愛さなくていい。殺してくれたって構わない。キミが倖せになるのなら
プロローグ
*
――あぁ。痛い。身体中が痛い。今すぐ泣き喚いて、燕青に縋りつきたいくらいに痛いのに、そんな事はもう出来ない。
あんなに私の為を思って、怒鳴り引き留めてくれたのに、私はその全てを聞き入れないどころか、最後には君の理想としていた主の姿を犯してしまった。
国が腐敗していなければ。高俅さええなければ、私たちは今も隣で笑い合っていたのだろうか。否。そんな事はない。だってその日、君を拾ったのは戦の帰りだったのだから、こんな国でなければ、民が飢え苦しみ、生まれた事を後悔するような世相でなければ燕青と出会う事すら出来なかった。その事にだけは、あの男に感謝してもいい。
「牡丹!」
微かに聞こえる男の声は誰なのだろうか。
私は一体、誰に看取られようとしているのだろうか。
もう見えない視界は暗闇でしかなく、この目には何も映さない。違う。暗闇を映しているのだ。唯一音を拾っていた耳さえも正常に機能しなくなっている。
――これが死という事なのか。
最期に、もう一度だけ会いと思っていたのだ。と言ったら君はどんな顔をするのだろうか。怒るのだろうか、軽蔑するのだろうか、悲しむのだろうか、呆れるだろうか。きっと喜びはしないのだろうね。それでもね、君に会いたいと願ってしまう。
「っ、え……せい、あい、……」
「死ぬな! 牡丹!」
――あぁ、そこに、そこにいるのだね。
私の最期を見届けに来てくれたのだね。
すまない。君に情けない姿ばかり見せてしまって。すまない。従者一人信じてあげられない主で。ごめんね。君を一人にしてしまうような友人で。
この国の行く末と同じくらい、君の幸せを願っている。だからどうか、私の分も生きてくれないか。瞬きよりも早く過ぎるこの時代を、最期まで生き抜いて欲しい。
――二度と私に笑いかけてくれなくてもいい。
その声で私の名前を呼ばなくてもいいから。だから、どうか幸せになってくれないか。
「わた、し……の、つ――」
――愛おしい剣よ。
どうか、君の行く末に幸多からん事を。
玉麒麟と宮廷で名を馳せた男。名を盧俊義――牡丹は、皇帝の腕に抱かれながら短い人生に幕を下ろした。享年二十六歳。彼女の耳元を飾る赤いトンボ玉が、皇帝の流した涙で濡れ、小さな光を反射させていた。
二章 「明日は何処ぞと彷徨う旅人よ」
*
「我が名は、天罡星盧俊義。立てた武功は少ないけれど、主人の為に、この命掛けて戦う事を誓うよ」
「よろしく。私は藤丸立香。まだまだ新米マスターだけどよろしくね」
「よろしくマスター」
牡丹はサーヴァントとしてカルデアに召喚された。死後、英霊として座に登録された牡丹は、カルデアで召喚され、現界した。聖杯戦争で聖杯に呼ばれるのが普通なのだが、此度の戦いは聖杯戦争とは違い、人類の存続がかかっている。
内心牡丹は、自分は本当に力になるのだろうか。と不安を覚えたが、折角マスターに呼ばれたのだから、力を振るうに越した事はない。と気持ちを切り替え、藤丸の案内の元、カルデア内を見学する事になった。知識として現代の事を知っているつもりだったが、知識として頭に入っているのと、実際に見るのとでは大違いだという事を実感する事になる。
牡丹は目を輝かせながら、藤丸の背中を雛鳥のように追いかけながらカルデアを歩いていた。曲がり角に差し掛かった時、角の影から伸びて来た太い腕が藤丸の首に回った。牡丹の目に映る太い腕は藍色の籠手をしていて、籠手――基、ガントレットで包まれた手首には緋色の布が巻かれ長く垂れ下がっている。目視出来る肌には見事なまでの刺青が彫られており、濡れ烏の長い髪が男の素顔を牡丹から隠している。が、牡丹は顔を見なくても男の正体がわかった。
――燕青。
なんて声をかけていいか分からない牡丹は、男の名前を呼ぶ事も出来ず、ただ楽しそうに笑う藤丸と燕青を眺めていた。何の企みもない笑顔を浮かべている燕青と、今まで牡丹に見せていた笑みと全く違う笑顔を浮かべている藤丸。初めてその光景を見る牡丹でもわかる程に仲がいい。
これは黙って霊体化した方が良いかと、思案した牡丹に向かって一つの視線が向けられる。それは新米マスターである藤丸のものではなく、翡翠の瞳を持つ男の視線だった。
「で、あんたはなんで此処にいるんだ?」
「……久し振り、だな」
「えっ? 二人とも知り合いなの?」
藤丸は自分の首に燕青の腕が回ったまま、牡丹と燕青の顔を交互に見た。
翡翠の目をした男は新たに召喚された盧俊義を睨みつけ、盧俊義は苦しそうな表情を浮かべている。
これは生前に何かがあったのだ。と察した藤丸であったが、燕青――基、アサシンから真名を教えてもらっていない為に、彼の出典を調べる事が出来ないでいた。真名を知れば、戦闘において弱点等の対策を立てる事が出来るのだが……。と思っていても、燕青は今の所、活躍してくれているから問題はないが……。と藤丸は自分の首に腕を回している男を見上げた。
「アサシン……?」
不穏な空気が廊下に流れている。髪の長い男が発しているのは殺気とも呼べるもので、藤丸は不安気に男に声をかけたが、燕青の呼び名を聞いた牡丹は首を傾げた。
――アサシン?
アサシンとはサーヴァントの暗殺者クラスの事で、決して一個体の名前ではない。燕青という名前があるにも関わらず、藤丸は燕青の事をクラス名で呼んだ。
此処ではそういう呼び方をするのか。と牡丹は考えるも、藤丸が牡丹の事を「盧俊義?」と呼んだ為に、その説はすぐさま覆された。
では、どうして? と牡丹が疑問を問うより先に燕青は口を開いた。
「俺は、あんたを許せない」
「……あぁ、わかっている」
――あ、胸が痛い。
じくりと胸の奥が痛んだ。原因が何かなんて態々自問しなくともわかっているが、牡丹は燕青に生前の事を謝るつもりはなかった。間違った選択を取ったつもりはないし、先の事がわかっていたとしても、同じ選択肢を取ったであろうと自覚しているからだ。
壊れていく梁山泊に所属していても、身を滅ぼすだけだったのは目に見えていたのはわかっていた。燕青の忠告に従い、逃げる事だって出来ただろう。それでも逃げたくはなかったのだ。
従者に対して何も説明しなかった。それに対しても謝るつもりも、まして言い訳するつもりもない。それは、牡丹が一人の人間として下した決断であったのだから。
話を断ち切るように、牡丹は感情を言葉に乗せた。
「二度と会えないと思っていたよ」
薄く笑った牡丹に対し、燕青は怒りを抱き、感情そのまま握り拳を作り、それを壁に打ち付ける。その音は大きく、藤丸は肩を震わせた。
「マスターを怖がらせてはいけないよ」
「俺は! あんたに会いたくなかった!」
怒号の中に潜む悲壮感。燕青は藍色のガントレットに包まれた手で自身の髪を掻き乱した。乱れる髪は絹糸のようで牡丹は目を細めた。一方ただならぬ関係を察した藤丸は、するりと燕青の腕から逃げ出し、対峙する二人の間に立った。
「二人とも、ちょっと待った」
「マスター……」
「盧俊義の案内している途中だから、アサシン、また後でね。――行こう」
藤丸が牡丹の手を取り、歩き出した。自分よりも背の高い男を連れ立って歩く藤丸は、中々歩き難いのだが、今は、物理的に二人の距離を離すのが得策だと考え、早歩きでその場を後にした。藤丸に腕を引かれる牡丹は、燕青の前を横切った。
その時に男の顔を見たが、俯く男の顔に濡れ烏の長い髪が垂れ、表情を隠してしまっていて、牡丹は燕青の表情を窺う事は出来なかった。
目すら合わなかったか。と牡丹が溜息を吐いた。嫌われるだろうと思っていたが、此処まで嫌われているとは。と先程の燕青の様子を牡丹は頭の中で再生した。
目尻を上げて翡翠の目を鋭くさせて睨みつけ、唇を噛んでいた。怒気を隠そうともしないその態度は、間違いなく敵意から来るものなのだろうと、牡丹はマスターである藤丸に連れられながら燕青の心情を考えていた。だが、先程気まずくさせてしまった雰囲気をかえようと、前を歩く藤丸に声をかけた。
「マスター、どうしてクラス名なんだい?」
「――え? あぁ、アサシンの事?」
「アサシンはクラスであって、名前ではないだろう?」
どうしてなんだい。と首を傾げる牡丹を他所に、藤丸は歩きながらも視線を上に向け、人差し指を顎に当てて、何かを思い出すような仕草を見せた。その姿は人類の未来を任されている魔術師には見えず、何処にでもいる普通の可愛いらしい女の子のようで、牡丹は息を吐いたように笑った。
歩いていた藤丸の足が速度を落とし、遂には止まった。それに合わせるように牡丹も歩みを止めると、二人は向き合い視線を絡めた。
「召喚した時にね、名前を教えてくれなかったんだよね。どうしてなのかわからなかったんだけど、まぁ、アサシンが教えたくないなら、無理に聞く必要ないし、マスターとして認めてくれたら教えるって言ってくれたし、いいかなぁって」
「随分彼に甘いのだね。令呪でもなんでも、使えばすぐにわかるだろう」
「無理強いはしたくないから」
無理強いも何も、サーヴァントはマスターに従うものだろう。サーヴァントはいわば使い魔だ。主人の思う通りに動かなくて何が使い魔なのだろうか。と牡丹は困ったように笑う藤丸を見下ろした。
生前の頃に比べて幾らか身長が高い身体は、本当の男のような体格になっている。生前は間違いなく女としての生をうけた筈なのにどうして……とか、霊基がどうなっているのか。とかは気にしない方がいいのである。自力で霊基を弄ってクラスを変えている連中もいるのだから、身体が本当の男のようになっていても、何の問題もないだろう。そもそも、男の姿であるのは恐らく――。
いや、その話は置いておいて、だ。
牡丹は心の内で首を横に振ってマスターを見下ろした。お人好しとも呼べる少女の姿に、彼女ならば。と一縷の光を見出した牡丹は、藤丸の手を取って自身の口元に、藤丸の指先を近付けた。
今にも口付けしそうな距離に藤丸は驚き、上半身を後ろに逸らしたが、牡丹との距離は変わらないままである。
「マスター。貴方の人柄に見込んでお願いがある」
「えっと……何かな?」
「えん――アサシンの事です。どうか私の代わりに、彼の傷を癒してはくれないか」
「傷……?」
「頼んだよ」
――あなたなら、燕青の傷を癒す事が出来るかも知れない。
マスターである藤丸に自分でつけた従者の傷を癒してもらうなんて、普段の牡丹ならしない行為だ。間違いを犯したなら謝り罪を償うし、必要とあらば、金で解決する事もある。どんな手を使ってでも後始末は全て自分で行っていた牡丹。いうなれば、牡丹は初めて他人に自分の後始末を任せたのだ。
「――アサシンが私に真名を教えてくれないのと理由があるの?」
橙の瞳で真っ直ぐ牡丹を見つめる。その瞳からは不安や、疑念を孕んだ視線に牡丹は眉尻を下げ、困ったように笑う。藤丸の疑問に頷いて答えた牡丹は、藤丸の手を取ったまま廊下の冷たい床に片膝を付けた。その仕草は忠誠を誓う騎士のようで、神に祈る信者のようでもあった。
「どうか。どうか――」
彼の傷を癒しておくれ。その為になら何でもしよう。
藤丸は牡丹にとって二人目の膝を付けた相手であった。一人目は生前の頃に仕えていた皇帝。それ以外の誰にも、上官であった高俅にも膝を付けた事がない。忠誠を誓うと言うのはそれ程重たく、覚悟のいる事なのだ。燕青の傷を癒してくれるのなら、忠節でも忠誠でもなんでも誓おうなんて、余りにも自分勝手で都合のいい話だ。然し、今の牡丹には自分を差し出す以外の術はなく、まだ子供とも呼べる藤丸に縋るしか他はない。
牡丹は藤丸の手の甲を自身の額に当て、祈り懇願するように両目を瞑った。
マスターとして認めたら教えるというその言葉が本当になるように。
牡丹がカルデアに来て数日。先に召喚されたサーヴァントとも顔を合わせ、カルデアのスタッフとも順調に会話をするようになっていた。大きい施設であるカルデアだが、サーヴァントが一日の中で多く現れる場所と言えば決まってくる。そうなると燕青と顔を合わせる確率も高くなるもので、大半のサーヴァントとスタッフが集まる食堂では頻繁に顔を見るが、その大半を燕青はマスターである藤丸にぴったりとくっつき、楽しそうに笑みを浮かべていた。
幸せそうでなにより。と老人が孫を見るかのような目で見ていると、牡丹の後頭部に軽い衝撃が走った。それはドアをノックするようなもので、痛くはないものの牡丹は咄嗟に後頭部に手をやり後ろを振り返ると、呆れた顔をし牡丹を見下ろすエミヤの姿があった。
「エミヤ! 君も昼餉かい?」
「盧俊義、折角の料理が冷めるだろう」
「今日の昼餉も美味しいよ。君は素晴らしい才能があるな」
「そう思うのなら、温かいうちに食べて欲しいのだがね」
それもそうだ。と牡丹は苦笑いを一つ零すと、箸を手に取り食事を再開した。牡丹の後ろに立っていたエミヤは、牡丹と椅子一つ間を開けて席に座った。
エミヤは藤丸がアーチャークラスで初めて召喚したサーヴァントであり、このカルデアの台所を任されているサーヴァントでもあった。初めてエミヤを紹介された牡丹は、先輩と言う事もあり「エミヤ殿」と呼んだが、本人から呼び方を却下され、今は呼び捨てで収まっている。先輩アーチャーという事で、アーチャーとしての戦闘経験が少ない牡丹の指導を担っている男は、皮肉屋であるものの、生来の面倒見の良さが出ている為に、何かと牡丹を気にかけては声をかけている真面目な男である。
そんな男の視線は自らが作った湯気の立つ料理ではなく、楽しそうな笑い声を食堂に響かせている藤丸に向けられている。
「エミヤ? 食べないのか?」
「……あのアサシン。以前にも増してマスターから離れなくなったな」
「そうなのか? 私が此処に来てからずっとあの光景を見ているが」
「前はもう少し距離があったんだがな」
エミヤの言葉に牡丹は意識を目の前の料理から、藤丸に後ろから抱き着いている燕青に向けた。その表情は笑ってはいるものの、何処かに違和感があるもので、牡丹は無理をしているのだろうか。と親心に近い感情を燕青に向けた。
「まぁ、特に気にする必要はないな。マスターも楽しそうだからな」
マスターも、ねぇ。と牡丹はもう一度燕青の横顔を眺めた。
ふと翡翠の瞳が牡丹の視線とぶつかった。目を逸らす事も考えた牡丹だったが、逸らす理由もないと翡翠の瞳を見るも、燕青はすぐに視線を逸らし、藤丸に話しかけた。
「何だあれは」
驚きと呆れが混じったエミヤの声に対し、視線を逸らされた牡丹はさして気にしていない様子でエミヤを宥めた。
「エミヤが気にする事ではないさ。それよりも早く食べよう。折角の食事が冷めてしまう」
「君のは大分前に冷めてしまっているがね」
「これは手厳しいな」
牡丹の前に置かれている料理から立っていた筈の湯気は、知らない間に逃げてしまっていて、硝子のコップには水滴がしたたり、カランと角が丸くなった氷が音を立てた。
――私はどうして英霊になったのだろうか。
その疑問は牡丹が暇を持て余した時に考える事の一つであった。
与えられた必要最低限な家具しかない白い部屋で、牡丹は寝台に腰を掛けて天井を見る。
サーヴァントをサーヴァントたらしめるものは、人々の信仰他ならない。牡丹の場合、時の皇帝が書き記した英雄奇譚の知名度が牡丹を英霊としてまで格上げしたのだ。今でも親しまれている英雄奇譚は、しっかりと盧俊義の生き様が描かれている。
だが、牡丹はふと自分の無力さを感じてしまうのだ。
カルデアには藤丸が召喚した素晴らしいサーヴァントが多くいる。その中でどうやって存在を示せるだろうか。必要とされる事が果たしてあるのだろうか。と不安ばかりが頭の中を横切っていく。
「あー、やめよう」
こんな事を考えていても気が滅入るだけだ。と牡丹は首を左右に振って寝台から立ち上がり部屋を出た。かと言って牡丹に何処か行きたい場所があるわけでもない。然し何かをしていないと余計な事まで考えてしまいそうで、目的もなく牡丹は足を前に動かした。
ふらりと視線を彷徨わせながら牡丹はカルデアの中を見学している時だった。
曲がり角の影から伸びた手に腕を掴まれた。引き寄せられた反動で、牡丹は背中を壁に打ち付ける。
「――何用だ」
発した声は低く、牡丹は自分を引き留めた人物を睨みつけた。だが、牡丹を引き留めた男も負けじと牡丹を睨みつけている。
睨みつけたまま何も言わない二人の間には、瞬きの間があったが、牡丹が再び口を開いた事でその間はたちどころに消え失せた。
「燕青……いや、アサシン。何用だ」
「なんで、あんたが召喚されたんだ。あんたとマスターは何の縁もないだろ」
何を突然。と睨みつけていた瞳を丸くする牡丹だったが、何か遠いものを思い出すように視線を左に向けた。
「さぁ。マスターが私の触媒を持っているとは思えないが。強いて言えば彼女の問いかけに応えたからだろうな」
もう何て問われたのかは覚えていないが。と牡丹は小さく零した。大方世界を救う為に力を貸してくれないか。とでも言われたのだろう。
何処か他人事のように数日前の事を思い出そうとしている牡丹を前に、燕青は込み上げる怒りを正常に処理出来ないでいる。藤丸に呼ばれたその日から燕青は自分の感情に名前を付けられないでいた。
