人通りの話しが終わった頃、ダ・ヴィンチは唐突に「それで?」と話を促した。
何の話か全く見当のつかない千尋と村正が小首を傾げてダ・ヴィンチを見つめれば、肩を竦ませて眉間に小さく皺を作り眉尻を下げた。
「初恋の彼とはどうなったんだい?」
「ダ・ヴィンチちゃんってこういう話題に興味あったんだ」
「あるとも! 女性が一番輝く時はいつだと思う? 恋を自覚した瞬間なのさ。そうして美しくあろう努力をする。努力は実になり芳醇な果実となる。素晴らしいことじゃないか」
「……この話題、儂がいてもいいもんなのか……」
意外そうに瞬きを繰り返す千尋の後ろで村正が薄く頬を紅色に染め、指先で頬を掻いた。普段平然と千尋の意識を手刀で奪う素振りをしておきながら、この場に居たたまれなさを感じているのは依り代になった青年が関係しているのかも知れない、と背後に控えている村正に目を向けた千尋は、力の入っていない笑みを浮かべ「気にしないで」と言った。
「特に聞かれて困る話も出て来ないから。──というか、よく斎藤一が私の初恋ってわかったわね。ちょっとおかしいんじゃないの」
「初恋の彼が誰かは知らなかったとも。藤丸くんが召喚した後の反応がわかり易く動揺いていたから、何かあるだろうって踏んだわけだ。まさか本当に初恋だなんて思っていなかったとも」
「つまり私は今、自爆したわけね。はいはい」
そう言われればそうだ。誰にも──ロマニ以外にあの冬木で起こった聖杯戦争に斎藤一と一緒に参加していたなんて知っている人はいない。知っている人間は皆死んでしまった。しかもロマニにだって自分が召喚したセイバーが初恋なんて言ってはいない。お酒の席でだって誰にも言ったことがないのにも関わらず、ダ・ヴィンチが知っているわけがない。少し考えたらわかることを気付けなかった。相当疲れているらしい、と眉間を指の節で解せば、正面にいるダ・ヴィンチがカラカラと笑った。
「初恋がなんだってんだ? お前さんあの医者と
夫婦になんだろ? 行き遅れたもの同士」
「行き遅れてないから。まだまだいけるから。寧ろこれからが本番だから」
「無理すんなよ……」
「無理してない」
唇を尖らせる千尋を見れば誰しもが無理をしていると思うだろう。実際カルデアでは恋色沙汰に発展することは殆どない上に、施設の外に出られないのだから出会いもない。結婚願望がそこまであるわけでもないが、時間制限がある以上、人並の女性としての幸せは手に入れたい、味わってみたいという願望がある千尋は、目に見える形でそれを欲しがったが故に結婚したいと思っていた。
今はとてもじゃないがそんなことを言える場合ではないが。
「ロマニとキミが結婚ねぇ……フハっ! 失礼、あまりにも面白過ぎて」
「お酒の席での口約束よ。私が三十になるまでに相手がいなかったらロマニと結婚。今更あの男を異性として見れないけど、まぁいいかなって」
「そんな結婚でいいのか?」
「いいわよ。別に。今すぐにしたって良いくらいよ。こっちは」
腕を組んでフンと息を鳴らす千尋は村正からの視線から逃げるように目を瞑った。
わかっている。お互いに愛情のない結婚がどれだけ虚しいかも。理解しているつもりだ。それでも千尋にとってもう一度斎藤一に恋をするよりはずっと幸せな選択にしか思えなかった。辛い選択はしない。子供の頃ならきっと苦しいとわかっていても自分の感情に従って素直に行動出来たけど、大人になって逃げることで得られる心のゆとりを知ってしまった。甘やかして、なかったことにして、蓋をして二度と開かないように鎖で巻き付ける。何とも簡単な作業だ。小さな罪悪感をやり過ごしていれば安寧を手に入れることが出来る。そうしていつの間にか痛めつける選択肢から逃げる癖が付いていた。恐怖を覚えるようになっていた。
「男と女なんて簡単に関係が崩れるものだよ。簡単な話、寝てしまえば自然と意識するもんさ」
「……えー……ロマニと? 婚前交渉? あり得なくない? ねぇ村正」
昔ながらの考えを持つ村正に何か一言ダ・ヴィンチに向かって言ってもらおうと、振り返れば、なんてことない顔をした昔気質の男は顎に指を当てながら言った。
「夫婦になるんてんなら、別に今懇ろの関係になろうが構わねぇだろ」
「さっきまで恥じらっていた村正は何処に行ってしまったの……?」
「お前さんがいても良いって言ったんだろうが」
