私は私の道を往く。それがたとえ茨の道だとしても。


 レイシフトの時間はすぐそこまで迫っていた。 

「ではレイシフトを始めよう」
「時代は中世中国。わかっているとは思うけど、小さいとはいえ、特異点には変わりないから気を引き締めてくれ」
「はいっ!」

 元気に頷いた藤丸の横で、マシュも大きく頭を縦に動かした。

 コフィンの中に入り、目を瞑る。酷く簡単な作業だ。次に目を開ければ目的の時代、場所にいるのだから。
 ……その筈だった。
 藤丸の足元あるのは雑草。周りを見れば明らかな森の中。本来なら街の外れに到着する予定だったのだが、藤丸が目視出来る範囲に街等ない。あるのは、木、木、木。鬱蒼と生える雑草が木々の隙間を埋めているようにも見えるコレは、まさしく森の中。

「牡丹、何処まで見える?」
「高い所がないので何とも言えませんが、この先は暫く森が続いているようです」
「先輩……いえ、マスター。これは一体――んぐっ!」

 どういう事なのでしょう。と続く筈だったマシュの言葉は、牡丹の掌の中に吸収された。
 それは牡丹が咄嗟にマシュの口を塞いだからだ。何事か。とマシュが目を白黒させるも、牡丹はそんなマシュが視界に入らず、自分の人差し指を口元で立てて「しっ」と短く音を発した。

「何かが近付いてきます」
「音なんて聞こえないけど……」
「これは……馬だねぇ」

 木の幹に背中を預け立つ燕青は、牡丹の台詞に同意し息を顰め気配を殺した。それを見た藤丸とマシュも息を殺し姿勢を低くした。牡丹はマシュの口元に置いた手を離し、いつでも矢を放てるように、弓を握る手に力を込める。三つの音を鳴らす足音が徐々に藤丸たちが隠れた草陰に近付く。馬の足音に混じって人の足音が一つ。誰だと燕青と牡丹が気付かれないように覗き込むと、深い緑が混じった長い黒髪の男がいた。

「――っ!」

 息を飲んだのはどっちだっただろうか。
 黒い髪を一つに結び、全身に彫った刺青を隠しもしない服装。
 その男は馬の手綱を握っていて、馬上には顔を隠すように布を垂らしている人物がいる。その布は絽で出来ていて、薄っすらと覆い隠している人間の顔を確認出来る。絽は顔だけを覆っている為に、服装は確りと確認する事が出来た。
 灰色の長袍。服の装飾は黒く、間違いなく盧俊義が身に纏っていたものだ。
 木陰に隠れている牡丹は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 絽の向こうに見えるその顔、その姿は生前から今日まで散々見て来たものだったからだ。

 ――どういう事だ……。

 生前、牡丹は素顔を隠していた事はない。ある意味では素顔を隠していたが、文字通りの素顔を隠した事など一度もない。それこそ、梁山泊の面々の仕掛けた罠に嵌り、役人に捕まった時でさえ牡丹は素顔を隠そうともしなかった。
 盧俊義の姿であろうと、牡丹の姿であろうと、自分という存在を隠さないといけない程、後ろめたい何かがあるわけでもなく、隠したいと感じる程、自信がないわけでもなかったからだ。
 馬特有の足音が息を顰めて隠れている藤丸たちの前を通り過ぎ、牡丹と燕青の耳が足音を拾わなくなった瞬間、藤丸は深い息を吐いた。
 息を限界まで顰めていた所為で殆ど呼吸をしていなかった為に、酸欠状態となっていたのだ。
 頬は赤く染まっていて、橙の髪と相まって殊更顔全体が赤みを帯びているように見える。
 大きく肩を上下させながら息をする藤丸の背中を、マシュが優しい手つきで撫で、漸く呼吸が整った頃、藤丸は口を開いた。

「燕青……だったね」

 橙の瞳がつい先ほど通りかかった男と瓜二つの燕青を見つめた。その視線を受け流すように燕青は俯き下を向いた。僅かな間無言の空間が流れたが、無言の肯定であるのは誰の目から見ても明白だった。

「この時代はアサシンさん……えっと、燕青さんが生きている時代、という事でしょうか」
「そうなのだろうね。そして、私が生きていた時代でもあるみたいだよ」
「牡丹さんも生きていた時代、というと……」
「この国が腐敗している頃、という事だ」

 兎に角、あの二人を追いかけた方が良い。と牡丹が進言すると、藤丸は首を縦に振って「追いかけよう」と草むらから飛び出した。
 とはいえ、あの燕青を相手に気が付かれないように尾行するのは至難の業である。今いる藤丸のサーヴァントで、気配遮断スキルを持っているのは燕青ただ一人だ。
 牡丹は燕青なら深追いはしないだろうし、追跡出来るのであれば、何処に向かうのかくらい見て来てもらいたい所だ。と次の行動に入る為の算段を頭の中で組み立てていくが、決めるのはマスターである藤丸だ。と頭の中で組み立てた算段を口にする事はなかった。
 まだ幼いマスターである藤丸。これから先、数々の困難が行く道を断ち塞ぐだろう。その時、牡丹のように作戦参謀として活躍したサーヴァントが側にいるとは限らない。
 そうなれば経験に頼るしかなくなるのだ。まだ少女である藤丸の経験などたかが知れている。
 だったらこれを機会に学べばいい。間違いを犯せば訂正してやれる。と牡丹は半ば親心のような気持で、藤丸がどんな策を打ち出すのか、牡丹は一切口を開く事なく見守り、うんうん、と唸る藤丸をマシュが両手で握り拳を作り応援している。

