紅枝垂

 首元に強い衝撃を受けて深い眠りに落ちてから数時間で千尋は目を覚ました。
 村正が拠点としている鍛冶工房に隣接している部屋で目を覚ました千尋は、布団以外の暖かさと身体に感じる重さに違和感を覚えハッと目を開いた。目の前に見える真っ黒の衣服と、白いワイシャツ。首元の釦が外れていて襟元から見える素肌が妙に艶めかしい。誰かが添い寝をしているんだ、と理解した千尋の頭が枕にしているのも誰かの腕らしいと遅れて理解し、小さく顎の角度を動かした千尋は温石と思える温もりの正体を知った。

「——さいとう、さん」
「ん、……あ、あー。起きたのか。どう? 調子は。いい感じ?」
「添い寝、好きなの?」
「元気そうで何よりだ」

 腕枕をしている手の指先で千尋の髪を掬うように撫で、腰に回っていた腕を上にずらして背中をポンと軽く叩き、上半身を起こした斎藤に合わせて千尋も身体を起こした。ぼんやりと辺りを見渡せばいつもの、知らぬ間に眠った後に目覚める景色で、村正の手によって強制睡眠させられたんだなぁ。なんて寝起きの働かない頭で考えていると、すぐ傍で衣擦れの音が聞こえ、無意識に発生元を見れば斎藤がネクタイを締めているところだった。
 まるで後朝の朝だ。と節榑立った指先で器用に形が整っていくネクタイを乱れた髪を整えもしないで見ていれば、不意に斎藤の榛摺色の目が割り膝で布団の上に座っている千尋を射抜いた。目の色がそうさせたのか、猛禽類を連想させる鋭さに、千尋は一瞬呼吸を詰まらせたものの、息を吐き、ゆったりとした動きで斎藤に向かって腕を伸ばした。ネクタイを締めていた斎藤の手が離れ、代わりに千尋の手を掴む。重なった素肌が心地いいと初めて教えてくれたのは斎藤だったと、遠い記憶の海が波となって在りし日の想いでさざ波を作る。

「ん?」
「ネクタイ、私が締めてもいい?」
「どーぞ。綺麗にしてね」
「あんまりしないから期待はしないでね」

 経験として自分でネクタイを締めることはあっても、他人のを締めた経験はない。どうやってやるんだったかななんて呟きなら斎藤の襟元に両手を寄せれば、締めやすいように上を向いている斎藤が小さく笑った。

「お姉さんちゃんと出来てます? 僕、ガタガタの襟締とかヤダだから勘弁してよ」
「うーん。まぁ大丈夫じゃない? もし嫌だったら自分で直してよ」

 普段見慣れているネクタイは真っ直ぐだが、慣れない千尋がやった所為なのか、千尋の性格がひん曲がっているのか完成したネクタイは心なしか左に曲がってしまっている。自分のをやる時はあんなにも簡単なのに、他人のとなるとこんなに難しいのか、とじっくりと出来上がった少々不格好な姿を見ていれば、鍛冶場にいた村正が戻って来た。

「おう。お二人さんもう目を覚ましたのか」
「おはよう村正。今何時かわかるかしら?」
「まだ昼の三時を回った所だ。……ところで、斎藤、あんたの襟締ちと曲がってねぇか」
「ま、そういう気分てことで」
「何じゃそりゃ。まぁいいさ、二人とも茶にしねぇか」

 その一言で千尋は部屋の戸棚に収納されている茶器を取り出し、村正はそのまま部屋を出て行った。手持ち無沙汰になった斎藤はテキパキと動く二人につられるように、さっきまで使っていた布団を畳み始めた。囲炉裏に吊るされている薬缶で湯を沸かし、三人分のお茶を用意していれば、皿に羊羹を乗せた村正が戻って来た。

「羊羹だぁ」
「今分けるから待ってろ。斎藤も食うだろ」
「美味しそうなんで頂きますかね。いやぁ美味そうだ」
「あの赤い外套のアーチャーが試作してたのを貰って来たんだ。不味いこたぁねぇだろ」

 小皿に乗った羊羹を一口サイズにフォークで切って口に入れれば、小豆の旨味と砂糖の甘さが口一杯に広がり、千尋は思わず目を細めて頬を抑えた。仕事のし過ぎで圧倒的に脳に糖分が足りていなかったのだから、ここまで甘い物を口に入れたら脳が溶け切ってもおかしくはない。夢中で羊羹を胃の中に収める千尋を横目に斎藤は一口大に切った羊羹を口の中に放り入れた。

「糖分が脳に染み渡るー」
「おうおう、何日ぶりの食事か正直に答えてみろ」
「いやいやそう言っても一日とかよ? 全然大丈夫」
「なぁにが“全然大丈夫”だ。ちったぁ手前の身体の心配をしろ。このど阿呆」
「心配のし過ぎなのよ、村正は。私もういい大人なんだから」

 二十歳を過ぎてから会ったというのに、どうも子供扱いをしてくる。十分に大人だと思うんだけど、外見に似ず精神年齢が老人のものを持っているからか、孫や子供を見ている感覚と同じなのだろう。そう考えるとこのやりとりも嬉しいものに思えるのだから、本当に現金な奴だと自分でも思う。
 おじいちゃんと言えば、もう一人おじいちゃんを自称している……とはいえ、こっちは本当に血の繋がりがあるのだけど——もう一人の千尋のおじいちゃんは黙りっぱなしだということに気が付いた千尋は、村正の小言を尻目に斎藤を盗み見れば目が合った。
 胡坐をかき太腿に肘をついて頬杖をしている斎藤の足元には、空になった皿が一枚と湯気が消えている湯呑があるだけだ。ただ茫然と千尋を見つめるその姿は、この状況がつまらないと言っているようにも見えるし、感情がごっそりと男の中から失われたようにも見える。
 全く何を考えているのかわからないその瞳を凝視していれば、ふと力が抜けた笑みを斎藤が浮かべた。

