸い月が浮かんでいる。もう、そんな時間になっていたのか。楽しい時間はどうしたってあっと言う間に過ぎてしまう。終わりが迫っている“楽しい時間”から目を逸らすように、千尋は斎藤の横顔に視線を戻した。
「金打って言ってな、武士が堅い約束をする時にする儀式、みたいなもんだな」
「堅い約束……」
「これでも一応武士なんでね。きっちりさせてもらいますよって……俺は、あんたの隣にいる。命続く限りずっとな」
「セイバー」
「生きよう。二人で、色んな世界を回りながら、何処までも、な」
千尋の双眸から熱い雫が零れ落ちる。次から次へと頬伝って地面を濡らしていく。
夢だと思っていた。この場限りの、優しい夢を見させてくれているのだと思っていた。拠り所がなくなっても大丈夫なように、この時間に何時でも浸れるように。淡くも愛おしい思い出を作ってくれているのだと思っていた。
斎藤と過ごした時間という思い出があれば、それだけで生きていけるから。だから大丈夫、大丈夫と言い聞かせて、本当は何も大丈夫じゃないのに強がって。でもそうしないと、張りつめている糸が切れてしまうのを知られているのだと、だから……。
──本当にいいの?
ずっと傍にいて欲しいと英霊・斎藤一に願ってもいいの? 同じことを思ってくれていたのだと喜んでもいいの?
はらはらと殻が落ちていく。そうして、最後の欠片が地面に影を落とす。
剥き出しの繊細な、触れるだけで壊れてしまうと思っていたモノに斎藤が触れる。最初は指先で、次に掌で、最後はうんと真綿のように抱き締められる。
ああ、答えは得た。
必死に壊れないようにと、均衡を保っていたのは自分の心だったと、感情だったのだと、斎藤に抱き締められて初めて気付いた。
頑なに他人との線を引いていたのは、愛してしまわないように。これ以上泣かなくてもいいように。
愛してはいけない人を愛さないように。
──でも、君は、それでも。
──人を愛していいと言ってくれるんだね。
「んな泣かないの。僕が女の子泣かしたみたいに……って、実際その通りなんだけどさ」
何かを言葉にしようものなら、これ以上涙が零れてしまいそうで、千尋はただ眦から零れる涙を親指で拭う斎藤の温度に息を吐いた。
どうか、どうか。この幸せが一年後にも続いていますように、と。
──一週間後、木刀で稽古をしていた千尋の元に一通の手紙が届いた。
木刀で打ち合いをしていた二人は手を止め、千尋は首筋に流れる汗を手の甲で拭った。
「なんて?」
「マスターが全員揃ったって」
「てことは、いよいよ……」
「うん」
──聖杯戦争の開始だ。
開戦の火蓋が切られた日の空は、何処までも澄み切った青い空だった。
憎らしいほど晴れ晴れとし、清々しいほど綺麗で、悠々たるその空は、二人の可能性をどこまでも広げているようで、並んだ影が同時に足を踏み出した。
引き返すことはない。どれだけの血が地面を濡らすとしても、願望を捨てたりはしない。
あの日、サーヴァントを召喚した日に全ての覚悟を決めたのだから。
信念の貫き方はもう教わった。踏み出す勇気は与えられた。ならば進め、何処までも。己の為に。
私は──。
──誓いは胸に。空には自由を。大地には血を。己には杯を。
──我は聖杯を望む者。我は力を望む者。
我は──。
──私は自由を求める者なり。
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