午後一番の授業が始まる前に首に包帯を巻いた千尋が戻ると、クラスの中で仲の良い友人が目をぎょっとさせて近寄って来た。
「ナニソレ?! 怪我?! なんで?!」
「んー、ちょっとね。先生が大袈裟に巻いただけで、見た目ほど酷くないから安心して」
「出来るかぁ……」
千尋の肩に手を置いている友人が力が抜けたように俯けば、首に真っ白い包帯を巻いている少女がへらりと笑ってみせた。
「心配してくれてありがとう」
「んーん、あ! 手も怪我してるじゃん! 本当に何事なの!!」
まさかセイバーとちょっと言い合いになった末にキレた。なんて言える訳もなく、千尋は友人の心配をすました笑みでのらりくらりと躱した。
予鈴が鳴り、席に着いて机の上に教科書を出して考えることと言えば、次の授業、英語だったな、とか、今日は当てられなくて済むな。なんて学生らしいものではなく、ただ、目の前にまで迫った死という恐怖と、手を握る男の温度が思ったよりも暖かったことだ。
――「痛かったろ」と言って私の手を柔らかく包むその手に温もりがあった。慈しみとか労わりとか、ちょっとした情とか。そういう目に見えない心が温度になって、セイバーから私に伝わったのかと思うくらいに、じんわりと与えられた情が身体の中に広がった。
初めて会った日の夜。記憶が確かならセイバーに抱き締められていたけど、その時の記憶は酷く曖昧で、セイバーが体温を持っていたのかなんて、そんな些細なことは覚えていない。
大事だったのは令呪が手の甲に刻まれたことだったから。
一番窓側の後ろの席。包帯が巻かれていない方の手で頬杖をついて、窓の外に広がる世界を眺めながらごちゃごちゃになった感情を上手く纏めることが出来ず、千尋はクラス委員長の号令を聞き流しながら、クラスの生徒と動作を合わせ、ゆったりとした動作で立ち上がった。
理解が出来ない授業ほど、教師の教えが子守唄に聞こえるものはない。
全く入ってこない授業内容の代わりに、千尋の頭の中は斎藤の情とは打って変わって、戦争においての負けを考えていた。
戦争に負ける。敗走、戦死、降伏。色んな負け方があるけれど、千尋の記憶の中で斎藤の行動が映像となって流れ続けている。それは確かに死ぬ寸前の映像で、覚悟なら決めたと断言している少女に強烈な概念を植え付けるには十分だった。
あれは紛れもない戦死だった。成す術もなく一刀両断で殺されていた。もし、もう少し魔術師としての力があればもう少し抵抗出来ていたのだろうが、あの瞬間、生きる為にしていた行為と言えば心臓が過剰に動いたことくらいで、それ以外は何も、身体が動けなかった。
セイバーはそのことを教えようとして、あの行為に出たのだろう。あのやり方は間違った方法なのだと思う。でも千尋に対して限りなく正しい伝え方だった。口で言われても千尋の想像する戦いは酷く曖昧で現実味を帯びず、理想と想像の境界線をぼやかしてばかりで、戦いの緊張感を、怖さを、悍ましさを正確に理解する所か、甘ったれた想像しか出来なかっただろうから。
死に直面するあの方法が千尋の覚悟を一層強く、確かなものにしてくれた。
――このままだと確実に、真っ先に落とされるのは私だ。セイバーには問題ないのに、私が弱いばかりに悲願を叶えられずに戦死してしまう。
それだけは何としてでも避けたい。
さて、どうしたものか。
自分が強くなるとこが一番としても、戦争に勝つのは戦力だけじゃないはず。それ以外の要因だって勝利に近付く為に必要なはずなんだ。
先ずは、そこからだ。
昼下がりの空は依然と青く、千尋は教科書に書かれた文章を読む教師の声を子守歌にゆっくりと目を閉じた。
「“マスターちゃん、起きなくていいのか?”」
「ん、んー……ん?!」
脳に近いところで語り掛けてくる穏やかで低い声に、千尋は机に臥せっていた顔を上げて左右を見回すも、教室は夕暮れに染まっていて、誰一人として教室に残っていない。普段人が入れば狭く感じる空間も一人きりだと広く思える。
「いつの間に……」
「いやぁ、結構寝てたけど、寝不足か?」
「寝不足なのはセイバーの方でしょ。ていうか、実体化しないでよ。誰かに見られたら説明が面倒でしょ」
