斎藤の腕の中で寝息を立てている千尋は歳の割に幼い顔つきをしている。顔にかかる髪を耳に掛ければ、ふるりと長い睫毛が震えるも起きることはない。
千尋は決して気配に疎いわけではない。寧ろ経験上周りの気配には敏感な部類だ。誰かが近くに立っていたり動いたりするだけで軽く起きるような眠り方をしているのだが、こと斎藤の腕の中は話が変わってくる。千尋はあの聖杯戦争の出来事から斎藤のことは完全に信頼している為、そもそも警戒なんてことはしない。故に斎藤が千尋に触れても目を覚ますなんてことはしないのだ。
それは信頼であり、斎藤を縛る鎖であった。
自分に好意を抱いている女を抱くほど簡単なことはない。生前から遊びには目がなかった斎藤にとって千尋という存在は、女であり癌だ。
正直手を出そうと思えばいつでも出せる状況にある。現状、千尋を心の底から好いているのかと、マスターに問われれば目を逸らしてしまうが、囲うことには何の躊躇もない。寧ろ目の届く範囲にいてもらった方が息がしやすいまである。が、それと同時に斎藤の中で千尋という存在はあまりにも近すぎた。
自分の玄孫を抱くのと赤の他人を抱くのとでは話が変わってくる。
斎藤はそこまで見境なしに遊んでいたわけではない。良識の範囲にやっていたことだが、千尋の好意はその範囲から越えている気すら覚える。
「…………答えが欲しいってわけじゃないのが、また難儀なんだよなぁ」
好きだと眼が言っている。と言えばマスターはなんて言うのだろうか。斎藤の頭の中の藤丸は眉尻を下げて笑みを浮かべて「千尋さんに限ってそれはないよ」と言った。
斎藤に身体を預けて深い眠りに落ちている女の外面はどうにも分厚いようで、大半のカルデアスタッフと斎藤の認識と大分ズレがある。
十年以上の月日があの少女を大人に変えたらしいなんて思っていたのも束の間。少女は見せかけを繕うのが上手になっていただけらしい、と気が付くまで時間はかからなかった。
「今でも何を考えているのかがわかっちまうくらいだもんなぁ。大体僕を見る時、目の色が変わり過ぎでしょ。自覚があるんだかないんだか」
同じ部屋の中に他人がいればカルデア所長代理補佐藤田千尋の顔をするが、二人きりになると途端に斎条千尋の顔をするのだから狡いとしか言いようがない。無自覚に変えているのが質が悪い。
千尋の唇が今にもその想いを言葉にしそうなほどなのに、未だに音して伝えて来ないのが不思議なくらいではあるが、わざわざ言葉にする必要もないか。
斎藤が生きていた日々はいつ死ぬかわからないような時代だったが故に言葉で伝えなくてはいけない場面もあったが、この時代ではそういうことも必要ないのだろう。全てを話さなくとも通じるという、時間は無限にあると思っているが故の怠慢とも呼べる曖昧な関係性。
その考え方を否定するわけではない。斎藤自身曖昧な関係性のまま遊んだ女だっている。大半が金で買っていたというだけの話しだ。歳を取れば己の胸の内を言葉にし怯える恐怖だってわかる。
「なんで臆病になっちまうのか」
向こうの気持ちがどうかなんて口付けをすればわかりそうなもんだが、これでもし拒まれた場合、今でいうセクハラに当たるわけで、しかも自分の子孫に手を出した英霊なんていう要らない称号までもらう羽目になる。そうならないようにするには千尋から手を伸ばしてもらわないといけないのだが、この女、何も望んでいないのか、男女の繋がりを知らないのか行動に起こす気配がない。この歳で男を知らないなんてことないだろうし、疼くものはあるはすだと斎藤は小さな旋毛を見つめるも答えは返って来ない。
一番親しそうなあのドクターに「この子彼氏とかいたのー?」なんて軽く聞いて「ボクが元カレですー」なんて言われた暁には怒りで腸が煮えくり返りそうになる。ダメだ。聞くのはナシの方向でお願いします。
