システム調整を夜間に終え、朝陽が昇り始めた頃千尋は、地下貯蔵庫で食材の在庫確認と隣の区画にある農園で野菜の成長度合いの確認をしていた。中々の広さがあるその区画を一人で管理するのは中々に厳しいものがあるが、事件後残されたスタッフは二十名弱。
人類の存亡を掛けた大仕事を前に、こういった雑務はどうしたって優先度が下がる。とはいえ、この仕事を疎かにすれば、スタッフの生活の基盤が瞬く間に崩れる。そうなればシバの観測が疎かになり、見つかるはずの特異点にだって目が滑ってしまうかもしれない。
「圧倒的な主食不足だ……」
野菜はまだある。潤沢だ。料理が出来るサーヴァントにお願いし下処理を終えた上で冷凍保存しているからまだ暫く心配は要らない。
が、問題は肉や魚類だ。食べ盛りが沢山存在しているお陰でいくらあっても、足りるという状況まで回復出来そうにない。
スーパーの冷凍室かと見間違うほどの規模を誇る、カルデアの冷凍室で一人、千尋はバインダーに挟まっている用紙の項目に、チェックをつけ、至急! と書き込んでグルグルと周りを線で取り囲んだ。
項目名は鮮魚、精肉と書かれている。
真っ白な息が溜息と共に零れる。
厚着したとしても寒いこの部屋にいつまでもいる予定は無い。千尋はシャープペンシルの尻部分で、凝り固まりそうな深い山脈の眉間を解しながら、嗜好品が保管されているエリアに移動し、聳え立つカカオの山に千尋は目眩を覚えた。
「誰がここまで持って帰って来いって言ったよ、藤丸立香っ!」
チョコレート工場でも作る気なのか。工場長は誰なんだ。エミヤか? ブーディカか? どっちにしろ美味しいお菓子しか出て来そうになく、想像の中のチョコレート菓子は艶めき輝いている。悪魔的だと思うほどに酷く美味しそうで、千尋は無意識にお腹を擦った。
今度作ってもらおうかな。簡単なものでもいいから……あ、でも、流石にカカオからチョコレートにすることは出来ないか。残念。
がっくりと頭を垂らす千尋の耳に地下倉庫の扉が開く機械的な音が聞こえ、誰か食材でも取りに来たのだろうと振り返れば、青い瞳と目が合った。
「千尋さん、探しました!」
千尋の背後に聳え立つカカオの山を作り出した張本人を前に、怒りの感情を床に吐き捨て、努めて口元を上げて目を細めた。
「うん? どうした立香」
「今からサーヴァントを召喚することになったから来てください」
「うん?」
藤丸に手を引かれた千尋は、少年が何を言いたいのかを理解することも出来ないまま、抵抗らしい抵抗をしないで藤丸の背中をぼんやりと眺めながらエレベーターに乗り込み、地上階に着くと、そのまま藤丸は軽い足取りで守護英霊召喚システムを設置している部屋の扉を開けた。
「先輩、千尋さん。お疲れ様です」
「うん、マシュもお疲れ様」
「お疲れ様。ってダ・ヴィンチちゃんとロマニまでいるじゃない。どうしたの? 仕事は?」
何かと忙しいダ・ヴィンチとロマニが揃っているとなると、此処は管制室だったか。と錯覚してしまうが、しっかりとマシュの盾がセットされているのを見ると、やっぱり召喚ルームなのだと思い知らされ、やっぱりどうして二人がいるのだろう。と首を傾げれば、口の端を上げているダ・ヴィンチは揶揄う笑みを浮かべつつ千尋に近付いた。
「なに。藤丸くんがサーヴァントを召喚するって話をした時に、キミの話しになってね。キミを触媒にしたら応じるんじゃないかって」
「え、何? なんで?」
「ほら前に話してたでしょ? 図書室でさ、お祖父さんのお祖父さんが本になっているって」
「千尋の高祖父となれば、時代は……明治、いや、生れを考えれば天保か嘉永くらいまではイケるかな。となれば、幕末の志士が濃厚だけど、その辺は有名人が沢山いるからなぁ」
「え、クイズか何かやってるわけ? 人の祖先で?」
正解を言ってしまった方があの人が召喚に応じなかった時のリカバリーが効くだろうか。というか絶対に召喚に応じないよ。だって“私”が呼びかけたのに、召喚出来たのは村正だったもん。
立香には悪いけど、あの人は絶対に召喚に応じない。
半ば冷めた表情を浮かべながらクイズを楽しんでいる面々を見つめていれば、まだ純真な瞳がゆらりと千尋を射抜いた。
「もしかして、楽しみじゃない……?」
