御室有明

「あ、丁度いい所に。立香、マシュ、お願いがあるんだけどいいかな」
「どうかしたの?」
「何かお困りなことでもありましたか?」

 偶々廊下で通りかかった藤丸とマシュを呼び止めた千尋は、右手に持っているタブレットを操作し線グラフが描かれている画面を二人に見せながら、眉間に小さな皺を作りながら眉尻を下げる。小首を傾げた二人が差し出されたタブレットの画面を覗き込むと、グラフの縦軸には精肉、鮮魚、卵、葉物野菜、根菜、小麦、米……等の項目があり、その横には数字が下から上に向かって数字が大きくなっている。横軸はここ一週間の日付が書かれていて、大体の項目で在庫が高水準なのに対し、所謂主菜と呼ばれる食品が地べたを這っている。

「これは……」
「えー……」
「二人の言いたいことはわかるわ。そこで、お願いなんだけど、ちょっとレイシフトしてこの辺の食料を取って来てくれないかしら」

 タブレットを腋に抱えた千尋が小首を傾げると、藤丸とマシュがお互いに顔を見合わせて一度頷き、口の端をあげた。
 いつも忙しく動き回る千尋の役に少しでも立てるのであれば喜んで。そんな副音声まで聞こえてきそうな笑みに、レイシフト初日の面影はもう何処にもないのだと、まだ一年も経っていないあの日々が随分遠くに思え、千尋は内心で藤丸に謝った。

 レイシフト適性が高いというだけで、大役を一人の肩に背負わせてしまっている。
 まだ若いのに。

 そんな千尋の罪悪感を知りもしない藤丸が、任務は何時開始なのかと首を傾げたところでハッと意識を若い二人に戻した。

「そうね。お昼過ぎに管制室に来て頂戴。そこでブリーティングをしましょう」

 腕時計を見た千尋は藤丸たちの都合が響かないように、余裕を持った時間設定にしたのだが、いまいち藤丸には伝わらなかったようで、「今すぐじゃなくても大丈夫なんですか?」と小首を傾げる。十分な休憩を取って欲しいという配慮すら響かないこの反応は、何処となく社会の闇に飲まれた新社会人を連想させ、千尋は徐に胸を抑えた。

 罪悪感が酷いッ!

「千尋さん?!」
「どうされましたか? どこか具合でも?!」
「……気にしないで。それよりも二人は十分に休息をとってから管制室に来るように。返事は?」

 学校の先生を彷彿とさせる口振りで人差し指を立てる千尋を前に、まだまだ学生と呼ばれる年齢の二人が、声を揃えて「はいっ」と元気な返事をした。






「──ってことがあったんだけど、私の罪悪感が限界を突破しそう」

 深い溜息と共に千尋は腕をデスクの上に伸ばして、そのまま上半身も倒した。
 湯気の立つコーヒーが入っているマグカップをロマニが即座に退かさなかったら、マグカップを手で倒していただろう。
 診察の時間だと怒りの通信を聞いた千尋が、のんびりとした足取りで向かった先の医務室の扉を開けた途端に零す溜息を前に、ロマニが無言でコーヒーを淹れ、診察をする前に千尋は十分前の藤丸たちとの会話をロマニに聞かせれば、ロマニも千尋と似た反応を見せた。
 話の中心人物がいない分、千尋よりも露骨に顔を顰めている。

「その点を言えば、ボクだって限界値を突破しそうだよ。日々のカウンセリングでバイタル、メンタル共に正常値だけど、どうしても若い彼らを見てると、大人のボクたちの無力さが歯痒いというか、情けないというか……」
「私にレイシフト適性さえあれば、こんなことにはならなかっただろうに。と思わない日はないわ」

 試運転段階だったとはいえ、サーヴァントすら召喚しているにも関わらず、レイシフト適性が低い為に特異点に赴くことが出来ないなんて。なんて情けなくて、なんて非力なのだろうか。罪悪感ばかりが募っていって清算出来そうにない。人理修復をし終えたらこの罪悪感からも解放されるのだろうか。そんな気持ちを抱いた瞬間に千尋は己の逃げ癖に辟易した。