「そらおじいちゃんの許可も出たし、此処は一発決めてみるのもいいんじゃないかな」
「ダ・ヴィンチちゃんは面白がっているだけでしょ。私はもう行きます」
これ以上此処にいても揶揄われるだけだと判断した千尋は立ち上がり、部屋の扉に向かって足を前に踏み出した。すると直ぐ後ろで「ごめんごめん」と謝罪半分の言葉が背中に飛んでくる。流石に無視することも出来ない千尋は、振り返りダ・ヴィンチを見つめれば、腕を組んだ理想の女性像をしている彼が眉尻を下げ形の良い唇を動かした。
「でも真剣な話、サーヴァント相手に生身の人間が恋愛感情を抱くなんてナンセンスだ。終わりのある物語の中なら兎も角、千尋、君はまだ生きていて、明日も呼吸をする。でも彼は違う。私たちは違う。既に呼吸を止めた生きた亡霊のような存在だ。例え血が滴ろうとも、そこにただ一つの命はないんだ。だったら生きている人間と結ばれた方が良い。ロマニに限らずね。でもキミがロマニを否定する理由は、斎藤一をまだ想っているからだろう」
耳が痛い。千尋はダ・ヴィンチの話しに自傷的な笑みを浮かべた。
そうだ。ロマニに非があるわけじゃない。寧ろパートナーとしてやっていくならこれ以上ない人間だろう。お互いのことを良くも悪くも知っている上に受け入れているのだから。それこそ酒の席での約束を覚えているかと聞いてしまうくらいには気に入っている。それでも千尋がロマニを受け入れたがらない理由は一つしかない。
蓋をして縛り付けていた恋心が形となって現れたからに他はない。
人生をかけた戦いの中で人生をかけた恋をした。生まれてまだ十七しか経っていない小娘の全てをかけた愛だった。
忘れたくても忘れることが出来なくて、忘れたくても忘れることが怖くて。ずっとずっと奥底に思いでを閉じ込めて胸の奥深くに沈めていた。
「想って、ないよ。想っていたのならあの日々を思い返しては慈しんでいると思う。でも私はなかったことにしたくて、心の奥底に沈めて安心してたの。もうこれで傷つかないって。ね? 好きな人との思い出に向ける感情じゃないでしょう」
これ以上、心の柔らかいところをぐちゃぐちゃに乱されたくない。誰も掻き乱さないで。触れて来ないで。探さないで。何も存在してなかったかのようにしたくて千尋はそっと水面にまで上がって来た過去の感情に鉛を括りつけた。ゆっくりと痛みもなく沈んで行けば、いつの日か笑い話に出来る筈だからと信じて。
──それが最善だと信じて。
それなのに──。
「それは千尋が大事にしている証拠だろ。お前さんは大事にしているから沈めて誰にも触れられないように、一人占め出来るようにしたんだろうよ」
「私も村正の意見に同意だね。千尋は千尋のやり方で大事にしているだけだ。そのやり方に間違いなんてない。誰がどう言おうと、ね。だからこそ苦しくて、痛くて、悲しくて、泣きたくて、悩んで、藻掻いて、それすらも幸せだと思うのだろう」
──そうか、私は、この気持ちを、セイバーと過ごした短い冬の記憶を大事にしていたんだ。
あまりにも簡単で当たり前のことに気が付けなかった。そうだ。私は誰にも、きっとセイバーにも私の気持ちに触れて欲しくなかったんだ。誰にも、セイバーにも見せたくない私にとって大切な日々と、時間の中で育てた恋情。
それはなかったことになんて出来ないわけだ。忘れることが出来ないわけだ。だってこんなにも頑丈に守っていたんだもん。自分ですら守っていることを忘れてしまうくらい奥底に。
でも、その気持ちを再び思い出させてくれたのは、紛れもなく“斎藤一”なんだと思うと、やっぱり心臓が痛む。
千尋は魔術刻印が刻まれている部分を強く握った。服に細かい皺が幾つも作られるも、全く気にしないで痛む胸を抑え付ける。
「──うん。私はきっとあの人に与えられる喜びも、痛みも、苦しみも全て幸せだと思うんだよ。だから、離れたいんだよ。この感情を抱くには、あまりにも相手が儚いから」
「確かに不毛だ。けど、だからと言って間違いなわけじゃないだろうさ。人ってもんは不思議なもんで、強烈な光を見ると追いたくなっちまうもんなんだ。儂が最高の一刀を追いかけたようにな」
「私は美というモノに生涯を捧げたさ。彼女ないし彼は最期まで振り向いてくれなかったけどね。求めたって良い。千尋がどんな選択をしたって良い。でも後悔はして欲しくないんだ。友人としてね」
