学校に向かう準備の中に、家族と共に朝食を食べるというものがある。
千尋は制服に着替え、駆け足でやって来た筋肉痛を必死に隠しながら席に着き掌を合わせる。
「頂きます」
「どうぞ、召し上がれ」
「ありがとうございます」
物音を立てないように繊細な注意を払いながらする食事は息が詰まるだろうと、斎藤がこの場にいたのなら千尋に話掛けていただろうが、生憎と斎藤はマスターに部屋の中で待機するように言われている。
勿論大人しく待機をしているタマではないのを千尋は知らないで、完璧な微笑みを浮かべながら義母の作った見目豊かな朝食を食べていれば、新聞を読んでいた義父が新聞を畳んで目を細めた。
「サーヴァントを召喚出来たと言っていたが、一体どのクラスのサーヴァントだ?」
「セイバーです。とても強そうな風体をしておりました」
「そうか。あの円卓の欠片が役にたったか」
「…………はい」
円卓? 円卓ってなんだろう。円卓……電卓なら知ってるんだけど、円卓は知らないな。
「彼なら役に立ってくれるに違いありません」
円卓という聞き覚えの無い単語が思考の半分以上を占める中、千尋は微笑んで義両親に戦争に負けるつもりは無いと宣言をしてみせた。
食事を終えた千尋は両の掌を合わせて軽く頭を下げた。
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様。行ってらっしゃい」
「はい。それと今日、帰りが少し遅くなります。お外で夕食も済ませてきますので、先におやすみになっていてください」
「あまり遅くならないようにするんだぞ」
「はい。では、行ってきます」
肩から鞄を下げ、食事の間と呼ばれる部屋に背を向けて廊下を歩く。深紅の絨毯の上を歩きながら千尋は小声で斎藤に語り掛けた。
「セイバー、学校まで送って行ってくれるんでしょ?」
「“しっかり覚えてたか。よし、一丁走ってやるか”」
「頼んだ!」
草臥れたローファーを履いて玄関の扉を開ければ、現界した斎藤が立っていた。
千尋は斎藤に向かって両腕を伸ばせば、仕方がないといった表情を浮かべた斎藤が軽々と千尋を持ち上げて駆け抜ける。
街を歩く人には見られないようにビルの上を駆け抜けるその様は、低空飛行している鳥になったと錯覚を覚え、千尋は横スクロールで過ぎ去って行く街に目を輝かせた。
「勿体ないね。こんなに楽しいのにあっと言う間に学校に着いちゃうなんて」
「筋肉痛は大丈夫か?」
「うーん、多分ね」
早朝の校門の前で一組の男女が向かい合って楽し気に会話をしている。制服を着た少女は男の前で何度か軽く跳ねると、へらりと笑ってみせた。
見方によっては年上の彼氏に送って貰った年下彼女のようにも見えるが、この二人はそんな甘い関係ではない。寧ろこれから二人で血の道を歩んでいく運命共同体である。そういう意味では恋人よりも近い距離にいると言ってもいいだろう。
「あ、そうだ。セイバーさ、お昼休み屋上に集合ね」
「ん? 何か用でもあったか?」
「まだ知りたいこととかあるし、兎に角集合! わかった?」
「ハイハイ」
斎藤は己の目の前で人差し指を向ける千尋の頭に手を伸ばしかけたが、昨夜同様、斎藤は困った笑みを浮かべたまま腕に力を入れて己の衝動に抗った。
手を振り別れたあと千尋は教室に向かい、誰もいないことを良いことに椅子に右足を乗せて膝を立て、両手で握り拳を作ってマッサージを施す。
