藤丸立香の部屋 その後


「……っ! 聞いてないのは、私の方だ……!」
「俺だって主の本音聞いてないんだけどな」

 第二回藤丸 立香の部屋が終わった直後。牡丹は部屋の中で項垂れていた。
 原因はつい三十分前にある。

 ――プツン。と、ひとりでに部屋に備え付けられているテレビ画面が付いた。
 どこかリモコンに触れてしまったのだろうか? と、牡丹が首を傾げると、何処かで見たことがある部屋が映し出された。その部屋はつい先日、牡丹が藤丸に呼び出された部屋と同じだった。

 もしや、これ……あの時撮っていたものが放送されているのでは? と半ば警戒心を抱きながらも、画面を見続けていると、見慣れた男が部屋に入って来た。

「え、燕青!」

 なんであの男があそこにいるんだ。まさかこれ、カルデア館内で放送されているわけじゃないだろうな。

 その事実を確認しようにも、燕青が何を語るのかが気になり、牡丹は部屋から出ることも出来ない。いつかのように藤丸の明るい声がマイクを通して部屋に広がる。
 テンポよく二人の会話が進んでいく。その度に牡丹は息を短く吐き出した。

「――ハッ、ァ……ハァッ」

 知らなかったでは済まないほどの業だった。
 その時の自分はそれが最善の手だと信じて疑わなかった。残される者の気持ちを考えていないわけではなかった。それでも、それでも――生きていて欲しい、という気持ちが勝ったのだ。
 ――でも……。
もしもう一度、あの時、あの選択をすることがあるとしても、同じ選択をするだろう。
 燕青に何を思われようと、牡丹の中に共に死ぬ。という選択肢はないのだから仕方がない。黙って恨まれよう。

 ごめん、ごめんね。
 愛してしまってごめんね。私が我がままでごめんね。
 ありがとう。愛してくれてありがとう。こんな私を、愛してくれてありがとう。

 どんな言葉で表せば、この気持ちをちゃんと伝えることが出来るのだろうか。
 どうやって伝えたらいいのだろうか。

 ベッドに腰を掛けて項垂れていると、部屋の扉が開いた。
 この時間誰かが訪れる予定はなかったはずだが。と視線を今しがた開いた扉に向けると、さっきまでテレビの向こうにいたはずの燕青がそこにいた。

「燕青……」

 随分情けない声だった。
 生前を含め、牡丹のそんな声を燕青は聞いたことがなかった。
 迷子の子供のような、不安しかそこにはなくて、どうしていいのかわからない。そんな声を発した牡丹は、燕青から目を逸らした。

 どんな顔で燕青を見ればいいのかがわからなかったからだ。

「すまない。すまない……私は、お前に……!」
「俺に?」
「謝らないといけないのに、私は……! 私は、自分の選択を間違ったとは、どうしても思えないのだ!」
「……ん」

 俯き何かをせき止めるかのように顔を両手で覆った牡丹。あんなに大きく見えていた彼女の姿が燕青の目に今は小さく見える。

こんなに、小さい女だっただろうか。彼女から使命を取ったら、か細い線をした頼りない身体をした女だったのだろうか。
 そうだ。この人は弱い人だった。

「――主」
「今、私はお前の主ではない。お前の主たる理由がないのだ」

 違うのだと、首を左右に振る牡丹が腰を掛けているベッドに近付く燕青。
 足音を殺して、細い肩を震わせて泣いている牡丹に気付かれないように。

「……牡丹」

 何百年ぶりだろうか。
 幾星霜、時間を重ね、関係を変えたあの時から呼ばなくなった主の名前。喉が張り付いて名前を呼べなくなってしまったかもしれない、と一瞬心配をした燕青を他所に、案外すんなりと女の名前を呼ぶことが出来た。
 あの時以上の熱を乗せ、喉の奥を震わせた。

「牡丹」

 再び燕青が牡丹の名前を呼ぶと、俯いていた牡丹が顔を上げて燕青の翡翠の瞳を見つめた。
 どんな顔を見せればいいのかわからない。と言っていたはずの女は、真っ直ぐに翡翠の目を見据えている。