藤丸が新たなマスター。――主なのは頭で理解は出来る。だが、理解はしていても信頼出来るわけではない。生前のように裏切られるかもしれない。捨てられるかもしれない。
……守れないかもしれない。そんな考えが燕青の頭の中を駆け巡る。だから藤丸にも真名を教えなかった。名前を教えるのは自分の全てを教える事と同じ事だ。何せ自分は英霊。調べようと思えば、幾らかは資料が出てくるだろう。それに、此処にはあのイタリアが生んだ万能の天才とイギリスが生み出した名探偵がいるのだ。調べようと思えば資料に乗っていない事までかなり正しい推論として、藤丸に伝わるに違いない。
――いや、もう遅いか。
盧俊義が召喚された今、真名がバレるのは時間の問題だ。
「俺を笑いに来たのか?」
「そんな事をするはずがないだろう」
「俺を憐みに来たのか?」
「燕青! いい加減にしろ!」
燕青の言葉に牡丹は怒鳴った。そんなわけがないだろう。と声を大にして制止した。その行為に燕青は内心安堵を覚えたのだ。
牡丹との主従関係から解放された今でも、燕青の心を縛っているのは依然として牡丹であって、現在のマスターである藤丸ではない。
だからこそ、藤丸ではなく牡丹の言動に、一々心が動くのだ。
「お前、本気でそう思っているのか」
「俺は……――」
怖い。と燕青の声は男の口の中で消えていった。
燕青は無言のまま牡丹の腕を離し、霊体となって自ら姿を消した。気配を探ろうとしても、生前の頃ならいざ知らず、今の気配遮断スキルを持っている燕青を見つけられるわけがない。と牡丹は壁から背中を離し、また目的もなく歩き出した。
何処に行くわけでもなく、ただ足を前に動かしていると、今度はアルトリアと出会った。
アーサー王伝説の中では男とされている人物は、実は女だという事を知った牡丹は、自分の境遇と近しいものを感じ、見かければ話しかけるような仲になった。
「アルトリア」
「盧俊義でしたか。こんな所でどうしました?」
「当てもなく彷徨っているだけだよ。君はどうして此処に?」
牡丹が視線を横に向けると、休憩室があり、アルトリアが此処に来る事はとても珍しい事で、牡丹は疑問を持ったまま首を傾げた。
「私も何となく……でしょうか」
「では、この商人とお茶でも如何かな?」
「いいですね」
二人は休憩室に入り、一人用にしては大きなソファに腰を掛けた。子供や細身の女性なら二人は座れそうなソファは、体格が大きな英霊に配慮した作りとなっていて、男の体格に近付いている牡丹ですら左右に余裕がある位だ。
女の身体であるアルトリアは更に広く感じているのだろう。と牡丹がアルトリアに視線を向けると、翡翠の瞳と絡まった。全く違う人物の筈なのに、翡翠の瞳を見れば頭に思い浮かぶのはたった一人しかいない。例えそれが目の前にいるのが違う人物だったとしても。
「盧俊義? どうしました?」
「いえ、何も。何か淹れようか」
「盧俊義は確かアーチャーから厨房に立ってはいけないと言われていましたね」
「あぁ。それは刃物の扱い方が乱雑だからであって、紅茶くらいなら大丈夫さ」
牡丹の刃物の扱い方は生前から何も変わっていない。果物を剥く事は出来るが、出来るのはそれだけであってそれ以外は何も出来ない。家にいた頃は女使用人が料理を作っていたし、旅に出るようになってからは、燕青がやっていた。つまるところ、牡丹に料理を作る機会なんてものはなかったのだ。
初めて調理をしようと思い立ち、具材を切って鍋に火をかけた。すると何とも言えない異臭が辺りに影もなく広がり、エミヤが厨房に駆け付けた時には、鍋の中身は黒くなっていて、とてもじゃないが人――いくら英霊でも食べればタダでは済まないような仕上がりになっていた。
エミヤ曰、誰かに誘導されたような気がしたが……。との事だ。厨房付近にいたカルデアスタッフは一様に鼻を抑えて床に蹲っていた。
それからというものの、牡丹はエミヤより厨房で料理をしてはならない。と、きつく言われているのだ。
「お待たせ」
「いい匂いですね」
アルトリアはティーカップを指先で摘まむように持つと、仄かに湯気が立つ琥珀の液体を口元に持って行った。僅かにティーカップを傾け一口分、口に含むと目尻を下げ穏やかな表情を浮かべた。言外に「美味しい」とアルトリアが語っていて、牡丹は頬を緩めた。
金色に輝く騎士王は何口か琥珀の液体を口に含むと、何かに気が付いたよう視線が牡丹に向けられた。
「そう言えば、盧俊義は戦闘経験が少ないのですね」
「――えぇ。確かに弓を使った戦闘経験は少ないな」
盧俊義であればなおの事少ない。ただ戦場に立った事がないというわけではない。勿論槍を握っていた時なんかは、先陣を切って戦場を駆け回っていた。その所為で燕青は気が気じゃなかったのだが、牡丹はそんな事今でも露程にも知らない。
「君にもエミヤにも迷惑をかけているな」
「いや、それにして――この匂いは!」
「アルトリア?」
勢いよく立ち上がったアルトリアは、首を振って匂いの発生元を目視しようとしている。
そもそも何の匂いなのかもわからない牡丹は、アルトリアの突然の行動に何事かと一瞬焦りはしたものの、騎士王の輝いている翡翠の目を見れば、何か美味しいものの匂いなのだろうという事がわかり、食欲旺盛なアルトリアに向かって困ったように眉尻を下げて牡丹は笑った。
この騎士王は食に対して、些か貪欲な所がある。翡翠の目を輝かせているアルトリアは、休憩室正面の廊下で、右手に何かを持つエミヤを見つけると、口を大きく開いた。
「アーチャー!」
「――なんだ。お前たちか」
色素の薄い――基、銀色に近い髪と褐色の肌を持つエミヤは、アルトリアに名前を呼ばれると、牡丹たちの方に視線と足先を二人に向けて歩く。
「その匂いは……クッキーですね」
輝かせている両目を閉じたアルトリアは、エミヤが右手に持っている桃色の小包から零れる香ばしい匂いを、白く小さな鼻で数回嗅ぐと、間をおいて自信満々といった顔で小包の中に入っているであろう焼き菓子の名前を答えた。
その様は、まさに名探偵。と賞賛しても差し支えないように感じる牡丹だったが、自分の隣に立つエミヤを見上げると、呆れた表情でアルトリアを見ていた。その中で「アルトリア流石だ!」なんて言ったあかつきには、エミヤに白い目で見られる事は火を見るよりも明らかだ。
「お前は相変わらず鼻が良いな」
「アーチャーが作ったのですか?」
「いやマスターだ。俺はたまたま厨房の横を通りかかった時に、お零れを貰っただけだ」
「成程。では私も厨房に行くとしましょう」
そう言ったアルトリアは、お零れを貰いに厨房に向かって駆け出した。それを見送った牡丹とエミヤは呆れたように笑った後、牡丹はエミヤに視線を向けた。
「存外君はアルトリアに甘いのだな」
「そんな事はないさ。それに彼女に甘いのは君の方だろう」
「どうかな。……ところで、クッキーってどんな食べ物なんだい?」
褐色の右手が包むように持つ、桃色の小包に視線を向けた牡丹がエミヤに尋ねると、エミヤは切れ長の目を大きくさせ、驚いた表情を浮かべた。
しまった。と牡丹は焦り、両手を胸の高さまで上げて首を左右に振る。
「違う。決して君のクッキーを食べたいとか、そういう意味で言ったわけではない。知識として知ってはいるのだが、実物を見た事がないだけだ」
「何も取られると思って驚いたわけじゃない。知らなかった事に驚いたんだ」
エミヤは休憩室の一画にある給湯室に入ると、ティーカップとソーサー、それと丸い皿を取り出し牡丹がいる所まで戻ると、大きなソファに腰を掛け、丸い皿の上に桃色の小包を置いて、蝶々結びになっているリボンを解き、藤丸が作った少し焦げ目のあるクッキーを空気に曝した。
「これが……!」
「一つ食べるといい。ティータイムとしよう」
その言葉を実現するかのように、エミヤは牡丹が用意したティーポットを右手で持ち上げ、自身が持って来たカップの中に琥珀の液体を満たしていく。適量になった所でポットをテーブルの上に置いて、足を組みカップを口元に近付け傾ける。
「どうした。食わないのか?」
「だが、これはエミヤが貰ったものだ。私が食べるべきではないだろう」
「つまり、君は私がクッキー一つ他人に与える事が出来ない、心の狭い男だと言いたいのか?」
「そっ、そんなつもりはない。君をそんな風に見た事なんて一度もないさ」
「だったら食べるといい」
牡丹は言われるがまま、皿の上にあるクッキーを一つ指で摘まむと、半分口に含みクッキーを折るように歯を立てた。サクッと割れるクッキーは見た目通り香ばしく、小麦と砂糖の甘さにバターの風味が口の中に広がり、牡丹は思わず左手を頬に添えた。
美味しさで頬が落ちるとはこういう事か。と言葉の意味を文字通りに知った牡丹は、その感動のままエミヤを見つめる。
初めての美味しさに感動する盧俊義を前に、エミヤはアルトリアに向けるような感情を抱いた。
つまり、手のかかる世話をしないといけないような奴。と再認定されたわけだが、そんな事を知らない牡丹は、目尻と眉尻を下げてこれでもかと表情を緩ませ、クッキーを咀嚼している。
「現代ではこういう甘味もあるのか」
「お前は見かけによらず甘いものが好きなのか。覚えておこう」
「生前から甘い物は好きな方だったな。特に桃が好きなのだ」
「ほう」
珍しく自分の事を口にする牡丹に、エミヤは気付かれないよう口の端を上げた。
口元に付いた焼き菓子の屑を指先で掃い、先程までの感動がなかったかのように落ち着きを払った牡丹は、ティーカップの持ち手を指で摘まみ、口元に近付けて一口分喉を潤した。
「あの子が看病してくれた時、桃を剥いてくれたのだ。それから私は桃が特別に思えてね」
「ほう」
「もう何度も食べた味だったのに、いつもより美味しく感じたのだ。不思議だろう」
それは誰に尋ねても、その感情は愛だろう。と答えるだろう。エミヤの目に映る盧俊義の顔は酷く穏やかで、過去の事を懐かしんでいるようだった。
英霊となった今、相手も英霊にならない限りもう二度と会う事がない。そうだというのに、英霊は生前の記憶を持ったまま、仮初の身体で現代に息をしている。
生前大切な人を作った英霊には辛い事なのかもしれない。と、過去に思いを馳せる牡丹を前に、エミヤは盧俊義の心情に勝手に同情した。
実際、牡丹が今頭の中に思い浮かべているのは、このカルデアにもいる燕青なので、エミヤの考えは、半分見当はずれなわけだが、お互い相手が今何を考えているかなんてわからないのだから、答えを知る手段もない。答え合わせをしないまま、穏やかに時間は過ぎていった。
エミヤが貰ったクッキーだったが、お裾分けをしてもらったのだから、マスターにお礼を言わなくては。と牡丹はカップの中の液体がなくなると、大きなソファから立ち上がり、休憩室を後にした。
今度は明確な理由があって歩き出した牡丹の足取りはしっかりとしたもので、何処か迷子の様に視線を彷徨わせていた時とは随分違う。
厨房が近くなって来ると、藤丸が焼いているクッキーの匂いが牡丹の鼻腔を擽る。まだ調理していたのか。と牡丹は口元を緩ませながら、厨房に続く食堂の中に足を踏み入れた。
そこには、藤丸と楽しそうに笑いながら何かを作っている燕青の姿もあった。
まさか燕青もいるとは思ってもいなかった牡丹は、一瞬立ち止まるも、鼻から息を僅かに吐き出して、藤丸に向かって声をかけた。
「マスター」
「盧俊義! 良いところに来た! コレ良かったらどうぞ」
「実はさっきマスターの作ったクッキーを食べたのだ。だからこれは他の人にあげるといい。私はあの一枚で十分だ」
「……美味しくなかった?」
橙の瞳が不安気に揺れて牡丹を見つめる。楽しそうに笑っていた表情をさっきまで見ていた為、藤丸の不安気な表情は泣いているようにも見え、牡丹は慌てて口を開く。
「違うよ。とても美味しかったさ。だがね、この焼き菓子はとても手間が掛かる物だろう。私に改めてくれるくらいなら、他のサーヴァントにあげた方が、多くのサーヴァントが君の作った美味しいクッキーを食べられるだろう。皆君の手作りを食べたがるからね」
「うーん……?」
それはどうだろうか。と首を傾げる藤丸に対し、取り敢えず泣かせないで済んだ。と胸を撫で下ろす牡丹。その二人を傍で見ている男が一人。翡翠の瞳は真っ直ぐに牡丹を見つめている。その視線は熱いものだが、勿論、愛おしい人を見るような視線ではない。牡丹の一挙手一投足を見張っているかのような視線に、牡丹は苦笑いを零した。
――随分と嫌われてしまったようだ。
じっと見張っているように見られるのは、あまり気分の良いものではない。牡丹は居心地の悪さを感じると同時に、燕青がちゃんと自分の意思で動いている事に嬉しさも感じていた。
生前の燕青は牡丹が「是と言えば是」であり、主従関係になってから、燕青は自分のやりたい事を殆ど言わなくなった。
唯一、強く意見したあの言葉を牡丹が退けた事で、その後トラウマになったりしていたらどうしよう。なんて英霊になった後心配したりもした牡丹だったが、燕青の様子を見る限り、どの心配は杞憂だったらしいと、何処か他人事のような安堵の息を吐いた。
「盧俊義? どうかした?」
「あ、いや。なんでもないよ。マスター」
「盧俊義の言うように他のサーヴァントにあげる事にするよ。だから次にお菓子作ったら、一番に、盧俊義に食べてもらいたいな」
「お安い御用だよ。マスター」
態とらしく右手を胸に当て頭を下げる牡丹に対し、藤丸は可笑しそうに「クスクス」と笑った。
「盧俊義は何を着せても様になりそう」
「まさか。アルトリアのような本物の騎士様に比べれば、悪戯も良いところさ」
「そうかな?」
アルトリアは性別を超えた、まさに騎士王である。金の髪に白い肌。身に纏う鎧は輝きを放っていて、態度も柔らかく話しに聞く騎士そのものである。理想の騎士王である彼の者に比べれば矢張り、自分は悪戯程度であると、藤丸に向かって言うと、藤丸は右手をひらひらさせ、目尻と眉尻を下げた。
「あれはどう考えても規格外だよ」
「ふふ、あのような人物になってみたかったがね」
生前の自分を懐かしむように笑う牡丹に対し、藤丸が口を開いた。
「盧俊義――」
「マスター。これ、焦げてねぇかい?」
「えっ! 嘘! あ、本当だ!」
確かに意識してみれば、仄かに香ばしい匂いがしないでもない。と、牡丹は意識的にクッキーの匂いを拾った。藤丸は慌ただしくオーブンに向かって小走りし、その近くには意地の悪い笑みを浮かべている燕青がいる。これ以上此処にいる意味もないだろう。と踵を返した厨房からは、藤丸の悲鳴と、燕青の笑い声が響いていた。
見事の丸焦げになってしまったクッキーを、藤丸が泣く泣くごみ袋に入れていると、燕青が藤丸の手に握られているごみ袋を取り上げた。
「しょーがねぇなー。マスターは」
「たまたまだから。大半は綺麗に出来ていたから!」
「はいはい」
軽口を叩くついでとばかりに、藤丸が手に持っていた天板も取り上げ、クッキングシートの上に乗っかっている、焦げてしまったクッキーを藤丸から奪ったごみ袋の中に入れていく。その手際の良さに、誰もが一度は驚くだろう。
身体中に刺青が入っている男に、こんな甲斐甲斐しい一面があったとは! と。
藤丸も最初の頃はとても驚いた。
燕青を召喚した時、飄々とした態度と全身の刺青を見て、もしかして怖い人なのかもしれない。と内心肩を震わせていたのだが、話してみるとそんな事はなく、たまに怖いと思う瞬間はあるが、然しこのカルデアにいれば怖いという感情が麻痺していくもので、燕青に対し藤丸は、怖いという感情以上に頼れる仲間としての意識が強くなっていった。
そんな藤丸の面倒を見ているのが、エミヤだったり燕青だったりしている。
特に燕青は従者としてのスキルが高く、藤丸がやりたい事を察して先回りし、藤丸が動きやすいように行動している。
だから一緒にいる訳ではないが、その従者としての有能さは藤丸の役に立ち、藤丸が信頼するに値すると、認識出来る要因の一つでもあった。
「なぁ、マスター……あいつの事盧俊義≠チて呼ぶのやめないか?」
「……それは、アサシンが盧俊義の名前を聞きたくない程、二人に何かがあったから?」
「マスターは俺の事調べてないのかい?」
燕青は藤丸の台詞に翡翠の瞳を大きくさせ、驚きの表情を露にした。
それは、てっきり盧俊義――基、牡丹がカルデアにやって来た時に、盧俊義の名前を調べた。またはあの天才と名探偵に何か言われたのではないか。と推測していたからだ。
然し、藤丸は「アサシンが自分から教えてくれるまで、調べない事にした」と、あっけらかんとした様子で答える。
「なん、で……」
――どうして俺なんかに、そこまで。
そこまで一英霊に対して心を傾けてくれるのだ。と燕青は自分よりも小さな藤丸を見つめる。
生前の主とは違う。まだ幼く、常に正解を模索し、迷い戸惑いそれでも前に進もうと直向きに努力している。
その直向きさや、素直さがこのカルデアで召喚された英霊に愛される所以なのだろう。と燕青は藍色のガントレットに包まれた自身の右手を心臓の上に置いた。