「どうしよう……追いかけるにも、向こうの燕青にバレない確証なんてないし……」
「そうですね。ですが私たちにも燕青さんがいらっしゃいますよ!」

 マシュに名指しされた燕青は藤丸の方を見て笑みを浮かべた。

「マスター俺の事忘れてたのかい? 寂しいねぇ」
「忘れていたわけでは……。そっか! アサシンクラスの気配遮断があれば! あぁ、でも燕青は良いとして私気配なんて遮断出来ないし……」

 いつまでも答えが出そうにない藤丸に対し、燕青は急かすように口を開く。

「マスター、あの二人もう随分と遠い所まで行っちまったようだよぉ」
「えぇっ!」

 どうしたらいいんだ。と俯き頭を抱える藤丸の肩に牡丹の手が乗り、藤丸は顔を上に向けた。
 穏やかに笑う牡丹のその表情に、藤丸は救世主を見たかのように瞳を潤ませる。
 謙遜なく新米マスターである藤丸に対し、牡丹は助け舟をだした。

「斥候部隊と呼ばれる偵察隊は何処の軍にもいます。その数は少なく、軍から最低限の人数だけを出すのです」
「え――?」
「決してその部隊は深追いしません。己の役目を理解しているからです」
「役目?」

 小首を傾げる藤丸に対し、牡丹は一度頷き、藤丸の橙の瞳を見つめる。

「敵の情報を持って帰る事です。戦いにおいて情報は一番の武器とも言えます。そして将は斥候の情報を元に作戦を立てるのです」

 もうわかりますね。と牡丹が藤丸の肩に置いた手を離した。牡丹の言わんとしている事を理解した藤丸は燕青の前に立ち、ぐっと燕青の翡翠の瞳を見上げる。
 さて、このマスターはどんな命令を下すのか。と燕青が橙の瞳を見下ろした。
 どんな命令がくるのだろうか。と楽しみな気持ちが半分と、どうか失望させないでくれ。と懇願する気持ちが半分。燕青は口を一文字結んだままだ。そんな燕青を牡丹が一瞥し、すぐに視線を藤丸に戻した。

「燕青、あの二人を追って欲しいの。お願いしてもいい?」
「我がマスターの命令とあらば何なりと。――なんてな! 任せとけマスター。あんたの期待に応えてみせるぜ」

 綺麗なウィンクをした燕青が草むらから飛び出した。
 深い緑を孕んだ長く黒い髪を風に揺らしながら燕青は、あの二人を追いかけていく。生前、牡丹は一度も燕青に偵察を任せた事はない。元々斥候部隊は他にいたという理由もあるが、単純に燕青を側に置いておきたかったというのもある。
 燕青が自身、偵察しに行くなんて言った事もない。それがどんな状況でもだ。
 側に置いておく事だけが信頼の証ではない。と今の牡丹なら思えるのだから、関係性というのは不思議なものである。
 たった今飛び出して行った燕青の背中を、藤丸は満足気に頷きながら見送った。これが二人だから、藤丸と燕青だから出来る信頼の形なのだろう。と、何処からか吹く空風を感じながら牡丹はその光景を眺めていた。



「然し、此処が盧俊義やアサシン――燕青が生きていた時代だなんて、ある意味では幸運だったね」

 肉声に近い機械越しの声が、藤丸たちの耳に届いた。ロマニの言う台詞に藤丸は小首を傾げながらも、まぁ、その時代に生きていた人が側にいれば、何かとやりやすいか。とロマニの台詞に納得し大きく頷いた。

「皆がいてくれるだけでも心強いですけどね!」

 何も出来ない少女。魔力もなく、経験もなく、素質もない。そんな藤丸が唯一持っている強みと言えば、サーヴァントを信頼する度胸だけだ。
 燕青に偵察を任せた時、藤丸が悩んでいたのは自分が足手纏いになってしまうんじゃないか。という点だ。燕青や牡丹、マシュはそんなヘマはしないと、最初から信じていた為に、ターゲットに気付かれるなんて心配をしていない。
 だからこそ、あっさりと燕青に一任する事が出来たのだ。

「私も気になります! 牡丹さんたちが生きていた時代がどんな時代だったのか」
「そうですね。あまり良い時代とは言えないけど……私は、楽しかったな」

 沢山の出来事があり、沢山の感情を見つけた日々。
 蜜のような、甘露のような時を生きる事は出来なかったけど、殺伐とした、明日生きている確証さえ見失ってしまうような時代だったけど、それでも、牡丹にとって、かけがえのない日々だった。
 きっと、この時代に生まれなければ、生きる意味を見出せなかっただろう。と振り返って穏やかに笑えるくらいには。

「さて、私たちも移動しましょうか」
「え? 燕青を待たなくてもいいの?」
「はい。アサシンはあちらに向かって行きました。そして此処は一本道。分岐点がある場所まで歩きましょう。合流は早い方が良いですから」
「そうなんだ!」

 弓の名手であり作戦参謀。または、指揮官として名高い牡丹は、稀代の商人でもあった。
 潰れかけていた硝子会社を立て直し、国で右に出る者はいないと言われるまで成長させた。そんな牡丹が大事にしていたのは、情報である。
 情報は生きている。どんな場面にしろ、正確で最新の情報は必ず役に立つのだ。
 商売も戦場も情報を制したものが勝つのだ。
 藤丸は牡丹が言うなら間違いない。と言わんばかりに頷き、歩き出した。その隣にはマシュが並び、藤丸の後ろには牡丹がいる。

「そう言えば、先輩、燕青さんの真名をお聞きになったのですね」
「うん! レイシフトの直前にね。教えてくれたの」

 溌剌と笑う藤丸の横顔を見た牡丹は小さく安堵の息を吐いた。

 ――よかった。あの約束は嘘にならなかった。

 かつての従者が自分以外の人間を主と認めた事が嬉しく思うと同時にじくりと何かが痛むも、それを無視し喜びを前面に浮かべた牡丹の頬は自然と上がる。
 小さくとも信頼出来るマスターの後ろを歩く牡丹は、つい微笑んでしまう己の顔を叱咤するように何回か咳払いし、短く息を吐いた。