サーヴァントと友人関係を築いたところで意味はきっとない。でも、それでも友情はいつの間にか存在している。それを拒むことはしない。だって今、この瞬間だけは生きているのだから。だから互いに心配したり、笑い合ったりするのだろう。その関係に不毛や愚かなんて言葉は余りにも無粋だ。
「ありがとう。二人とも」
今度こそ笑ってダ・ヴィンチの工房を後にした千尋は、目的もなくだだっ広い廊下を村正を隣に連れて歩いていれば、緩いカーブの先から聞こえる二つの足音に村正が一瞬意識を千尋から正面に移した。同じような足音だが、微妙に音にずれがある。そのうちの一つはもう片方に比べれば僅かに軽い。若い男と、体格が良い男の組み合わせだろう。
「村正?」
「いや、なんでもねえよ」
どこを見ているのかと村正の視線の先を見つめれば、白い服を着た若い男の姿が見える。このカルデアで若い男と言えば真っ先に藤丸の顔が思い浮かぶ。
誰か隣にいるようだ。と一瞬小首を傾げて歩みを進めれば、誰かと話しているその視線が千尋に移った。青い瞳とぴったりと目が合った瞬間、藤丸は笑みを浮かべて右手を上げた。
「千尋さーん!」
「そんなに大声出さなくても聞こえてるわよ。どうしたの?」
「新しく召喚したサーヴァントがいるんです」
壁が影になり藤丸の隣にいるサーヴァントがいまいち見えていなかった千尋は、また新しく誰かを召喚したのだろうか。と急ぎ足で藤丸に駆けよれば陰で見えなかった人が見え始める。
あ、ダメだ。まだ、駄目だ。
まだ出会ってはダメだ。そう思うのに視界に入る在りし日の姿は苛烈なまでに千尋の視界を奪っていく。
「紹介するねっていうか、千尋さんは二度目ましてだと思うけど、斎藤一ちゃんです」
「二度目ましてって、あんたあの場にいたのか」
「ええ。初めまして。カルデア所長代理補佐の藤田千尋です。人理修復までの間、どうぞよろしくお願いします」
「よろしくねー。で、隣にいる武人は? どちらさん?」
「千尋のサーヴァント、千子村正だ」
「千子村正ってあの?! 一胴七度とか村正御大小とか打ったあの?!」
「おう。坊主よく知ってんなァ」
「いやいや、俺らからしてみれば有名も有名ですって。マジか……そういうこともあるのか」
珍しくテンションの高い斎藤を前に千尋は驚きはしたものの、この斎藤は自分が知っている斎藤とは違うんだということを思い出し、そっと息を吐いた。予想よりも再会があまりにも早かったが、生きていく知恵の一つとして身に着けた平常心をフル稼働させた千尋は、藤丸に断りを入れる。
「ごめんね、私たちちょっと急いでいて」
「そうなの?! すみません、引き留めちゃって」
「気にしないで。斎藤一さんもまた今度。──行こう村正」
どこにも行く用事なんてないのは村正にはバレている。が、一々そんなことを口に出すような性格でもない村正は、盛り上がっている会話を断ち切った。流れるように斎藤からの視線を受けた千尋は頑なに男を見ようとせず、何も知らない藤丸は「次は誰に挨拶しようか」と斎藤に語り掛けている。
「それじゃ、オレたちも行くね。ありがとう千尋さん」
そう言って千尋の横を通り過ぎる藤丸の後に続く斎藤。刹那の出来事だった。
その一瞬、花弁が地面に落ちるよりも刹那の間に千尋は賭けに出た。
もしあの時と同じように呼びかけて、あの斎藤一が反応しなければ、この恋心とは完全にさようならをしよう。そうして新しい人生を歩むんだ。今までとは全く違う。
でも、セイバーが振り返らなかったから……? 私とは何も関係のない斎藤一だったら?
それでも千尋は止まれなかった。
秒針が戻らないように、千尋は前に進むしか道は残されていない。
「──セイバー」
振り返った千尋と斎藤の間には歩幅五つ分の距離があった。もしかしたら聞こえていないかもしれない。それでも、それでも少しでもあの時と同じような反応をしてくれたら──。
黒い男は振り返りゆっくりと目を細めて弧を描いた。
「なあに? 泣き虫の千尋ちゃん」
──この斎藤一は間違いなく、私が召喚した時と同じ斎藤一だ。
だって、私が泣き虫だって知っているのは、この世界でただ一人、私が愛した彼だけだから。
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BAMBI