斎藤には大丈夫と言っていたが、実際、内太腿が震えていた。サーヴァントの前でそんな弱っている姿を見せたくないと、強がったものの痛みは強がりで和らいだりしないのだ。
幸いにも今日は体育の授業が入っていなくて本当に良かった。これで体育が入っていたら間違いなくサボっていたに違いない。
「千尋ー。一緒にお昼食べない?」
「ごめんね、私、今日は予定があって」
「そっかー。残念」
何事もなく午前中の授業を終えた千尋は、机の横にぶら下げている鞄の中からお弁当が入った袋を取り出して、一人廊下に出て階段を上る。最上階から更に上に行く階段を上り、屋上へ出る扉には我が物顔で南京錠が鎮座している。
日頃日陰にいる所為で南京錠に触れる手の温度が奪われてゆく。移っていく熱を軸に魔力回路を意識して南京錠の情報を解析し、中の部品を動かして解錠すればU字の部品の穴に嵌っていた箇所が小さな摩擦音を上げる。
南京錠を外して重たい扉を開けると、突き抜けるほど青い空と真っ新なキャンパスを連想させる雲。室内にこもる人の感情が淀み出た空気とは違って、頬を撫でる風は真新しく、肺に吸い込んだ酸素が血管を通して身体の重さをちょっとずつ軽くしていく。
「よぉ、マスターちゃん」
「セイバー」
「話があったんだろ?」
「うん。その前に、ご飯を食べよう」
僅かに肌寒い空気と穏やかに地平を照らす太陽の光はの温度差が心地いい。
フェンスに背中を預けて、足を伸ばして座る千尋の腿の上には可愛らしいサイズのお弁当が鎮座している。蓋を開け、両の掌を合わせて「頂きます」と小声でと告げて黙々と弁当に箸をつける千尋の横に座り、同じようにフェンスに背中を預けて澄み切っている青の空を見上げる斎藤。
耳を澄ませないと聞こえない程度の咀嚼音も、一分と時間が経つ度に校内が騒がしくなり、静寂が響き渡っていた空間に遠い喧騒が斉奏する。
どの時代も騒がしいさまは変わらないもんだねぇ。なんて歳を感じる感傷に浸っていれば、千尋が無言のまま、じっと斎藤の顔を見つめていることに気が付いた。
弁当を食い終わって本題に入るのかと思った斎藤は、千尋の太腿の上にある小さい弁当箱を向けるも、半分も減っていない。
「どうしたいマスター?」
「サーヴァントってご飯食べないの?」
「そりゃなぁ。受肉しているわけじゃあるまいし、食事も睡眠も必要ない、楽な身体なもんさ」
「じゃあ、その目の隈はなに? 寝不足じゃないの?」
まさかそんなことを気にされているとは考えもしなかった斎藤は、千尋の質問になんて答えようか逡巡した。
真名を名乗っても良いが、このマスターの場合、敵さんの前で俺の真名を叫んでしまう可能性がある。懸念が少しでもある限り、真名を伝えるのはこの娘に対して不利だな。
「というか、本当の名前って何? セイバーってクラスの名前でしょ」
「んー! そうきたか……」
まさか真名を名乗らない方が良いと考えていた直後にその質問。
斎藤は眉間に深い皺を作り、唸り声を上げるも、斎藤の悩みに気が付きもしない千尋は小首を傾げて右手で顔を隠すように支える斎藤を見つめている。
何よ。真名を教えるくらいいいじゃない。
そんなに私のこと信用ないわけ? 確かに私、聖杯戦争のあれこれはよく知らないけど、魔術師としての才能を見込まれてあの家に引き取られたくらい、魔術のセンスは持っているつもりだし、というか、この聖杯戦争に勝つつもりでもいるし。
たった二日しかいないけど、マスターの意思に従うのがサーヴァントなんじゃないの?
