鬱金

 奇しくも全ての戦いが終わり、平穏を手に入れたその日はクリスマスだった。人類史最大の脅威が去った今、何かに備える必要もなく、職員に短いながらの休息が与えられた。一人の人間を失うという犠牲を払っての勝利は、職員の心に影を作り出したが、それでも未来が観測出来るようになった現状と、生き残れたという現実に喜びを禁じ得ないでいる。
 時間神殿の中では、カルデアに所属している職員全員が藤丸とマシュの決意に胸を打たれ、此処で死ぬことも辞さない覚悟を持っていた。自分が勝利の為の犠牲になっても良いとすら考えていたのだ。

「ダ・ヴィンチ、私も、もう休むわ」

 人理修復が成された今、カルデアに留まる理由もないサーヴァントは挨拶もそこそこに次々と退去していった。此処に残っているのはダ・ヴィンチや村正のように自発的に残ることを選んだサーヴァントだが、正式なマスターがいる村正は兎も角、ダ・ヴィンチはカルデアからの魔力供給がなくなるまでの間しか現界が出来ない。サーヴァントはその存在が兵器であるが故に、新しい所長がサーヴァントをどう扱うかによってダ・ヴィンチの存在が決まると言ってもいい。
 そして多分……ダ・ヴィンチは座に還るだろう。頭のキレる兵器ほど扱い難いものはないのだから。

 残された時間はとても短い。目の前で美しいと賞賛したくなるほど完成された笑みを浮かべるダ・ヴィンチを前に、千尋は一瞬だけ目を逸らした。

「あぁ。千尋、君も十分な休息を取るように」
「特別指揮官殿に言われたら従わないといけないね」
「何を言っているんだ。私は技術局特別名誉顧問のままさ。このカルデアの指揮官は君だろう。所長代理殿」
「そうだね」

 所長代理であったロマニが未帰還扱い——本来の姿に戻って宝具を持って消滅し、ロマニが座っていた席に補佐である千尋が収まった。それは自然の流れであり誰もその決定に異を唱えなかった。
 内輪で決まった即席所長代理としての初めての仕事は、スタッフにクリスマス休暇を与えるというものだった。
 とはいえ、魔術協会が査問委員会を引き連れてカルデアにやって来るとの情報が入っている。国連の承認を無視したレイシフトや、七騎までと制限されていたサーヴァントの数多の召喚。レフ・ライノールが犯したテロ行為についての被害規模の報告書や、今も尚コールドスリープされている四十七名のマスター適正者たちの解凍。亡くなった職員の名簿の作成と事件との因果関係を纏めた書類の確認と、残った職員への嘆願書……考え出したらキリがない。
 一人——二人で何処まで作成出来るかはわからないけど、兎に角今は休息を取って、未来があることを祝福しよう。

「そういえばダ・ヴィンチちゃんはカルデアに残ることにしたのね。座に還るものだと思ってたわ」
「やらないといけないこともあるからね。アイツがいないんだ。キミを支えられる者が一人でも側にいた方がいい」
「村正も残ってくれてるのよね。じゃあ、今カルデアにいる英霊は二人ってことか……寂しくなっちゃったわね」

 トン、と机に身体を預けた千尋が天井を仰ぎながら呟けば、ダ・ヴィンチが小さく肩を揺らして笑ってみせた。
 悪戯に成功した子供の笑みにも似ている無邪気さで、千尋が小首を傾げると、目尻に涙を浮かべた美しき女性は人差し指で己の涙を拭うと桃色の唇が音を紡ぐ。

「それがもう一人残っているんだよ。キミが良く知っている彼がね」
「それって、もしかして……!」
「キミの部屋にいるんじゃないのかな。早く行くと良い」

 脳裏にあの黒いコートの裾が揺れた。誘うように風に揺れるコートを追いかけるかの如く千尋は駆け出した。クリスマス休暇を楽しむ職員に目もくれず、ただ、己の部屋に向かって息を切らしながら走る。逸る心臓の音は走っているからなのか、期待しているからなのか。耳元に鳴っていると錯覚するくらい心音が煩い。普段は無駄に広い建物だと思っていた筈なのに、今はもう少し距離があったらいいなんて思っている。それでも走る足が止まったりはしない。
 早く、落ち着いて、速く、ゆっくりと、はやく、呼吸を整えて、はやく、ハヤク、速く。——早く会いたい。