生前の主とは違う。そんな事はわかっている。それでも燕青は真名を明かせないでいる。
怖いのだ。ただただ、あの恐怖、暗闇がまた自分の心に巣食うと考えると息が詰まる。
この人こそ自分の主なのだ。と信じた牡丹に裏切られた衝撃は――死≠セった。
全てを捧げたつもりだった。何もかもを捧げ仕え傍にいた。それが二人の最善だと信じていたから……。
――失いたくなかったから。
だが、燕青のその思いが牡丹に届く事はなかった。牡丹は最後の最期、主人である事を選びはしなかった。
己の胸を掴み俯く燕青の耳殻が少女の声を拾う。
「だって、アサシンは知って欲しくないんでしょ? だったら調べないよ。それが普通だもん」
「マスターに秘密事を作るサーヴァントは普通なのかねぇ」
「普通だよ。人なんだから当たり前」
「マスターは俺たちがサーヴァントって事忘れているのかい?」
何処までも人として扱う藤丸に、燕青は淡い期待を抱くも、首を振り、話を切り上げるように言葉を発した。
「兎に角、盧俊義とは呼ぶなって話だ」
「んー、だったらなんて呼ぼうかなぁ」
さして困った様子もなく「どうしようかなぁ」とボヤく藤丸の耳に微かな声が届く。聞き逃してしまいそうな程の小さな声に、藤丸は燕青を見た。
「アサシン?」
「――牡丹」
「え?」
なんで唐突に花の名前……? と首を傾げる藤丸を他所に、燕青は吐き出すように言葉を紡いだ。
「牡丹。あの男の……渾名みたいなもんだよ」
「そうなんだ。男の人なのに牡丹かぁ。あぁでも、牡丹って渾名似合うね」
橙の瞳を細め笑う藤丸に、燕青はいつだったかの記憶を懐古した。
それはそうだろう。牡丹≠ヘあいつの真名なのだから。と燕青は息苦しく頷いた。
俯く燕青の表情を藤丸は見る事が出来なかった。出来ていたなら、こう声をかけていただろう。「アサシン苦しいの?」と。それ程までに燕青の表情は苦し気で、息をするのですら辛そうである。
幻霊を取り込み英霊としての形が出来上がる身になって漸くわかったのだ。
自分が自分ではなくなっていく感覚を。
「悪いマスター! 野暮用を思い出しちまった!」
急に顔を上げた燕青は溌剌とした笑みを浮かべ、藤丸に向かって藍色のガントレットに包まれた掌を立て、断りを入れると、一瞬橙色の瞳を大きくさせた藤丸だったが、深く追求する事なく感謝の言葉を口にした。
「え? わかった。片付け手伝ってくれてありがとう!」
「応! お安い御用ってな!」
燕青は足早に厨房を出て、足早にカルデアで与えられている自室に足を向けた。誰にも見つからないように、誰にも胸の内を触れられないように。今の燕青は過去にない程に無防備で、頼りなかった。
一滴の涙も流していないのに、泣いているその表情を見られない為にも、燕青は乱雑に扉を開き、音を立てて閉めた。
隣の部屋のロビンが何事か。と燕青の部屋の方に視線を向けたくらいだが、そんな事を知らない燕青は、再び自身の胸の上に咲かせた牡丹の花を掴んだ。
――あの時のあんたは……牡丹はこんな気持ちだったんだねぇ。
自我と呼べるものが何なのか、一体自分は何処にいて、誰なのか。この身が幻霊を取り込むまで知らなかった恐怖に、抗うどころか飲み込まれる。ソレに気が付かなければいい。
何も気が付かないまま飲み込まれ、流されればよかったのに。もしそうしていたら、こんな恐怖に陥る事はなかったのに。
「本当に馬鹿だなあ」
――俺が李師師大姐と義兄弟になった日。あの日にはもうあんたは自分が誰なのかわからなくなっていたんだろ。
それに気が付かないで、俺があんたを男にしてしまったから。だからあんたは自分の性別を自分で偽るようになってしまったのだろう。
一体いつから牡丹が自分≠失っていたのか、今の燕青にもわからなかった。国を変える。その意思だけは、姿や名前が変わっても変わる事のない牡丹の意思であったからだ。その為に牡丹は全てを費やしたのだから。
牡丹と久し振りに酒を酌み交わしたあの夜。
牡丹が燕青に求めたものが今漸くわかった燕青は、扉に背中を預け、ずるずると扉に貼りつくように身を屈めていく。広い背中は丸まり、敵を薙ぎ倒す藍色のガントレットに包まれた手は男の情けない顔を隠している。
あの時牡丹が燕青に求めたものは、安らぎでもなければ、安心感でもない。存在証明だったのだ。誰かに名前を呼んでもらう事でしか、自分を証明出来なかったのだ。
それが如何に孤独か。生前の燕青には想像も出来なかったのだ。
然し、幻霊になった燕青には痛い程よくわかる。幻霊を取り込み自分の一部とする事で、英霊としての形を保つ燕青の中には様々な幻霊の人格があり、それらは意思を持っている。
「なぁ。俺は誰なんだ? 教えてくれよ。俺の名前を呼んでくれよ――」
男は今にも泣きそうな声で、彼女が自分の名前を呼んでくれる事をただ求めていた。
「ぼたーん!」
「っ!」
牡丹が初めてクッキーを口にしてから数日。藤丸と牡丹は話す機会に恵まれず、顔を見かける程度の接触しかなかったが、目が合えばお互いに小さく手を振る。そんな細やかな日々は、藤丸が牡丹の真名を呼ぶ事で終わりを告げた。
食堂で飲んでいた水が器官に入り、盛大に咽た牡丹の背中を藤丸は労わる様に擦るも、牡丹の思考は混乱を極めていた。
どうして教えてもいない名前を知っているのだ。と半分だけ冷静な頭で考えるも、答えは出て来ない。
まさか燕青が教えたのか? と一瞬考えはしたが、嫌われているのだから、名前を出すのも嫌な筈と結論付け、ではどうして。と思考を巡らせる。
「牡丹? 大丈夫?」
「……すまないマスター。その名前何処から知ったのか聞いてもいいかい?」
牡丹の出典元である二つの話しの中に出てくるのは盧俊義≠ニいう男であって、牡丹の名前は出て来ない。それにこの姿――男の姿であれば牡丹≠ニいう名前は正しい名前ではないのだ。
藤丸は一瞬小首を傾げるも、溌剌とした笑みを浮かべ口角が上がった口を開いた。
「アサシンが教えてくれたの。牡丹って呼んでやれって」
その台詞を聞いた牡丹は、驚き固まった。
どうしてあの男がそんな事を……。と牡丹は藤丸から視線を逸らした。器官に入った異物は姿を消し、牡丹の呼吸は大分整っている。
呼吸はもう乱れていないのに、牡丹の思考は乱れに乱れている。燕青が牡丹の名前を呼ぶように言った理由は、一つしか思い浮かばない。
だがその可能性は限りなくゼロに近い。だからこそ牡丹の思考は乱れに乱れているのだ。
「本当に、アサシンが言ったのかい?」
「うん」
「……そうか」
――馬鹿だなぁ。
ふっと息を吐き出したように牡丹は笑った。藤丸はその表情を見て思わず頬を赤らめた。それは今まで見た事もなかったくらいに、優しい笑みを浮かべていたからだ。牡丹は藤丸を見つめながらも、意識は目の前の少女ではなく、遠い過去、自分が生きていた時代にまで遡っていた。
それは酒に酔い醜態を曝したあの夜。喜びの感情が牡丹のものなのか、盧俊義のものなのか、わからなくなってしまったあの夜。
――お前が私の名前を呼んで、そして抱き締めてくれたじゃないか。
お前が牡丹を求めてくれた。その事実があれば私はもう迷わない。あの時燕青が迷う事なく私の名前を呼んでくれた事、それがどれだけ嬉しかったか。君は知らないのだろうね。
震える程嬉しかったのだよ。何度も何度も私の名前を呼んでくれた。私は私だと言ってくれたその言葉に、涙を流した事。君は知らないだろうね。
今や牡丹にとって盧俊義と牡丹。その二つは融合しどちらの名前を呼ばれようとも、感情や思考が乖離する事も、迷子になる事もない。
「ははっ」
「牡丹?」
「本当にあいつは――」
――過保護だなぁ。
肩を揺らしながら笑う牡丹は、その右手で口元を隠すが、その行為に意味がないくらいに笑い声が右手の隙間から漏れている。
「何か面白い事言ったっけ?」
珍しく声を出して笑う牡丹を見た藤丸は、目を丸くさせ牡丹を見上げるも、牡丹は肩を揺らしたまま藤丸の視線に気付いていない。
「はぁー……変な所を見せてしまったね、マスター」
「牡丹って、今みたいに笑うんだね」
「と、言うと?」
普段そんなに笑ってなかっただろうか? 少なくとも、自分よりもエミヤの方が笑ってない印象があるが。と牡丹は小首を傾げ、自分よりも僅かに背の低い藤丸を見る。
すると、藤丸は橙の瞳で弧を描き、眩いばかりの笑みを浮かべた。
「いつもアサシンの事、心配そうに見てるんだもん。笑っている顔よりも、そっちの顔の方がイメージ強くて……。だけど、あんな風に笑えるんだねぇ」
「――そう、か……」
案外しっかりと周りを見ている藤丸は、燕青と牡丹の生前の事も何となく察してはいた。
多感な時期特有の少女の発想。基、数々の英霊と共に特異点の修復をして来た藤丸の出した結論はこうだ。
――牡丹とアサシンは、生前男同士でありながら徒ならぬ関係であったに違いない。
絶対にそうだ! だって刑部姫が言っていたもん。
刑部姫は、気配遮断スキルを使って燕青と牡丹の関係を探っていたのだ。そこで、刑部姫は気が付いた。常に二人は互いを意識している事を。口を開けば燕青は牡丹を責めるような口調になるが、その牡丹が誰かと話している時や、一方的に見かけた時。燕青は必ず相手を一度じっと見るのだ。影から観察している刑部姫は、その視線の意味を、一方的に送る熱の意味を考えていた。
牡丹がカルデアに来てから、燕青の様子が変わった事には気が付いていた。だからこそ二人の関係性が気になった刑部姫は、篭りっきりだった自室から外に出て、気配遮断スキルを最大限に使って二人を見ていたのだ。
間違いない。生前の二人は徒ならぬ関係であったに違いない。
刑部姫は、燕青と牡丹を観察し、憶測と多大なる妄想混じりの話を藤丸にすると、素直な藤丸はそれを信じた。その結果、多大なる誤解を招く事になるのだが、刑部姫も、藤丸も自分たちが誤解をしているなんて気付いてもいない。
まして、牡丹は目の前のマスターがそんな事を考えているなんて、雀の涙程度にも考えていない。
所変わり、藤丸と別れた燕青は、ここ数日で感じるようになった違和感に首を傾げていた。誰かに見張られているようなのに、その視線に鋭さはない。
――俺だけだったらまだしも。
その視線が時折牡丹にも向けられている事に燕青は気が付いていた。それが何を意味しているかなんて、少し考えればわかる事だ。
誰かが、俺たちを調べている。……その割には覇気がないのが違和感の原因なのだろうか。
どうにも奇妙な視線に、いい加減ケリを付けたいと予備動作なしで後ろに振り返り、眼鏡をかけた女をその視界に収めた。
幾ら気配遮断スキルを使ってこっそりと人間観察をしていようが、バレる時はバレてしまうもので、あっさりと燕青にバレてしまった刑部姫は、現在進行形で濡れ烏の長い髪を持った男に壁際に追い詰められている。
「あんた俺たちの事について調べてるみたいだけど、誰の差し金だ?」
最初こそ人の良い笑みを浮かべ笑っていた燕青も、言葉尻には瞳から熱が消え、羽虫を見るような表情で刑部姫を見下している。久々に自室から出て来た刑部姫はひっそりと観察をしていただけであった。だが、それが燕青の癪に障った今、こうして壁際まで追い詰められている。ひやりと背中に冷や汗が垂れているし、誰がどう見ても刑部姫の顔色は悪いと言ってしまえる程に、青ざめてしまっている。
「……あ、の」
すっかり震えあがっている刑部姫は奥歯をガタガタと震わせながら、身を小さくしている。同じサーヴァント同士なのに、どうして力関係が出来ているのか。と言えば単に性格の差だ。引きこもりがちの刑部姫に対し、燕青は対人スキルも高く、どうすれば相手が恐怖を感じるのか熟知している。
真っ青な顔のまま、震える刑部姫に対し燕青は口角を上げて弧を描く。
「妖怪の姫さーん?」
藍色のガントレットに包まれた手をひらひらとさせる。
その表情はにこやかなものではあるが、決してそれだけではない。笑っているのは口元だけであり、翡翠の瞳は全く笑っていない。刑部姫の眼鏡の奥にある大きな瞳が潤んでいる事を知ってもなお、燕青は刑部姫に恐怖を与え続ける。
「マスター、かい?」
「マスターちゃんは関係ない!」
誰の差し金なのか。いつまでのその問いに応えない刑部姫に向かって燕青は、最悪の問いを重ねた。然し刑部姫は震えていた筈の身体をピタリと止め、即座に否定した。
内心それに安堵した燕青は、では誰が? と頭の中に憶測を立てていく。伊国の万能の天才ではない事はわかる。勿論牡丹ではない。全く見当がつかない。
「俺たちを調べて何になるってんのかねぇ」
溜息混じりの独り言を拾ったのは、意外な事に燕青の圧に震えている刑部姫だった。
「――……また、俺たちって言った」
「はい?」
「なんで、俺たちなの?」
今、燕青と刑部姫がいる廊下が静かだったから、聞こえるくらいの小さな声。その声は震えていて聞き取り難い。だが、一字一句正確に燕青の耳の中に入って行き、その刹那焦ったように表情を崩した。
さっきまでの威圧感が霧散し、あるのは、刑部姫に痛いところを突かれ困惑するただの男だけであり、その様子から刑部姫は自分の推論と妄想は当たっている。と確信を得る。
勿論その妄想は間違っているのだが、この場においても刑部姫の妄想を見抜ける人間、英霊は何処にもいない。
気まずいだけの時間が数秒。その数秒は二人にとってとてつもなく長く感じるものだったが、静かな空間に第三者の足音が響いた。
その足音に弾かれるように燕青は刑部姫に対し捲し立てた。
「っ! 兎に角、あんま近寄んなよ!」
疾風と表現しても差し支えがない素早さで燕青は刑部姫の視界から消えた。パチパチと数回瞬きをしていると、刑部姫の耳にここ最近耳に馴染んだ声が聞こえた。
「あれ? 刑部姫だったかな。こんな所でどうしたのだい?」
「うえ……っ! 盧俊義、ちゃん」
「なんだい?」
こくりと首を傾げる牡丹に対し、刑部姫の視界がぼやけていく。先程までの恐怖から解放された気の緩みが一気に押し寄せて来たのだ。然し、そんな事を知りもしない牡丹は、自分が話しかけた事で泣いてしまったのか。と焦り、両手を咄嗟に胸の高さまで持ち上げ、掌を刑部姫に見せ敵意がない事を無意識に示す。それでも刑部姫は壊れたように、大きな瞳から次々と涙を流す。
どうしたものか。と牡丹は困惑し、視線を彷徨わせるも、目の前で刑部姫が泣いている事に変わりはなく、仕方がなしに牡丹はその右手を刑部姫に向かって伸ばし、目尻に溜まっている熱く透明な雫を親指の腹で拭った。
「な、何……?」
「すまない。泣いている女性を慰める方法は知らないのだ」
そう言って牡丹は刑部姫の腕を引き寄せ、片腕で抱き締める。抱き締める力はとても弱く、不快だったらいつでも逃げ出せるように、左手はだらりと廊下の床に向かって下がったままだ。
「っ!」
「取り敢えず泣き止んでくれないか。情けない話、どうしたらいいのかが、本当にわからないのだ」
数回、牡丹が刑部姫の頭を撫でると、刑部姫は時間が止まったかのように固まり、その異変に気が付いた牡丹が首を傾げるよりも早く、牡丹の胸板を小さな手が一所懸命押し返し、奇声を上げ、牡丹に背を向けたまま何処かに向かって走り去って行った。
「おっきー?」
偶々廊下を歩いていた藤丸が、奇声をあげる刑部姫に声をかけるも、刑部姫は藤丸の声すら自分の奇声に掻き消され、耳には入らず、終いには藤丸の存在を認知できないまま駆け抜けていった。
何があったのだろうか? と藤丸がこくりと首を傾げ、刑部姫がいたであろう方向に視線を向けると、肩を揺らし笑う牡丹の姿があった。
「何かそんなに楽しい事があったの?」
「いや何……ふっ、妖怪の姫だというから……っ、くっはははっ!」
「本当に何があった……」
お腹を軽く抱え肩を揺らす牡丹は、言葉を紡ごうにも刑部姫の奇声を思い出しては、笑ってしまい、藤丸の質問にまともに答える事が出来ないでいる。
「あははっ、……はー。笑った」
「牡丹ってあんな風に笑うんだね」
「言われてみれば、こんなに笑ったのは久し振りかもしれないな」
「いつもニコニコ笑ってはいるけど、一線置いているみたいだったから。それで何があったの?」
「あぁ、それは――」
いつも一線置いているようだ。何気ない藤丸の台詞に牡丹は一瞬心臓の鼓動を大きくさせた。それは正解だったからだ。
カルデアに来てから。――もっと言うと、英霊として座に登録されてから牡丹は、必要以上に他人と関わるまい。と決めていたのだ。たった一人の大切な従者さえ裏切る心を持っている事を知ってしまったから。それがただの赤の他人だったら……それが例えマスターだったとしても、平気な顔をして裏切るかもしれない。それなら、ラインを踏み越えなければ相手も自分も傷付かない。
裏切ってしまった。と罪悪感なんて言葉では表せない、鉛のように重たいソレは、どろどろと心を侵食していき、そこにはただの隙間すらない。
――重たい。張り裂けそう。苦しい。許して欲しい。赦さないで。
もう、あんな思いだけはしたくない。させたくない。
「牡丹?」
突然言葉数を少なくさせた牡丹に対し、藤丸が下から覗き込むように見上げた。
