花笠

 ダメだ。全く仕事が手に着かない。
 職員のシフト調整をしないといけないのに、どうしても思考が違うことを考えてしまう。注意力散漫になってくれた方がまだマシだ。いや、どっちもダメなんだけど。

 深い溜息を吐いた千尋は先日の出来事を思い出していた。
 藤丸の召喚に応じた斎藤一の姿を見ただけで、取り乱し、何も手が付かなくなってしまっている。

 ──違うの。ちゃんと奥深くに仕舞っているの。だから大丈夫なの。

「だってもう何年前の話しだと……。学生時代の話しだよ? そう、これはもう終わった話なの」

 デスクに肘をつけて頭を抱える千尋のは部屋に一人でいることを良いことに、処理しきれない感情と現状を整理するようにブツブツと呟いていた。
 一口も飲んでいないホットコーヒーが、すっかり冷めてアイスコーヒーになってしまっている。飲む気にもなれないコーヒーがたっぷり入っているマグカップを、デスクの向こうに追いやって千尋は額を冷たいデスクにぴったりとくっつけた。
 冷たいデスクに少しは頭を冷やすことが出来るかと思ったが、存外自分の頭はオーバーヒートしているみたいで、考えが纏まることも思考が冴えてゆくこともない。

 斎藤一を一目見たあの瞬間から胸の内側で強固に守っていた、深く深く沈めていた感情を繋ぎとめている鎖が腐っていく。錆びて、ヒビが入って崩れていくのがわかった瞬間、千尋は気が付けばロマニを押し倒していた。
 いっそ誰かのモノになってしまえば鎖は再び結ばれる。そんな安易な考えに走るくらい動揺をしていたのは間違いない。
 そんなことをしたって、どうにもならないことはわかっているのに。

 聖杯戦争の最中、私は一人の人を愛した。
 私の歪みを、歪さを受け入れてくれたたった一人の人。
 共に戦い、共に傷付き、共に笑い、共に歩み、共に夢を抱いた。二人で同じ明日を夢見ていた。
 それは叶わなかったけれど、でも確かにセイバーは私に生きる希望を与えてくれた。逃げ出す勇気を与えてくれた。私に愛を教えてくれた。

 一緒にいたいと本気で願った。二人で同じ明日を迎えて、空を見て綺麗だねって言って笑って、散歩の途中で買い食いして、お腹一杯だって満ち足りて、手を繋いで同じ家に帰って、テレビを見て笑って、おやすみと言って同じベッドで寝るような幸せを一緒に過ごしたかった。
 幼いながらにも、これ以上こんなにも人を好きになることはないのだろうと、こんなにも他人を求めることはないだろうと思った。

「好きだったんだもんー!」

 好きで好きで、大好きで。でも、サーヴァント相手に恋愛感情を抱くのは余りにも無謀で、無意味で、無価値で、愚の骨頂で、浅はかで、未来がない。
 聖杯によって与えられた奇跡の時間。英霊は座に登録されている存在であり、召喚されるのも本体ではなくコピーが来るだけ。召喚後何があったのか、どんな行動をしたのか座に記録されても、本人の記憶に残っているわけではない。
 英霊召喚システムの仕組みを思い出した千尋は、体温が移って同じ温度になっているデスクから額を離して上半身を起こした。

 ──そうだ。あの斎藤一は斎条千尋を覚えているわけがないんだ。

 あの真冬の一か月のことを全く覚えていないんだ。
 その事実に千尋は胸を抑えた。心臓が誰かに握り締められているのではないかと思うほど苦しくて痛い。

 やっぱりサーヴァントを好きになるなんて愚かだ。生きている私は刹那の人に惹かれて、強烈なまでの蜃気楼の影を心の片隅に描いたまま生きていくのに、サーヴァントは仮初の命が尽きれば何事もなかったかのように霞となって消えていく。
 狡い。狡い。本当に狡い。
 確かにあの時間、二人の間には令呪以外の糸が繋がっていたはずなのに。どうしたってその糸は断ち切られてしまう。
 甘い痺れと余韻だけを残して、触れられない、目に見ることも叶わないところに行ってしまうなんて、本当に狡い。

「どうして、私とあの斎藤一の間には何もないんだろう……」

 同じ顔、同じ背丈、同じ服装、同じ声、同じ口調。記憶の中の斎藤を何一つとして違わないのに、どうしてあの斎藤一は自分が知っている斎藤一じゃないんだろう。

 ホットコーヒーからアイスコーヒーに転じたコーヒーがたっぷり入っているマグカップを手に取って勢いよく煽った。
 大きく喉を上下に動かして、苦い液体を一気に胃の中に流し込んだ。胸の内側に広がる痛みも一緒に流し込めたらいいのに。そんな願いは虚しく、空になったマグカップを持つ手に、温かさの残る透明な雫が落ちた。