 見慣れた扉の前で立ち尽くす千尋は、両手を胸の真ん中において深く息を吸った。
 いつもよりもうんと速い鐘の音を少しでも落ち着かせようと息を吐くも、期待と熱で落ち着きそうにはない。浅い呼吸と深い呼吸を繰り返して、両目を力強く瞑って息を整え扉を手をかけた。やけにゆっくりと開く扉の先には、見慣れた姿の後ろ姿を強烈なほど目に焼き付き息を飲んだ。
 ハッと短く息を吐き出し、震える唇で男の名前を呼べば、隈が目立つあの奥底が知れないと双眸と目が合った。ふらりと力なく足を一歩前に踏み出し、腕を斎藤に向かって伸ばせば、手首を掴まれ引き寄せられる。真綿を抱き締めるように逞しい腕に包まれる千尋が斎藤の背中にしがみつくように腕を回せば、斎藤の腕に力が入る。
 強く抱き締められた千尋は震えるまま息を零した。

「もう、いなくなったものだと……」
「あんたに挨拶しないで帰るほど薄情な人間だと思われてたわけだ。悲しいねぇ」
「そういうわけじゃないけど。私、あの後も忙しかったし、会えないまま終わったんだなって」
「その割には泣いてないみたいだけど? こっそり泣く予定だったのを邪魔しちゃった?」

 旋毛に掛かる斎藤の息に引き締めていた気が緩んでいくのがわかる。唇を噛んで力を入れようとするも、いまいち力が入らず、口元は緩むばかりだ。

「多分ね。あのまま別れてたら泣くところだったかも。ありがとう。少しの間でも残ってくれて」
「泣かずに済みそう……ってそんなわけにはいかないか。最後に千尋の涙を拭うことが出来て良かった」
「はは、紳士だ」
「僕、一応武士だけどねぇ。武士ってのは案外西洋の男よりも女に優しいもんだってな」

 旋毛の上に顎を置いた斎藤の背中にしがみつけば、斎藤は千尋の頬に掛かる髪を耳に掛けて指の背でまろみを帯びている頬を撫でる。心地よさに目を細めた千尋の項に回った節くれだっている指が髪の隙間を縫って素肌に触れ、促されるように顔を上げれば存外穏やかな温度を纏っている瞳と目が合った。

 ——この人は、こんなにも感情を眼に宿す人だっただろうか。

「ね、今、自分がどんな表情しているか、知ってる?」
「さぁ? 千尋は?」
「きっと、斎藤さんと同じ表情をしているんだと思う」
「違いねぇや」

 緩やかに上がる口元に少しでも近付こうと踵を浮かせて瞼を閉じれば、唇に柔らかくも暖かいものが触れた。ほんの三秒。名残惜しさを感じながら重なる影に隙間を作る。ゆっくりと瞼を開けて揺れる双眸を見つめれば、また唇が重なる。遠慮がちに触れていたものが角度を変えながら深まっていく。
 これまで恋愛というものから離れて生活をしていた千尋にとって、このキスは間違いなく初めてのもので、酸素を奪われていると錯覚する口付けに息を止めていた千尋は酸欠寸前で、震える足先が半歩後ろに下がったことで斎藤の唇が離れ、漸く息をすることが出来た。

「はッ……はぁ……」
「初心だねぇ。遊んで来なかった……んだろうな。あんたのことだから、此処まで一直線に走って来たんだろ」
「当たり前でしょ。私は、セイバーに会いたくてこの世界に飛び込んだんだから」

 聖杯戦争に負けた日、強烈な痛みと喪失感を抱いた千尋はこのまま魔術師という生き方を、魔術という世界から離れてしまおうと考えていた。その手始めが世界を見て回ることだったのかもしれない。魔術師としての生き方しか知らなくて、随分と狭い世界をこの世の全てだと思って生きて来た千尋にとって、目に入るもの全てが新しい価値観だと思えた。そんな中出会ったのがロマニだ。行き急ぐその姿を見て、何に急いでいるのかと興味が沸いた。そうしてマリスビリーに誘われてカルデアにやって来た。

「誘われたのよ。もう一度セイバーに会えるかもしれないって。そんなことを言われたらね? ほら、賭けてみたくなるじゃない。結果は御存じの通りなんだけど」
「俺が千尋をこの世界に縛りつけていたのか……? あんなにも離れ違っていた世界に——」
「違うよ。全く違う。勘違いも良いところ」

 ——この世界に希望を与えてくれたんだよ。

 嬉しかったの。もう一度会えるんだって考えるだけで胸が締め付けられるほど喜びが溢れたの。マリスビリーの私を利用するだけの甘言だったとしても、手を伸ばさずにはいられなかったの。もう一度会って、ちゃんと伝えたかったから。大好きだよって。今度は最後まで一緒に戦おうって。

「何年も待って、待って、待って。漸く会えたんだから! 今までの苦しみも、悲しみも、絶望も、痛みも全部、斎藤さんに会えた瞬間に消えちゃったくらい、嬉しかったんだよ」
「……うん」
「だから、もう一度離れたって……平気、だから……っ!」
「わかったから、もう、喋んな」