「牡丹?」

 橙の髪を揺らしながら振り向いた藤丸に対し、立ち止まった牡丹は右手を胸に当て軽く頭を下げた。

「いいえ。なんでもありませんよ。それよりもマスター、有難う。心からの感謝を貴方に」
「……燕青ね、かつて酷い裏切りにあったって言ってたの」

 牡丹から視線を逸らすように、地面に焦点を当てた藤丸の表情は何処か物悲しく、マシュは「先輩?」と声をかけるも、藤丸は何も言わないまま視線を地面から牡丹に移した。

「そうですか」
「私は、燕青の言っていた言葉を信じる」

 ――裏切り、確かに燕青にとって、私の行為は、気持ちは裏切り他ならない。

 それを弁解するつもりもない牡丹は、口を開こうともせず藤丸から語られる言葉を待つばかりだ。
 だから、牡丹を信用出来ない、か? それとも、燕青の気持ちを察して欲しい、か? どちらも牡丹にとって関係のない話だ。
 マスターに信頼されないサーヴァントこそ役立たず極まりない話だが、己の役目を果たしさえすればいい。必要最低限の関りしか持たない事だって出来る。
 燕青の気持ちを察して欲しいと言われたら、どうしようか。そんな事出来るわけがないのだから。燕青の気持ちは牡丹という主と共に最期までいたかった。そんな所だろうが、それが嫌だったのだから、あの結末は仕方がない事だ。

 ――それに、燕青は最期、会いに来てくれたじゃないか。

 最後の最期、ただの牡丹を看取ったのは、徽宗様でもなければ、高俅でもない。燕青、お前だろう。
 あぁ、そうではない。そう言う話をしているわけではないのだった。と意識を正面に立つ藤丸に向けた。
 橙の瞳は真っ直ぐに牡丹を射抜いていた。

「だからと言って牡丹をどうこうしたいわけじゃないの。だって牡丹にだって理由があると思うから」
「マスター……」
「牡丹が悪意を持って人を裏切る人だとは思えないもん」

 へらり、と笑う藤丸の意見に賛同するように、マシュも握り拳を作って大きく頷いた。

「盧俊義さん、改め牡丹さんは、皆さんに好かれるサーヴァントです!」
「――っ、ありがとう、二人とも」

 私ね、同性の友達が欲しかったの。って言ったら二人はどんな反応をするのだろう。生まれてこの方、世相も相まって家に閉じ籠り、勉強ばかりで友達なんていなかったし、外に出た時には戦場の中で女一人駆け回っていた。盧俊義として生きていた時、女の子に囲まれてお話をした事があるけれど、男として参加していたのだから、女の子らしい話題には付いていけなかったな。
 男として過ごした時間が嫌だったわけではない。
 貴重な経験をしたと、かけがえのない時間を過ごしたとも思っている。

 ――要は、私は我儘なのだろうね。

 吐き出すように息を吐いた牡丹は自嘲的に笑う。
 藤丸とマシュの笑みは、牡丹の在りし日の思い出に痛みを覚えさせた。
 最初の分岐点に着いた時、そこに燕青の姿はなく、藤丸は一瞬慌てたが、牡丹の台詞を思い出して落ち着きを取り戻した。「兎に角待っていよう」と声をかけたのは藤丸だったのだから、マシュは勿論の事、牡丹も大きく頷き内心、成長した。と親心を持ったが、藤丸は己の子ではないと首を振って気持ちを切り替えてから暫く経った頃には、女三人でトークに花を咲かせていた。

「それでね、エミヤがすっごい嫌そうな顔をしてね」
「あぁ、彼はそう言う手の事は嫌いでしょうね」
「あのスマートなエミヤさんにも苦手な事があったとは……驚きです! 先輩」
「何の話だい?」
「――っ?!」

 直ぐ間近から聞こえてきた男の声に、すぐさま反応したのは牡丹だった。コンマ一秒で弓を構え、藤丸の背後に立つ男に照準を合わせるも、男の正体が燕青だと知り、すぐさま構えていた弓を下ろした。次に反応を示したのはマシュと藤丸だった。
 藤丸は急に耳元で聞こえて来た男の声に息を止め、橙の髪を大きく揺らしながら後ろに振り返り、マシュは大盾を手に取り、足を一歩前に踏み出していた。

「燕青さん!」
「燕青!」
「よぉ! マスター。たった今戻りましたよっとぉ」

 悪びれもなく、藍色のガントレットに包まれた右手を軽く上げて笑う男に対し、藤丸たちは安堵と溜息が入り交じった息を吐いた。
 流石はアサシンクラス。全くわからなかった。と牡丹は白い歯を見せて笑う燕青を感心したように眺めた。勿論燕青はその視線に気が付いていながらも、話す事は何もないと言わんばかりに無視をし、藤丸に向かって、この時代にいるあの二人の行先を報告した。

「――と、言う事で、此処から南下したところにある南櫂って地域に向かったぜ」
「南櫂……って此処からどのくらいかかるのかな?」
「そんなに時間もかからなかったと思うが……」

 先ずは南櫂に向かおう。と燕青を先頭に歩き出した一行。
 特異点の探索調査にまだ慣れていない藤丸には、塗装されていない道は歩き難いだろう。
と心配していたが、後半辛い顔を浮かべながらも、文句も言わずに南櫂まで辿り着いた。
 生前の牡丹たちは、この地で反乱軍を制圧する為に来た事がある。その時は反乱軍を制圧するのに忙しく、まともにこの南櫂という街を見る事が出来なかった。