「ボクたちに出来るのは、少しでも彼らの負担を減らしてあげることだけだ」
「そうね。せめて、カルデアにいる時くらいは、憂いから解放されて欲しいわ」
「お互いに頑張らないと、だね」

 頑張る。なんとも抽象的で曖昧なものだろうか。何をどう頑張ったら彼らの負担を減らすことが出来るのだろうか。特異点に行く度に身体を張って、出来事に心を痛めて──。
 これが心を自衛する術を持っている大人なら兎も角、多感な時期の子どもにどんな影響を及ぼすのだろうか。と考えるだけで眩暈がする。

「ロマニ……具合が悪い」
「キミが体調不良を自覚するなんてよっぽどのことだぞ。先ずはバイタルデータを取らせてくれると嬉しい」
「そういう意味での具合の悪さじゃないんだけど、まぁいいか」

 どうせこのあと検査が始まるのだからどっち道やることは変わりない。
 定期的に行われるが故に千尋もロマニも無言のまま作業を進めていく。血液を採った後は医務室に備え付けてあるベッドに横たわり制服の胸元を寛がせる。下着が見るくらい肌を露出させるも、診察と割り切っている二人には恥しさも照れくささもない。そうでなくては診察は進まないのだから。
 ダ・ヴィンチが言うところの男女は寝てしまえば変わる、なんて発言をふと思い浮かべた千尋は、真剣な眼差しで胸元に咲いている刻印を見つめているロマニを見つめ、やっぱりこの男と行為を致すことはないな、と切り捨てた。
 白い手袋越のロマニの指先が千尋の胸の上を滑る。刻まれている刻印が白い肌の表面に浮かび上がって発光する。じりじりと焼ける痛みに千尋が顔を顰めている横で、ロマニがタブレットにペンを走らせながら口を開いた。

「顔、顰めなくなったね」
「それ、いつの話をしてるわけ?」
「初めて刻印を診察するってなった時、このベッドに横たわるのを嫌がっていただろう」
「いい記憶なんてないわよ。こと刻印に関しては」

 もうあの時間の痛みも苦しみも絶望も深くは思い出せないけれど、それでも、毛が逆立つ不快感だけは今も残っている。
 叫び泣いて、吐血して、助けを求めたあの遠い日々は憎むべき思い出として残っていながらも、力を与えてくれたと考えれば、必要な痛みだったのだと楽観的な思考が囁いている。
 喉元過ぎればなんとやら。だからあの人たちも他人の子どもに対して無理を敷いたのだろう。
 ……他人の子だったから出来たことなのかもしれない。

 ──いや、魔術師にそんな思考を邪推するのは賢いことではないか。

「ねぇ、思い出と記憶の違いってなんだと思う?」
「なんだい、藪から棒に」
「思い出と記憶って同じようで全く違うじゃない。そこの境界線ってなんなのかなって」

 ロマニの指先が肌に刻まれた刻印をなぞる動きを一度止め、「ふむ」と小さく呟けば、近くのデスクにタブレットを置いて、人差し指の背を顎に当て僅かに上を向きながら首を小さく傾げた。

「記憶は忘れず覚えていること、思い出は過去のことを思い浮かべること……と説明するのは簡単だけど、そうだね。確かにこの二つのラインは曖昧だと思う」
「記憶が思い出に変わる時っていつなのかしら」

 この記憶が思い出に変わってくれるのはいつなのだろうか。
 いつになったら私は、斎条家から本当の意味で解放されるのだろうか。植え付けられた記憶は一生付き纏って幻覚痛を与えるのだろうか。