本来の性別は女であるが、今の姿は男であり、体格も男に近いものがある牡丹は、自分を覗き込んでくる橙の瞳にたじろぎ、動揺した事を隠そうと咳払いをした。
「単純に可愛いなぁ。と思っただけさ」
「あんなに叫ばれていたのに?」
「そこが可愛いんじゃないか」
牡丹の胸を押し返した時一瞬見えた頬や、背中を向けて走り去るその後ろ首が赤く染まっている事に気が付いたからだ。牡丹は藤丸にその事を伝えはしなかったが、藤丸もその事に関し言及しなかった。それどころか、牡丹の手を取り刑部姫が走り去って行った方向に向かって歩みを進めた。
「朗報だよ! 牡丹の再臨が決まったんだ!」
「それはそれは……。で、一体いつなのだい?」
「今!」
今! と笑顔を浮かべた藤丸を凝視してしまったが、藤丸に腕を掴まれている牡丹は否応なしにダ・ウィンチがいる強化ラボに連れて行かれた。
そこには当たり前だが、ダ・ウィンチがいて、牡丹と藤丸の姿を視界に入れると、いつものように得意気に笑って見せた。
「さぁ、早速始めようか」
「あの、まだ──」
状況の理解が出来ていない。と呟く牡丹の言葉が耳に入っていない二人。正確には耳に入っていても気にしていない英霊と、牡丹の再臨が楽しみで耳に入っていないマスターなのだが。兎にも角にも、牡丹はカルデアに召喚されてまだ日も浅く、霊基再臨だって知識でしか知らないのだ。そんな中説明もなく、今、再臨されようとしている。
「大丈夫! 直ぐに終わるから」
藤丸のその言葉通り霊基再臨は呆気なく終わった。素材を体内に吸収しないといけないのは苦だったが、喉元過ぎれば熱さを忘れると言った諺のように、喉元を通り過ぎた今、牡丹はさっきまでの苦しみを忘れ、呆然としていた。
「牡丹? どう? 気持ち悪くない?」
「――っ、あぁマスター。ありがとう。どうだろうか? この姿は似合っているかな?」
「とても似合っているよ!」
「ありがとう」
藤丸は再臨した牡丹の姿を気に入り、まじまじと何処が変わったのかを観察している。
勿論、牡丹はその視線を止めるようには言わない。あくまでも自分のマスター。一時の恥しさ等捨てる事だって出来る。流石に眉尻を下げて困ったように笑うのだけは、見逃して欲しい。
「印象結構変わったね。何というか……遊んでそう」
「――それはどう受け取ったらいいんだい?」
「うーん。褒め言葉!」
「そうだろうか」
本当に褒め言葉だっただろうか。と首を傾げていると、笑いが耐えきれなくなったダ・ウィンチが大声を上げ、肩を震わせて笑い出す。
「ははは! 最高だね! 君たちは最高に相性がいい! ――いいや、君が最高に役に徹していると言えばいいかな」
盧俊義。とダ・ウィンチが牡丹の瞳を射抜く。真っ直ぐのその視線は、逸らす事を許さない。と言われているようで、牡丹は目を細めダ・ウィンチの碧の瞳を見つめ返す。藤丸は二人の雰囲気が急に変わった事を察し、牡丹とダ・ウィンチに交互に視線を向けるも、当の本人たちは一瞬も視線を逸らさない。
「二人とも……?」
「盧俊義。君に話がある」
「わかった。マスター先に戻っていてくれ」
「う、ん」
後ろ髪を引かれる思いで、藤丸は強化ラボから出て行った。様々な機材が置いてあるラボには数人のスタッフとダ・ウィンチと牡丹しかない。妙に緊迫した空気が室内に広がり残されたスタッフは一様に、藤丸と一緒に部屋を出て行けばよかった。と後悔している事を、英霊の二人は知らない。
「それで、私を此処に残した理由は何かな」
「大した事はないさ。あのアサシン。基、天巧星燕青との関係について知りたい事があるんだよ」
「彼は真名を呼ばれる事を嫌がっているけれど」
「此処には君と私しかいないじゃないか」
さらっと存在を消されたスタッフは、今から聞く内容は誰にも言ってはいけないのだと悟り、深い溜息を隠す事もなく吐いた。
「確かに。私と燕青の関係を聞きたいとの事だけど、貴方のような聡明な英霊なら知っているのではないか?」
「そうでもないさ。特に君は記述があやふやで、何が本当の事なのか未だに分っていない事が多い。例えば君は男であり女でもある。変装が得意だったなんて記述は何処にもない」
ダ・ウィンチの言葉に牡丹は薄く笑った。それは正解であり不正解であったからだ。
始まりは女であった。商人として旅をする前に男になった。そして最期は、愛おしい男の手で女になった。
成程確かに自分の歴史は面白い。と牡丹は僅かに肩を震わせた。
「ダ・ウィンチ女史。私は性別に拘るつもりはない。誰かにとって女が良いのであれば女であるし、男がいいなら男である。全てはあの小さなマスター次第だ」
「その意見には私も賛成だ。だが、君は逃げているだけだろう。君の言うところの小さなマスター≠隠れ蓑にしようとしているだけだろ」
ダ・ウィンチのその台詞に息を飲んだのは誰だっただろうか。少なくとも牡丹の表情は変わらなかった。激しく動揺したのは逃げるチャンスを逃したスタッフである。
盧俊義と言えば、少し前に召喚された英霊で、今まで召喚されてきた英霊に比べ人当たりもよく、常に笑っている穏やかなサーヴァントだ。カルデアの女性スタッフが「英霊じゃなかったら」というくらいには人気もある。そんな盧俊義は実は女だったかもしれない問題に、何か隠しているかもしれない。とたて続けに爆弾を落とされれば動揺しないわけがない。
矢張り英霊というのは、食えない存在なのだろうか。息を殺して、ついでに存在を殺してスタッフは牡丹の台詞を待った。
「隠れ蓑か。言い得て妙だな」
――流石は万能の天才。それとも、ロマニ・アーキマンかな。
どちらにしろ、逃げている事が知られているのだから、取り繕う意味もない。
牡丹は短く息を吐き出した。
「そうだね。私は逃げている。これ以上嫌われたくない、失いたくない。そんな酷く個人的な事の為にあのマスターを利用しているのだよ。――幻滅したかい? 失望したかい?」
「いいや? 君の事を知るまたとない機会だからね。さぁ、語ってくれて構わないよ!」
「貴方はどうやら物好きのようだ。いいだろう。少しばかり長くなるけどお茶の準備は大丈夫かい?」
「あぁ、勿論さ。ついでに甘い物も用意しようじゃないか」
「それはいい」
終ぞ英霊の二人は出て行き、残されたカルデアのスタッフは深い息を吐いた。
出歯亀根性で覗き見したい気持ちは正直あるが、覗き見した後が怖いと、スタッフたちは扉が閉まるその瞬間まで、息と気配を殺したのだった。
ケーキタワーには一口サイズのケーキが数種類あり、ティーポットの中には琥珀色の紅茶が入っている。だがそれは牡丹の傍にあり、正面に腰を掛けるダ・ウィンチの傍にはマグカップがあり、湯気の立つコーヒーが入っている。
「それで聞かせてもらおうか。因みにジャンルは?」
「そうだな……自伝、とでも言おうか」
――これは、私が恋した人と生きた話である。
そう前置きした牡丹は生前にあった事を語り出した。燕青と出会った事。義勇軍と戦った事。商家の主と従者の関係になった事。旅をした事。梁山泊に仲間入りした事。決別した事――。
「その後の事は英雄奇譚――時の皇帝である徽宗様が書いてくださった書物に記されているのではないか」
「まぁーねー。けど当事者から聞くのもおつなものだろう」
「一理あるな」
他者が伝承するより当事者が語った方が、考えるまでもなくリアルで、一面の真実だ。それは偽りでありながらも一面の真理である。だからこそ面白いのだ。
稀代の天才は最も高貴な娯楽は、理解する喜びである。と称した事を牡丹はふと思い出した。
自分の目の前に腰を掛ける女の姿をしているサーヴァントを見て、牡丹はダ・ウィンチの心情を察しようとするも、利益にはならないとすぐに考えを切り捨てた。
例え英霊になろうとも、牡丹の人間性は変わらない。いや、伝承が、信仰が、英霊の形を作るとするのであれば、生前よりも牡丹は合理的な存在になったと言える。
「君の興味は尽きたかい?」
「まだあるけどねー、今はこの辺でいいかな」
「そうか」
話は終わったと言わんばかりにダ・ウィンチは席を立ち、談話室から出て行った。残された牡丹は、ティーカップを口元に近付けて香り立つ紅茶を口に含んだ。
「あいつが淹れたお茶には一枚劣るな」
何もする事がなく、ふらふらとカルデア内をうろついていた燕青は、強化ラボからダ・ウィンチと牡丹が出て行く姿を見た。咄嗟に気配遮断して影に身を顰めやり過ごし、二人の気配が完全に消えた頃に、強化ラボの中に入り、カルデアスタッフに声をかけた。
「なぁ。あの二人って――」
「うわっ! アサシンさんですか……驚かせないでくださいよ」
不意に後ろから燕青に声をかけられた男性職員は、息を止め大げさに肩を跳ね上がらせ、すぐに振り返り、燕青を視界に入れると、止めていた息を、溜息を混ぜながら吐き出した。
「悪い悪い。それで、ぼた……盧俊義の再臨ってどの段階までいったんだ?」
悪びれる様子もなく、後頭部を掻く燕青は無駄な話はしないと言わんばかりに本題に入る。普段の燕青は多少の世間話にも付き合うのだが、今はそれどころではない。
「まだ、第一再臨ですよ」
スタッフ回答に燕青は、僅かに胸を下ろした。高揚していた胸が落ち着いた事に燕青は内心驚いた。スタッフの回答に対し何らかの感情を抱いていた事に驚いたのだ。
「そうか、ありがとうな!」
「ダ・ウィンチさんたちなら休憩室に……ってもう行ってしまったか」
カルデアに所属してから三年目の男性職員は、既に姿の見えない燕青に気が付き、余計なお節介だっただろうか。と聞き手で後頭部を掻いた。
「そう言えば、アサシンさんの事も言っていたような感じだったけど、本人が聞いて良いものなのだろうか」
その心配は、とうの前にラボから出て行った燕青の耳には入る事なく、燕青は次に牡丹の姿を目にしたのは、牡丹の第一再臨が行われてから三日後の事だった。
その間、二人は擦れ違う事もなければ、声を聴く事もなかったのだ。
「マスター、まだ集まんないのかい?」
「まだまだ足りない、かなー」
「んじゃ、もうひと踏ん張りしますかァ」
ぐっと背中を後ろに反らし、両腕を空に向かって伸ばす燕青の背中を、藤丸は申し訳なさそうに笑いながら見ていた。
何故藤丸が燕青に対し申し訳なさを抱くか。と言えば、牡丹の霊基を再臨した翌日に話は遡る。その日燕青は藤丸の部屋を訪れ言った。「あいつを連れて行くのか」と。その問いの意味に藤丸は気が付くわけもなく、頷いて肯定した。
「折角のアーチャーだし、壁は厚い方が良いと思って」
「そうだ、よなぁ……」
床にしゃがみ込み、藍色のガントレットに包まれた両手で頭をガシガシと掻き毟る。深い緑の長い髪が乱れるその様を、藤丸は首を傾げながら見ていると、燕青はしゃがみ込んだまま藤丸を見上げる。翡翠色の瞳が不安気に揺れている。
藤丸はある日を境に燕青はよく感情を顔に浮かべるようになった。と感じていた。
そのある日というのが、牡丹がカルデアに召喚されてからなのだが、藤丸は燕青が変わった事を懸念していた。
変わったのは嬉しい。けど、その変化があまり良いものとは思えない。
悲しい。苦しい。憤り。嘆き。不安。自己嫌悪。
燕青は今までそれら全ての感情を表面に出さず、綺麗な笑顔を浮かべていたのだ。だから藤丸は、燕青が何を考えているのかがわからなかった。今、本当に楽しいのか、嬉しいのか。無理しているのじゃないのか。藤丸は常に燕青を気にかけていた。
「何かあるの?」
「いや、マスターが気にするような事じゃねぇって」
「アサシン。ちゃんと言ってくれないとわからないよ」
「……あー! くそっ!」
燕青は立ちあがり、自分よりも小さい藤丸の肩を両手で掴んだ。ぎょっと目を大きく見開いた藤丸だったが、自分を見下ろす燕青の切羽詰まった表情に何事か。と藤丸の橙の瞳が強張る。
「マスターは……俺の真名を知らないんだよな?」
「うん」
「っ!」
燕青の問いに即答した藤丸に対し、燕青は息を飲んだ。それはいつかの己を見ているようで、息苦しさから燕青は橙色から目を逸らした。
長い沈黙が藤丸の部屋に漂う。藤丸は燕青が何も言わないのであれば、自分から何か言う事も出来ず、主でもない藤丸の部屋の空気を重たくさせている燕青は葛藤しているのか、口を開けたり閉じたりしては、唸り声を上げている。
然し、遂に己の中の葛藤と決着がついた燕青は、か細い息を吸い込み、深い息を吐いた。
「――守れなかった」
小さな呟きだった。普段、燕青は溌剌とした態度で、その態度故か常に自信があるように見える。が、今の燕青は誰がどう見ても頼りなさげで、普段との差に同一人物かと疑うだろう。
「何を……?」
「この人こそは。と思えた人を――何度も傷付けた」
その人は牡丹なのだろうと、藤丸はすぐに察した。刑部姫は生前の二人は徒ならぬ関係にあった。と推測していた。アサシンの口振りからしてそうなのだろう。と年頃の藤丸は、生前の二人の関係を邪推し、刑部姫の当たらずとも遠からずの推測に後押しされて、まだ知らぬ過去に思いを馳せた。
生前。どんな場面かわからないけど、アサシンは牡丹を守れなくて、それが悔しくてやるせなくて、悲しくて、苦しかったのだろう……と。
「辛かったの?」
「多分、怖かった、んだと思う」
藤丸の問いに首を振って答えた燕青は、眉間に皺を寄せた。その後、燕青は藤丸に何を言うでもなく、ただ、自身の過去に思いを馳せていた。
そんな事があり、牡丹の強化素材集めを、何も知らない燕青に手伝ってもらっている事に、藤丸は言い知れぬ罪悪感を募らせていた。
牡丹を失うのが怖いと言っていて燕青に、牡丹を戦いに連れて行く為の素材集めをさせている。だが、これは必要な事である。人理修復を前に、燕青と牡丹の因果関係は問題視されるものではないからだ。
これが魔術師として幼い頃から教育されたマスターであれば、人の心で判断せず、理性と理屈で判断し牡丹を戦場に連れて行く為に素材を集める≠ニいう状況に罪悪感を覚えはしない。サーヴァントは最高の使い魔であって、気を使わなければならないものではないからだ。
然し、藤丸は違った。偶然適正を認められ、運良く生き残り、運悪く人類最後のマスターになったのだ。
ごく普通の人間として生きて来た藤丸にとって、英霊は使い魔なれど、カルデアに召喚したサーヴァントは友人のように思える。だからこそ罪悪感を募らせている。
「ごめん」
「? なんか言ったかい? マスター」
「なんでもないよ」
小さく呟いた藤丸の謝罪は、エネミーの断末魔に掻き消された。その掻き消された声を僅かに拾った燕青は、エネミーと対峙していても常にマスターである藤丸に意識を向けていた証拠でもあり、藤丸は燕青の外見とは裏腹のきめ細やかさに、また罪悪感が募った。
最後の一つ。牡丹の強化素材が集まったその日は、素材を求めて探し始めた三日後の事だった。
遂に罪悪感の波が溢れた藤丸は、燕青のその長い髪の毛先を遠慮がちに掴み、前を歩く燕青の足を引き留めた。つん、と後ろに引っ張られる感覚に、燕青は振り返り笑顔を浮かべた。
「マスター、どうしたんだ?」
「……アサシンに、黙っていた事があるの」
「なんだ?」
溌剌と笑う燕青に、藤丸はぐっと胸の奥が締め付けられ、毛先を掴んでいた手を離し、心臓の上を両手で押さえた。その様子を正面から見ていた燕青は、藤丸が心臓を痛めていると勘違いし、藤丸の膝裏と背中に腕を回し、横抱きにすると猛スピードで走り出した。
「すまんマスター! 不調だったのを気が付いてやれなかった!」
「違う違う違う! 至って健康だから止まって!」
「はぁ? だって今心臓を抑えていただろぉ?」
「そうだけど、そうじゃないの!」
白魚の小さな手が燕青の肩を叩いて、疾走する足を止めさせる。急ブレーキがかかったかのように、急激に足を止めた燕青は腕に抱えている藤丸を放り出さぬよう、両腕に力を入れた。そして地面に藤丸を下ろすと、藤丸は引きつった声で燕青に向かってお礼を言った。
「罪悪感が……もう、凄いから話すけど――」
「待ってくれマスター。それはどうしても話さないといけない事なのかい?」
心臓の上、心を落ち着かせるように両手を置いて小さな口を開く藤丸を遮って確認する燕青は、困惑よりも焦燥に近い表情を浮かべている。勘の良い燕青は気が付いていたのだ。今から藤丸が語る内容は、聞いてはいけないような、いやな予感がする、と。
「アサシン、前に言ったよね。私をマスターとして認めたら真名を教えるって。認めてもらうにはどうしたらいいんだろうって思った……。でも先ずは、誠実でなければ意味がないって気が付いたの」
信頼というものは、本人に向かって嘘を吐き続けて得られるものではない。と藤丸は考えている。だからこそ、今抱えている隠し事を打ち明けないで、マスターとして認められないし、更なる信頼関係は築けないと思っていたのだ。
「今日集めていた素材、牡丹に必要な素材だったの」
「……まぁ、何となくそうだろうとは思っていたけどな」
藍色のガントレットに包まれた人差し指で頬を掻き、ヘラリと笑う。その様子を間近で見ていた藤丸は、案外傷付いていないのかもしれない。と燕青の精神面の強さを改めて認識したが、その燕青は牡丹の素材を集めていたという、藤丸の台詞に少なからずダメージを受けていた。