剥き出しの不機嫌を隠しもしない千尋は、語気を強めて斎藤を呼んだ。
「セイバー?」
「僕の隈と真名はおいおいってことで。それよりもマスターちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
セイバーの聞きたいこととはなんだろうか。何か疑問に思うことがあっただろうか。と小首を傾げる千尋に向かって斎藤は温度の抜けた目を向けた。
「あんた、何の為に聖杯戦争に参加するんだ?」
「両親のお願いを叶える為に、だよ」
「どうしてだ?」
「どうしてって、私は斎条家の魔術師で、魔術師たるあの人たちが根源に辿り着きたいと願ったから、としか……」
まるで最初から用意していた答えのような返事をする千尋は、気まずさ故か、言葉尻の語気が弱くなるのと同時に斎藤から視線を逸らした。
普段呆れるくらい真っ直ぐ人の目を見てくるような少女が、自発的に視線を逸らす意味なんて簡単にその思考を察することが出来る。
本心がその言葉に乗っていないことなど、考えるまでもない。
であれば、その本心を聞き出さない訳にはいかない。この娘は戦争中に命を落とすことは明白で、己はその瞬間を少しでも遅らせる為にあるようなもんだ。
バランスのいい性能を持っていようが、現代に近い時代に生きたサーヴァントほど力は弱い。古代のサーヴァントと比べると、どうしたって一枚も二枚も劣る。
己を召喚してしまったこの戦争に、命を懸ける価値なんて何処にもない。
まして他人の、自分の子供をただの道具としか思っていない、親の風上にも置けないような奴らの願いを叶える為?
巫山戯ンな。あんな腐っている奴らに何故そこまで大事なモンを懸けることが出来る。
大体他人の為に懸ける命なんてモンは、呆気なく壊れるもんだ。
斎藤は手元に出した一刀の刀の柄を握ると、目にも留まらぬ速さで千尋の首筋に刃を当てた。首の薄皮一枚を断ち切っている鋭い一撃に、千尋は目を皿にし息を飲む。
その早業は千尋の脳に首が斬り落とされたと錯覚を与える程の一撃。心臓が血を身体に送ろうと騒ぐのに、身体の体温が急激に下がる。
少しでも動けば間違いなく首の血管が切れる。背中にはフェンスがあり、目の前には今にも人を殺す目をしているサーヴァントが一騎。逃げ場がない、四面楚歌。
「あんた、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
「なに、を……」
「他人の願いの為に、あんたはその命懸ける覚悟があるのか」
他人の願いの為に命を懸ける覚悟? そんなのあるわけない。
首を左右に振ることも許されない現状で、千尋は初めて己の意思を込めた双眸で斎藤を見据える。
「命を懸ける覚悟なら、とっくの昔に出来てるよ」
私は、私の夢を叶えるって決めた。だから前に進むしかないんだ。例えそれが自分を痛めつけるだけの道だとしても、この瞬間みたいに死を待つだけの明日しか待っていないとしても。それでも、私は、飛び立ちたいんだ。
己を殺さんとしているサーヴァントを見据えたまま、千尋が首に当てが割れている刀を素手で握り、そのまま更に首に引き寄せ、一筋の赤い線を生み出す。
斎藤の刀が赤い涙を流した。
「何を――!」
魔術師として育てられた私が抱いてはいけない。夢に思うことすらもしかしたら罪なのかも知れない、私を愛してくれた両親の手から離れたあの日に抱いた、たった一つの私の我儘。
「私は私の願いの為に動くのよ。それは誰にも! セイバーにも邪魔させない!」
少女は吠えた。野犬の遠吠えよりも鋭く勇ましいその叫びは、狼のような逞しさと雄々しさで、斎藤は自分よりもずっと幼い少女が見せる瞳の奥の我欲に笑みを浮かべた。
「命なんて簡単に懸けるもんじゃない。あんたは戦いが何かを知らないただの小娘だろ」
「違う。私は戦う術を手に入れた魔術師で、今はセイバーのマスターだよ」
いつの間にか姿を消した刀を掴んでいた手が斎藤の大きな手に包まれた。
「あーあ、女の子がこんな傷付くちゃってなぁ」
そう呟いた斎藤は柄にもなく泣きそうな顔をしていた。
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BAMBI