「此処はこんなにも栄えていたのね……!」

 感嘆の息を零したのは、他でもない牡丹だった。
 頬を赤く染め、目を輝かせた牡丹はまるで少女のようで、藤丸とマシュは珍しい牡丹の姿に「ふふっ」と息を短く吐き出して笑い、燕青は翡翠の目を遠くに向けていた。

「牡丹初めて此処に来たの?」
「牡丹さんは色んな地域で商売をやっていたというのは知っていましたが、やはり行った事のない地域もあるのでしょうか?」

 目を輝かせ、首を左右に振りながら南櫂の街を眺める牡丹は、二人の問いかけに意識を戻し、照れ隠しで数回咳払いをすると、頬を赤く染めたまま困ったように笑い、次いで何かを思い出すように遠くを見た。

「――当時は街を見る余裕はなかったので……。こんなにも豊かな街だったのですね」

 反乱軍の数は勿論、確りとした装備が備わっていた。
 だからこそ官軍は手子摺ったのだから。ない金を税として町民から無理矢理巻き上げているのかとでも思ったが、南櫂を預かっている南櫂警備守護職大臣は相当の腕利きなのだろう。と目先の目標ばかりに囚われ、周りの状況が目に入っていなかったな。なんて死後英霊になってから初めてと言っていい程に、生前の自分の行動を恥じた。
 もしかしたら、此処の街の人間にとっては、国に管理されるよりは、より良い大臣に管理された方が良かったかも知れないからだ。
 例え、南櫂制圧後すぐに牡丹が朝廷に一石投じたとしてもだ。

「懐かしい思い出の一つですよ」
「ふーん――ってアレ!」
「……! あれは、さっき見かけた牡丹さんと燕青さんです!」

 人混みの中、頭が二つ分、周りより抜きん出でている人影が一つ。その影の頭部は絽で隠されていて、近くには深い緑を孕んだ黒髪の男が一人。間違いなく、この特異点での牡丹と燕青だった。
 聖杯反応がないとはいえこの時代は本来存在しない筈の過去。この時代のこの国を大きく変えたと言っても過言ではない牡丹がそこにいるのだ。
 それだけで疑う価値はあるだろう。

「兎に角話を聞いてみよう」
「その必要はありません。目の前の私を殺す。それだけです」
「え――?」

 話を一度聞きたい藤丸を尻目に、牡丹は素早く弓を構え、矢を放つ。
 狙いは絽で頭を隠している牡丹ただ一人だ。百発百中と謳われた牡丹の矢は、逸れる事を知らずに、馬上にいる牡丹の頭に吸い寄せられていく。
 そんな矢を止めたのは、この時代を生きている燕青だった。
 バシッ! と大きな音を響かせながら牡丹が放った矢を素手で掴み止め、それを二つに折って地面に捨てた。感情を表に出さない燕青の翡翠の瞳が弓を構える牡丹に向けられる。
 温度がないその瞳に射抜かれた牡丹は、臆する事なく二射撃目を馬上にいる牡丹に向けて放つ。その矢も向こうの燕青に止められ、頭上を飛ぶ矢に、驚いた人間は悲鳴を上げながら霧散していく。

「ちょっ! 牡丹!」
「牡丹さん! 急に何をっ!」

 我先にと逃げ惑う一般市民に押されながらも、藤丸たちはその場で踏ん張り、牡丹は以前と弓を構えたまま、この時代に生きている二人を睨みつけている。

「話し合いをしたらいいんじゃないの?」
「マスター良い事を教えてやるよ。牡丹、またの名を盧俊義。あの人は、一度も素顔を隠した事がないんだ」
「それじゃあ……あの牡丹は――」

 常に側にいた燕青だから知っている事、己の事だから知っている事。その二つは変えようのない事実であり、藤丸は驚愕で顔を歪める。

 ――それでは目の前にいるあの二人は、一体何者だと言うのだ。

 燕青と藤丸の会話を尻目に、牡丹は依然として体勢を崩していない。
 張りつめた緊張感。か細い糸がピンと張っていつ切れても可笑しくはないような空気に、藤丸は握り拳を作り、声を張り上げる。

「前方にいる牡丹と燕青を捕まえて話を聞きたい」
「わかりました。マスター!」
「はいよぉ」

 マシュが大盾を具現化させ、燕青が腰を低く落とし両腕を構える。
 殺さない事は案外難しい事だ。無抵抗な相手を捕まえるだけなら、手加減すればいいだけだが、向こうも臨戦態勢を取り、抵抗するのなら話は別である。手っ取り早く動かなくさせるには、殺すのが一番早い。生きたまま捕縛するのが大変なのは想像するに容易いだろう。
 大盾を両手で持ったマシュは生唾を飲んだ。捕縛する事が出来るのだろうか、という不安が頭を過ったからだ。
 相手はあの牡丹と燕青。果たして大人しく捕まってくれるのだろうか。と額に汗粒が浮かぶ。

「珍しい服を着てんだなぁ……何処から来たんだい?」
「その問いに答える必要はないだろう。燕青」
「――久しいねぇ。主殿」

 甘ったるい声で嗤う燕青は目にも留まらぬ速さで駆け出し、一呼吸の間に牡丹の目の前まで迫り、回し蹴りを繰り出した。それを牡丹は手に持っていた弓で防ぎ、燕青の回し蹴りの勢いを利用し後ろに下がる。
 上手く勢いを殺しきれなかった牡丹は、膝と両手を地面に付き、迫り来る燕青を見上げた。追撃を食らわせようと、高く跳ね上がった燕青は、右足を大きく振り上げ、落下速度で威力を増したまま、牡丹の頭を目がけて振り下ろされる。

