世界を見る旅の途中、丘陵地帯を歩いていた時だったと思う。何処までも突き抜ける青い空の下で緑色の丘が何処までも続いている。果てのない地平線の向こうにも道は続いていて、この先には一体どんな景色が待っているのだろうか。そう思うのと同時に、この先にあの人がいてくれたらどれだけ良かっただろうか。と千尋は目を細めた。
悲嘆しているわけではない。寧ろ、千尋の心は踊っている。
あの人も今頃、探し物を見つけるように必死になって旅をしているに違いない。
明日の身の振り方すら決まっていない生き方は、最初こそ不安を覚えたが、二年も経つと、もうその生き方が当たり前のように感じていた。明日はどの方角を目指して歩こうか。当てもなく色んな国と地域を見て回り、ついでに人助けなんかをして。
なに。計画段階では二人だったのが一人に変わっただけだ。
悲しむことなんて何もない。楽しかった記憶が後ろ髪を引いても、振り返る必要なんて何処にもない。手を伸ばした先にあの光がなくとも、涙を零す必要はない。
今を穏やかに笑っていられるのだから。
ソーサーに紅茶の入っているカップを置けば、カチャリ。と小さな音を立てた。そのままソーサーをテーブルの上に置いて千尋は流れるように小さなフォークを手に取ると、隣に座っているロマニのイチゴのショートケーキに刺した。一口分を掬い取った千尋はそのまま自分の口の中にショートケーキを運び、脳を刺激する甘みに頬を緩ませた。
「あ! キミ! 狡いぞ!」
「隙ありのロマニが悪いでしょう」
「なんだその屁理屈は」
がっくりと肩を落としたロマニは、恨めし気に千尋を見るも、どこ吹く風の千尋は与えられたフルーツタルトにフォークを刺していた。
正面に座る二人のやり取りを見ていた藤丸は、いつも通りの光景だと苦笑いを浮かべる一方でふと小首を傾げた。
そう言えばドクターが千尋さんに反撃をしているところを見たことがないな。と。今だってロマニは千尋への文句を言いながら欠けたイチゴのショートケーキを食べている。ある意味力関係が見える関係は一体いつからなのだろうか。
「二人はいつ知り合ったの?」
小首を傾げた藤丸を見た二人の反応は三者三様だった。何度か瞬きをする千尋の隣で、ロマニが何処か遠いところを見ている。昔の話を懐古しているような様子を見せたロマニは、懐かしむ声色で「あの頃は……」と唇を動かした。
「あの頃の千尋はまだ純粋だったんだよ」
「何よ、今は違うみたいな言い方。もう一口分取ってやろうかしら」
「そういうところだぞ、キミ」
げんなりとしているロマニを他所に、千尋はロマニと初めて出会った京都での出来事を藤丸に語ってみせようか。と時計を一瞥した。
幸いなことに時間はまだある。緊急で特異点が発見されない限りあと少しばかり休憩時間を伸ばしても問題はないだろう。働き過ぎだと唯一のサーヴァントに怒られるのにも飽きていたところだ。
「私もロマニもそれぞれ旅をしていたんだけど、偶然京都で会ってね」
「京都って、あの日本の京都ですか?」
「そうそう。美味しそうに和菓子を食べている外国人がいるなぁって思って声を掛けたら、ロマニだったの」
知らない外国人に気安く声をかけれるのが千尋さんらしい。と藤丸はよくテレビで見かける古都、京都の街並みを頭の中に思い浮かべる。どうもその景色の中にドクターがいるのが想像出来ないのだが。
「観光ですかー? って声を掛けて来たんだよ。キミまだあの時二十歳になってなかったんじゃないか?」
「そうかも? あの時のロマニ吃驚しすぎて口開けてたものね。あの顔が間抜け面って言うんでしょうね」
「だって、知らない子が話し掛けてきたら吃驚するじゃないか」
「そう? 目立っているお兄さんがいたら話しかけてみたくなるじゃない。大きな鞄を持ってさ」
「それはそっちも同じだっただろう」
大きな和傘の下で和菓子を嬉しそうに頬張るロマニの隣に遠慮なく腰をかけた千尋は、ロマニが足元に置いている大きな鞄を見て、同じようなことをしている人間なのだと当りを付けて口の端を上げた。何処から来たの? 今までどんな国を見て来たの? なんで旅をしているの? 好奇心から零れる質問にロマニはたじたじになりながらも、一つ一つ丁寧に言葉を返したのが二人の関係の始まりだった。
ロマニが何処から来て、何を目指しているのか。自分が見た未来の出来事をまだ知りもしない千尋に話すわけにもいかないロマニは、誤魔化すことも出来たのに、きっぱりと教えられない。と首を横に振ったのが、千尋のロマニ・アーキマンという男への印象を深めた。
誠実な人なのだろう。と口の端を緩めたのを何となく覚えている。
「京都で一緒になって、それからどうなったの?」
「その時はそこでさよならをしたんだけど、どこだっけ? どっかの国でもう一回会ったのよね」
「インドだろ。インドの寺院で」
「そうだった。その後は……」
「トルコ、イタリア、イギリス、ロシア……行く先々で千尋に会って、これはもう、呪いか何かじゃないかと思ったよ」
深い溜息を吐くロマニを前に、目を輝かせているマシュは「運命なのでは?」と興奮気味に話しに入り、それに同調したのは千尋だった。