 そうだ。この女はこういう女だった。か弱いと思わせておいて、不意に内に潜めていた強さを見せつけて来る。それが彼女の魅力の一つだった。そういう一面に自分は見惚れていったんだった。と燕青は牡丹の瞳に過去の思いを懐古した。

 燕青が牡丹の隣に座って腕を伸ばし、女の頬に触れた。藍色のガントレットでは牡丹の体温を直接触れることが出来ない。だというのに、今の燕青には牡丹の体温が手に取る様にわかった。
 真っ赤に染まっている頬。瞳を潤ませ、小刻みに震えている。

 ――熱い。

 そう感じたのはどっちだったのだろうか。
 少なくとも牡丹は、身体の内側からこれでもかという程上昇していく体温に気が気ではなかった。今まで燕青に触られたことだってあるのに、どうして今になってこんなにも恥ずかしいと思っているのか。頬に触れている手を振り払ってしまいたい。そうしたらこの心臓の高鳴りだって落ち着くのに。

 だけど、だけど――。
 触れていて欲しい。このまま、時間がゆっくりと進んでくれればいい。

 そんな願いすら生まれて来る。
 好きだって言っている翡翠の瞳を見ていたい。
 そんな欲に従うように牡丹は燕青に向かって手を伸ばすと、男の頬に触れる前に藍色のガントレットに包まれた。
 金属のような無機質な手が柔肌を包む。随分と大きな手だった。

 掌を撫でる親指を反射的に掴むと、燕青は、ふっ、と吐き出すように笑った。

「何故、笑うんだ」
「あんたが可愛いからって言ったら、怒るかい?」
「お、怒らない……ただ、言われ慣れていないから、反応に困る、な」

 「そうだろうな」。そう言った燕青は牡丹に触れている両方の手を離した。
 一瞬その手を追ってしまいそうになったが、燕青が両腕を牡丹に差し出した為にピタリと動きを止めた。
 一体どうしたいのか。と牡丹が燕青を見上げれば、燕青は翡翠の目を細めて言った。

「あんたに直接触れたいから、だから、これをあんたに――牡丹に外して欲しい」

 それは燕青の弱さが表れた懇願だった。
 全てを藤丸に吐露した時、間違いなく主を殺したいと言った。勿論牡丹が聞いていることを承知の上での発言だった。
 誤魔化しの利かない本心。それすらも受け入れてくれるのであれば、どうか、この籠手を外して欲しい。

 ――あんたの意志で。

 微かに震える藍色のガントレットに牡丹の小さな手が触れた。
 するりと表面を撫で、燕青の指先を握る。

「大きいな。いつもこの手に私は助けられていたのだね」

 牡丹に掌を見せていた燕青の手をくるりと回転させ、手の甲を天井に向けた。小さく柔らかい手が無機質な手を掬い上げる。

 愛おしい。

 胸の奥。牡丹の感情を司る何重もの扉がある心の最奥で、愛おしいと悲鳴を上げている。
 燕青の手の甲に自分の額を重ねた。

 刹那、男の心臓が大きく跳ねた。

「――!」
「君が私のものであるのなら、私は君のものだよ」

 誰のものでもない。この身体は時のマスターのモノなのかもしれない。でも、心は違う。いつだって、どんな時だって、この胸の内はお前のものだ。

 牡丹が紺色のガントレットの金具を外していく。今は傷一つない籠手だが、生前は沢山の傷をつけていたのを覚えている。
 がちゃり。と音を立てて紺色のガントレットが外され、燕青の素肌が空気に触れる。手首にまで彫られた刺青が牡丹の眼下に晒されると同時に、ゴトッ、と音を立てて用済みになったガントレットが床に落ちた。
 牡丹が床に落としたのではない。牡丹の手から籠手を奪った燕青が落としたのだ。