「燕青!」

 堪らず藤丸が叫ぶと同時に、藍色のガントレットを両腕に填めた燕青が、二人の間に入り、特異点の燕青の攻撃を受け止める。牡丹の視界に深い緑を孕む長い黒髪が揺れる。
 その奥には挑発的に笑う翡翠の瞳が見え、素早く立ち上がった牡丹は、弓を構え特異点の燕青に向かって照準を合わせるも、挑発的な笑みを浮かべた燕青は、くるりと回りながら距離を取り、馬上にいる牡丹の近くに着地した。

「牡丹!」

 藤丸の呼び声と同時に牡丹が矢を放つ。狙いは燕青ではなく、その近くに立つ、絽を顔を隠すように頭から被った牡丹だ。放たれた矢は真っ直ぐに、馬上の牡丹に向かって伸びていく。矢を止める事は出来ないと判断した特異点の燕青は、咄嗟に馬を強く蹴り衝撃を与えた。馬が前足を上げた所為で、矢は馬上の牡丹が被っていた絽を巻き込み、地面に刺さる。
 素顔が晒された特異点の牡丹。髪は長く、一つに纏められ団子を作り、その団子に向かって左右から二本ずつ鼈甲の簪が刺さっている。何かの花を模した金の装飾が耳の上から団子に向かって飾られている。
 振り返りはしない為に顔を確認する事は出来なかったが、頬に薄紅を差し、唇にも紅を差しているに違いない。
 女の顔に男の服装をした牡丹。これは明らかな歪みだった。

「げっ! 見られちまったかー」
「燕青! どういう事だ! 説明しろ!」
「お宅の俺に話でも聞いたらいいんじゃないのかい? 同じ俺だろう?」

 何をふざけた事を。と牡丹が口にするよりも早く、特異点の燕青は何かを素早く地面に叩きつけると、煙が辺りに立ち込める。煙幕だ。とマシュは素早く藤丸の前に大盾を構えて立ち、燕青は煙幕の中、燕青たちがいる方向に向かって走り出す。煙幕の中に姿を消した燕青は、腕を大きく振って煙を霧散させ視界を確保させるも、既に特異点の二人の姿はそこにはなく、煙が風で流された頃、そこに立っていたのはカルデアから共に来た燕青たちだけだった。
 騒動とも呼べる騒ぎを駆け付けた南櫂守護職の役人が、駆け付けて来る前に燕青の進言でその場を後にした。
 適当な所で腰を落とし、安堵の溜息を藤丸が吐くと、機械音混じりのロマニの声がそれぞれの耳に入った。

「そっちは今、どういう状況何だい?」
「――正直分かりません。見た事もない私がいました」
「見た事がない私、って?」

 目線を下に下げる牡丹の台詞に首を傾げたのは、藤丸だった。
 自分の事なのに、見た事がないなんてどういう意味なのだろうか。と橙の瞳は牡丹に問いかけた。

「私は、盧俊義でいる時、牡丹に戻った事はありません。頭の天辺から爪の先まで盧俊義でいたのです。ですが、あの私は……」
「確かに、あの牡丹さんは服装こそ男の人の服装でしたが、髪形は女の人のようでした」

 そんな中途半端な格好を牡丹は一度もした事がない。燕青に強要されたわけでもなく、進んでそうあろうと努めたからだ。
 この特異点、何かがおかしい。から、何が起こっている。と気が付くまでにそう時間はいらなかった。
 街から少し離れた場所で野宿し、朝早く南櫂で朝食を取ろうと市場に向かって歩いていると、燕青が血の匂いを嗅ぎつけた。土地柄様々な匂いを空気中に垂れ流している為、藤丸とマシュは燕青に言われても中々、その匂いがわからなかったが、牡丹は燕青の台詞に空気中に漂っている匂いに注意を凝らした。

「……確かに、言われてみれば、そんな気が……」
「燕青、どっちからってわかる?」
「あっちだな」

 藍色のガントレットに包まれた指先が差したのは、人気のない路地の方向だった。誰かが怪我をしているかもしれない。と藤丸が真っ先に駆け出し、その後をサーヴァントの三人が追った。藤丸は細い路地の中に足を踏み入れると同時に、強烈な鉄錆の臭いに思わず両手で鼻を塞いだ。陽の光が殆ど射さない、暗い影が落ちる路地を走っていると、ばしゃっ、と水溜りに足を突っ込んだような音が耳を掠める。

「マスター! 見ない方が良い」

 日差しが射し込まない路地でも、目が慣れてしまえば多少暗くても目の前の光景を見る事が出来る。
 燕青は咄嗟に藤丸の目を隠すように手で視界を塞ぎ、自分の方へ引き寄せた。
 バクバク。と早鐘のように忙しなく鳴る心臓の音は、燕青のものではない。異性に抱き締められたから起こっているわけでもない。藤丸は理解してしまったのだ。一瞬見たものが死体である事。自分が踏み抜いた水溜りは血溜まりである事を。
 冷や汗が止まる事を知らずに背中を伝う。抱き締めてくれている筈の燕青の匂いが掻き消される程の強烈な臭い。

「此処、風の通りが悪いみたいですね。溜まり場になっていたから、臭いが流れなかったのでしょう。……マシュもあまり見ない方が良いよ」
「――はい」

 日が射さない細い路地。牡丹は指先を血溜まりの中に突っ込み、次いで殺された人間の顔を見て、驚愕に顔を顰めた。

「楊林、孫立」

 二人の名前を零れるように吐いた牡丹は、悔し気に顔を顰め、折り重なっている二人の身体に触れていく。
 楊林は、首が折られていて腹と胸に刺し傷があり、身体のあちこちに打撲痕が残されていて、致命傷がどれなのかわからない状態になっている。対して孫立は、首は折られていないものの、腹部に太い何かが刺されたような大きな傷口があり、楊林と同じように身体のあちこちに打撲痕が残されている。
 これは間違いなく他殺だ。それも残忍な犯人によるものに違いない。何か手掛かりが残されていないか。と牡丹は辺りを見るも、犯人が残したようなものは何もなく、わかったのは、この死体は殺されてから、相当な時間が経っているという事だけだった。

