大提灯

 レフ教授によるカルデア爆破事件後、ロマニは所長代理として忙しない日々を送り、千尋も所長代理補佐として眠れぬ日々を送っている。
 四徹目の朝、食堂でエミヤ特製の胃に優しいおじやを、咀嚼しているのか飲み込んでいるのか分からないまま、胃袋に流し込んでいれば、背後に人の気配がした。
 近付いてきた。というものではなく、そこに突然現れたという方が正しい。
 サーヴァントが数多くいるこのカルデアの中では日常的なもので、千尋も気にせず、何もしなくても揺れる脳に叱咤しながらエミヤ特製おじやを口に運んでいると、首の裏に衝撃が走り、視界がブラックアウトした。
 ゴン! と千尋の額が勢いよくテーブルにぶつかる音が食堂に響く。テーブルの上に置いてあった食器は横を向いて倒れ、千尋が手にしていたスプーンが甲高い音を立てて床に落ちた。騒がしかった室内が一瞬静寂を取り戻し、音の正体に気が付くとまた室内に騒がしさが蘇る。ある意味日常的な光景なのだ。千尋が唯一契約を結んでいるサーヴァントに、意識を強制的に落とされるのは。
 千尋と唯一契約をしている赤茶色の髪をしている男──千子村正はとうの昔に空になっていた容器と床に落ちたスプーンを拾って、厨房に足を踏み入れた。調子よくフライパンを振るう己と似ている顔をしている男に後ろから声を掛け、振り返ったエミヤに空の食器を差し出せば、エミヤは肩を竦めた。

「ちゃんと食べ切れたのか。一応量は少なくしておいて正解だったようだな」
「あいつ、ずっと空気を掬って食ってたぞ」
「……行くとこまで行くとそうなるのか。覚えておこう」

 一度大きく目を見開いたエミヤは、苦笑いを浮かべながら目を伏せた。人生長いことやって来たが、空気を器から掬って食べるなんて経験はしたことがない。
 村正から食器を受け取ったエミヤは、シンクの中に置いてまたフライパンに意識を向けた。半熟の目玉焼きが完成するまであと十秒。振り返る頃にはもう男の姿はない。

 ──長針と短針が揃って上を向いた頃に千尋は目を覚ました。
 ぼんやりとする視界と意識の中で、遠くからカンカンと金属よりも重厚感のあるを音が響いている。何年も耳にし続けた音に、千尋は村正の刀鍛冶工房の一画にいるのだと知った。
 玉鋼を大槌で打って、熱で溶かして折り曲げて、また打って。何度も繰り返して不純物を飛ばしていく時の音に、意識を浮上させた千尋は、音に促されるように身体を起こした。

 畳張りの部屋の中央には囲炉裏があって、自在鉤に吊るされた鉄瓶が昔ながらの風情を感じさせる。時折、串焼きになっている餅があったりするが、どうやら今日はないらしい。お腹も減っていないし、またの機会に焼き立ての餅を頂くとしよう、と企んでいれば大槌が玉鋼を打つ音が止まった。どうやら次の工程に行くらしい。職人の作業の邪魔をするわけにもいかず、千尋は手持ち無沙汰のまま三十秒ほど天井を見上げるもすぐに飽き、寝起きと違って随分すっきりした頭でやり残している仕事内容について考えることにした。

 スタッフからの報告では、制御システムのパネルが支障があるという報告と、一部シミュレーションルームで誤作動があったという報告の他、ダ・ヴィンチが研究室から帰って来ないという苦情が届いている。それ以外にもスタッフのシフト調整と食料品や物品の在庫管理……あぁ、そう言えば一部区間で温度調節が出来なくなっている。という報告も受けていたっけ。
 やることが山積みだ。ロマニには成るべく医療面とスタッフのメンタルケアを任せたいから、技術面は頑張らないと。
 両手で握り拳を作った千尋が気合を入れれば、閉ざされていた襖が開き、扉を挟んだ工房に充満していた熱気が解放され、千尋の首筋を湿った熱気が舐める。真夏日の風よりもうんと熱い空気に、じりっと肌が痛みを覚えるが千尋はさして気にした様子も見せず、村正に向かってへらりと笑ってみせた。

「いつもごめんね」
「お前ずっと空気食ってたぞ。何日床に就いてねぇンだ」
「あー、二日……とか、あ、すみません、四日です。はい」
「ほう? して、何日振りの朝餉だったんだ?」
「…………二日、とか? ゼリーは食べてたから、一日かな?」

 ゼリーは食事に入りますよね。と言わんばかりの顔に村正の目尻がぴくりと跳ねた。
 つまりその流動食みたいなものを食べてなかったら最低でも丸二日は、胃袋に何も入れていない状態が続いたまま仕事に没頭していたわけだ。そら、栄養が足りなくなって脳が動かなくなるわけだ。このマスターは目を離すとすぐに無茶をしようとしやがる。
 自殺願望者だって自分を此処まで追い詰めたりはしないだろうよ。

「なぁマスター。儂が言いたいこと、わかってるよな?」
「あー、わかってはいるけど、そんな暇はないというか……」
「おう、わかってる。がよぉ、お前が倒れりゃ下のモンだって不安になるってもんだろうよ。ちったぁ爺いの部屋で茶でもする時間くれぇは余裕を持て」