 平気なわけがない。平気なわけがあるはずがない。誰がどう見ても千尋とロマニは親密で、同僚を越えた友人関係を築いていた。それもそのはず。二人はカルデアに所属する前からの仲なのだから。斎藤自身軽口を叩き合う二人を何度も目にしている。兄弟、友人、同僚、腐れ縁、恋人。二人の関係を表す単語は幾らでもあり、その全てが当てはまらないでいる。そんな関係にあったロマニは未帰還扱いでその存在をこの世から消し、嫌っている魔術の道に身を置いてでも会いたいと願った斎藤は間もなく座に還る。
 親しい人間を二人も失うのだ。大丈夫なわけがない。

 ほろりと目尻から零れる涙を見た瞬間、己の感情を偽ろうとする口を塞いだ。瞼を瞑った所為で大粒の涙が千尋の頬を伝う。
 泣くだろうと思っていた。出来ればその涙を自分が拭ってやりたいとすら思っていたが、どうも、想像してたよりもずっと胸に来るものがある。何も座に還ることは悪ではない。寧ろ英霊という存在が受肉もしないで理由もなく現世に留まり続けている方が支障が出る。

 わかってはいるんだそんなこと。誰に言われるまでもなくわかっている。
 それはお互いが知っていてなお、口には出していないだけなんだ。

 深く重なる口付けに酸素を求めて千尋が薄っすらと口を開けば、ぬるりと熱いものが侵入する。驚き千尋が目を開けば、苦し気に己を見下ろす斎藤の双眸と目が合い、心臓が切ない音を立てた。
 奥に逃げる千尋の舌を追いかけ絡ませ、吸い出しては甘噛みして。その度に細い肩がびくりと跳ねるが、抵抗らしい抵抗をしていないのは、行為自体が嫌なわけではないからだ。未開の地を蹂躙する凶暴さすら感じる斎藤の舌に翻弄され続けている千尋の足がガクリと力をなくし、そのはずみで唇が離れ二人の間に銀色の糸が架けられた。程なくして切れた糸の行方を気にするよりも先に、腰が抜けた千尋が床に座り込み、上下に肩を動かして息を整える。蒸気した頬に赤く染まる耳。薄く開いた唇から熱い吐息が零れ、潤んだ瞳は斎藤を求めるように蕩けているのに、斎藤の目には今にも泣きそうにも見える。

 きっともう泣いている。涙を流さなくとも、千尋の心は雨の如く雫を流しているのだ。

「……好き」
「ん」
「大好き。きっと、ずっと」

 情が泉の如く湧き溢れる。枯渇していた川が大河になるかの如く、胸の内側から止めどなく溢れ出る。
 それを人は幸せと言うのだろう。だが然し、斎藤にとってそれは痛みでもあった。

 ──好きだと言えたらどれだけ良かっただろうか。
 素直に思いの全てを伝えることが出来たらよかっただろうか。そうしたら一時だけでも千尋に幸せな夢を見せてあげることが出来るのに。
 だが、所詮夢でしかない。この女は、“生きている人”と結ばれるべきだ。その中で幸せを見つけたらいい。

 心の底からそんな幸せを願ってやれない。己だけ、片時も己だけを想っていてくれたら、そんな我欲が斎藤を苦しめる。
 千尋に想いを伝えられる度に、斎藤は欲に押しつぶされそうになっていた。この瞬間。今日という日が過ぎれば、後悔と心残りを抱えたまま座に還るんだろう。それがいい。それが最良の選択だと、分かっているのに——。

「好きだ」

 逃げたいと聖杯にまで願っていた世界に縛りつける言葉が二人の間で震えた。斎藤は千尋がどれだけ魔術師という生き物に苦しめられてきたかよく知っている。先の聖杯戦争では千尋を魔術という世界から逃がす為に戦った。
 それなのに今、斎藤はその世界に千尋を縛りつけようとしている。

「だから、魔術師として、生きろ」

 千尋の頬に熱い雫が落ちる。

「また、会えるなら、喜んで」

 人理修復が成された今、聖杯戦争でも行わない限り英霊を召喚することはない。そしてその聖杯戦争だって選ばれない限り参加することが出来ない。だからこれは不可能な約束なのだ。
 それでもいい。不確かな未来への約束でもいい。それでも、構わない。

 千尋は腕を伸ばして斎藤の頬に触れると、その唇を奪った。
 





 ——お互い一糸纏わぬまま違いを離さんとしがみつく。これが今生の別れであるのだと、未来を約束した口とは裏腹に熱を求める内側が叫んでいる。これが間違いなく最後の別れになるのだと。
 与えられる熱も、愛を囁くその音も、苦し気に歪むその瞳も全てを焼き付け、新しい朝を一人で迎えるんだ。

「す、き……愛してる」

 カルデアの外は年に一度あるかないかの晴天だというのに、どうしてか、斎藤の耳元では千尋の熱っぽい吐息に混じって雨音が響いていた。

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