カルデアの地下にある図書館の片隅で、一人の女が分厚い本を片手に読み耽っている。
利用者が決して少なくないわけではないが、女は図書室を管理する立場のモノには有名な人物で、女はふらりと現れては決まって同じ本を読んでいる。
「新選組隊士 斎藤一の一生」と表紙に書かれた本を読む人間は今のところ一人しかいない。
「……もうバカ」
そう呟いた女──千尋は意識を十年以上前の過去に追いやった。
たった一か月の記憶はどの瞬間も鮮明に思い出すことが出来る。
今にして思えばあの出来事は何も特別なものではなかったと思う。それでも、あの日々は間違いなく私の人生を変えた出来事だったと思う。
極東で起こった小さな儀式。冬木市の一部が戦場となった所為で建物が崩壊し、辺りに炎が広がり真っ赤な海を作り出していた。灼熱の炎が剥き出しの肌を焦がす。熱いを通り越して痛みを覚えるあの戦いがあったことは、魔術師の巣窟、時計塔でも知っている人間の方が少ないだろう。
それくらいマイナーな儀式だったわけだ。斎条千尋が命を懸けた聖杯戦争は。
──「令呪を持って命ずる。ありったけの私の魔力、全部持っていけぇ!!」
──「応!」
手の甲に刻まれた令呪は赤く光、残滓だけを肌に残す。
残りのサーヴァントがあと何騎いるのかもわからない。それでも今、目の前にいる敵を倒さないと勝利は手に入らない。回路を巡る魔力はもう枯渇している。今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。それでも、セイバーは二振りの刀を持って、ボロボロの身体で立っている。
攻撃を受けた患部から血を流し、肺に血が混じっているのか息をする度に「ヒュー、ヒュー」と音が聞こえてくる。……もう、限界が近い。
斎藤の一刀が千尋の一振りであるのであれば、千尋の想いがが斎藤の力になるはずなのだ。
──「重ねて命じる! セイバー、私に勝利を!!」
──「真名解放。新選組三番隊隊長、斎藤一。……形無きが故に無形。流れるが故に無敵。故に我が剣は……無敵!」
武士が振るった刀は降る雪をも斬る斬撃だったのを、今でも強烈に覚えている。
騒がしいほどの静けさが広がる図書室に、コツコツと靴音が響く。目的地までの道に彷徨っているのか、靴音のリズムが時折乱れている。
「千尋さーん! 此処にいたんですか」
「立香? 何かあったの?」
「ドクターがお茶しようって。マシュと一緒に食堂で待ってるんだ」
「そっか。じゃあお言葉に甘えてお相伴に預かろうかな。私が好きなケーキもある?」
「ドクターが用意してくれてたよ。千尋はこれを出しておけば文句は言わないって」
「なにそれ。ロマニ、私のことクレーマーか何かだと思っているのかしら? 嫌になっちゃう。苦情言ってやろうかしら」
頬を軽く膨らませる千尋を前に、藤丸はへらりと笑った。ドクターと千尋は昔からの縁があるらしい。ダ・ヴィンチちゃんがカルデアに召喚された時から仲が良かったと言っていたから、相当古い付き合いなのだろう。初めてドクターに会った時も、千尋の姿が側にあったのを藤丸は覚えていた。
「千尋さん何読んでたんですか?」
「んー、私のお祖父ちゃんのお祖父ちゃんの本を少しね」
「え! 千尋さんのお祖父さんのお祖父さん本になるくらい有名な人なんですか?!」
「そうなのよ。意外だった?」
得意気に笑った千尋は右手に持っていた本を本棚に仕舞い、藤丸の背中に手を当て図書室から出るように促すと、藤丸は千尋に誘導されるまま本棚の間を出口に向かって歩き出す。あまり多くは語らない千尋の話しに瞳を輝かせている藤丸を横目に、観念したように眉尻を下げる千尋は、お茶の肴にでもなるか。とポツリと言葉を零した。
「私も大人になってから知ったのよ」
「本になるくらいの人なら、いつかカルデアに召喚されるかもしれませんね! ぶっちゃけ、千尋さんを触媒にしたら来るのでは?」
「っ! フッ、ハハハハ! 面白いことを言うわね」
実際、千尋は己の血を触媒に斎藤を呼び出しているのだから、藤丸の雑論理も強ち外れてはいない。斎条の人間に持たされた触媒であれば円卓の騎士を召喚出来るはずだったが、用意された触媒より、己の血が勝ってしまったのだ。
当時は円卓の存在すら知らなかったけど、今思い返せば、血縁を触媒に英雄を召喚するなんて前代未聞の出来事だったに違いない。
「ま、私はもうサーヴァントがいるから召喚はしないんだけどね」
千尋は守護英霊召喚システム通称「フェイト」を使用して召喚したサーヴァントを持っている。高い魔術力がありマスター適正も持っているが、残念なことにレイシフト適性が平均よりも低く、特異点に行くようなことは出来ない。フェイトが誤作動なく作動するかどうか。その実験としてマスター適正がある千尋が選ばれただけで、その後召喚されたサーヴァントとはシミュレーションルームで何度か手合せするくらいで、本格的なレイシフトをしたことがない。
これ以上サーヴァントを増やしても宝の持ち腐れというものだ。
サーヴァントを召喚した日に浮かび上がった右手の令呪だって使ったことがないくらいなのだから。
──「マスターちゃん、令呪の使い方知ってたのかぁ」
記憶の内海で男の声が響いた。
あれは、いつの話しだっただっただろうか。穏やかな冬の日差しの出来事だったと思う。
「さぁ行こう。二人が待っているんでしょう」
「はいっ!」
全て失ったはずだった令呪は六年ほどで戻って来た。違うサーヴァントを使役する為のものとして。