「僕のマスターちゃんは心配症だなぁ」
そう言いながらも斎藤は霊体化をしようとはせず、千尋も人の声がしないことを良いことに、それ以上の注意はしないで、机の上に出しっ放しにしている教科書を鞄の中に片付け始める。真っ新なノートに英語の教科書。どうやら随分寝ていたらしい。なんて、眠気を少しも感じない頭で過去の出来事を一瞬で整理し、寝ていた罪悪感を微塵も感じさせない顔つきで立ち上がると、物珍しそうに教室の中を鑑賞していた斎藤に声を掛ける。
「セイバー、行こう」
「帰るか? マスターちゃん、部活とかしてないのか?」
「一応剣道部に所属しているけど、今は部活に精を出す時期じゃないし」
「そんなもんかぁ?」
「それにウチの部活動緩いから」
緩いからなんなんだ。と思わず言いそうになったが、朝早くから鍛錬している姿を知っている斎藤は口を噤み、教室から出て行く千尋に合わせて身体を霊体化させた。
校門を出て、バスに乗って辿り着いた駅前。そこそこに栄えている駅前通りにはいくつかのビルが立ち並び、学校帰りの生徒が友人同士楽しそうに喋りながら歩いている。
何処に行くのかもわからない人の群れに飲み込まれないように、確固たる意志で歩く千尋の背中を追いかける斎藤の目に、バスターミナルの文字が映る。どうやらここからまたバスに乗って何処かに行くらしい。
全く見当のつかない斎藤を置いて千尋は三番と表示されている乗り場で立ち並ぶ。
「“どっか遊びに行くなんて余裕じゃないの”」
「そんなわけないでしょ」
「“ありゃ、こりゃ失敬。んじゃぁ何しに行く予定で?”」
「何というか、敵情視察? ――あ、バス来た」
「は? マスターちゃん?!」
タイミングよく来たバスに乗り込んだ千尋は一番後ろの席の窓側を陣取り、深く腰をかけて窓ガラスに頭を預けた。
「このバスは冬木駅に向かうバスです。お間違いないようご乗車ください。次は――」
このバスの最終到着地は冬木駅だ。それは聖杯戦争が行われる戦場の名前でもある。
昼間は自分の戦力を上げることを考えた。それは真っ先に強化しないといけない課題ではあるが、戦場の地形を把握するもの課題だと思う。何処に霊脈があって、何処に何のサーヴァントとマスターがいるのか。マスターが工房を構えている場所に間違って入ってしまったら間違いなく蜂の巣よろしく女子高生の死体が出来上がる。
「“あんたまさかッ!”」
「ちゃんと付いてきてね。私のセイバーさん」
「“マスターちゃん?!”」
音を出さずに唇だけ動かして語り掛ける千尋は、驚く斎藤の声を街に流れる雑音と同化させて、ゆっくりと発車したバスの揺れに身を委ねた。
車窓はコンクリ―トで出来た建物が乱立している地帯を抜けると、大きな通りに面している住宅街を通り抜け、車の通りが空くない街の中を走って行く。そうしてまた大きな通りを走って行けば駅前の賑やかさが戻ってくる。
初めて来たわけではないが、前回冬木市にやって来たのはもう何年も前の話しで、千尋は駅前に設置されている地図を睨みつける。
制服のポケットから取り出し、時間を見ればまだ少し街を見る時間は残っている。何処から見て回ろうか。戦いの舞台は間違いなくこの土地なのだから、しっかり観察しておかないと。そんな気合を込めた千尋は軽い足取りで適当に歩き出す。
目的地なんてない。ただ気の向くまま、何となくこっちに行こうという勘だけで前に進んでいるのだ。賑わいのある駅前から随分離れ、辿り着いた先は冬木大橋。海浜公園から見える真っ赤な橋がライトアップされていて綺麗そうだ。
建物を背に千尋は斎藤に念話を試みた。嫌な予感を前に少しでも安心を得たいという幼い心が斎藤を求めた。
「セイバーいる?」
不自然なほど周りに誰もいない。
平日の夜が顔を出した時間帯とはいえ、公園に誰もいないなんてことあり得るだろうか。千尋がセイバーの存在を確かめようと声を掛けるも、斎藤からの返事が返って来ない。
何処かで置いてきてしまったらしい。これは拙い。此処は聖杯戦争の舞台地。斎条家が居を構えている街なら兎も角、土地勘がない千尋がもし敵陣営のサーヴァントに見つかれば、何処に逃げてたらいいのかもわからないまま、最悪命を落とす。