誰に向けてのお願いなのかもわからないまま、斎藤は後頭部を壁に預けて天井を見上げる。煌々と光るライトに目を細めて掌で視界を暗闇に変化させた。
「どうしたもんか……扱い難いったらありゃないぜ」
仰ぎ見ていた天井から視線を下げて千尋の心臓の上に刻まれた魔術刻印に目を向け、そっと指先を伸ばして服の隙間を縫って刻印に触れた。異様なほど熱を持っているその痛々しいまで覚える幾何学的模様にそっと触れれば、肌を通して魔力が抜けて行くのがわかる。
過去に一度パスを繋げたことがある同士の身体だからか、無差別に魔力を貯蔵しないといけないほど千尋の身体が枯渇しているのか斎藤にはわからなかったが、魔力不足のこの四肢に己の魔力を注ぎ込むことが出来るのであれば僥倖と言わんばかりに、斎藤は千尋の胸元を開けさせ刻印の上に掌を置いた。
じんわりと魔力が抜けて行くのがわかるがあまりにも速度が遅い。やきもきする速さに斎藤は舌打ちをし、今度は開けさせた胸元に顔を近付けて熱を持つ魔術刻印に唇を落した。
唇越しに感じる熱を発し続けているそこに口付けしたところで大した変化はない。となれば、体液を交えた方がまだ早い。
「あー……文句は言わない方向でお願いしますよーって言いたいところだけど、聞こえてないんだもんなぁ」
千尋の頭の後ろに手を回して持ち上げ、軽く開いている小ぶりな唇に噛みつき隙間に舌を捻じ込ませる。口呼吸でもしていたらしい千尋の舌は唇の温度よりも低い。魔術刻印に触れたまま体液を介して魔力を供給させれば、刻印の熱が冷めて行き冷たかった舌に熱が籠る。
冷たい舌先に己の欲の塊を絡ませれば、くちゅ。と水音が籠る。絡めたところで眠りについている千尋から同じ動きが返ってくるわけではないが、斎藤は喉仏を上下に一度動かし、奥に引っ込んでいる千尋の舌を吸う。
どろりと溶け合う肉の温度がどちらのものかわからなくなり、一つになったとすら錯覚する快感を交えた介助という行為に背徳が迫り始める。
──拙い。
咄嗟に唇を離した二人の間に銀糸が架けられ、刻印に触れていた指先で糸を切ってもう一度刻印に掌を当てれば人肌の温度にまで下がっていた。
十分に魔力が身体を巡っている証にホッと息をついて再び千尋の頭を肩に預け、気の抜けた斎藤は千尋の旋毛に頬を預け瞼を下ろした。千尋の身体に腕を回してそっと呼吸を繰り返す。大きな身体に閉じ込めた小さい四肢が小さく上下するのに合わせて、斎藤の胸が上下に動く。
身体に感じる熱に促されるように、斎藤はゆっくりと意識を手放した。
──己の腕の中でもぞりと何かが動いた。鼻先を擽る細い髪に眉間に皺を寄せてぼんやりと視界に明かりを取り入れようとすれば、部屋の明かりが斎藤の予想よりも暗いことに気が付き、ぼんやりとした視界のまま壁に掛かっている時計に目を向ければ、夕餉の時間が過ぎていた。窓の外は生憎と毎日のように吹雪いていて無数の小さな影が床に模様を作っているが、これが快晴だったなら綺麗な星空が見えていただろう。
身体の中にすっぽりと納まる千尋を見れば、まだ寝息を立てている。このまま明日の朝まで眠らせるのも良いが、何か腹に物を入れさせないと栄養が付かないだろう。と斎藤は千尋の頭に手を置いて、何度か撫で付け千尋の名前を呼ぶも、薄らと開いた唇から小動物を連想させる唸り声とも呼べない音が紡がれるだけだ。
そのままにしてやりたい気持ちを堪えた斎藤は、頭に置いていた手を細い肩に落として気持ち強く揺さぶった。
「んん……まだ、…………ねる」
太い首筋に額を擦り付ける千尋はまさに猫のようで、一部始終を見ている斎藤は思わず口元を緩ませた。