「その聞き方は狡いって…………楽しみなんだから」
「千尋は素直じゃないからなぁ」
「うるさいロマニ」
横っ腹に肘鉄を決めた千尋は、召喚に使われる盾を一瞥し、短く息を吐き出して藤丸の蒼い瞳を覗き見た。
どこぞの天才とは違い純粋に千尋が喜ぶと思っているその瞳は、青々しく輝いている。彼が子どもであり若人であるが故の純粋さというものだ。その混じりけのない純粋な心は、いつの間に消えていってしまったのだろうか。と過去を懐古しても、思い浮かぶのは苦労と楽しい日々だけだった。
「何か嬉しいことでもあったのかい?」
「うん? もしかしてにやけてた?」
「それはもう。そうだな、初恋の記憶を思い出している……と言った方がいいかな」
「千尋の初恋かぁ……あんまり興味のある話題じゃないなあ」
「なんでさ」
興味を持たれても困るけど、面と向かって興味がないと言われるとそれはそれで腹が立つ。自分でもなんとも面倒な性格をしていると思う。
「そう言えばまた定期健診サボっただろ。今日こそ診るから後で医務室に来るように」
「あー……そう言えばそうだったわね。うん、わかったわ」
「二人とも、藤丸くんが召喚を始めるようだ」
遠くの方で大人三人が、横一列に並んで酷くくだらない話をしているのを耳にしているのかいないのか。藤丸は令呪が刻まれている右手で拳を作り前に突き出し、堅い声色で詠唱を唱え始める。
──「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
藤丸の詠唱に千尋は数年前の出来事を思い出した。
聖杯戦争に敗れ、それに便乗し、斎条家から逃げ出した千尋は定住することなく、各国を転々と巡り一期一会の出会いを繰り返していた。
そんな中ロマニに出会い、ロマニの口利きなのかマリスビリーと会い、カルデアに身を寄せることになった。
その時はロマニがどうして聖杯戦争の勝者と知り合いなのか、と疑問に思ったが、マリスビリーは穴がぽっかりと開いていた千尋の心を読んだかのように、蜜よりも甘い言葉に色をのせたのだ。
──「もう一度、セイバーに会いたくはないか」と。
そんなの、もう一度会いたいに決まっている。千尋はマリスビリーの甘言が罠であることも、嘘であることも全て度外しし首を縦に振った。
──「
閉じよ。
閉じよ。
閉じよ。
閉じよ。
閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ満たされる刻を破却する」
結果として、その時腰に差していた刀が触媒になり千子村正が召喚されてしまったわけだが。
──「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に聖杯の寄るべに従い、人理の轍より応えよ」
あの時ほど心が無に近付いたことはない。蓋を開けなければ答えはわからないまま夢想出来ていたのに、幼い私は箱の中身が気になってついつい開けてしまったのだ。
結果として、猫は死んでいた。たったそれだけ。
世の中にはどうすることも出来ない現象があるんだと身を持って実感した。
きっと、二人の間には運命なんてものは存在していなくて、限りなく薄い血だけが二人を繋いでいただけなんだと。
──「汝、星見の言霊を纏う七天。降し、降し、裁きたまえ、天秤の守り手よ────!」
己の血が触媒になるなんて、そんな傲慢とも呼べる自信は撃ち砕いてしまえ。否、村正を召喚した時に打ち砕かれたのだ。だからこの召喚だって失敗する。最初から期待をしていない千尋は呆れた笑みを浮かべながら、盾の周りに広がる青白い淡い光の線に目を細めた。
「新選組三番隊隊長、斎藤一だ。親愛を込めて一ちゃんとでも呼んでくれ。いや、やっぱだめだ。で、あんたがマスターちゃんてわけね。いい面構えじゃないの。あ、そうそう、僕ってば堅苦しいの苦手だから、そんな感じでよろしく」
召喚出来るわけがない。己の薄い血を過信してはいけない。そのはずだったのに──。
千尋は十年以上前と姿形が何一つとして変わらない斎藤の姿を前に、思考が急ブレーキをかけた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ……嘘だって言ってよ!