「個人の選択の範囲を越えていると思うけど。そうだな、ボクは慈しめたら記憶は思い出に変わるんじゃないかと思うよ」
「慈しむ?」

 開けた胸元を隠す素振りを全く見せない千尋は、ベッドに横たわったまま椅子に座ったロマニを見上げれば、エメラルドの瞳が一瞬宙を彷徨い力を抜いて口元を緩めた。

「そう、どんな過去も受け入れられたその瞬間が記憶が思い出に変わるんだと思う。美しい過去を振り返り、まだ知らない明日を迎えての繰り返しだ。その中でどうやって生きるのかが重要なんじゃないかな」
「そんなに広い心を持てそうにない場合はどうしたらいいのかしら」
「何かを払拭する強烈な出来事はなくとも、何気ない点が壮大な線を描くことだってある。ボクたちは日々の積み重なりの上で生きているんだ。それさえ忘れなければ、いつか自分が自分を救ってくれるさ」
「そう、かな。そうだといいわね」

 受け入れたくない記憶は今も脳裏に深く根付いている。でも確かにその記憶は鮮明なものではなくなっている。時間が解決してくれたのか、ロマニが言うように今の私が過去の私を救っているのか。もし正解を選べるのだとしたら、私はロマニが言ったことを信じたい。
 だって、もしそれが本当なら、私は私を少しでも認めて心臓の痛みすら愛せるもの。

 鉛の重たさを感じていた腹の奥が、すっと軽くなった千尋が診察は終わったとばかりに服を正していく横で、タブレットの情報を見つめているロマニが険しい表情を浮かべている。

「そんなに悪い結果だったの?」
「あまり良いものでは……うん、ないね。着々と千尋の身体を刻印が蝕んで行っている」
「そう。なら変わりないってことね」

 所詮この刻印の目的は次なる斎条の後継者が現れるまでの繋ぎ、故に千尋の役割は胎盤なのだ。斎条の傍系と結ばれ子を成し、刻印を移植させる。それが終われば用なしと捨てられるだけ。斎条の血が一滴も混ざっていない斎条家が代々受け継ぎ継ぎ足して来た刻印は、女の身体に毒でいかない。毒はゆっくりとじんわりと生まれ持った魔術回路に融け込み命を蝕んでいく。旅をしてる時からふと、魔術が使いにくいことに気が付いた千尋は、仮説を立てそれを裏付けたのはロマニだった。
 一年に一本の魔術回路が駄目になっていると知ったロマニが、対抗策として千尋に魔術回路を増やすように提言してからは、ルーン魔術の調子もよくなりキャスターのクー・フーリンに原初のルーン魔術を教わっている。

「現状維持が少しでも出来ていればいいのよ。どうせ、失われた時間は戻らないのだし」
「それ、ボクの前で言っちゃう?」
「医者だからこそ割り切らないとだめじゃない。しっかりなさい」

 医者であるロマニの前で自分の残っている短い時間を嘆きもしない患者を前にロマニの眉尻が下がる。長生きしようともしない態度に内心怒っているのを千尋はわかっている。わかっていることを知っていながら諦めの姿勢を見せているのだ。
 あの約束をした時千尋は目を伏せて呟いたのを今でもロマニは覚えている。

 ──斎条から一番大切なものを奪った業を背負ったまま死にたいな。
 ──もしこの世で一番好きだと思える人と結ばれて、その人のとの間に子供が欲しいって思ってしまう前に。

 子供を望んだっていいじゃないか。刻印さえ受け継がなければそれでいいじゃないか。そう考えることすら許されない仕来りが魔術師──時計塔の中に存在しているのだろう。藤田千尋という人間は魔術師として生きることを決意し、このカルデアで職員兼マスターとして人理の安全を保つ業務を従事している。

「ボクはキミの選択を否定しなけど、ボクがキミの諦めを快く思っていないことをちゃんと覚えておいて欲しい」
「わかっているわ。でもそっちだって覚えていなさいよ。私が延命を望んでいないことを」
「ボクは忘れやすいから約束は出来ないな」
「じゃあ私も忘れっぽいから覚えられないわ」
「キミは小さいことも覚えているだろう。何年も前の話をたまに蒸し返すじゃないか」

 白々しいと見つめるロマニの視線を受けた千尋は、目を細めて口の端を上げた。
 医務室に女の笑い声が響き、扉の前を通りかかった藤丸とマシュが立ち止まり小首を傾げつつ、微かに耳に入る慣れ親しんだ女の声に二人は顔を合わせて目元を緩めて歩き出した。

 

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