「先ずはこの場を離れましょう」
「わ、わかった……」

 震える藤丸を燕青が抱えたまま歩き出し、マシュもその後に続いた。朝食何て食べる気分にはならないだろう。と何処か心休まる所はないか。と牡丹が歩きながら考えていると、不意に燕青に抱えられている藤丸の腹の虫が鳴った。

「あ……ごめん。こんな時に……」

 恥ずかしそうに頬を赤らめ、頼りなく笑う藤丸に燕青は吐き出すように笑った。

「フハッ、マスターは元気でいいねぇ! さて、何処の飯店に行くとしますか」
「うぅ……恥ずかしい」

 両手で赤くなった頬を隠し、俯く藤丸に牡丹は掌を橙の頭の上に置き数回撫でた。

「この先こんな事の連続かもしれない。そんな中でもマスターが元気でいてくれたら、それだけで我々サーヴァントは元気になりますよ」

 牡丹の言葉を受け、へらり、と笑った藤丸は飯店に着くなり食欲に導かれるまま食べ、胃が満たされた頃には満足そうに幸せの溜息を零していた。

「ところでさっきのって……」

 丸いテーブルに上半身を乗せ、半ば椅子からもお尻が浮いた状態で、声の大きさを落し牡丹に訪ねた藤丸。話しかけられた牡丹はというと、このままここで話すのか。と驚き一瞬瞳を大きくさせた。それに気が付いた藤丸は、こてん。と小首を傾げるも、すぐに牡丹が笑みを浮かべた事で傾げた首を元に戻し、ついでと言わんばかりに椅子から浮かせたお尻を座面に戻した。

「さて、殺されていたのは、楊林と孫立という人間です」
「牡丹の知り合い、なの?」

 不安そうに顔を歪め牡丹を見る藤丸の問いに答えたのはマシュだった。

「地暗星、楊林。地勇星、孫立。二人とも梁山泊のメンバーの一人で、その梁山泊の中には、牡丹さんと燕青さんも所属していたんですよね」
「えぇ。途中からですが、梁山泊に所属していましたよ」
「梁山泊って何?」

 わからない、知らないワードが出て来た藤丸は堪らずまた小首を傾げた。マシュはそれを批難するわけでもなく、藤丸にもわかるように梁山泊とは。と説明していくが、時折、牡丹と燕青に視線が行くのは確認の意味を込めてのものだった。

「元々は山賊だったのですが、強者たちの集まりでした。紆余曲折を経て、最後は官僚にまでなりました。梁山泊は数々の武功を立てたようで、その中でも盧俊義さん事、牡丹さんは作戦参謀を始め軍指揮官まで行っていたとか……!」
「あぁ、何となくわかるなぁ」

 深く納得したように藤丸は何度も首を縦に振って頷いた。

「生まれながらの支配者って感じがするもん」

 人の上に立つ為に、導く為に生まれて来た。みたいな、そんな感じがする。と一人納得したように呟く藤丸に対し、牡丹は首を左右に振って否定したが、生前、一番の腹心であった燕青は内心藤丸の台詞に何度も首を縦に振った。

「そんな立派なものじゃないですよ」

 謙遜混じりのその台詞に、藤丸は不服そうに唇を突き出して眉尻を下げた。



 
 殺人事件があった事はすぐに南櫂の人間に知れ渡った。これがただの殺人事件なのであればそこまで気に留める必要はないが、殺されたのが、梁山泊の人間である事を考えると、特異点の原因を疑ってしまう。
 仮にこれが無差別殺人だとして、その中からたまたま梁山泊の人間二人を殺しました。と考えるとかなり確率が低い。そもそも、腐っても梁山泊の人間だ。戦える人間に対し、あそこまでの傷を負わせる事が出来るとなると、相手も相当な手練れだと想定した方が良い。

「あの燕青と牡丹と関係があるのかな?」
「それはまだ分かりませんね。調べてみましょうか」

 椅子から立ち上がり藤丸を見下ろすように立つ。そんな牡丹を、小首を傾げながら見上げる藤丸の橙の瞳は純粋な質問しか籠っていない。

「調べるって、どうやって?」
「お忘れですか? 私の保有スキルである情報収集≠ヘ様々な情報を集める事が出来るのですよ」
「あ! そっか!」

 納得した様子で、大きく頷く藤丸を尻目に牡丹は燕青をマシュに目配せをした。マシュは何かを察したように頷くが、燕青は牡丹に視線を向けたまま、逸らそうとはしなかった。
 それが不思議で堪らない牡丹だったが、今はそんな事を気にしている時ではない。と一度、燕青肩から視線を逸らして再び燕青の翡翠の目を見つめる。

「逆旅に泊るようだったら――」
「わかってる」
「――頼んだよ」

 淡白で短い会話だった。たった二、三言話しただけの会話に藤丸もマシュも入って行けるわけがなく、気が付けば牡丹は姿を消し、燕青は飯店の店員を呼び追加注文をしていた。
 温度がない二人の会話に、やっぱり二人には何かがあるんだろうけど。と息を吐く藤丸に対し、燕青はその白い歯を見せて笑い「マスターは何食いたい? マシュの嬢ちゃんは?」ともうお腹に何も入らない事を承知で、つまり揶揄い半分で聞いてくる。
 こういう男が、世間で質が悪いと言われるのだろうか。と首を左右に振りながら藤丸は、燕青に対し失礼極まりない事を考えていた。