「そう思うでしょう? だから私ロマニに提案したのよ。これはもう運命だから一緒に旅しませんか? ってそしたらこの男なんて言ったと思う?」
「所長代理は何と?」
「止めてくれ。呪いか何かの間違いだろ。ですって。失礼しちゃうわよね」
「えー、女の人にそれはないですよ、ドクター」
白い目を同性である藤丸から向けられたロマニは、気まずそうに藤丸の視線から逃れるように顔を横に向けた。然し、逃げた先には千尋の視線が待っていて、ロマニは観念したと言わんばかりの溜息を零す。
「それは……悪かったと思ってるけど、千尋があんまりにもしつこく声を掛けてくるからだぞ」
「えー? そんなに声を掛けてたかしら」
「掛けてきてた。あと、向こう見ずで戦時中の国に行こうとしてただろ。全くどれだけボクが胃を痛めたことか……」
「どうして戦時中の国に行こうと?」
小首を傾げるマシュに返答をしたのは、千尋ではなくロマニだった。
「そういう奴なんだよ。何か自分にも出来ることがないかとか、助けられる人がいないかとかって考えて行動に移すような。千尋は良くも悪くも感情で動くタイプだから」
「ふふ、流石ロマニ、わかってるね」
嬉しそうにフルーツタルトを頬張る千尋を横目に、ロマニもショートケーキにフォークを刺した。二人同時に食べるものだから、藤丸とマシュはお互いの顔を見合わせてくすりと笑う。
なんだかんだ言って、仲が良いのは間違いないじゃないか。と。
「それで二人は一緒に旅をしたの?」
「少しだけね。二か月くらいかしら。凄く楽しかったのを今でも覚えてるわ」
「それは否定しないけどさーぁ」
行く先々で何度も会って、その後二か月も共に行動し、現在もこのカルデアで共に働いている。まるでドラマのストーリーのようなのに、恋愛に発展しないのが何ともこの二人らしい。なんて微笑ましい気持ちで正面に腰をかける二人を見れば、隣に座っているマシュが時計を見て声を上げた。
「先輩! シミュレーションルームでロビンフッドさんとの特訓の約束の時間が迫っています」
「ホントだ! 急がないと」
「はい!」
食べかけのケーキを急いで食べる藤丸は、口一杯に詰めたケーキを紅茶で流しこんで慌てて席を立った。膝が軽くテーブルの縁にぶつかり、テーブルを共にしている千尋とロマニの食器が小さな音を立てた。
「今日は誘ってくれてありがとうございました」
「ありがとうございます」
「いえいえ、気を付けてね」
「藤丸くんは特に無理しすぎないようにね」
律義に軽く頭を下げる二人に声を掛ければ、元気よく「はい」と声を揃えた返事が返ってくる。急ぎ足で部屋から出て行った未来ある若者の背中を見つめた千尋は、座り直して深く腰をかけた。
「ねぇ、あの約束覚えてる?」
「キミとは色んな約束をしているからどれのことかわからないよ」
「そんなにしてたかしら?」
「誕生日にプリンを買って来ること。なんていうくだらない約束だってあっただろ」
「あー、一度も守ってもらったことはないけどね。そうじゃなくて」
千尋の言うところの約束が思い当っているロマニは、テーブルから紅茶のカップを手に取って、口元に近付けた。ダージリンの匂いが鼻孔を通り抜け、口元を緩ませながら一口飲んで、ソーサーに戻せば小さく音が鳴った。
「あれだろう。お互い三十まで相手がいなかったらって奴」
「私今二十九だから、来年でしょ? いい相手は見つけたかしら?」
「この状態を見てそれが言えるのは、キミくらいなもんさ」
深い溜息を吐くロマニのすぐ傍で千尋は悪戯めいた笑みを浮かべている。
あ、これはよくないことを考えている時の顔だ。何とかして話題を変えないと。そう瞬間的に判断したロマニだったが、一歩遅く千尋の唇は音を紡ぐ為に動いていた。
「私の種馬になる準備はよろしくて?」
「──!! キミはそうやって人を揶揄う! 悪い癖だぞ!」
「ロマニ以外にやっているわけないじゃない」
小皿の上に乗っていたフルーツタルトを食べ切った千尋は、騒ぐロマニを置いて部屋から出て行った。顔を赤くしているロマニに振り向くこともせず。
──二人がそんな約束をしたのは、千尋がカルデアで務め始めてから一年経った頃。
恋人が欲しい、結婚がしたいと唸る千尋に嫌気がさしたロマニがやけくそで提案したのが切欠だった。まさかそんなふざけた提案を飲むなんて一ミリも思っていなかったロマニは、目を皿にして千尋を見やり、冗談だと口にするも、千尋は勝気に笑みを浮かべて形の良い唇を動かしたのだった。
──「私の種馬になる準備は整えておいてよね」と。
きっとその時に反論出来ていれば結果は違ったのだろう。
だが、ロマニは千尋に向かって口を開くことが出来なかったのだ。くだらない言い合いになるのが目に見えていたからでも、千尋が提案に前向きだったからでもない。あの瞬間、どうしてかロマニの目に藤田千尋という人物が、まるで違う人のように見えたのだった。
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BAMBI