微かな音も聞き逃さないよう周りの気配に集中し、千尋は自身の身体に定着している魔術回路を開いた。
何事もなければいい。そんな願いも虚しく静かすぎる世界には、葉が落ちる程度の音ですら耳に届く。
後ろから迫る気配と殺気に、千尋は咄嗟に振り向き脚を身体強化させて逃げようとするも、眼前まで迫っていた得物に目を張った。
振り翳される刃物との距離、ざっと数センチ。脚が身体強化された千尋が脱兎の如く飛び上がるのと同時に、白刃の一撃が振り翳される。
金属がぶつかりあう甲高い音が辺りに響き渡った。
「挨拶にしちゃあ、随分なもんじゃねぇの? あんたら」
「セイバー!」
「よお。遅くなったマスターちゃん」
「何処に行って――……セイバー、あれ、敵だよね」
「だろうな」
無責任にも何処に行っていたのだと責めかけた口を噤み、千尋は頭を振って斎藤と対峙している敵サーヴァントを見据える。
暗くて見えにくいが、間違いなくサーヴァントだ。だが、姿を確認しようにも、敵サーヴァントは姿を消してしまっている。見えないが間違いなく近くにいるであろうサーヴァントを前に下手に動くことは出来ない。
「どうするマスターちゃん」
「何とか切り抜けて家に帰りたいけど、倒さないと無理かな」
「だろうな。敵さん姿も気配も見せないくせに殺気だけは飛んでくる。逃がす気はねぇって感じだ」
倒すことは出来なくとも、逃げる隙くらいは作りたい。
やったことはないけれど、一か八かやってみてダメだったらまた考えよう。今すぐ攻撃をしかけて来ないということは、マスターからそういう指示が下っているか、私たちの戦力を図りかねているからだ。
「セイバー、ちょっと耳を貸して」
「んあ?」
「私が適当な所に渾身の火柱を立てる。それで逃げるからセイバーは私を追って来るであろうあのサーヴァントを倒して。以上」
「いやいや、あんたが死んだらどうする気なんだ。そんなずぼらな作戦で――」
「大丈夫。死にはしないから」
千尋は人差し指で斎藤の太腿に見えない文字を書き、流れるように自称渾身の火柱を立てた。それは柱というより最早壁に近い。
身体強化された千尋は炎で出来た壁に背を向け走り出せば、炎が一瞬揺れた。
空気が鋭さを持って動いたのでなれば、姿を見せないアサシンが千尋目掛けて動き出しただけだ。
千尋は建物に沿うように走っている為、不意打ちを狙うとしたら正面か、建物の反対側からの攻撃しかない。炎の中を正面突破して来たり、わざわざ建物を破壊してくるなんて時間のかかることをする筈もない。自分は正面を、背後はセイバーに任せておけば、間違いなくこの場から逃げることが出来る。
刃物が風を斬り、再び襲う刃物を前に、千尋は硬化のルーンを施した鞄を盾にするよりも早く、斎藤がアサシンの姿を捉えその背中に刃先を上から下まで食い込ませた。
「ぐァッ!!」
「あんたが来る場所はわかってたんでな」
「セイバーこのまま逃げるよ!」
「わかってますよって」
脚を身体強化している千尋は大きく音を立てて倒れたサーヴァントをかなぐり捨てて高く飛び上がると、斎藤はその後に続くように飛び上がり、下から千尋を横抱きで回収すると、その足で冬木市を後にした。
「何か、いつもより、移動が楽なのは、さっきマスターちゃんが僕の脚に何か書いたお陰?」
「ん? ルーン魔術って言ってね、斎条家がお得意の魔術なのよ」
「なるほどなぁ。まぁ、時代が経てば色々変わるだろうが……ちと、変わり過ぎなんじゃないの」
「何が?」
「こっちの話しだ」
「そう?」
大冒険と言うべきか、大奮闘と言うべきか。マスターとなって二日目にしてサーヴァントと対峙し、見事にそれを退ける働きを見せた千尋は、緊張感から解放された所為もあり、こくりと頭が船を漕ぎ始めている。
バスの揺れよりもずっと暖かくて心地いい腕の中で、千尋は夢の世界に飛び立って行った。
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BAMBI