御衣黄

 後朝の朝は煩いくらい静寂のまま迎えた。昨日とは打って変わって窓の外は吹雪いている。窓ガラスに映る影は小さくて速い。今日は格段に冷えるらしい、なんて寝起きのぼんやりとした頭で起き上がれば、腰に鈍い痛みが走る。昨晩の後遺症だ。
 もう少し手加減して欲しかった気もするけど、手酷いくらいが丁度いいと一人分の隙間が空いてある冷えたシーツに指先を滑らせた千尋は、フッと息を抜いて笑った。

「ん、まだ、入っているみたい」

 己の中に空洞があることを初めて知った。熱が上がった肌が重なり合って喜びとか幸せが快楽になって襲ってくるような、そんな時間は過ぎ去ればあっと言う間に切なさと寂しさを呼んでくる。今だって満たされている気がしているだけで、空洞には変わりはないのに。

 床に落ちている衣服を適当に手に取った千尋は、下着も付けないまま腕を通し喉の渇きを潤そうと電気ケトルが設置されている簡易食器棚に向かって歩いて行くその途中で散乱としている机の上に見慣れないメモ紙が乗っていることに気が付いた。
 散乱しているように見えるだけで、千尋は何処に何を置いているのかを常に把握している。ペン一つ動いていようものならすぐ違いに気が付くほどに。
 喉の渇きをすっかりと忘れ、メモに興味を持った千尋は、つま先の向きを変えて整理整頓されているとはとてもじゃないが言えないデスクに近付いた。

「んーあ? これは……読めないな」

 ミミズがのたうち回ったような文字が二行。達筆過ぎて寝起きの頭では解読出来ないが、時間をかければなんとか解読することは出来るだろう。筆ペンではなくボールペンで書かれてたのが唯一の救いと言ってもいい。

「後朝の文ってところかな。そんなマメなところもあったんだ」

 文章量からしてみて和歌ってわけではなさそうだけど、それでも、何か、思い出以外の明確なものが残っていることが嬉しくて、千尋は誰も見ていないというのに手に持ったメモで口元を隠すも、ゆるりと細められた瞳が喜びの度合いを表している。この場にダ・ヴィンチがいれば、間違いなく「昨晩は何か良いことでも?」と揶揄われていたに違いない。そうならない為にもしっかりと気持ちを切り替えて最後の仕事に臨まなければ。
 電気ケトルが湯を沸かす間に千尋はシャワールームに駆け込み、怠さが残る身体に目覚めの湯を浴びせたのだった。








「おや? 昨晩は随分とお楽しみだったみたいだね」
「ブフッ! ゴホ、ゴホッ……! 突然何よ?!」
「いやなに。キミの身体の隅々から彼の魔力を感じてね。気になってつい口が動いてしまったというわけさ」

 ダ・ヴィンチの工房で追い込みの作業をしている最中、“今日の天気は生憎だね”と言わんばかりのトーンでダ・ヴィンチは千尋に問いかけた。しかも確定事項だと言わんばかりの決めつけで。だが、ダ・ヴィンチの言い分を否定出来る道具を持っていない千尋は話を誤魔化すか、すり替えることしか出来ないのだが、イタリアが生んだ天才を前にそんなことは無駄な努力でしかない。
 今この瞬間に適当なスタッフが「所長代理!」と血相を変えて工房に飛び込んで来てくれたらいいのに。と針の穴程度の期待を抱くも、スタッフ全員に休暇を与えているのだから、急ぎの用事なんてあるわけがなく、千尋は大きく肩を落とした。

「……そんなにわかるものなのかしら」
「魔術がわからない職員なら兎も角、サーヴァントにはわかるんじゃないかな。キミ、村正には会ったのかい?」
「まだ。というか、私立香にも会ってないわよ」
「彼ならさっき挨拶に来ていたよ。最後の挨拶だってね! ……中々に寂しい科白だろう」
「仕方ないわよ。順調にいけば私たちはあと数日、もしかしたら明日にはお役御免になっているかもしれないんだから」

 新所長がどんな人間であれ、時計塔からやって来るというだけで普通の人間ではない。こんな辺鄙な土地に存在している工房をお金で手に入れたような人だ。間違いなくここを自分の城にするに違いない。そこに旧スタッフは要らないしサーヴァントだって要らない。御しきれないサーヴァントほど厄介なものもない。今作っている嘆願書だってどこまで汲み取ってくれるか……。もしかしたら寒い南極で暖を取る為の燃料になるだけかもしれない。

「明日の天気次第ってところだろうね」
「普段だったら悪天候に辟易としてるのに、今ばっかりはずっと嵐であれって思ってる。性格悪いかな」
「私も似たようなことを思っているよ」