 土間に比べ脛くらいの高さがある上がり框に片足をかけた村正は、千尋の正面に立つと目線を合わせるようにしゃがみ、皮膚の厚い掌で小さな頭を無遠慮に撫でつければ、乾いた笑いが小さく漏れる。

「仮にどうしても無理だったら?」
「そりゃ今まで通りだな。儂に落とされて説教コースだ」
「ははは……手厳しいなぁ、村正は」

 苦笑いを浮かべた千尋はお腹を擦って「餅が食べたい」と口にすると同時に、小さく腹の虫が鳴った。虫の音を聞き届けた村正は小さく笑うと、軽く太腿を叩いて立ち上がり千尋に背中を向けた。

「そら見ろ。身体は正直だろうが。ちィと待ってろ、今用意してやるからな」
「お手伝いする?」
「そんな暇があんなら少しでも身体を休ませてろ。また意識がどっか逝っちまうぞ」
「んふ、そうする」

 太腿の上で丸まっていた毛布を肩にかけ、そのまま転がるように床に倒れて寝そべった。
 厨房に餅を取りに行くらしい村正が扉を開けて廊下に出た。十分ほどして戻って来た村正の手には四角い四つの餅がある。これは火鉢を出して焼くタイプだと推測した千尋が、棚の一番下に置かれている火鉢を取りに行こうとするも、村正に一睨みされてしまい、千尋は肩を窄めてその場に留まった。
 とんとんと準備していく手際の良さをぼうっと見ている間に、馨しい匂いが部屋を充満している。表面がひび割れ熱せられた餅ぷくりと風船を作り、村正が刷毛で餅に醤油を塗っている。餅の側面を伝って火の中に落ちた醤油が焦げる匂いが千尋の食欲を刺激した。

 腹の虫が限界だと小さくも立派な主張をすれば、村正が小皿に一つの餅をのせ千尋に手渡した。

「ほら、良い焼き加減だ」
「美味しそう……!」
「詰まらせるなんてこと、すんじゃねえぞ」
「流石にしないわよ」

 唇を窄めて何度か息を吹きかけた千尋は、箸で餅を摘まんで餅の角を歯で挟み、顎を引いて箸を持つ手を向こうに動かせば伸びた餅が垂れ幕の如くだらりと垂れる。服についてしまわぬように、麵を啜る要領で餅を啜れば、米特有の柔らかい甘さと、焦がし醤油砂糖の甘じょっぱさが口一杯に広がり、目を細めて口の端を緩めた。絶妙に食欲を促進させるこの昔懐かしい味付けが溜まらん、と千尋がもう一口餅を食べると、村正が「んな慌てなくても、餅は逃げねえよ」と呆れた笑いを浮かべながら、湯気の立つ湯呑を餅を頬張る千尋に手渡せば、待っていましたと言わんばかりに千尋が湯呑を傾けた。

「最っ……高に美味しい組み合わせだと思うのよ」
「そうかい」
「やっぱり餅は良いわね。心の故郷」
「年寄りみてぇな発言だな。お前まだ若いだろ。流行りの洋菓子とかあんだろいっぱい。マカロンだっけか? ああいう見た目が派手な奴の方が良いんじゃねえのか」
「あー、好きだけど、どっちかって言うとお餅の方が好きよ。胃に溜まるし」

 美味しくて腹持ちが良いなんて、なんて良いところしかないんだ。と空になった小皿を無言で村正に渡せば、焼き立ての餅がのせられ手元に返って来る。それをまた頬張る姿は村正の目にリスに見え、今にも喉に餅を詰まらせるのではないのかと目が離せないでいれば、不意に千尋と目が合い、女がへらりと笑った。

 この女、初めて出会った当初は乳臭さが抜けていなかったが、年を追う毎に乳臭さが抜けて、今となっては仕事に追われ、しなびれた枯草みたいになっている。刀を我武者羅に振るい、一心不乱に理想形に近付こうとする、あの頃に比べれば落ち着いたと言ってもいいだろう。
 これじゃ駄目だ。と口癖のように呟いては、血豆が潰れるまで刀を握っていたあの頃の千尋を、村正は見ていられなかった。それこそ、刀を取り上げたくらいには。だが、そうすると千尋は涙を浮かべ、村正から刀を取り返そうと躍起になる。刀を握れば血豆を潰し、取り上げれば感情をむき出しにし、涙はこぼさないものの泣き出す。
 女の情緒の不安定さを危惧した村正は、鍛錬に付き合うことを千尋と約束し、カルデアでの仕事が忙しくなるまで、村正と千尋は毎日のように刀を交えていた。

「大きくなったもんだなあ」
「何、急に。どうしたの」
「いいや。そら、食ったなら働け。さっきお前を探している職員を見かけたぞ」
「ん! なんだろ。行ってくるわ!」

 毛布を軽く畳んだ千尋はそのまま廊下に飛び出した。扉が完全に閉まる直前、振り返りへらりと笑ってみせれば、村正は呆れた笑みを浮かべ、網の上に残った餅に箸をつける。

「あの気の抜けた笑い方は、そうそう変わりゃしねえか」

 焼きたての餅を口に入れた村正は、懐かしさを覚える味に、心の故郷。と評した千尋の言葉に今更ながら深く頷いて見せたのだった。

 

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