 藤丸たちも情報収集したり、観光したりして夜も更け、逆旅で泊ろうと話が纏まり藤丸が安い逆旅で腰を落ち着かせていると、燕青が布を取り出しそれを窓の格子に括りつけた。

「成程! それで牡丹さんに合図するんですね!」
「ん? あぁ、此処に泊っているよぉってわかり易くするんだ。そしたらあの人も戻って来れるだろ」

 レイシフトした初日、牡丹は燕青なら最初の分岐点まで来てくれると言った。今、燕青は布を括りつけておけば、牡丹が来ると信じている。
 生前、何かしらの事件があり袂を別った二人は、無意識下で信頼しているんだ。表面上どれだけすれ違っていても、こうして信頼が形となって表れている。
素材を集めにレイシフトした時もそうだった。

 ――あれが阿吽の呼吸っていうんだろうなぁ。

 今思い返して考えてみると、あの息の合った動きはお互いを信頼していないと出来ないものだ。
 あと少ししたら牡丹は此処に、この逆旅に帰って来る。藤丸はそんな確信を抱きながら、格子に括りつけられた風に揺れる布を眺めた。

「――そう言えば、燕青って髪長いけど、大変じゃないの? 切ったりしないの?」

 風に揺れる布を靡く髪にも見えた藤丸は、閃いたような声のトーンで窓辺に腰を掛ける燕青に向かって問うた。
 そんな事を聞かれるとも思っていなかった燕青は、一瞬藤丸の橙の瞳から目を逸らし、窓の外に広がる夕焼け空を見上げた。そしてもう一度翡翠の瞳を橙の瞳に合わせ、すぐに目線を右側に逸らした。

「あー、マスターだったら切るのかい?」
 此処に牡丹がいたのなら、間違いなく何か話を逸らそうとしている、又は、はぐらかそうとしている。と判断しただろうが、今この場に牡丹はいない。
 燕青の癖をまだ見抜いていない藤丸は、その瞳と同じ色をしている髪の毛先を指で摘まみ、「うーん」と間延びした声を上げた。

「切る、かなぁ……燕青くらい長いと不便そうだし、あんまり長いのも得意じゃないないしね。マシュは?」
「私は今この髪型で落ち着いていますし、暫くは変える予定もありませんが……燕青さんくらい伸びてしまったら、私も切るかもしれません」

 うんうん。と頷く藤丸に対し、燕青は何処か驚いたような表情を浮かべ、すぐに眉尻を僅かに下げた。

「女ってのは、男が思っているより無情なのかねぇ」

 頬杖をついて溜息混じりに吐き出す世の儚さを思う燕青の声は、当の本人の耳には届かず夕闇に紛れていく。

「燕青はずっと伸ばしていたの?」

 その問いに燕青は、さて、こんなにも髪を伸ばし続けていた理由はなんだっただろうか。と左側を一瞥し、窓の外の景色を見た。
 思い出すまでもない。今でも胸の中に居座って消せない記憶の一つだ。伸ばし続けていた理由はただ一つ。

 ――主が……あの人が、牡丹が綺麗だと言ったから。

 そんな事言えるわけもなく、燕青は視線を右下に一瞥させ、極力藤丸の方を見ないように努め窓の外に広がる景色を見ながら口を開いた。

「――っ、あの人が髪を切るってなった時、あいつは俺に言ったんだ。だったらお前が私の代わりに伸ばせばいい≠チて言ったから、だったかねぇ」

 ただの会話、ただの思い出話、ただの世間話ともとれる会話だった筈なのに、どうしてか、燕青の口は酷く重く、最初の一音を発するのに、喉は震えず張り付き、唇は鉛のように重たかった。
 伸ばせって命令されたわけじゃない。ただ、綺麗だと言われたから伸ばしたんだ。
その視線がこちらに向くように。
 知らないだろう。牡丹が髪を切ったその瞬間抱いた仄暗い独占欲を。
 盧俊義という名前の男が出来上がった今、これからの牡丹は誰の目にも入らない。
 それは同時に燕青の目にも入らない事を意味していたが、そんな事、燕青にはどうでもいい事だったのだ。盧俊義という架空の人物を作り出す事で、燕青は牡丹を独占出来たと、この男が女である事を知るのは自分だけだと、優越感すら感じていたのだから。
 世の中の事を何も知らない少女に、世の中の厳しさを教えるフリをして男は、己の欲を満たしていた。

 ――あぁ、だからか。

 頬に掛かる真っ黒な髪を藍色のガントレットに包まれた指先で摘まんで、燕青は一人納得した。
 これは罪滅ぼしに近いのかも知れない。と。燕青はあの日の事を思い出した。






 太陽が完全に沈んだ頃、牡丹は悔しそうな表情を浮かべ逆旅の藤丸たちの部屋の戸を開けた。

「あの燕青たちはどうやらこの南櫂の地を離れたようです。それと楊林と孫立を殺した犯人の情報は何も入りませんでした。申し訳ありません」

 酷く申し訳なさそうな表情を浮かべる牡丹に対し、藤丸は慌てたように左右に手を振った。肩を落とす牡丹の背中の向こうには、燕青が窓の格子に括りつけた布がまだ風に揺られている。

「いや、大丈夫だよ」
「それと、燕青たちが向かった方向は、此処から北に向かった地域です」

 何処からともなく地図を取り出した牡丹は、藤丸が理解しやすいように南櫂が此処で、特異点の燕青たちが向かった方向を指先でなぞり説明した。

「此処が特異点になってしまった原因は間違いなく彼らにあります」
「牡丹の知らない牡丹≠ゥ」
「ですが、此処で起こった殺人事件も見逃せません。梁山泊を狙った犯行なのか、たまたまなのかがわからない限り、私たちも動けないのでは?」