再会出来た嬉しさよりも、あの時召喚に応じてくれなかったと責める気持ちよりも、爆発的に千尋の胸の内を掻き乱した感情が一つ。
十年も前に置いて来たはずの淡い胸の鼓動が鮮やかに蘇り、千尋の理性が警報を鳴らし始めた。ダメだ。再会してはダメだ。歩み始めたはずの時間が瞬く間に巻き戻されてしまう。
此処から逃げたい。千尋は隣に立っているロマニの腕を掴んで僅かに引き寄せて背伸びをした。動揺を隠せもしないままロマニの耳元に唇を寄せた。
「ロマニ、ごめん。ちょっと良い?」
「え、どうしたんだい?」
「声が大きいッ!」
「千尋の方が声が大きいと思うけどねぇ。行ってやんなよロマニ」
千尋の異変を察したダ・ヴィンチが小さく肩を震わせながら、手の甲をロマニに向けてひらひらと動かせば、ロマニは納得がいかない表情を浮かべながらも千尋と共に部屋を後にした。
「──で、こっちにいるのが所長代理のドクターロマン……って、あれ? 二人は?」
「ふ、フフっ、あの子が血相を変えてロマニを連れて出て行ったよ」
「何か楽しいことでもあったんですか?」
「いやなに、初恋の話しを詳しく聞いておくべきだったな、と天才がしてやられた気分になっているだけさ」
「うん?」
してやられたと言っておきながらも、眦に涙を浮かべているダ・ヴィンチを前に藤丸とマシュは小首を傾げ、斎藤は他にも誰かいたのか。と暢気に肩を揺らしているダ・ヴィンチをじっと見つめた。何かを探るような視線を受けても動じないどころか、更に笑いが止まらなくなったダ・ヴィンチに藤丸とマシュが困惑している頃、千尋はロマニの手を引いたまま医務室の扉を開け、奥にあるベッドにロマニを押し倒した。
「はぁぁああ?!」
「お願いがあります」
「いやちょっと待ってくれ。なんでボクがキミに押し倒されないといけないんだ!!」
己の肩を上から押さえつける千尋の腕を離そうにも、定期的に刀を振るっている女の腕の筋肉が本領を発揮するのだと心得ているとばかりにビクともしない。男女の性差がこの状況で負けるとはなんとも情けない。やっぱり筋トレをした方が……いや、そんな時間があったら眠りたい。と現状から現実逃避をしていれば、腹部に感じていた重みが増した。
「私と結婚しよう」
「…………はぁぁああ?!」
ロマニの上に馬乗りになっている千尋は、今にも泣きそうな顔をして男の胸に縋りついた。苛烈な仕事環境に置かれている所為で、ロマニの目に印象的だった艶が失われた髪が千尋の耳からだらりと垂れる。
明らかにいつもと違う千尋の様子に、ロマニは眉間に皺を寄せ原因を突き止めようと変わった出来事を思い返せば、藤丸の英霊召喚くらいしかイベントがない。とはいえ、かつて共に戦ったサーヴァントを召喚することに否定的ではなかったはずだ。なのにこの反応。真実と現象が嚙み合わない。
「千尋」
「ダメなの。ダメなの。私、ダメなの、全然だめだった。気持ち、まだ、ずっと、持ってて……昇華、しきれてなかった」
「千尋? なんの話を──」
「一瞬、たったの一瞬なの。なのに、こんなにも胸が痛い。どうして、ロマニ。私、もう、あの頃に戻りたくないよ」
息を乱しながら吐露する言葉尻はいつもよりもずっと幼くて、ロマニは困惑したまま千尋の肩に手を置いた。
「落ち着くんだ」
「──ッ! ごめん……」
動揺し錯乱していた千尋が謝罪の言葉を口にするのと同時に医務室の扉がコンコンと軽い音を鳴らす。二人の間に緊張感が走る中、ついで男の声が「診察をして欲しいんだけど、先生はいますか?」とロマニの在席を訪ねる問いを追撃させる。
こんなベッドの上で組み引かれているところなんて見られた暁には、カルデア内で何をやっているのだと大問題になってしまう。ロマニは一瞬で顔の色を失くし、固まっている千尋の肩を軽く叩いた。
停止していた思考が戻って来た千尋はすぐさまロマニの上から降り、そのまま医務室を後にしようと扉を開け、廊下に立っている男の姿を見ないまま「お疲れ様」と声を掛け小走りで廊下を走り去って行く。一瞬見えた頬を上気させている女の姿を見送った男は医務室の扉に肩を預け中にいるロマニを見据えた。
「所長代理さんが、職務中に何をやってるんですかねぇ」
「キミは……さっき藤丸くんが召喚した……」
「初めまして。どうも僕の孫がお世話になっているようで。──で、なんであの子が泣いてんだ?」
酷く冷えきった鋭い視線を受けたロマニの背中に冷や汗が伝った。
まさかこのサーヴァント、あの聖杯戦争の記憶を持っているんじゃないだろうな。そんな疑問がロマニの喉を小さく鳴らすのだった。
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BAMBI