「だめだ。村正のところに行こう」

 一緒にお茶を飲んで心を落ち着かせよう。そうしたら、あの斎藤一と“初めまして”が出来るはずだから。
 濡れている目尻を服の袖で拭って部屋を出ようと、向きを変えれば一人でに扉が開いた。

「マスターどっか出掛けるのか?」
「村正! 丁度村正に会いに行こうとしてたところだったのよ」
「そいつァタイミング良かったってもんだ。儂になんの用だ?」

 扉を開けっぱなしにした状態で立つ村正に近付いた千尋は、眉尻を下げて口の端を緩く上げる。村正がもう数え切れない程見て来た、困っている時の表情だ。

「うーん、ちょっと休憩しにお茶でも飲もうかなって」
「儂の鍛冶工房は茶屋じゃねえぞ。けどまあ、お前さんが自主的に休憩なんて、今日は天気が荒れるんじゃねえのか」
「基本的に荒れてるけどね」

 空になったマグカップを持ったまま村正の手を取った千尋は、村正の鍛冶工房に向けて歩みを進めた。最近和菓子が恋しいと言えば、村正は羊羹でも作って貰えばいいと言う。続けて「けどお前さん、食ったら食ったでダイエットがぁ。とか何とかって喚くだろうが」と軽口を叩く。
 もう六年にもなる付き合いに、千尋はすっかり忘れてしまっていたのだ。サーヴァントという存在の儚さを。

 いつか隣を歩く村正だって人理修復という目標が達成されれば、カルデアから退去してしまう。そうしたら二度と、村正を召喚することなんてないのだろう。そう何度も人類史が滅亡する未来なんて訪れたりはしないのだから。

「浮かない顔だな」
「……ちょっと、ね。この戦いが終わったら、どうなっちゃうのかなって」
「どうってのは?」
「カルデアにサーヴァントは必要なくなるわけじゃない? そうなったら、村正のいなくなっちゃうのかなって」

 ──寂しいな。

 零した本音は静かすぎる廊下に千尋の声はよく響く。
 村正の手を掴んでいる小さな手に力が入り、何を考えているのかと、内心で首を傾げると同時に、前に進む足を止めた千尋に合わせて村正も足を止めた。何か言おうと唇を動かした瞬間。千尋が背を向けている扉が勢いよく開く。

「話は聞かせてもらったよ!」
「──! ダ・ヴィンチちゃん?!」
「とてもいい反応だ。ありがとう千尋。天才は驚かれてなんぼだからね」

 満足気に口角を上げるダ・ヴィンチは、目を見開いている二人を見て更に笑みを深めると、右足を半歩後ろに下げ、二人から扉の向こうに広がる工房を見せつけ、右手を部屋の中に向けて伸ばした。言葉にしなくとも、工房の中に入るように言われているのだと察した二人は、一瞬互いに目を合わせて頷けば、千尋が最初にダ・ヴィンチの工房に足を踏み入れた。

「ようこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房へ。存分に見て驚いてくれたまえ」
「何か用があって招いてくれたわけではないのかしら?」
「なに、場を和ませることくらい私だってしてみせるさ。もっとも、千尋にとってそれは不要だったみたいだけどね」
「今更あんたらの関係で場を和ませる必要なんてねぇだろ」
「それもそうだね」

 小さく肩を揺らして笑ってみせた千尋は近くにあった一人掛けの椅子に腰をかけた。その後ろに村正が立ち、物珍しそうな顔をして工房の中を見るも、何かを手に取って観察するようなことはしない。職人は自分が愛情を込めて作った作品を、気安く触って欲しくないことを知っているからだ。試作品ならなおのこと。村正の目にどれが試作品でどれが完成品なのかもわからない。有り体にいえば、分野があまりにも違い過ぎて全てがガラクタにも見えてしまうのだ。

「それじゃあ本題に入ろう。さっき君たちが話していた話題にも近いんだけどね。今私とホームズでとある議論を元に秘密裏に動いている計画があるんだ」
「それは、ロマニも知っていること?」
「勿論。このカルデアで指揮を執っているのは彼だからね」
「続けて頂戴」