藤丸は言った「血を触媒にサーヴァントを召喚出来るのでは?」と。まだ子供の発想と全く同じことを思った千尋は、マリスビリーが見守る中、己の血と覚悟を触媒に詠唱した。その結果、召喚に応じてくれたサーヴァントは全く違う人物だった。
やっぱりあの出来事は奇跡にしか過ぎなかったのだろう。赤茶の髪をしているサーヴァントを前に、千尋は落胆を感じたわけでもなく、勿論絶望を感じたわけでもなかった。ただ、シュレーディンガーの猫の将来を見た。とだけ。
──「俺がマスターちゃんにしてやれることは、そう多くはない。それでも、あんたの側にはいれるから」
──「うん。一緒にいよう。どこまでも、二人で世界を見る為に」
いつだってあの約束が千尋の心を締め付けるけど、それでも、時間を止めることは出来ないから。したくないから、ゆっくりとでも歩くのだ。
歪んだ自分を受け入れてくれた男に誇ってもらえるように。「それでこそ、俺の子孫だ」と言ってもらえるように。もう頭を撫でてくれる暖かいては何処にもなくて、涙を拭ってくれる不器用な優しさもないけれど、二人が過ごした記憶が千尋の原動力に変わるから。
だから、確りと力強く歩いていける。
脳裏に蘇る焔の海と崩壊した建物。泥かと見紛うほどに形を変えたアスファルト。サーヴァント同士の戦いとは何たるかをまざまざと見せつけられている。目の前に広がる地獄を前に千尋の耳元で誰かが「小娘にはまだ早過ぎたようだね」と囁いた。きっとその人の名は後悔というのだろう。
違う。ちゃんと覚悟を決めて来たと後悔を振り落とそうと頭を振って前を見れば、一騎の刀が立っている。
血だからけのサーヴァントは今にも倒れそうなのに、二本の刀を握る手は力強く、破けた服から見える腕には青い筋が浮かんでいる。千尋の右手の甲には何も残っていない。
一歩、一歩。酷くゆったりとした足取りで、同じようにボロボロの姿のサーヴァントに立ち向かっていく姿を前に千尋は叫んだ。
──「セイバーッ!」
与えられる魔力はもう何処にもない。指先は痺れているし脚の感覚なんてとっくに失っている。それでも、千尋は叫ばずにはいられなかった。刹那、真っ暗な空から流れ星にも似た輝きが見えた。
──「マスター!!」
流星の如く降り注ぐ矢は決着が付きそうな戦場を更に混沌へと導く一矢だった。しかも狙いは魔力切れを起こしている千尋に向かっているもので、斎藤は敵に背中を向けていた少女の方に振り返り駆け出した。
振ってくる輝く星を前に千尋は大きく眼を見開いた。
間に合わない。直感がそう囁いた。身体が強張り喉が張り付く。感覚が失った脚が地面を擦った瞬間、千尋の視界に光が遮られ黒が広がった。黒に紺色のインクを垂らしたような宵闇の黒ではなく、混じりけのない純粋の黒。
千尋にとってその色は常に隣にある色だった。刹那、轟音と共に流星と紛う矢が土埃を上げ地面の形を変えながら矢の道を作り、千尋の頬に血が滴る。
いつの間にか千尋の背中は地面の上に寝そべって、斎藤が千尋の上に馬乗りになっている。その背中にはいくつもの矢が刺さっていた。
──「セイバーッ!!」
──「ます、た……ちゃん、怪我は……?」
斎藤が庇いきれなかった太腿に掠り傷がある程度で、致命傷は何処にもない。見るからに斎藤の方が重症で致命傷だ。
──「悪い、僕は、どうやら……ここまでの、よう、だ……っ」
──「そんな……っ! ……セイバー、セイバー……私のセイバー……。置いて──」
置いて逝かないで。私を一人にしないで。眦から零れる大粒の涙と共に斎藤に縋りつきたくなった口を噤んだ。
斎藤だって置いて逝きたくて座に還るわけじゃない。心残りだってあるはずで、それを責めることは誰にも出来ない。
この別れは今生の別れであり、永遠の決別だ。
──「ありがとう、セイバー」
──「いーや。……なぁ、千尋、あんたは生きろよ。何処までも、しわしわのお婆ちゃんになるまで、な」
──「うん、生きるよ。長生きする。ね、セイバー、離れていても、私の側にいるよね」
──「いつまでも、あんたと共にいる。そう誓った」
斎藤は己の頬に触れる小さな手に己の手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。己の身体の自由が利かなくなっていく。現界する為の魔力が一粒づつ零れ落ちて行く感覚に、帰還の時が近いことを悟り、斎藤は千尋の額に唇を寄せた。
──「笑え、千尋。あんたは泣き顔よりも笑ってる方が似合うだろ」
最後に見る光景は気に入ったものがいい。斎藤の聖杯に懸けるまでもない小さな願いに応えるように、千尋は止まらない大粒の涙を流しながら目を細めて唇の端を上げた。
ぼやける視界の中で斎藤も笑っている気がした。
──「大好き、大好きだよ。セイバー……ありがとう、セイバー……──」
──愛してる。
愛の告白が届いたのか否か、瞬く間に斎藤は光の粒として消えていった。
生きて来た時間の中で千尋は何度も斎藤との最後を思い出しては涙を零した。
それでも生きて行くのだ。優しさも寂しさも愛おしさも苦しみも、全て抱えて、全ての出来事が思い出になってしまわぬように、影すらを焼け付ける光で記憶を脳裏に焦がしつけて。
眩しくて胸を焦がすあの日々を胸の一番深くに仕舞って、新しい日々を愛おしんで生きてくんだ。
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BAMBI