 二人の願いは虚しくも、翌、二十七日は雲一つない快晴となり、新しい所長——ゴルドルフ・ムジークは厭らしい笑みを携えた女一人と、聖堂協会から派遣された男を一人、他四十名近くのスタッフを引き攣れてカルデアに入館した。
 ついて早々に見え透いた脅しを仕掛けるゴルドルフだったが、ダ・ヴィンチに論破されかけると、後ろに控えている女に頼る。そんな姿を何回か見た千尋はゴルドルフの実力が時計塔の評価のままで間違いがないことを察し、視線を後ろに控えている女に移すも、女はカルデアの職員を前に人間を化かす前の狐の笑みを浮かべているだけだった。

「四人一組となってもらい、個室で過ごしてもらう。それぞれの査問会の取り調べに呼ばれる時まで大人しく部屋で待機、だ。その間、我々はカルデア内の調査を進め、新旧スタッフの引継ぎを行う」

 ゴルドルフの科白で旧カルデアスタッフは即席で四人一組となったが、所長代理を務めている千尋は真っ先に査問対象となり、完全武装している名前も知らないスタッフにアサルトライフルを背中に突きつけられた。その光景を見た藤丸が目を大きく開き、足を一歩前に踏み出すも、ダ・ヴィンチに腕を引かれたことでゴルドルフに意見することはなく終わった。

「お前は一号室に行け」
「はい」

 そうして長い尋問が始まった。手始めにカルデアの成り立ちについて。その次はカルデアの活用・運用方針について。それが終わればマリスビリーについて。更にはサーヴァントの召喚方法や、レイシフトの方法。過去を変えたことで起こる未来への変化。千尋が自作したシャドーサーヴァントの作成方法。取るに足らないくだらない質問から機密情報に至るまで数えきれないほどの質問を受け、一号室から出る頃には軽く日付が変わっていた。
 この状態があと四日も続くのか。と気が遠くなる思いだが、此処で千尋が少しでも折れればカルデア職員にあらぬ疑いがかけられてしまう。それだけは何としてでも避けたい。極度の疲労で頭の回転が落ち、思考力が下がっている千尋は与えられた個室——謹慎部屋のベッドの上に寝転び目を閉じた。幸いなことに四人部屋だが一人で使用出来るらしい。次の査問までに少しでも体力を回復させようと、千尋はそのまま眠りに就いた。

 「千尋、少し手伝って欲しい」。ノック音の後に続いた聞き慣れた女の声に千尋は目を覚ます。ぼんやりとしている眼で見慣れない天井を見つめ、自分が置かれている状況を思い出した千尋は飛び上がるように身体を起こして扉を開けた。どうせ使わないとメンテナンスを怠っていた所為で立て付けがいまいちよろしくない扉が、悲鳴に似た声を上げながら外の空気を室内に送る。

「おはよう。よく眠れたかい?」
「どうかな。物音で目を覚ましていたから。ところで手伝いって? Aチームのこと?」
「ご名答! 流石千尋だ話がはやくて助かるよ。これからAチームの解凍を行いに行くんだけど、一緒に如何かな?」
「その誘い、乗ってあげるわ」

 扉の隙間からのやり取りを終えた千尋は、衣服を整えて扉を開いた。当たり前のようにダ・ヴィンチの背中にはアサルトライフルを突き付けているスタッフがいた。サーヴァント相手にそんな武器、輪ゴム銃くらいの精度でしかないだろうと言ってしまえば、このスタッフの逆鱗に触れるかもしれない。全く持って意味のない行為だが、千尋は何も言わずに管制室まで歩いた。勿論、金魚のフンの如くご丁寧にも千尋の背中にもアサルトライフルが突きつけられていた。

 ——十時間後。旧カルデアスタッフの手によってAチームが冷凍されているコフィンが開くも中は空っぽだったことが発覚。その直後、警報がカルデア内部に響き、無機質なアナウンスが観測出来る天体が地球以外にない。と観測結果を報告。何事だと顔を顰めている間にカルデアスに亀裂が入り、観測レンズ、シバが停止。人類史の未来が観測されなくなったあの日を思い出させる事態の出来事に千尋の脳裏にレフ・ライノールが仕出かしたあの事件が蘇った。

「他に異常は?!」
「——侵入者です! 正面ゲート、第三ゲート、第六ゲートに魔力感知! なんだこれ……なんだこれ!? 増える……どんどん増えていくぞ?!」
「ぼさっとしない! シバが使えなくても通常の監視カメラがあるだろう!」
「正面とカルデア周辺の映像出すわ!」

 スクリーンに映し出されている映像には、白髪の長い髪が風に流されている女の姿と、ペストマスクを付けた集団が写っている。しかもその集団はカルデア内部に侵入しゲートのシャッターを破壊しているのだ。内部に設置していたゴルドルフの警備兵が悉く壊滅。部屋の外に出れなくなり閉じ込められた。各部隊からの報告を受けているゴルドルフの顔色は青を通り越して血の色を失くしている。
 一応各部屋の強度は高いが、映像を見ている限り動きが機械的ではあるが、力が人間離れしている。ペストマスクの集団はサーヴァントに近い存在のように見える。