大切な人を守れなかった。その人が誰だったかが明言はしなかったものの、燕青が牡丹を嫌煙している事は藤丸も知っている所だろう。マスターとして正しい判断だとも思う。
藤丸のサーヴァントとして、何が正しいのかはわかっている。それでも、燕青は牡丹に戦場に出て欲しくはないと思ってしまうのだ。
――生前の執念なのか。融合した幻霊の声なのか。
その判断は燕青には出来なかった。判断するには、自分以外のモノをあまりにも取り込み過ぎたのだ。
――死後でも会いたいと願ったかのように。
英霊のなり損ないである幻霊の自我なのか、燕青が願った事なのか。
今はまだその判断がつかない燕青は、驚いた顔のまま固まっている藤丸の頭に手を置き、髪が乱れる事を気にも留めず、ガシガシと藤丸の頭を撫でた。
「あんま気にすんな! これは俺たちの問題だからねぇ」
「散々迷惑かけておいてそれ言う?」
「確かにな!」
素材集めの旅は幕を閉じた。その後、藤丸は牡丹の霊基再臨を果たし、藤丸はまた、素材集めの旅に出る事になる。
第二再臨が済んだ牡丹をマイルームに呼びだした藤丸は、酷く不安気な表情を浮かべていた。というのも、カルデア内において、アサシンである燕青と、アーチャーの牡丹は仲があまりよろしくない。というのが暗黙の共通意識で、それに関し藤丸は人一倍気を使っている。
何をどうしたら正解なのかもわからない凡庸マスターである藤丸は、兎に角、二人が接触しないように気を配った。素材を集めに行く時は必ずどちらか片方だけを連れて行ったり、カルデア内でも接触しないように、お昼の時間をずらしたりもした。
幸いだったのが、燕青が藤丸の傍にいる機会が多く、燕青の行動が読み易かった。という事だ。
徹底とは言えないまでも、藤丸なりに努力し二人の接触を減らして来たのだが、今回、牡丹や他のサーヴァントの強化素材を集める為に、組み合わせ的に燕青と牡丹の二人を連れて行かないといけない事が発覚し、先ずは、納得してくれそうな牡丹から呼びだしたのだ。
「――という事なんだけど、アサシンと一緒に戦って欲しいんだよね」
「勿論、断る理由がないよ」
「あり、がとう……ところで――」
ぎこちなく礼の言葉を口にした藤丸は、一拍の間を開けて再び口を開くも牡丹の、にこり。と効果音が付きそうな威圧的ともとれるその笑みに、藤丸は口を開いたまま固まった。
あぁ、これは何が言いたいのか読まれているな。と察した藤丸は返って来る答えが聞くまでもなくわかってしまった。
「アサシンにはマスターの口から伝えるように」
「あ、デスヨネ〜」
当たり前だ。と言わんばかりに牡丹は腕を組んで、そっぽを向いた。
誰に対しても優しく、怒っている姿を見せないと評判の牡丹のこんな姿を見るのは、カルデアで自分が初めての事ではないだろうか。と何処か冷静な思考でくだらない事を考えた。
だが、大事なのはそんな事ではない。
「うう……。アサシン怒るよね」
「怒る……そうだね。怒るかも知れないね。だけど、これはマスターが決めた事だ。他人に任せていいものではないだろう?」
「仰る通りで」
ぐうの音も出ぬ正論で諭された藤丸は、女性らしい小さな掌で両頬を挟むように叩きつけた。バシッ、と乾いた音が微かに牡丹の耳にも入り、思わず赤くなっているであろう頬に目を向けるも、橙色の瞳がやる気に満ちており、今ので気合が入ったのだ。という事が感じ取れた。
「そうと決まれば、早速話に行ってくる」
「では私は自室に戻っているよ。何かあったら呼ぶといい」
「わかった。ありがとう、牡丹」
橙色の瞳が柔らかく弧を描き、桜色の唇が綺麗に笑う。瞳と同じ色をした髪を揺らしながら藤丸はマイルームから出て行き、牡丹もその後に続いた。
あの様子だと、ちゃんと話す事は出来るだろう。と牡丹が自室の本棚の前に立ち適当な本を手に取り、文字を目で追い続ける事一時間、人知れず牡丹が与えられた部屋の扉が開いた。
挨拶もなしに誰が訪ねて来たのだろうか。と、牡丹の瞳が扉の奥に立つ人物を捉え、認識した刹那目を大きく見開いた。
「――君がこの部屋に訪ねてくるのは初めてじゃないかい?」
「あんたに、一つ聞きたい事がある」
俯いた顔に長い深緑の色を孕んだ黒い髪が垂れる。燕青の身長は今の牡丹と同じ位だが、二人に距離がある為に、牡丹は燕青の表情を察せないでいた。否、察しようとはしなかった。クラスアーチャーの牡丹が頬にかかる髪の隙間から燕青の表情を見るなんて、朝飯前の話しなのだ。簡単に盗み見て良いものなのかもわからない、今の関係を瞬時に鑑みた牡丹は、燕青から視線を外した。
「何だい?」
「俺の事……捨て駒だと思ってたのか?」
「……それは歴史の答え合わせか?」
そんなわけがないだろう。と声を荒げたい気持ちを精一杯押さえつけた牡丹は、燕青の問いに問いで答えた。だが、その答えに納得するようなら、二人は今頃こんな関係になっていない。
燕青は知っていた。自分は捨て駒ではないという事を。ではどうして、あんなにも簡単に切り離す事が出来るのだ。と疑問が頭を過る。どうして、主はこんなにも簡単にこの手をすり抜け、手の届かない場所に自ら行くのか。それは自分を軽視しているからではないのか。と裏切られた感情に近い鼓動が胸をざわつかせる。
「答えてくれ」
「――答えを避けるのも、衝突を避ける一つの手だとは思うがな……。いいだろう。答えはいいえ≠セ」
――当たり前だろう。大切で愛しくて、守りたくて手放したのだから。
何を今更。と吐き捨てたい衝動を抑え込んだ牡丹は、己の掌に視線を落とした。
この手に守れる人の数は少なく、またその手段も少ない。それ故に誰かを切り捨ててしまう事にだってなるだろう。だが、一等大切な存在があるのならば話は別だ。それを守る為ならば、自分が切り捨てられてもいい。
例えその行為が、憎しみを生もうが構いはしない。
だが、その考えはあくまでもいなくなる人間のもので、残された人間はそんな考えは綺麗事だと言って投げ捨てるだろう。
それもその筈。逝く人はただ永遠の眠りにつくだけだ。意識はなく時間もなく世界もない。生きていないのだから何の感情も持ち合わせていない。あるのは安寧の眠りだけだ。
だが、残された人は違う。何もかもを託され、死人と異なった時間を過ごしていく。胸中に死人の面影を、在り方を残す。残滓だけになってしまっても苦しみと悲しみと、淡い喜びだけの花を咲かせ、ありもしない蜃気楼を目に焼き付けながら生きていくのだ。
蜃気楼は死人への思いが強ければ強い程、鮮やかに明確に見えるのだ。
燕青がそうであったように。
牡丹は知らない。自分が如何に眩しい存在だったか。その在り方に目を焼き付けられた人間が幾人もいる事を。
一番傍にいた燕青がどうしようもない程に惹かれていた事を知らないからこそ言葉を重ねた。
「昔も今も、お前の事は大切だと思っている」
「――っ!」
誰にも触れさせていない一線を越えた。否、張りつめた糸が切れる音がした。
その音は燕青の耳元で聞こえた刹那、燕青は駆け出し、艶のある濡れ烏の長い髪を揺らして、藍色のガントレットに包まれた手で牡丹の首を絞めた。突然の出来事に驚いた牡丹は抵抗らしい抵抗も出来ないまま、背中を強く床に打ちつけ、その痛みに苦し気な声を出すが、燕青の両手で首を絞められている為に、満足に息を吐き出す事も出来なかった。
「――ぁっ」
首を絞める手に力が加わり、牡丹は更に顔を歪めた。牡丹に身体の上に馬乗りになっている燕青が悲痛の声を上げる。
「だったら、なんで! なんで勝手に死んでいった!」
――あんたが俺に縋ってくれれば、そうすれば道は違ったかも知れないのに!
翡翠の瞳は苦しみ顔を歪めている牡丹を捕らえている。怒りに任せて怒鳴って、責めて、殺してしまえれば、この後悔もいなくなってくれるのか。
――なんでお前は私よりも苦しそうな顔をしているのだ……燕青。
燕青は首を絞められている牡丹よりも苦しく藻掻いていた。
後悔という念が牡丹を失ってから死ぬまで、幻霊を取り込んだ英霊となっても燕青を締め付け、酸素を奪っているのだ。
そんな顔をしないで欲しい。そんな一心で牡丹は震える指先で燕青の頬に触れる。人の温かさを持っているその肌に、牡丹は柔らかく笑った。
然し、その笑みは燕青の危うい均衡を崩した。
――なんであんたは、俺に縋ってくれないのだ!
今助けてくれ≠ニ縋ってくれれば、そうしたらあの頃の俺が浮かばれる。だというのに、どうして……。あんたはそんなに無抵抗なんだ。なんでそんな顔して笑っているんだ!
「……抵抗、しないのか」
「唯一、この世で……ぁ、お前だけが、私を殺す、くぁっ……権利を持っている――私は、お前だったら、殺されても……構わない」
燕青の頬に伸ばして指先で輪郭をなぞり、最後は掌で頬に触れた。牡丹の手の震えが燕青に伝わり熱を移す。
一方的に熱という小さな種だけを与えて捨てる。然し、その種は胸の奥で芽生え花を咲かせて蔓が心に絡みつく。絡みつけばつく程憎らしく思うのに、愛おしい。
求められたい。縋りついてもらいたい。必要とされたい。支えてやりたい。この人の意思を成し遂げたい。その為ならどんな事だってする覚悟があるというのに。牡丹は燕青の覚悟を嘲笑うように簡単に離れていこうとする。種を、成長させた花や蔓を残して消えて行くのだ。
此度、二度捨てられた燕青は生前の時と変わらない牡丹の熱を知り、苦しく息を吐き出した。
「えん、せ?」
名前を呼ばれると同時に牡丹から距離を取った燕青は、深緑を孕む黒い髪を揺らしながら、牡丹の部屋から弾かれるように出て行った。残された牡丹の頬には一滴の雫が伝っていた。
熱さを残した雫に胸が締め付けられた牡丹は、感情のまま濡れていない頬に涙を流した。
絞められていた首が急激に解放され、一気に酸素を取り込んだ所為で牡丹は何かを吐き出すような咳を繰り返した。肩を揺らして吐き出す咳の大きさで、新たに自分の部屋に訪れた人物に気が付く事が出来なかった。
「ゴホッ……ゴホッゴホッ」
「牡丹、大丈夫?」
「……はー、マスター何かあったかい?」
咳き込んでいるにもかかわらず、平然とした態度の牡丹に対し、藤丸はしどろもどろになりつつも、もう一度安否を確認すると牡丹は、笑顔を浮かべて首を縦に振り頷いた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「だったらいいんだけど……」
「それで、アサシンとは話が出来たのかい?」
大方そのあたりの話しだろうと、牡丹は話を切り出すと、藤丸は思い出したかのように橙の瞳を僅かに大きく開き、古典的な閃いた! と言わんばかりのポーズを取り、白い歯を牡丹に見せて笑った。
「アサシンとちゃんと話した上で、了承を得たよ!」
「それはよかった」
――まぁ、使い魔風情に主人が顔色を伺うのもおかしな話ではあるが。
然し、そんな事を言っても藤丸は、そんな事ないよ。と言ってヘラリと笑うのだろうと、牡丹は少し先の未来が的確に想像出来て、口元を隠すように手を当ててくすりと笑った。
どうして笑われたのかがわかっていない藤丸は、首を傾げるも、牡丹の手が口から離れた瞬間見えた首についている人の指跡を見て目を見開いた。
「牡丹、それっ!」
「? なんだい?」
藤丸が何に驚いているかがわからず、今度は牡丹が小首を傾げる。そんな牡丹に対し、藤丸は大股で近付き牡丹の首に向かって指を指した。それで漸く藤丸が何に驚いているのかが、わかった牡丹は困ったように笑い、自分の頬を掻いた。
「まぁ、なんだ。喧嘩みたいなものだ。マスターが気にする事ではないよ」
「心配するよ! さっきこの部屋からアサシンが出て行ったのを見たけど、もしかして……?」
「落ち着いてくれマスター。本当にただの喧嘩なのだ」
牡丹の首に残る人の手の跡に、藤丸の顔が徐々に青くなっていく。そんなに一サーヴァントを心配していたらこの先身が持たないのではないか。と、牡丹は逆に心配になった。
今はカルデアに呼ばれた英霊は少なく、藤丸も英霊を友人のように接している。然し、サーヴァントの数が多くなればなるほど、藤丸の首を絞めていくに違いない。
――それは、避けなければならないな。
牡丹は顔を青くする藤丸の頬に掌を当て、自分の顔を藤丸に近付ける。一気に距離が近くなり、藤丸は血の気の引いた青い顔から、頬に熱を帯びる赤みを孕んだ顔色になりつつも、目を白黒させた。
生前傍に燕青がいたが故に牡丹は気が付きはしないが、浪子と呼ばれるに相応しい容姿なのだ。そんな端麗な容姿が突然迫ってくれば、多感な時期である藤丸の顔は否応なく赤くなってしまう。
「マスター」
「は、はい……」
牡丹の真っ直ぐな瞳が藤丸の橙の瞳を射抜き、視線を逸らさせない。
生前よりも大きな牡丹の手が、丸みを帯びている藤丸の頬に触れた。少女の柔肌は熱い。
「マスター。君はもう少し魔術師として非道になるべきだ。優しさは君の美点であり、私たちも好感を持っている。だが、その優しさでいつか君の真心が壊れてしまわないかが心配だ」
藤丸は何を言われたのか、牡丹の台詞の内容を理解出来ず、暫く間を開けて考え込んだ。
「――大丈夫だよ。だって牡丹や皆が助けてくれるでしょ?」
考えて出た答えは、牡丹の考えにはないものだった。然し、そんな答えすら藤丸らしく、牡丹は藤丸の柔らかい頬から掌を離し、肩を揺らして笑った。
――そうだね。君はそういう人だったね。
この翌日、藤丸と牡丹と燕青は素材を集めにカルデアの外に出る事になる。
鬱蒼と生い茂る森の中、先頭を牡丹が歩き藤丸を挟んで燕青が一番後ろを歩いていた。レイシフトしてから暫く歩いたものの、その間会話をしてはいない。謎の緊張感が藤丸の肩に重たくのしかかっている。
一体どれほど重たいのか。と問われれば、三人を見たダ・ヴィンチが珍しく藤丸に「大丈夫かい?」と声をかけたくらいだ。
「大丈夫です」と声を震わせながら答える藤丸を、原因である燕青と牡丹が心配そうな表情で見ていた。
珍しいものが見られた。なんて現実逃避に近い思考を藤丸がし始めた頃、先頭を歩く牡丹の足が止まった。よそ見をしながら歩いていた藤丸は、突然止まった牡丹の背中に鼻の頭をぶつけ、蛙が潰されたような声を出した。
「ぐぇっ」
「静かに……!」
「近いな」
「あぁ……マスターどうやらお目当てのものが向こうからやって来たようだ」
牡丹の発言に驚いた藤丸は瞬時に辺りを見回すも、それらしいエネミーの影がない。二人は一体どこを見て近付いて来ていると言っているのか、と藤丸が目を凝らしていると、頭を上から押さえつけられるように、燕青の手が藤丸の頭を撫でる。
「人間のマスターには、ちと見難いかもなぁ」
「そうさ。見えなくても当たり前だ。何も恥じる事じゃない。君の目となり矛となり、盾となる為に我々がいるのだからね」
「いつもありがとう!」
満面の笑みを浮かべて感謝の言葉を口にする藤丸に、サーヴァントの二人は何も言わず、笑みを浮かべて返事をした。
「さて、私たちの相性がこれからの戦いに使えるかどうかを判断すると良い」
「そんなつもりは――」
藤丸が否定の言葉を言い切るより先に、牡丹の矢が遠くに向かって放たれた。すると何か獣のような呻き声が遥か遠くから聞こえ、地鳴りのような足音が聞こえてくる。明らかにエネミーが迫ってきている音だ。
「もうしていると思うけど、一応。――各位、戦闘準備!」
「応!」
「あぁ!」
藤丸からは目視出来ないエネミーに向かって牡丹が素早く矢を射る。矢を放つと必ず呻き声が辺りに響き渡る。牡丹の矢は外れない。生前から的を外した事がない牡丹は、英霊となっても外した事はない。
然し、無数のエネミー相手に矢で射るのは限界があるというもの。
四足歩行のエネミーが太い前足を大きく振り上げ、牡丹の頭上に影を落す。藤丸が牡丹の名前を叫び注意をエネミーに向けるも、牡丹の視線は前足を振り上げているエネミーには向かない。それどころか、藤丸がギリギリ目視出来る距離にいる、遠くのエネミーに意識を向けているのだ。
重傷は免れない! と藤丸が手を伸ばして牡丹を庇おうと右足を一歩前に踏み出すと同時に、燕青の強烈な一撃が牡丹を襲おうとしていたエネミーに炸裂した。
口から血を吐き出して倒れる四本足のエネミー。藤丸は刹那に起こった出来事に目を白黒させるも、二人は次々にエネミーを倒して素材を集めていく。
「……仲、いいよね……?」
小さく零れた疑問符は誰の回答も得ないままエネミーの呻き声で掻き消された。
淡々且つ黙々とエネミーを倒していく牡丹と燕青は、藤丸の目には何らかのロボットのように見えた。それ位的確に素材集めという作業をこなしていくのだ。
――いや、本当に仲が悪いのかもしれない……。
そんな中、燕青の背後に大きな翼を持った鳥のエネミーが近付き、嘴で燕青を襲おうとした。その事に燕青よりも先に気が付いていた藤丸が口を開くと同時に、大きな翼を持つ鳥の心臓部分に三本の矢が刺さる。鳥は声もあげる事なく空から地面に落ちて力なく横たわっている。
明らかに牡丹が矢を放ったもので、藤丸はもう燕青の背中を向けて立っている牡丹を一瞥した。
――んん? これはどう……なんだ?