「そんなに見つめられると照れちゃうんだけど?」
「照れてくれたら嬉しいけど、斎藤さんは照れたりしないでしょ。私に見つめられるくらいじゃさ」
「どうかなぁ、これが案外照れてたりして」

 へらりと愛想笑いに似た笑みを浮かべている斎藤を前に千尋は一瞬目を細めた。相も変わらず本心が読めない男だ。何を考えているのか、何を思っているのかわからない、分からないから知りたくなってしまう。あの時からずっとその気持ちは変わらない。

 ——この気持ちに名前がないのなら、私は「恋」と名付ける。
 知りたいと、分かりたいと願って、どうしようもなく心が惹かれて行くのだから。

 口を噤んで見つめ合う二人を前に、エミヤに持たされたトレーの上に残っている羊羹を一瞥した村正が何ともなしに口を開いた。

「二人とも羊羹食うか? まだ余ってるんだが」

 この場に藤丸がいれば「空気読んで!」と叫んでいたに違いない。その藤丸はウルクに行ってしまったのだが。

 エミヤから貰った羊羹を全て平らげた三人は、番茶で喉に張り付いた甘さを流し落して息をついた。
 コトリと畳に湯呑が置かれる音が僅かな休息に終止符を打つ。

「マスターはどうしてそんなに忙しくしてるんだ。前回藤丸がレイシフトした時も此処まで忙しくはなかっただろ」
「ふーん? 今回は特別忙しいってことか」
「そうかあんたは藤丸の聖杯探索が今回が初めてか。普段はもう少し穏やかなもんなんだがな」
「普段と変わらないよ……って言ってもダメだろうなぁ……」

 千尋を抜きにして会話をしている二人は一言も喋っていない千尋に意識を向けている。これが少しでも違うところに意識を向けているのであれば、誤魔化しが効いたかもしれないのになぁ、なんて番茶を啜りながら内心で溜息を吐いた千尋は、湯呑を腿の上に置いて「今後のことを少し」と口を開いた。

「これから先、人理は修復される。これは私たちのやるべきことであり確定させないといけない未来。今はカルデア以外の機関が止まってしまっているけど、人理修復が終われば焼却された現在が元に戻る」
「それとマスターが忙しいことと何の関係があるってんだ」
「カルデアは魔術協会から目を付けられているんだけど、もし彼らがこのカルデアに足を踏み入れることがあった時、口を挟まれないように色々データを改竄しているのよ。特に立香周りのことをね。彼には普通の、一般の魔術を知らない子どもに戻って欲しいから」

 数々のレイシフトに掛かった予算の出所やら、そんな事実はなかったやら、レフ・ライノールによって起こった死傷者を出す事件の詳細など、考えれば考えるほどやらなくてはいけないことが山ほどある。食料が足りないとレイシフトした数なんて数知れずだ。その全て、とはいかなくとも成るべく少ない数に留めておかないと。データの作り替えやら、出納の書き換えなどを行わないといけない。
 ロマニに今後の方針を話した。信頼出来るスタッフを二人用意してもらって、極秘任務扱いでものを進めている。一サーヴァントにこのことを話す予定は何処にもなかったのだが、バレたのがこの二人で良かったと千尋はこっそりと息を吐いた。

「今までのデータを書き換えるとなると、流石にちょっとね」
「だからって寝る間を惜しむようなことじゃなくない?」
「んぐっ」
「他にも理由はあるんだろ」

 どうしてこの二人には隠し事が筒抜けになってしまうのだろうか。そんなにわかりやすい顔をしているのだろうか。千尋は湯のみを畳みの上に置いて両手で頬を下から持ち上げて掌で押し潰しながらぐりぐりと回すも、昨日と同じ顔つきに思えてならない。
 単純にこの二人が鋭いだけなんだろう。と結論付けた千尋は隠しもしないで溜息を吐いて天井を見上げた。

「シャドーサーヴァントの完成度を上げようかなって思ってて」
「あー、聖杯戦線で使ってたやつ? あれでも十分強くなかったっけ」
「アレは試作品て言ってなかったか」
「そう。試作品。私はねルーン魔術を使って宝具を打てるシャドーサーヴァントを作ってみたいのよ」

 なんてことはない、と言った具合に、それこそ今日は晴れているね。と世間話をする声色で千尋は己の夢を口にした。
 斎条家を抜け出して世界旅行をしてみたいと言っていた少女が魔術を使った夢を持つようになるとは、年月は人を変える。と斎藤は隈がこびりついている双眸を一瞬大きく開く。

「いつの間にそんな夢を持つようになっちゃって」
「当たり前。私、こう見えてルーン魔術のセンスはあるって師匠にも褒めてもらっているんだから」

 ——それに、もう大切な人を目の前で失いたくはないから。

 目を閉じた千尋の瞼の裏には、あの戦いの光景が鮮明に映し出されている。それは強烈な紅と淡い光。

 ——斎藤が消えるその瞬間が。

 

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