暫くこのままでも問題はないか。と考え始めた斎藤を他所に千尋の瞼がゆっくりと開き、その視界が真っ黒なスーツの生地で埋まると勢いよく顔を上げた。バチリと効果音が付きそうなほど瞬間的に目が合い、あまりの近さに千尋の頬が濃い紅色に染まる。
「さっ、……なん、……せいば……」
「説明はするから叫ぶのだけは勘弁な。あんたのサーヴァントに見られたら僕、怒られちゃいそうだから」
人差し指を立て千尋の唇に押し付ければ、数回瞬きを繰り返した千尋は小さく頷いた。
「叫ばないけど、どうしてこの体勢なの?」
小首を傾げながら問う千尋に事の経緯──魔力供給の話しは抜きつつもあらましを簡潔に伝えれば、首を小さく立てに動かし納得した素振りを見せた千尋は、いそいそと斎藤の腕の中から抜け出した。
温石に似た温かさを感じていた斎藤は一瞬寒さを感じるも、すぐ隣に腰をかけた千尋を見て口元を緩める。握り拳一個分の隙間を開けて隣に並んでいるものの、二人の間に寒さは何処かに姿を隠しているのか温もりしか感じない。
体育座りをして膝の上に置いている拳を開いたり握ったりを繰り返している千尋は誰がどう見ても落ち着きがない様子なのだが、頬に紅を差し口元を緩めている姿は幼い子供のようにも見え、斎藤は横目で少女の面影を残している女を観察する。
その視線に気が付いた千尋は動きを止め、無意識に緩んでいた口元を両手で隠して視線を彷徨わせ僅かに伏せた。
「……こっち見ないで。恥ずかしいから」
「今更弱みとか気にしないでしょ。あの頃の方がよっぽど——」
「そうじゃなくて! そうじゃないことくらい知っているでしょ」
斎藤にとって知っている、というか察しているの方が正しいのだが、千尋の科白がある意味答えを導いているようで、正解までの道筋を曖昧にしている。
反対に千尋はあの聖杯戦争の頃から感情が動いていないのだから、永遠の別れと思っていたあの瞬間に告げた言葉が全てだ。何処まで伝わっているのかはわからないが、改めて言葉にしなくとも良いと思っている為に口にすることもない。
二度目の再会を果たしたあの日の掛けで千尋は確かにこの感情に区切りを付けないと決めた。胸の内に燻る想いを言葉に変えて斎藤に伝えるのも良いが、今は再び隣にいてくれる幸せをただ享受していたい。
必ず来る終わりのその瞬間まで。
──嗚呼、でも。伝えてしまおうか。
いずれいなくなってしまうのなら、二度目の別れになるその日まで悩ませてみようか。
少なくとも今日寝るまでの間くらいは、何を考えているのかわからないその灰色じみた思考をジャックすることくらいは出来るはずだから。
「好きだよ。あの頃からずっと」
「──────。言うつもりないのかと思ってたんだけど、やっぱりあんたの考えはわからないもんだな」
「返事は要らないから大丈夫。どうせ、奥さんがいるーとか言ってフラれるのは目に見えるし」
「あー、バレてたか……じゃあどうして勝ち目のない勝負に?」
千尋は膝の上に置いていた手を伸ばして斎藤の頬に触れ、柔らかく引き寄せる。体育座りを崩して柔らかいマットレスの上に膝立ちをし肩を丸め、引き寄せた斎藤の額に己の額を重ねた。
「今日が終わるまでの数時間は私のことで頭が一杯になるでしょう?」
「そりゃまぁ、随分と策士なことで」
「褒めてくれてありがとう」
既にあんたのことで思考が一杯になって来てるって伝えたら、千尋はどんな反応を見せるんだろうか。
見てみたいという心境と共に、大事だと思う意味合いが何処か違うように思えた斎藤は、胸の内を明かすことなく頬を包む小さな掌の熱に瞼を閉じた。
今夜はどうも策士の策に溺れているらしい。と甘美な響きと共に伝えられた千尋の一途に斎藤は揺蕩う未来が見えた。
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BAMBI