藤丸は非常に判断に迷った。お互いの動きが手に取るようにわかっているからこそ、無言のままでも此処まで息が合うのか、それとも、個々の能力が高いが故に連携出来ているのか。
二人は生前何かしらの関りがあった事は流石にわかる。刑部姫の妄想と観察の結果、それは何かしらの関りではなく、徒ならぬ関係であったのだろう。という邪推までしているが、牡丹も燕青も藤丸に自分語りをしない為に、藤丸は本当に何も知らないのだ。
それは、燕青と約束したマスターと認めたら真名を明かす≠ニいうものがなくとも藤丸は燕青の事を調べたりはしないだろう。誰でも知られたくない過去、清算出来ていない過去というものはあるだろう。という考えだからだ。
「牡丹敵の数はあとどのくらい?」
「ざっと残り二十体だね。全て倒したら流石に素材は足りるだろうか」
「大丈夫だと思うよ。アサシンはまだいける?」
「ん? あぁ、心配無用だぜ。マスター!」
エネミーの心臓を一突きした燕青は、血を頭から浴びながら藤丸の方に振り返り笑顔を浮かべた。確かにまだ魔力も切れなさそうだ。と藤丸が安堵の息を吐くと、牡丹の矢が空に向かって放たれ、まだ遠くにいるエネミーの身体を悉く突き刺す。
雨のように降る矢から逃れたエネミーは燕青の四肢の餌食になり、大きな音をたてて倒れた。
然し、牡丹の矢をすり抜け、燕青の四肢をもすり抜けるエネミーが何体かいた。そのエネミーたちは牡丹の後ろで魔力を供給している藤丸に向かって跳びかかる。燕青が藤丸の元へ目にも留まらない速さで駆け付け、その内の一体から血飛沫をあげさせ、もう一体に視線を向けると、エネミーの心臓部分に短刀が刺さっていた。
――あれは。
その短刀は燕青にとって見覚えがあるもので、すぐに誰がその短刀を投げたのか見当がつき、牡丹に視線を向けると、牡丹は藤丸が無事である事を確認していた。
「牡丹短刀も扱えるんだね!」
「ん? あぁ。一応持ってはいたのだが、使う機会がなくてな。エミヤに相談したところ、使えばいいだろう。普通に。――と言われたので、積極的に使っていこうかと」
「二人で特訓してるんだもねぇ」
「エミヤの指導はわかり易い上に、特訓にもなって有り難いのだ」
赤い外套の弓兵の名前が、二人の口から何度も発せられる。燕青はそれを面白くなさそうに牡丹を見るも、当の本人は藤丸ばかり見ていて燕青の視線に気付きもしない。
それが更に面白くなさを加速させた。燕青は息を吐き出し、笑みを浮かべ藤丸の肩にその太い腕を回して肩を組んだのだった。
現状は死屍累々と言った四文字熟語が相応しい。
藤丸の視界に入っているエネミーは既に息はなく、橙の瞳に映らない場所にもエネミーの死体が転がっているのだ。一瞬眉を顰めたのは咽返る血の臭いの所為だ。つんと鼻を刺激する鉄錆の臭い。英霊となる前――生前の時から戦場にいた牡丹と燕青には慣れた匂いでも、藤丸にはまだ慣れていない臭いなのだ。
「マスターこれを使いな。少しは変わると思うぜ」
「ありがとう」
燕青から手拭いを受け取った藤丸は、それを鼻に当て、無遠慮に鼻孔を通り抜ける外気の臭いを薄めた。血に混じって仄かに匂うのはアサシンの匂いなのだろうか。と藤丸が燕青を一瞥すると、燕青は翡翠の目を細め、白い歯を見せて笑った。
それからというものの、周辺のエネミーを狩り尽くした為に、当分新たなエネミーも寄っては来ないだろう。と藤丸が言うと、牡丹と燕青が同時に首を左右に振った。
「逆だな」
「いいかいマスター。このエネミーは歯が鋭いだろぉ。と言う事は、肉を食って生きているんだ。そういう動物は大概鼻が利く。これだけ血が流れてんだから、そう時間も経たないうちに寄って来るだろうぜ」
「えっ?!」
脅しにも近いそれらの言葉に藤丸は慌てて左右に首を振って、近くにエネミーが来ていないかどうか確認した。その様子はサーヴァント二人の目には微笑ましく、牡丹は息を吐き出すように笑い、燕青は大きく肩を揺らしながら笑った。
「フフッ……何、心配する事はないさ。今日は風が吹いていないからね。暫くはこの場に匂いも留まってくれるだろうさ」
「本当……?」
「あぁ。けどなぁマスター、手早く素材回収してこの場から離れた方が良いのも本当だ」
「わかった!」
手早く倒れているエネミーから素材を回収した三人は、本日の拠点であるポイントに移動した。牡丹と燕青の手にはその辺で採れた果実と、魔獣から採れた生肉がある。燕青は手早く香辛料を付け、魔獣肉を串に刺し焚火の熱が当たるように焚火の周りに串を刺した。
牡丹は懐から取り出した短刀で果実に刃物を入れる。それを適当な皿に乗せると、藤丸は目を輝かせた。
「これ、ウサギ?」
「あぁ。喜んでくれるかと思ったが、期待以上だったね」
「マシュにも見せてあげたかった」
今回の素材集めにマシュは参加していない。
というのも、単純に働き過ぎのマシュの身体を休ませたかった。という事もあるが、牡丹と燕青との時間をじっくり過ごしてみたい。という藤丸の考えもあった。
マシュがいれば二人は本音を言わないかもしれない。という考えが頭の片隅にあったのだ。
「では帰還したら彼女にも披露するとしよう」
「きっと喜ぶよ」
へらりと笑った藤丸は燕青がじっくりと焼いた魔獣肉が刺さっている串を取り「熱いっ」と顔を顰めながら、魔獣肉を口元に近付け、熱気を払うように何度も息を吹きかけた。牡丹も藤丸に見習い、串を手に取り十分に熱せられた魔獣肉に息を吹きかけ、熱を気休めにでも冷ましてから口を付けた。肉に歯が食い込み、熱い肉汁が溢れ出で舌の上に流れ込んでくる。
香ばしい匂いが鼻孔を通り抜け、口に含んだ魔獣肉の旨味と香辛料が重なり、喉が鳴る。噛み締めれば噛み締める程、噛み応えのある魔獣肉は旨味を口いっぱいに広げ、藤丸は頬を赤く染めて、目尻を下げ顔を綻ばした。
「美味しい!」
「案外いけるねなぁ! マスター!」
「うん! こっちの果物も美味しい!」
藤丸は牡丹が切った果物を摘まんで口に含む。すると、甘酸っぱい果実が魔獣の肉の油を取り去ってくれる。
暫く食べ進めていると、藤丸はある違和感を覚えた。
焚火を囲むように、三人ほぼ向かい合うように食べているから気が付いた違和感だった。
藤丸は牡丹の食べている姿と、燕青が食べている姿がどことなく似ているように感じた藤丸は、二人の仕草を凝視した。勿論二人は藤丸に凝視されている事に気が付いている。
瞬きもなくじっと見つめる藤丸の視線に、二人が気まずさを隠しきれなくなった頃、徐に藤丸が口を開いた。
「なんか、二人の食べ方って似てるよね」
橙の瞳が燕青と牡丹の瞳を交互に見ながら言うと、燕青は咽て咳き込み、牡丹は納得したように「あぁ」と納得した。
「それはだな、私がアサシンの真似をしていたからさ」
隠すような事でもない。と牡丹は平然と言ってのけた。どうして真似をする必要があったのだろうか。と首を傾げる藤丸を他所に、燕青は咽ていた。
生前、牡丹は努めて男になろうと努力した。幾ら少女の頃から槍を両手で握って戦場を駆け抜けていようが、幼い頃から教育され身に沁みついた所作は抜ける訳もなく、牡丹は戦場にいながらも美しい所作で、周りの男の視線を奪っていた。
そんな牡丹が盧俊義に名を変え、男と過ごすのに一番苦労したのが所作である。
例えば、椅子に腰を掛けている時。女は足を閉じ、反対に男は足を広げて体格を良く見せようとする。
歩いている時、話す時、何かに反応する時、食事をする時、物を取る時……様々な瞬間、全てを盧俊義であろうと努めた牡丹の良い手本となったのは、一番近くにいた燕青だった。
無意識のうちに牡丹は燕青を観察し、らしさ≠ナはなくそのもの≠身に付けた。だからこそ、盧俊義は女として疑われる事がなかったのだ。
「生前の話しだ。またいつか話そう」
「そうだね」
生前の話を聞くと言う事は、藤丸が燕青の名前を知ると言う事で、燕青が心の底から藤丸を信頼したその証でもある。藤丸自身、信頼されるように、というよりは、燕青が納得するまで待つつもりでいたが、牡丹は、必ず藤丸なら成し遂げると信頼し、先の約束を結んだ。
その意味がわかった藤丸は緩む口元を隠しもせず、へらりと笑った。
「然し、似ていると言われるのは嬉しいな」
「何となくだけど、そんな気がして……アサシンもそう思うよね?」
「――あ? あー……」
歯切れの悪い燕青は、手を頭の後ろに回し気まずそうに藤丸の橙の瞳から逃れた。
――そうだろうなぁ。だって、俺が牡丹の真似をしたんだからねぇ。
燕青は初めて牡丹たち家族と食事を共にした時、牡丹の所作の美しさに目を奪われた。
それは本当に同じものを食べているのかと、疑問に思う程に美しく、洗練されたものだった。
今日生きていければそれでいい。そんな生活を送っていた燕青は食べ方に拘り何てものはない。だから、その日も「良いところのお嬢ちゃんらしい」とすぐさま惹かれている目を逸らしたのだ。だが、そんなものは始まりに過ぎない。牡丹の立ち姿、堂々と歩くその背中、ものを掴むその指先でさえ、燕青の翡翠の瞳には美しく見え、強く惹かれた。
牡丹のように美しくなりたかったわけじゃない。ただ、牡丹の隣に立っても可笑しくはいように自分を変えたかった。燕青にとって牡丹は劣等感であり、目標であり、尊敬すべき存在だった。
そんな存在が、生前自分の真似をしていたと知った燕青は、気が気でない。
赤くなった顔を二人に見られたくない一心で燕青は勢いよく立ち上がり、先に寝ると宣言し仮小屋の中に入って行った。
「なんだ?」
「どうしたんだろう?」
残された二人は揃って首を傾げ、仮小屋の中に消えて行った燕青の後ろ姿を眺めたが、それも一瞬で焚火に照らされている魔獣の肉に興味を持っていかれ、二人は同じタイミングで魔獣の肉にかぶりついた。
翌日も順調に素材を集めた。その量は実に多く藤丸は両手いっぱいになった資材を満足げな表情で見ていた。すぐさまに帰還した一行。燕青は自室に向かい、牡丹は藤丸と共にダ・ヴィンチが待つ強化ラボに足を向けたのだった。
強化ラボに入り数分後、藤丸の悲鳴がカルデア内に響き渡った。
霊基再臨をしたサーヴァントはいずれも、何処かしらが変わってくる。それは主に服装が変わるのだが事、盧俊義――基、牡丹は違う。性別が変わるのだ。それは牡丹を書き記した英雄奇譚と牡丹が残した日記の齟齬からくるものだ。
日記には盧俊義として過ごした牡丹の半生が描かれており、そこに牡丹の名前は出て来ない。それに対し、時の皇帝徽宗が書き記した英雄奇譚では、死後皇帝の後宮に入っている。後宮とは皇帝の妃のみが入る事を許される花園である。尚且つ、徽宗は後宮の一画の名前を牡丹宮に変えた。それは、盧俊義の真名である牡丹から来るものだと、書物には明言されている。
だが盧俊義と牡丹≠関連付ける証拠は余りにも薄かった。盧俊義が書いた日記には、燕青と過ごした日々の事ばかり……主に燕青の事が書かれていて、牡丹の牡の字も出て来ない。
逆に、徽宗の記した英雄奇譚は、盧俊義は牡丹だと明言されているものの、盧俊義の死後幾年かの後に書かれてもので、創作要素が強いとされている。
だからこそ、英霊として召喚された時、牡丹の姿は男のモノであった。然し、第三再臨までされた牡丹の姿は女であり、藤丸はそんな牡丹の姿を見て、驚きのあまり腰を抜かし、挙句の果てには絶叫した。
「な、なん、なんで……!」
「大丈夫です? マスター」
「声が……えっ? 何? どういう事……?」
全てを知っていたのか、いち早く誰よりも現状を理解したのか、はたまたその両方なのか、ダ・ウィンチは腰を抜かした藤丸を見て、両手で腹を抱え、肩を大きく揺らして笑い、牡丹はいつまでも床に尻を付けている藤丸に手を指し伸ばしたのであった。
「事実は小説より奇なり、とはよく言ったものですよ。マスター」
上手く状況が読み込めないまま解散となった翌日。牡丹は一人カルデアの中を適当にうろついた。すれ違うカルデアスタッフは牡丹の顔を見ては、こんな奴カルデアにいただろうか。と首を傾げて、また新しいサーヴァントが召喚されたのだろう。と自己解釈をしていく。
そんな中、牡丹は食堂でアルトリアの後ろ姿を見かけ、いつもの様に金の髪を持つ女性に声をかけた。
「アルトリア。何を食べているの?」
「……貴方は?」
翡翠の瞳は女の姿の牡丹を捕らえ、疑問の色を隠す事なく牡丹に視線を向ける。
――いつものように声をかけたけど、この姿を見せるのは初めてだった。
癖とは中々抜けない。と牡丹は反省したように頬を人差し指で掻き、怪訝そうに自分を見つめるアルトリアに事のあらましを説明した。
「と、いう事で今の私は女なの」
「成程。女性になると口調も変わるのですね」
「幼い頃は女性らしくなるように躾けられていてね。あと単純に、女性らしい私の一面が強く出ているだけかも知れないけれど」
一時は槍を握って戦場を駆け抜けていた牡丹であるが、豪商の生まれであるが故に、女性らしい教養を幼い頃から叩き込まれている。盧俊義の時とは全く口調も違うが故に、アルトリアも戸惑ってしまうかもしれない。と牡丹はアルトリアの顔を見るも、騎士王は普段と何も変わらないどころか、牡丹に対し歯の浮くような台詞をぶつける。
「女性の貴方は愛らしいですね。大きな瞳が印象的で好ましいです」
「……そんな風に褒められた事がなかったから、嬉しい、デス」
「どうかしましたか?」
生前、盧俊義という男の姿に扮して生活していた頃、女性を口説く事は何度かあった。
僅か六年の男装生活が随分と染みつき、息を吸うように相手の女性を褒めていた牡丹だったが、女性の姿を褒められるという経験がなく、アルトリアの台詞に耳まで赤くなった牡丹は、アルトリアに赤面した顔を見られないように、と、両手で顔を隠すと、アルトリアは心配し牡丹の顔を覗く。すると髪の隙間から赤くなった耳が見え、アルトリアはクスリと笑った。
「存外貴方にも可愛らしい面があるようですね」
「……っ!」
恥ずかしさがいっぱいになり、遂には声すらも出なくなった牡丹と、騎士王の名を欲しいがままに、微笑むアルトリアを影から見ていた存在が二人。のちにこの出来事が薄い本のネタとなり、藤丸や燕青の手元に行く事になるとは、牡丹とアルトリアにはわからなかった。
女の姿になってから数日。牡丹は不定期でエミヤに弓兵としての訓練を受けていた。
エミヤ曰「もう訓練をしなくてもいいレベルになった」との事だが、牡丹は身体を動かしていないと落ち着かないと言って、不定期ではあるがエミヤに特訓してもらっている。
「君、女だったのか」
「……ん? あぁ、貴方にこの姿見せるのは初めてだったね。つい先日ね」
「そうか」
そう言ってエミヤは訓練を始める為にトレーニングルームに入って行く。その後の態度も変わらず、牡丹は生傷をこさえながらトレーニングルームを出た。
カルデアの職員は牡丹の姿を見ては首を傾げ、彼奴は誰だ? と目が疑問を訴えてくるが、ここのサーヴァントは特に気にもしていないのか、大抵のサーヴァントは「そうか」と言って世間話を始めるのだ。
もしかしたらエミヤは内心驚いているのかもしれない。でもそれをおくびにも出さないでいてくれる。多少なりとも異性として態度は優しいが、それでも訓練での態度を変えない。牡丹はそれがとても嬉しかった。
エミヤと牡丹の仲が特別いいわけではない。
ただ二人とも、他人との距離感が上手であり、二人の纏う空気が同じで見ただけであれば二人が他のサーヴァントよりも仲がいいと思うだろう。
休憩室の隅。並んで立つエミヤと牡丹の背中を見ていたのは、翡翠の目を持ったサーヴァントだった。その視線は赤い外套を鋭く見ている。怒気を隠しもしない燕青の視線を背中で一身に受けているエミヤは、燕青の視線に気付きもしない、身長が僅かに小さくなった牡丹を見る。
気が付いているのか、気が付いていないのか……気が付いていないフリをしているのか。
恐らく後者だろうとエミヤはワザとらしく肩を竦めた。
「エミヤ?」
「――盧俊義、あの男の視線を何とかしてくれって――君、名前までは変わってないだろうな」
「正解だよエミヤ。本名は牡丹って言うの」
よろしくね、と勝気な笑みをエミヤに見せた牡丹は、ふう。と息を吐いてエミヤから視線を外し、遠くを見つめた。
「生前、私たちは常に一緒だった」
――記憶を思い起こしても私の傍には常に燕青の気配があった。
二十六年の人生であった。その中で燕青と過ごして来た時間は十年にも満たない。だが、春の陽だまりのような時間だった。朝焼けを望むような日々だった。大輪の花が、花開く前夜のような恋だった。潮騒の日々に反し夕凪のような最期だった。
望んだ関係ではなかったけれど側にいた。
「私を主と慕う彼を、私は従者として扱った」
本当は隣に並び立ちたかった。
「だけど私は、主には成りきれなかった」
何処までも愚かな女であった。彼が抱く理想の主にはなれなかった。
最後の最後には彼の期待を裏切り、自分の欲の為に燕青を切り捨て勝手に死んで逝った。
じくり、と高俅に斬られた背中が痛んだ。もう傷なんてない筈なのに、遠い昔の話であるのに、この痛みは間違いなく高俅に斬られた傷だとわかった。
「君は、アサシンを――」
「大切に思っているよ。自分の事よりも、ね」
――この感情を恋と名付けるには重たくて、愛と呼ぶには独り善がり過ぎる。
早く捨ててしまいたいのに、捨ててしまいたくない。胸の奥底、誰の手の届かない場所に隠してしまいたい。
でもそれはとても苦しくて、悲しくて、怖くて、壊れてしまいそうになる。
「彼が私を憎んでいるのは、彼の理想になれなかったから……なの、よ」