 主の矛となり盾となり活躍してきた相棒が、今は虚しくも床に転がってしまっている。
 思わずガントレットに手を伸ばした牡丹に宵闇の声が囁いた。

「触ってもいいんだな」

 ガントレットに伸ばしていた手が空を切り、牡丹の身体が暖かいものに包まれた。
 まさに一瞬の出来事。気が付けば、牡丹は燕青に抱き締められていた。
 後頭部を支えるように添えられた手。腰に回る逞しい腕。胸が潰れるくらい強く抱きしめられ、男が触れている全ての箇所から熱を感じ、波紋のように温もりが広がっていく。
 痛いくらいに抱き締める燕青の腕に呼応するように、牡丹も燕青の背中に腕を回し、腕に力を込めた。

 愛している、愛している。この気持ち全てが伝わればいいのに。
 赤裸々に暴かれてもいい。君になら。何をされたっていい。

 燕青を想うだけでこんなにも幸せな気持ちになれる。こんなこと、君に出会うまで知らなかった。人はこんなにも他人を深く想えるものなのだと教えてくれたのは、紛れもなく燕青。――君なのだよ。
 
 きっと、この感情はどんな言葉に変えても全ては伝わらない。
 世界に沢山の言葉があろうとも、どの言葉もこの湧き上がる熱を正確に表現するものにはならない。

 だから人は、この言葉に全てを託すのだろう。

「愛している」
「――っ、牡丹!」

 そっと燕青の胸の中で呟いた。たった五文字に託す思いの一部でもいいから伝わってくれ。
 そんな牡丹の願いに反応するかのように、燕青が堪らず女の名を呼んだ。すると牡丹は燕青の逞しい胸に埋めていた顔を上げて、燕青を見つめた。
 堪えきれない。溢れる何かを塞き止めることが出来ない。と潤んだ翡翠が訴えている。

「燕青」

 女の声が濡れた声で男の名を呼んだ。

「牡丹、牡丹、牡丹……!」
「聞こえているよ」

 燕青が「牡丹」と名前を呼ぶ度、理想の主の仮面が剝がれていく。
 ただの、何も持っていない「牡丹」になっていくのを感じる。

 身体の真ん中、腹の奥底からじんわりと染みを作るかのように広がっていく熱源。もしくは暗闇に浮かぶ月のような柔らかい光。これを人は何て呼ぶのだろうか。
 二人にはわからなかった。
 二人にはそれを知る機会がなかった。お互いを思い合い、お互いを尊重し、そして決別した。最愛の人を残して死ぬことを、いっそ幸せと呼ぶ女と、最愛の人が死にそれを裏切りだと罵る男。二人はお互いを思い合いながらも、一度も向き合ったことなどない。
 一人で育ててきた感情の名前は知っているが、二人で育てる感情の名前を知らない。

 同じ感情を抱く他人との間に出来る、淡くて、脆くて、切ないのに狂おしいほどに愛おしい何か。

 知らない。何も知らない。
 ――怖い。

 それはガラスよりも繊細で、触れるだけで壊れてしまいそう。
 壊したくない。もし、壊してしまったら、どうなってしまうのか。

 それなのに相手を求めてしまう。
 欲しいと、もう一人の自分が叫び、必死に手を伸ばしている。
 地獄の底から救いを求める罪人のように。自分を奈落の底から救えるのは、一人しかいないのだと泣いている。

「燕青……えん、せい……!」
「泣くな牡丹。……泣く、なッ、牡丹」
「君だって、泣いている、よ……ッ」

 二人の双眸から大粒の涙が零れた。
 何度も何度も頬を伝い、衣服を濡らしていく涙は、川のような跡を残している。

 どうして涙が出ているのかもわからない。
 自然と二人の顔が近付き、額が重なった。

 お互いの息遣いが感じられる。もしかしたら心臓の音すら肉や皮膚を超え、相手に伝わっているのかも知れない。
 それでもよかった。いっそ伝わってくれたらいい。

「……触れても、いいか?」
「えぇ。私は貴方だけのものよ」

 ゆっくりと心音が触れ合い、唇が重なった。
 海に浸かってもいないのに、唇の隙間から入った水は、ほんのり海水に似た味をしていた。

 





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