 ダ・ヴィンチとホームズが聖杯探索をしている裏で何かをしていることなんて、初めて知った千尋は驚きはしたものの、計画者の二人はそういう暗躍じみた行動がとても似合うな、なんて場にそぐわない感想を抱いていれば、ダ・ヴィンチは呆れたように肩を窄めた。

「全く、キミときたら仲間外れにされていることに拗ねもしないで、真っ先にロマニが認知しているかどうかを聞くなんて。流石所長代理補佐、とでも言っておくべきだね。その仕事熱心さには天晴だ」
「そう? ロマニが知っていて私が知らないことはあっても良いけど、私が知っていてロマニが知らないような大事は、ないに越したことがないでしょう。社会人の基本よ。報連相って」
「君は真面目だね。──話を戻そう」

 ダ・ヴィンチ曰、ホームズが一つの疑問を抱いたそうだ。
 ──人理修復が終わった後には、本当に平和が訪れるのか。次なる問題が起こるのではないだろうか。シバにも観測されていない、ただ、名探偵の勘がそう告げている。
 そのホームズの一言でダ・ヴィンチと共に動き出したらしい。
 今は本当にそんな未来がやって来るのか。それを判断するにも材料が足りない。判断が出来ない状況で備えるしかないのなら、何が起こっても大丈夫なように最善の備えをしないといけない。何が最善で、どんな状況が最悪なのか。

 それで廊下での話に繋がるわけか。と千尋が頷く後ろで村正が小首を傾げた。

「起こるかわからんものに備えるってぇのは、ちと殊勝過ぎやしないか? 最悪の事態って言うのも曖昧過ぎだろ」
「まぁ、村正の言い分もわかる。最悪という定義は幾つもあるうえにその全てが人の主観に関わるものだ。現にシバが観測した未来は、人類にとって最悪の事態だが、広い目で、宇宙規模にしてみれば騒ぐような事態ではない。仮に地球が爆破するとしても日常茶飯事の出来事と言えるだろうね」
「話のスケールが大きくなったなぁ」
「宇宙とまで来るか……儂にはさっぱりだ」
「ダ・ヴィンチちゃんはこう言いたいんでしょう? “最悪の事態、可能性として救った先に未来がないことだってあるんじゃないのか”って」

 長針と短針が重なり、振り子時計が時間を知らせる音が張りつめた空間に響いた。
 可能性としては限りなくゼロに近い。シバはそんな未来を観測していないし、最悪の事態が起こるかも知れないという根拠だってホームズの勘でしかない。ただ、それでも起こるというのであれば、救った未来に先がないことが一番の最悪の事態だろう。
 確信を持つ千尋の目を真っ直ぐに見据えるダ・ヴィンチは、息を吐くと、工房の中にある何かの装置のようなものを一瞥した。

「ご名答。流石代理補佐、その為には現状の維持が欠かせない」
「個人的に考える最悪の場合は、この施設を乗っ取られること、だけどね」
「それも視野に入っているとも。この施設は力を持ち過ぎたからね」
「未来を観測するなんてことは業でもあり奇跡に近い。アニムスフィア家が代々秘匿して来たけれど、もうロードたる当主はいない中、カルデアだけが機関として残ってしまっている。こんなおいしい玩具を時計塔の人間が見逃す筈がないもの」

 この施設の中には沢山のサーヴァントがいる。それが丸ごと手に入るのなら大枚を叩いてでもこの機関を買い取るでしょね。
 肩を竦ませながら語る千尋を前に村正は、自分のマスターが魔術師だったことを思い出していた。村正の印象はどうしたって世話のかかる女でしかない。

「そこで協力して欲しいことがある」
「……私に対してそう言うってことは、本命は村正にあるってことでしょ。本人に聞けばいいじゃない」
「そこはホラ、一応マスターの許可が必要だろう」
「だとよマスター。儂をどうしたい?」
「どうって……悪いことをしないのであればご自由に」
「そう来なくっちゃ!」

 曰、ダ・ヴィンチの姿はレオナルド・ダ・ヴィンチが思い描く理想の女性像らしい。貞淑でミステリアスで謎の多き作品として今もなお、人々を魅了し続けているモナ・リザの姿をしているダ・ヴィンチ。
 理想の女性美は外側だけの話しであり、中身は意外と自由奔放な所がある。今だって千尋たちの前で口の端を上げ、にんまりと笑みを浮かべている。

 ──きっともう、あの額縁の中で息をしている“モナ・リザ”を見ても、満足しないのだろうと、千尋は不意にフランスで目にした彼女を思い浮かべた。

 

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