従者として最期まで共に在りたいと思っていてくれていた事は知っている。知っていた上で牡丹は燕青を切り捨てた。
――その選択が間違っているとは今も思ってはいない。憎んでもらっても構わない。
だから牡丹はこの現状に文句はない。それに藤丸という希望も見つけた。燕青が藤丸をマスターだと認めたら名前を明かす。名前を明かすという事は人生羇旅を明かしているのと同じである。人生の事柄を知られるという事は、己の考えも性格も赤裸々に明かされるという事だ。ちっぽけな自尊心と、多大なる悔恨と自責の念。
「願わくは、彼がまた、心から誰かを――マスターを信じる事が出来るように、と祈るばかりね」
何処か遠いところを見つめて薄く笑う牡丹は、今にも消えてしまいそうな雰囲気を出していた。
エミヤは思わず牡丹の腕を掴み、引き寄せると、バランスを崩した牡丹の肩がエミヤの胸板に当たった。
目を大きく開いた牡丹がエミヤを見上げると、同じく薄鼠色の瞳が大きく開き牡丹を見下ろしていた。それと同時にエミヤの背中に刺さる視線が一層鋭くなり、エミヤは眉尻を下げつつ、牡丹に謝罪の言葉を口にし、牡丹の腕を掴んでいる手を離した。
体勢を立て直した牡丹は、エミヤと少し間を開けて向かい合って立ち、牡丹は背中を休憩室の壁に付けてエミヤを見上げた。
「どうかしたの?」
「いや、座に……還ってしまうのではないかと。馬鹿々々しいにも程があるがな」
「座にはまだ帰らないよ。成し遂げたい事があるもの」
「それは彼の事も含まれているのか?」
エミヤの疑問に牡丹は緩く首を左右に振った。
牡丹の成し遂げたい事とは藤丸の任務である人理修復だ。そこに燕青との関係の修復は含まれていない。牡丹の中では生前の事は既に終わっている事であり、今解決すべき問題ではない。
「アサシンの事はもう、マスターに託したもの」
「君は諦めてしまったのだな。全てを」
「そう、ね。私は諦めたの。だからマスターに全てを託したの」
何も恥ずべき事ではない。と言わんばかりの態度で牡丹はエミヤの薄鼠色の瞳を見つめ返した。
「どうして託す事が出来た? マスターだって君と同じ選択をするかも知れないだろう?」
「それはないよ。だって見て」
そう言って牡丹はエミヤの隣に立ち、休憩室で談笑している藤丸と燕青の方に視線を向ける事で、エミヤの視線を誘導した。溌剌と笑う燕青の前には、肩を揺らし笑っている藤丸の姿があり、誰がどう見ても仲がいいとしか言いようのない雰囲気。牡丹のピントはそこにしかあっておらず、視界という名のフレイムに収まる光景を、まるで眩しいものを見るかのように目を細め、薄く笑って眺めている。
まるで遠くを懐古しているような表情に、エミヤは君たちの生前もあんな風に仲が良かったのか? と口を開きかけたが、全くの部外者が聞いてもいい話ではないだろう。と優しい男は口を噤んだ。
「そっくりなの。あの頃の彼の笑い方に」
「……辛くはないのか?」
「辛いと、私が思ってはいけないでしょう」
牡丹は眉尻を下げてへらりと笑い、エミヤを見上げた。辛いと感じるのは罪だと言わんばかりの科白にエミヤは溜息を吐き、牡丹の視界を遮るように、燕青と藤丸に背を向けて牡丹の前に立った。
女の牡丹よりもずっと背の高いエミヤが前に立てば、牡丹の顔に影が落ちる。
「俺が視界を遮る事は構わないのだろう?」
「ふふっ、そうだね」
たまには目を違うところに向けてもいいのかもしれない。と牡丹は口元を隠し、息を吐き出すように笑った。盧俊義だった頃よりも薄い肩を小さく揺らし、目尻に涙を浮かべて笑う牡丹はエミヤの目にあまりにも頼りなく映った。
赤い外套の影に隠れた女を見る翡翠の目は苛立ちを孕んでいた。自分以外のモノの影に隠れた女の存在が燕青には煩わしかった。
最後の最期に忠臣を裏切った主。その行いは裏切りであり、許されるものではない。
憎み続けなければならず、憎悪で固めなければこの感情、身体はカタチを保つ事が出来ない。
憎い、忌々しい、腹立たしい、許さない、嫌いだ、視界にも入れたくない。
――俺は、あんたを赦せない。
だというのに。傍にいたい、縋りたい、声を聞きたい、その手に触れたい、赦されたい、愛おしい。
燕青は矛盾する感情をそのまま、赤い外套の奥にいる懐かしい姿をした牡丹に向けた。
「あの二人、仲がいいよね」
一点を見つめる燕青の視線の先を辿った藤丸が嬉しそうに口を開いた。
確かに仲がいいのだろう。と燕青は僅かに聞こえてくる牡丹の笑い声に苛立ちを感じた。
「仲が良い……ねぇ」
不満を内包した声色だったが、牡丹が召喚されてからというのの、燕青の機嫌は時折急降下する事を学んだ藤丸は、燕青の苛立ちに気が付いたものの、何も気付いていないようにまた口を開く。
「たまに間に入っていこうかなって思うんだけど、折角の雰囲気を壊したくないから止めてるんだ」
「何だい? マスターは俺というものがありながら、嫉妬してるのかい?」
「嫉妬しているのは、アサシンでしょ」
軽やかな声に燕青の呼吸が一度止まった。刹那動き出した心臓は嫌な音を立て、不規則に動く。息苦しさすら感じている燕青は、動揺をおくびにも出さず、翡翠の目を細めた。
「なんで、そう思ったんだい?」
「んー、子供みたいな目をしてたから、かなぁ」
「子供?」
「うん。本当は欲しいのに我慢して、でもやっぱり欲しいなってお菓子を見ている子供の目」
橙の瞳が翡翠の瞳を射抜いた。真贋を捉えるような鋭さに燕青は切れ長の目を大きく開き、直後「咯咯咯」と大きく肩を揺らして笑いだした。眉尻を下げ、目尻に涙を浮かべて笑う燕青の姿に驚いたのは藤丸だった。
「アサシン?! 」
遂には刺青の入った腹を藍色のガントレットで包まれた手で抱え笑いだした燕青。
エミヤの影から、牡丹が不思議そうな顔して顔を出していた事も気が付かない程笑っている燕青は、大きく息を吐き出して呼吸を整えた。
「アサシン……?」
「マスターが言った事は正解なんだろうねぇ。俺は、きっと――」
無いもの強請りをしている。
憎くて、恨めしくて、決別したいのに。会いたくて、触りたくて、目で追ってしまう。
俺を見て。俺に笑いかけて。俺を見捨てないで。切り捨てないで。
――俺を愛してくれ。
男の声にもならぬ叫びは、ころりと床に転がり何も知らない通りすがりのサーヴァントに踏まれて消えた。
吐き出したからすっきりするわけではない。吐き出したから生まれ変わるわけではない。
裏切られたと、見捨てられたと思う感情は燕青の中にはまだあり、牡丹を酷く恨む感情もまだ奥底に根付いている。
何も変わらない。それでも、燕青は何処か救われたような気すらしている。
――それは、あんたが見抜いてくれたからだろうな。
幼さの残る顔に牡丹よりも細い肩。純真無垢というには世知辛さを知ってしまった藤丸。
燕青はその少女を、何処か愛おし気に見つめていた。
空調が完備されている藤丸のマイルーム。使われている家具は全てが高い物ではないが、毎日使っている寝台は、日々疲労しきった藤丸の身体を癒している。
野宿にもすっかり慣れてしまったが、使い慣れたベッド程極上の物はない。と今日も慣れ親しんだマットレスに身体を横たわらせた。
月もカルデアの上で輝いている頃、深く意識を沈めていた筈の藤丸は夢を見た。
大木と表現しても差し支えのない枝垂れ柳の木の根元で、つい先日まで見ていた姿の牡丹――基、盧俊義と未だに真名を明かさぬアサシンが、酒を片手に和気藹々と語らっているもので、藤丸はすぐにこれは夢である。と判断した。
それもその筈、カルデアにサーヴァントとして召喚された二人は、口も利かずお互い接触を避けて過ごしているからだ。
生前何かがあったのだろうと、藤丸は刑部姫と共に邪推混じりの推論を立てているのだが、それを本人に確認した事もなければ、誰かに口にした事もない。
実際、牡丹の性別が女だと知った時点で、藤丸と刑部姫は自分たちの推論は当てにならない、と判断し以降藤丸は、二人はお互いを思い合っていたんだ。と当たらずも遠からずの邪推に切り替えた。何がどう変わったかなんて、同性から異性に変わっただけである。
これは夢なのだ。
藤丸は早く夢から覚めるよう、どうしたらいいのだろうか。と頭を悩ませていると燕青の声が藤丸の耳殻を揺らした。
「なぁ主」
「なんだ?」
「あの花、なんて名前か知ってるかい?」
燕青は藍色の籠手で包まれた指先を藤丸の背後に向けて指差した。藤丸は指差した方を見ようと首を捻らせようとするも、身体が言う事を聞かず、燕青が何を指差したのかわからないまま、スローモーションのように酷くゆっくりと口を動かす牡丹の音に意識を集中した。
「あぁ、あれは私が一番好きな花だな。名は――」
そこでふと藤丸は気が付くのだ。――アサシンの身体に刺青がない。と。
夢だと思っていた景色は夢ではない。
ではこれは何なのか。と新たなる疑問が生まれるも、藤丸はすぐにその疑問を解決した。
――これは、二人の生前の姿。
心の底から喜びに満ちている二人の姿に、藤丸の胸が痛んだ。
じくりと鈍い痛みが痛み続ける藤丸を置いて行くように、話が進んで行く。
「いつまでも見られるものなら見ていたいくらいだ」
「へぇ」
「お前が花に興味を持つとは、思いもしなかったよ」
燕青を揶揄うように牡丹は笑った。力を抜いた肩を揺らし、息を殺すような笑い方はカルデアでは見た事がない。と藤丸は橙の瞳を大きくさせた。牡丹に笑われ何処か拗ねたように眉を顰める燕青の表情だって藤丸は見た事がない。
――結構長く一緒にいるけど、あんな顔、見た事がない……。
不貞腐れているのに、何処か嬉しそうで頬を赤く染めている。白い肌に深い緑を含んだ黒い髪、頬は赤く染まり翡翠の目が柔らかく弧を描いている。
「そーかい」
藤丸が耳にした事もない優し気な声。以前マイルームで藤丸が寝落ちした時に、燕青が藤丸に毛布を掛けた事があった。あれはいつだったか。と藤丸が左に視線を逸らし思い返していると、再び燕青の声が藤丸の耳に届いた。
「この花、そんなに好きなのかい?」
「そうさな。季節の移り変わりがあるからこそ美しく見えるものだが、何時でも見えるのなら、それは楽しいだろうな」
「そうか」
白い歯を見せて笑う燕青を牡丹が不思議そうに見つめ、困ったように笑った。
――二人ともあんな顔して笑うんだ。
藤丸が見て来た燕青と牡丹は、顔を突き合わせれば気まずそうに顔を逸らすか、憎しみを孕んだ目で相手を射抜くかで、会話だって藤丸を緩衝材にしないと成り立たない。何が二人をここまで変えてしまったのだろうか。
だって二人とも、目が、声が、表情が、好きだって言っているのに。大切だって言っているのに。どうして――。
白い光が、雲間から射している。今宵は満月だったのか。と藤丸は牡丹の頬に当たる月明かりを見て初めて空を見上げた。赤と白の花の王が咲き乱れていた筈の景色が一転し、建物が燃え盛る。強烈な熱さが痛みとして藤丸の肌を刺激する。
何がどうなった。と藤丸が目を凝らし周りの状況を把握しようとしていると、牡丹を抱えた燕青の姿があった。
燕青の腕に抱えられた牡丹はぐったりとしていて、燕青は何度か牡丹に向かって口を開く。然し、何と言っているのか、藤丸の耳には入って来なかった。ただわかったのは、牡丹は燕青を置いて死んでしまった。という事だけだった。
何か物音があったわけでもなく、自然と目覚めた藤丸は、ゆったりとした動作で上半身を起こし、額に手を付け大きく息を吸った。
カチ、カチ、カチ、と規則的になる秒針の音が耳に入る程に藤丸のマイルームは静まり返っている。
それもその筈。カルデアの外では月が真上で輝き、職員たちもサーヴァントたちも身体を休めている時間だからだ。
普段だったら藤丸だって寝ている時間帯。然し、藤丸は時折夢を見ては似たような時間に目を覚ます事があった。そしてそんな事があった日には必ず夢に出て来たサーヴァントに何かしらが起こるのが定石だった。
「どうしようかな……」
変に目が冴えてしまった藤丸の眠気は当分戻って来そうにない。水でも飲むかと藤丸が寝台から降りる時、いやに衣擦れ音が響く。素足にタイルの床は冷たく、ますます眠気が何処か遠くに遠ざかる。ひんやりとした感覚が寝起きの火照った身体に気持ちいい。秒針の音が響く室内。
サイドテーブルに置いているピッチャーに入っている水をコップに移し、それを一思いに煽った藤丸の小さな喉仏が上下に動く。
「ぷはー」
ガラスで出来たコップをサイドテーブルに置いて、もう一度足を布団の中に隠した。そうして上半身を倒して目を瞑った。
眠れるのだろうか。と一瞬不安になったものの、目を瞑れば案外眠気はすぐそこまでやって来て、気が付けば深く意識を沈め、胸を規則正しく上下に動かしていた。
カーテン越しに差し込む日差しが藤丸の瞼を刺激した。小さな唸り声を上げながら、瞼を擦り開いた。上半身を起こし、不規則に跳ねているオレンジの髪を整えながら、欠伸を零した。
さて、昨夜は何があったんだっけ? と藤丸はまだ眠たいと訴えている瞳を無理矢理動かし、夢を思い返した。
――うん。覚えている。
鮮明に覚えている。と藤丸は仲睦まじい二人の様子を思い返した。牡丹がアサシンを置いて死んでしまったから? だから二人は今のような関係になってしまったのだろうか。
でも、見るからに不慮の事故だったように思える。
――だって牡丹は、あの火事に巻き込まれて死んでしまったように見えたし。
でも、アサシンが不慮の事故で亡くなってしまった牡丹の事を、此処まで恨むような人間なのだろうか。そんな事はない。
私の死っているアサシンは、そんな不条理な人じゃない。
藤丸は頭を振って考えを振り捨てた。立ち上がった藤丸はカルデアの制服に着替え、マイルームを後にした。中央管制室に向かい、自動ドアを潜るとダ・ヴィンチの蒼い瞳が藤丸を捉えた。
「おはよう! 今から君を呼ぼうとしていた所なんだ。丁度良かったよ」
「先輩! おはようございます」
「おはようございます。二人とも。ところで何かあったんですか?」
こんな朝早くに。と続けると、管制室の設備がけたたましい警報音が鳴り響く。この音は異常事態が発生した時に鳴る音だと、藤丸は劈くような音を耳にしながらも、酷く冷静な頭でダ・ヴィンチを見つめた。
「今朝、小特異点が見つかってね」
「場所は中世中国です」
マシュの言葉に藤丸は「やっぱり」と小さく漏らした。その言葉は拾われる事はなかったものの、藤丸が何かを言った、と言う事がわかったマシュは、フォーくんを両腕に抱えたままアメジストの瞳で藤丸を見つめた。
「レイシフト、ですよね」
「時代的にもこの辺が適任かと思って、もう呼んであるんだ。仕事が早いと褒めてくれてもいいんだぜ!」
語尾に星が飛ぶように軽やかな口調で、親指を立てながらいうダ・ヴィンチに藤丸はたじろぐも、管制室にやって来るであろう面々を予想し、肩を落とした。
どうしようか。と考える間もなくやって来たのはアサシンである燕青だった。
「んで、何処に行くんだい?」
ダ・ヴィンチにも劣るとも勝らない軽い口調でやって来た燕青は、既に話を聞いているようで、藤丸はちらりと自分よりも背の高い男を見上げた。
夢で見た事を話すべきなのだろうが、牡丹が集まればすぐにでもレイシフトしそうな勢いで、タイミングがないな……。と考えあぐねる藤丸の様子に気が付いた燕青は、少女らしく薄い肩に、藍色のガントレットで包まれた手を置き、短い挨拶をした。
「よぉマスター。何か考え事かい?」
「うーん。アサシンの事でちょっと話したい事があって。でもタイミングがないなって」
「あー……」
気まずそうに視線を逸らした燕青を見た藤丸は、自分が夢で生前の二人を見た事を知っているのだ。と確信した。
「あの人がまだ来てないようだが、連絡してるのかい?」
ダ・ヴィンチに向かって燕青は口を開いた。仮に牡丹がもう一人の同伴者だとしたら、時間通りに来ない筈がない。と燕青は信頼とも呼べる確信があり、牡丹が自主的に遅刻しているのではなく、連絡が届いていない可能性を口にしたのだ。
「スタッフに頼んだんだけどー……そのスタッフも帰って来てないし、まだ探しているのかも」
「だったら私も探しに行った方が良い?」
「……いや、そこのアサシンに探しに行かせた方が早い」
「――ま、そうだろうねぇ」
両手を頭の後ろに回して、何度か頷いているが、全身から関わりたくないという雰囲気を醸し出している。数回頷いているのは、自分の中で納得出来るようになのだろうが、一切何も納得いっていないように藤丸の目には映っていた。
「アサシン、大丈夫?」
下から覗き込むように燕青を見上げる藤丸の頭を撫でた燕青は、白い歯を見せて笑い、だらりと腕を下に降ろし、深く息を吐き出すと管制室を後にした。暫くすると牡丹が慌てた様子で管制室にやって来て、その後ろから燕青がのんびりとした足取りで管制室の中に入って来た。
牡丹の頬には汗が伝っており、走って此処までやって来たのだろうと、藤丸はポケットからハンカチを取り出し、牡丹の頬を伝う汗を拭った。
「ありがとうマスター」
「何処に居たんだい? スタッフが呼びに行ったと思うけど」
小首を傾げるダ・ヴィンチに対し、牡丹は酷く申し訳なさそうな顔をし、もう一度謝ると、桃色の唇を動かした。
「トレーニングルームでエミヤと訓練していたので……」
「成程ね」
牡丹は未だに頬や額に浮かぶ汗を拭う藤丸の手を取り、ハンカチを受け取った。
「洗って返しますね」
「気にしなくていいのに」
「いいえ。汚れてしまったので」