「“……村正。来て”」
「“応”」

 管制室は最重要ブロック故に早々突破されるような造りはなっていないが、多分敵の狙いは管制室だ。カルデアを制圧するなら中央を抑えるのが一番効率がいい。正直悔しいが間もなくこの管制室は陥落する。それならせめて人命だけでも守らないと。
 千尋の呼び出しに応じた村正の姿を確認し、流れるようにダ・ヴィンチを見る。その横顔は何かを考えている時のもので、この天才の頭の中には何かしらの妙案が浮かんでいるのだろう。だが、悠長にそれを待っている時間が何処にもない。

「ダ・ヴィンチ……」
「わかっている。一先ず工房に逃げよう。きっと藤丸くんが助けに来てくれる」
「ゴルドルフさんはどうしますか?」
「私は逃げる! こんなこと、コヤンスカヤから聞いていないからな!」

 そう言ってゴルドルフは私兵を連れて管制室を飛び出した。それに続くように工房に逃げた三人は藤丸の迎えを待ちシェルターがある地下格納庫へと急いだ。ムニエルの報告によれば、西棟に逃げた職員は全員生存。反対に東棟に逃げた職員は氷漬けになり生存は見込めない。氷漬けにしたのは間違いなくサーヴァントの仕業だ。とはいえ、カルデア以外で召喚出来るはずもない。聖杯戦争が開始されたわけでもないのだから。
 全く持って不可解で不明瞭なことしかない現状。あまりにも情報が少なすぎて後手に回ることしか出来ない。守れなかった職員を思い唇を噛めば、途切れ途切れの音声がマイクを通して聞こえた。滲みよる恐怖の実況中継のように叫び声と来るはずだった未来を語るその唇は震え切っている。

「何故だ。何故なんだ。なんでいつも、最後になって裏切られるんだ! 死にたくない、まだ死にたくない! だってそうだろう、私はまだ、一度も、一度も——一度も、他人に認められていないんだ! まだ誰にも、誰にも愛されていないんだよ……!」

 ——嗚呼、それは、あの少女が口にした最後の、言葉。

「っ—————来てくれ、マシュ!」

 藤丸は弾かれるように走り出した。あの言葉を聞いてそれでも見捨てられるようなほど、千尋たちはシステム的な作りにはなっていない。もう二度と、あんな科白を言わせてはいけない。あの少女のように絶望の海に落とされてはいけない。

「ダ・ヴィンチも行って。私は此処で村正と二人で何としてでも格納庫を守ってみせるから」
「わかった!」

 ムニエルをコンテナの中に入れ、千尋は腰に差した刀の柄に手をかけた状態で周りの気配に集中し続けた。何分経ったかわからないが、長く続いた緊張感が解ける頃、息も絶え絶えな四人が走って帰って来た。その後ろからは氷が迫って来ている。

「早く入って! 私たちが食い止める!」
「大丈夫! このペースなら連中は追いつけない! あと一歩というところで私たちの勝ちさ! 殿は私が務めるから千尋も早く——」
「そうだな、あと一歩、足りなかった」

 男の声がした。気配もない男がいる。そう現状を理解するよりも先に、ダ・ヴィンチの心臓が人の手で突き破られていた。吹き出す血飛沫が嫌にスローモーションに見える。頬に返り血を浴びた言峰の姿を見た村正が駆け出した瞬間に響き渡る節丸の叫び声。

「来るな! それを持って、早く! その霊基グラフを奴らに渡してはいけない!」
「いえ、————いえ、そんなこと出来るはずがありません!」
「いいや、キミたちなら出来るとも! だって、私はそういう人間だから手を貸したんだ! 別れはいつも唐突なものだ、そこは天才であれ例外じゃない! その霊基グラフは、キミたちの旅の証明だ。私や、もういない人物の誇りでもある。それを消してしまうのは、どうしてもイヤだったのさ。……千尋。あとは任せたからね」

 口元から鮮血を流しているダ・ヴィンチは、何処までも穏やかに笑ってみせている。それに応えない訳にはいかない。
 もう一人の友人を失う最悪の別れだとしてもだ。

「行こう! 二人とも!」

 千尋が無理矢理藤丸の背中を押してコンテナの中に入るように促す横で、村正もマシュの手を掴んでコンテナの中に放り投げた。別れは惜しい。でも、惜しんでいる時間は何処にも残されていないんだ。藤丸をコンテナの中に押し込み、振り返れば、ダ・ヴィンチは穏やかな笑みで新しい旅路を見送っていた。

「ダ・ヴィンチちゃん、行ってきます」

 完全に扉が閉まり切るその前に、「Buon viaggio!」と声が聞こえた。
 零れ落ちそうになる涙をぐっと堪えた千尋たちは、コンテナごとカルデアを脱出し、新しい旅を始めることになったのだった。

 

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