牡丹は藤丸から奪ったハンカチを握り、ダ・ヴィンチに視線を向けると、伊の国が誇る天才は意味ありげに笑い、今回出没した小特異点について説明し始めた。
曰く、今回突然現れた特異点は、中世中国である。よって生きていた時代が近い、牡丹と燕青を呼んだとの事で、今から二時間後にレイシフトを開始するとの事だった。ミーティングは短時間で済んだ。藤丸と燕青が何度もレイシフトしている、という点と、行先が明確だったからだ。
これから二時間、何をして過ごそうか。と藤丸が壁に掛かっている時計を一瞥すると、上半身を僅かに折って藤丸の顔を覗き見る燕青の顔が視界に映った。
「ちょっと時間いいかい?」
「――私も話があったんだ」
雪のように白い歯を見せて笑った燕青のその顔に、一点の曇りはなく、藤丸はこれから話す夢の内容を聞いた燕青の表情が曇る事を予想し、じくり。と鈍い痛みを胸の奥で感じた。
藤丸のマイルームに足を踏み入れた燕青は、自分に与えられた部屋の内装との違いに一瞬、辺りを一瞥するも、すぐに藤丸に意識を向けた。
「えっと……アサシンの話しの前に、私から話してもいいかな?」
「どうぞぉ」
藤丸はデスクとセットの椅子に腰を掛け、燕青は藤丸が普段愛用している寝台に腰を掛けた。スプリングが弾み、いつもよりも重たい人間が座った所為で、軋んだ音が燕青の耳に僅かな不快感を与えた。
橙の髪を持つ少女は、己を見つめる翡翠の瞳に一種の罪悪感を覚えつつも、言わねばならない。と鼓舞し深く息を吸って薄い唇の形を変えた。
「夢、を見たの。アサシンと牡丹の夢」
吸い込んだ息を言葉と共に吐き出していくも、言葉を紡げば紡ぐ程、息を吐けば吐く程肩の荷が重たくなり、ずっしりとした空気が藤丸の周りを取り囲む。途切れ途切れの言葉を燕青はジッと、獲物を前にした獣のように息を殺して、震える藤丸の唇を見張った。
「多分生前の二人、なんだけど……アサシン、知られたくなかったのに、勝手に見て……ごめんね」
何も悪い事をしたわけではない。藤丸だって見たくて見た夢ではない。だが、夢を見続けたのは藤丸の意思であり、その事実が藤丸の罪悪感を刺激し、自然と視線が下を向き、気が付けば顔を俯かせ、燕青の翡翠の瞳を見ていた筈が突き合わせている膝を見ていた。
「――それはマスターが謝らないといけない事なのかい?」
弾かれるように藤丸は顔をあげた。
「え?」
思わず零れたそれは困惑が前面に現れた声だった。
「見たくて見たわけじゃない事を、自分の所為にするのはよくないねぇ」
まるで呼吸をする事は当たり前だと言っているかのようで、一+一は二であると教えられているようだった。
燕青は知っていた。マスターである藤丸が己たちの過去を見た事を。牡丹も見たのかは知らないが、燕青は藤丸が夢を見ていた時間と一寸の狂いもなく、同じ時間に同じ光景を見ていたのだ。
見ていた記憶は懐かしくも苦しく、吐き捨てたくて、投げ出したいものだったが、どうしようもなく愛おしくて、燕青は腹の奥が熱くなったのだ。
藤丸が夢で見たのは不可抗力だ。見たくて見たわけじゃない。そんな事はしないと燕青自身が一番わかっている。だから責める事はしない。寧ろこれはいい機会なのではないのか。という考えまでに至ったのだ。
この少女であればもう一度誠心誠意仕えてもいい。そう思わせる、そう思わせてくれる。
また裏切られるかもしれない。そんな不安はいつでも燕青に付きまとう。
それは茨を持つ蔓が燕青の身体を離さないと締め付けてくるように、小さな棘が、美しい刺青を汚していくのだ。
最愛の人を守れなかった。と嘆き、最愛の人に信じてもらえなかったと、裏切られたと恨む気持ちは今もずっと燕青の内側にあって燻っている。
否、それは業火と呼ぶに相応しい程燃え上がっている。
でも、でも。この少女は違う。いつだって受け入れてくれた。何も言わない、教えないこの身を信頼してくれた。
――だったらその意思に、恩に報いたい。
「マスターは――」
カルデアの外は変わらず吹雪いている。一面の雪景色を見られたらまだよかったのだろうが、窓の外が強い風に流される雪で真っ白になって、広大な空一つ楽しめはしない。
窓だって小さくない。寧ろ大きいと言える。それなのに青空一つ楽しめないのだから、カルデアの外は悲惨な状況が続いている。と言っても過言ではない。
実際、未来がないのだから、悲惨にも程がある状況には変わりがない。
レイシフトまでの二時間。牡丹は何をしようかと、頭を悩ませていた。武器の手入れは毎日行っている為にする必要もなく、エミヤと鍛錬しようにも時間がなさすぎる。二時間とは何をするにも中途半端な時間だった。
景色でも見ようかと、時間潰しに廊下に立ってみても、見えるのは吹雪いている雪景色だけであって、それ以外に何もない。
――あぁ、そう言えば前にもこんな事があったな。
それは前にも、と呼ぶにはあまりにも昔の話であった。時間にしてみれば、現在から九百年前の話しである。
それは穏やかな日の事だった。
久し振りに休暇を取ろうと牡丹は逆旅に引きこもり、次いでとばかりに燕青を外に追い出した。その日はよく晴れていたような記憶があるが、本当に晴れていたのかは今の牡丹に知る術はない。ただ、吹雪ではなかった事は確かである。
――そうだ。その時も、私は手持ち無沙汰になったのだった。
その時は常に燕青が傍にいた。だから退屈しなかったのだが、その日は、燕青を休ませようと外に追いやったのに、そんな事を忘れて、つまらないなんて自分勝手な感想を抱いたのだった。
燕青と出会い楽しさを知った牡丹は、一人はつまらないもの。と認識するようになった。
それはカルデアに来てからも変わらない。藤丸が、アルトリアが、エミヤが、他にも此処にいる職員やサーヴァントが共に時間を過ごしてくれる。楽しい時間はあっと言う間で、降り積もる雪のように満足感を穏やかに蓄積させてくれるが、誰もいなくなった時、迷子の子供のように不安を感じる。
結露が凍り、六花の模様が出来ている窓ガラスに牡丹の指先が滑る。何か文字を書くわけでもない。ただ上から下に真っ直ぐ短く出来た縦線は、牡丹の熱に溶け、水滴を作り窓ガラスに沿って下に落ちていく。
長い尾のようにすら見えるそれらは、いくつかの分岐を作って縁に吸い込まれていった。
何処の分岐を間違えてしまったのだろうか。なんて思ってもいない事を考えてみたが、やはり何処を切り取っても間違った選択はしていない。と牡丹は中々過ぎない時間に溜息を吐いた。
桃色の唇。艶のある髪。頬は薄く紅をさし、白魚のような肌。男だった時とは違い、今の牡丹は丸みを帯びた曲線で、女性らしさが前面に出ている。
六花の模様を描く窓ガラスに向かって溜息を吐く様すらも絵になる。と、通りがかったスタッフは感嘆の息を漏らす。一言で言えば牡丹は、その名の通りの花のような華やかさがあるのだ。生前と何も変わらないその花は、燕青の手によって隠されたものだった。
牡丹は死ぬまで、否、死んでからも終ぞ知る事はなかった。どうして自分が男装させられたのか。本当の理由を。
あの時燕青は女だと何があるかわかったものじゃない。と言って牡丹に男装を薦めた。
だが、本当の目的はそこにはない事を牡丹は知らない。
男のちっぽけで壮大な独占欲など、窓辺で溜息を吐く牡丹には知りもしない。
女の姿をして商売をしていても、多少舐められる事はあるだろうが、牡丹なら相手を黙らせる事が出来た。
金を持った女だという理由で襲われても、燕青なら守る事が出来た。その自信だってあった。
男であろうが女であろうが金があれば命も狙われる。そんな世相だったのだ。女の格好をしようが、男の格好をしようが、リスクの差は大差ない。
それでも男装させたのは、燕青が成長した牡丹の姿を閉じ込めておきたかった他ならない。狭い鳥籠の中で飼われる小鳥のように。大空に飛び立つ羽はあるのに、鳥籠の中にいる所為で大空を知らない。生まれた時から鳥籠の中にいる小鳥は、籠の外には広大で、壮大な世界が広がっている事を知らない。もっと言えば、自分の持っている羽が空を自由に飛ぶ事が出来る事も知らないかもしれない。
牡丹は、確かに学はあった。戦場を何度も経験し、師事していた老師が教えてくれなかった事をそこで学んだ。だが、逆を言えばそれだけなのだ。
それ以外の世界は何も知らなかった牡丹。
学はなくとも、醜い世界を知っていた燕青。
返り血を頭から被り、それでも両手に槍を握り戦場を駆け回っていた牡丹の身体は切り傷だらけで、とてもじゃないが美しいと呼べるものじゃなかった。
勝利の女神であり、恐怖そのものだった。
そんな中燕青は、燕青だけは牡丹に目が眩んだ。強烈な光に焼き付けられたと言っても過言ではない。
真っ暗な景色に牡丹という名の光は、燕青を惹きつけてやまなかった。
この光はいずれ大多数を惹きつける光になる。そんな確信を持った燕青は、徹底して牡丹本来の魅力を隠す事にした。
成長した牡丹は、その名の通り牡丹の花の如く美しい人になるに違いない。救いの手を求めるかの如く、沢山の手が牡丹に向かって伸びるだろう。その中には、牡丹の基盤を盤石なものにしてくれる存在もいるかも知れない。
そんな事を想像しては、まだ見ぬそれらに対し燕青は、どうしようもない焦りを覚えたのだ。
このひかりを知るのは自分だけでいい。他の人間の目に触れさせてやるものか。例え、牡丹の幸せがそこになくとも、燕青はその選択肢しかなかった。
女としての牡丹を知るのは俺だけだ。それでいい。それがいい。
男としての燕青のちっぽけで壮大な独占欲が、盧俊義を生み出した事を牡丹は知る由もない。
ごくりと飲んだ生唾。形のいい薄い唇が滑るように動くその光景を、藤丸は瞬きをする事を忘れ見ていた。鮮やかな刺青が施された白い燕青の肌。頬に掛かる髪は深い緑を孕んだ漆黒で、その深さに吸い込まれていきそうだと、錯覚さえ起こしてしまう。
「マスターは、俺の名前が知りたいかい?」
「……それは、私が夢を見たから?」
藤丸が見た夢は燕青の生前の姿を映したものだ。燕青は真名を明かされる事を恐れていたのではい。一番に恐れていた事は新しい主を心から認める事だった。
牡丹以外の人間の口で燕青≠ニ呼ばれる事に嫌悪を覚えたのだ。それは最愛の主に先立たれた後、聖杯戦争の為にサーヴァントとして召喚され、マスターに名前を呼ばれた瞬間、どうしようもなく吐き気を覚えた。
初めてだった。それは女マスターだった。牡丹とは似ても似つかない女だった。似ている点は性別と髪色が同じというだけだった。魔術師になる為に生まれ、魔術師になる為に育てられたような女だった。心から従っていないと分かるや否や、劈くような声で燕青を責めた。
顔を真っ赤にし、サーヴァント如きがマスターに逆らうな。と詰る女マスターに対し燕青は牡丹を重ねようとした己を心の内で何度も殺した。
真名を教えない。と誓ったのはあの出来事があったからだ。
その後も何度かサーヴァントとして呼ばれる事があったが、どのマスターも真名を教えたくないと言えば、揃って燕青を詰った。
――だが、目の前にいるマスターは違う。
己の意思を、尊厳を、主張を受け入れ認めてくれたのだ。
藤丸は今まで燕青を召喚したどのマスターとも違う。人理修復という前代未聞の問題を前に取り残されたただの人。魔術師の為に教育されて来たわけじゃない。それなのに気丈に振る舞っている。
藤丸が初めて召喚したのが燕青だった。だから燕青が真名を藤丸に言わなくても何も言わなかったのか、と言えばそういうわけではない。周りにはダ・ヴィンチやロマニといった面々がいるのだ。カルデアスタッフだっているわけだ。これが如何におかしい事か藤丸の耳に入っている事だろう。
それでもなお、藤丸は燕青に対し真名を聞きはしない。寧ろ話すまで待つと言うのだ。
そんな人間に対し燕青は今まで、素知らぬ顔して藤丸の横に立ち、藤丸の行く道に立ち塞がる敵を倒して来た。
呼ばれるがまま藤丸の意思の赴くまま。それも良いと思い始めたのはいつ頃だろうか。藤丸と牡丹を重ねなくなったのはいつ頃だろうか。
忠義を尽くすならこの少女以外にあり得ない。と思ったのはいつ頃だろうか。
その心に嘘を吐かぬよう。侠客らしく、忠臣らしく、俺らしく。
「いや、違うな……俺が、俺の意思でマスターに全てを託しても良いと思っているんだ」
「アサシンがそう思ってくれて嬉しんだけど。――そんなに泣きそうな顔しているアサシンからは聞けないよ」
「――は?」
鏡が手元にない燕青には、今の自分の表情がわからなかった。藤丸に言われるまで燕青は自分が泣きそうになっている事にさえ気が付かなかった。
泣きそうになっていると気が付いた途端、異様に目尻や瞼が熱を持ち始める。込み上げてくる何かをぐっと堪える。針の穴程度の感情が燕青の意思を邪魔する。
どんなに、どんなに願っても、もう戻らないと知っていながらも。
この少女は牡丹と違う。藤丸こそ求めていたマスターだと分かっていても、それでも、求めてしまう。
自分の主は牡丹ただ一人が良い。と願ってしまう。
――そんな事を願ったところで何も無いというのに。
愚かにも、縋りついているのは己ばかりなのだ。と燕青はいつだったかの牡丹を思い出した。
盧俊義が牡丹になったあの日、自分を選んではくれなかった牡丹。カルデアに来て首を絞めたあの日、牡丹は終ぞ燕青に助けを求めなかった。
牡丹が口を開く度に、その声が耳に入ってくる度に燕青は、牡丹から必要とされていないと知り、最愛の主であった女に求められていない事を突き付けられ、見えない白魚の手が燕青の首を絞めつける。燕青の太い首を両手に掛けてもまだ足りないくらいに小さな手。掌には槍と弓を握り続けて出来た肉刺まである。
だったら、だったらいっその事殺してくれ。と何度願った事だろうか。
然し、燕青がそう願えば願う程、燕青の首を絞める白魚の小さな手は力をなくしていくのだ。
皮肉にも、それは燕青が牡丹に縋りついているから他ならない。
最大の忠節心を、忠義を、真心を意図も簡単に切り捨てた主。それが憎くて恨めしくて腹立たしくて、殺してしまいたいのに、あの頃から何も変わらない根っこでは牡丹を求めている。
「マスターは、優しいねぇ。そしてお人好しだ」
「そうかな? 普通だよ」
「誇っていいと思うよぉ。あんたのそれは美徳だ」
「ありがとう」
頬が薄っすらと紅に染まり、恥ずかし気にはにかむ藤丸は傍目に見ても可愛らしい。
過去に何度も藤丸は燕青の事を求め、燕青は求められた分だけ尽くして来た。その関係を変えてもなんら間違いはない。針の穴程度の抵抗は無視したっていいのではないか。と燕青は口を開くも、針の穴程度の抵抗が喉を震わせてくれない。
はくはくと口を開閉するだけで、燕青の少し低い声は藤丸の耳殻を震わせなかった。
「アサシン?」
「……悪いねぇマスター。どうも、俺は――」
――弱虫らしい。
「アサシンが誰を主と言おうが私は気にしないよ」
それは耳を疑うような一言だった。サーヴァントとは、最高の使い魔である。それは変わる事がない事実で、真実だ。今までのマスターだって明確に立場を示していた。
燕青は翡翠の目を大きくさせて、目尻を緩めて笑う橙の瞳を見つめた。
「前はね、マスターだって認めて欲しかったけど、今はあんまり思っていなくて……。多分ね、うーん。何と言ったらいいのかわからないけど……。どんな関係になっても私がアサシンを信頼している事には変わらないから。生前の事を知らなくても、私は今のアサシンを知っているし。だから無理に教えようとしなくていいんだよ」
はらりと零れたのは気持ちだったのか、涙だったのか。
微動だにしない燕青に対し、藤丸は伝わっていないのか。と焦り言葉を続けた。
「えっとね、つまり……私が今のマスターである事には変わりないし、アサシンが頼りになるサーヴァントである事も変わりがないって意味なんだけど……」
自信なさげに燕青を下から覗き込むように見る、藤丸の大きな橙の瞳は目尻を下げている。
燕青はまだ幼い少女の器の大きさに感服し、力が抜けたように、腰を掛けていた寝台に倒れ込んだ。
天井には煌々と光る光源があり、眩しさのあまりガンドレットで覆われている腕を目の上に置いて暗闇を作った。
「アサシン?」
椅子の足が床と擦れる音が聞こえ、次いでとても軽い足音が数歩聞こえた。ベッドのスプリング音は聞こえない。二人はそんな距離ではない。
ただ藤丸は燕青の足元に立ち首を傾げている。具合が悪そうだとか、気分が悪いだとか、そういう事ではなさそうだ。と藤丸は上下する燕青の鮮やかな刺青が入った胸が上下しているのを見て思った。
「アサシン?」
もう一度藤丸が燕青の名を呼べば、燕青は上半身を起こし、ベッドから降りて藤丸の前に膝を着いた。
突然の事に驚く藤丸を前に、燕青は胸元に手を持って来て、右手で拳を作りその拳を包むように左手を添えた。
拱手と呼ばれる挨拶でもあり、右手の握り拳を左手で包んでいるその姿は、貴方に暴力を振るいません。つまり、燕青にとって忠誠の意思の現われでもあった。
――生涯でたった一度だった。その誓いを仮初の命と身体のこの身で。
「……かつて酷い裏切りにあってねぇ。それ以来二度と主を持つまいと決めていたが。いや、我が主、我がマスター。天巧星燕青、命の限り全てを捧げてお仕えしよう」
「ありがとう。燕青……やっぱり私、燕青の名前が知りたかったのかも。だってこんなにも嬉しいもん」
「随分と待たせちまったからねぇ」
生前の二人の間に何があったのか、それを伝えるには時間も当事者も足りない。
藤丸は燕青に対し生前に何があったのかは聞かなかった。