 目の前に問題は大きく分けて二つ。特異点に存在する、存在しない筈の牡丹を追うのか、殺されたのが梁山泊を狙っての事なのか、そうではないのか、を解明する事。
 どちらも特異点を修復するのに解決しないといけない出来事だが、二つ同時に物事を進める事が出来ない。特異点の牡丹たちは既に動き出し、梁山泊を殺した犯人は今も南櫂にいるかも知れないからだ。

「もし此処で、牡丹たちを追ったら殺人犯がまた人を殺すかもしれない……うぇっ」

 朝方見た光景を思い出した藤丸は、思わず両手で口元を塞ぎ、込み上げて来た吐き気を押さえつけた。

「先輩!」

 いち早く藤丸の異変を察知したマシュが、藤丸の隣に駆け寄り、顔を青くさせる藤丸の背中を何度も小さな手で擦る。
 繰り返し規則正しいリズムで撫でられた藤丸は、何度か深呼吸してマシュに礼を言った。

「大丈夫ですか?」
「うん。こういう事、これから先あって欲しくはないけど、ないとは限らないんだから、強くならないとね」

 無理矢理笑みを作り、握り拳を作る藤丸に、牡丹は胸を痛めたが、酷な事だが慣れも必要だと、藤丸に同意した。

「話を戻すが、マスターはどうしたいんだい?」
「どう、かー……うーん」
「俺たちはあんたのサーヴァントだ。マスターが決めた意見に従う」

 窓台に腰を掛けている燕青は、藤丸の答えを促した。特異点の牡丹を追うのも、殺人犯を見つけるのも、好きな方を選べと。
 選択を迫られた藤丸は、何度も視線をあちこちに彷徨わせ、眉間に皺を寄せ何かをぐっと堪え、一文字に結んでいた口をゆっくりと開いた。

「殺人犯を追う。――牡丹、情報収集引き続き任せてもいいかな?」
「お任せください」

 苦渋の決断だったに違いない。早く特異点を修復する事がこのレイシフトの目的だ。だが、人殺しがこの街にいるとわかっていて無視する事も出来ない。藤丸にとって今回の選択肢が如何に難しいものであったか、想像するに容易い。だからマシュも燕青も牡丹も、今回の藤丸の選択にとやかく言う事はなかった。

「牡丹なら、あの二人の行方を調べる事も出来るよね? 例えば、もうその土地にいなくても」
「マスターの指示には全力で応えるまでです」

 強きに笑った牡丹に対し、藤丸は安心したように息を吐いた。
 その日の夜、藤丸とマシュが深い眠りに入っている頃、何をするでもなく牡丹は窓台に腰を掛け外の様子を眺めている燕青を眺めた。相も変わらず綺麗な横顔だ。と完成されたその端麗な顔立ちに目を細めた。

「何か用かい?」

 牡丹の視線を受け堪らず声をかけたのは燕青の方だった。
 お前にはわかるのかい? そんな台詞を即座に飲み込んだ牡丹は、平然と違う言葉を紡ぐ為に唇を動かした。

「――この時代、私が知らない事もあるようだ」
「……あぁ」

 横顔に向けられる視線と、窓の外に向けられる視線。決して絡み合う事のない二人。だというのに、牡丹の心情は驚く程に穏やかだった。

「盧俊義の癖に女の顔をしているのか、牡丹の癖に男の服装をしているのかはわからないが、彼らにも彼らなりの事情があるのだろうか……否、考えるだけ無駄というものかも知れないな」

 誰に何を言われようと、牡丹が歩んできた道はたったの一つしかなく、それ以外の道は全てないものなのだから。
 燕青と出会い、盧俊義となって名と姿を偽り、最後は燕青に看取られながら死んだ。
 それが牡丹の人生の全てであった。その中にあの牡丹はいない、あの盧俊義はいない、あの燕青の主はいない。存在していない筈なのだ。
 窓の隙間から入る夜風が、牡丹の頬を撫でた。月はもう真上に上り街だって静けさを保っている。あんな事件があった今日の夜だ。誰も好んで外出したりはしないだろう。
 横顔を眺めていた牡丹は、ゆったりと規則的な呼吸をする藤丸とマシュを見て、一つ欠伸をした。

「君ももう休むと良い。今夜は冷えるようだからね」

 返事はなかったものの、翡翠の瞳が牡丹を一瞥した。
 それだけで牡丹は燕青の考えを読み取り、布団の中で横になった。
 三人分の寝息が微かに燕青の耳に入るようになった頃、真っ暗な街を見下ろしている燕青が、一人呟く。

「――あれが俺の求めていた主、なのかねぇ……」

 その声は誰に拾われる事も、まして誰かの耳に入る事もなく静けさの中に消えて行った。

 翌日、牡丹は張り切って外に出て情報を聞いて回るも、不思議な程南櫂で起こった殺人事件についての情報は何も出て来なかった。
 そこから二日。なんの収穫もない日々に突如終わりが告げられた。

「そこの嬢ちゃん、似た話なら俺知ってるぜ」

 竹で出来た笠を頭に被り、同じく竹で出来た籠に草臥れた服を身に纏っている男の足元は土で汚れ、所々に赤黒い汚れまである。無精髭を生やしているこの男の肌は日焼けしていて浅黒く、旅人かそれに近いものだろう。少なくとも一つの街に滞在し続けている男ではない。と見込んだ牡丹は、懐から金目の物を取り出し男の視界にちらつかせる。

「教えて下さいな。そうですね。これでどうでしょう」

 金目の物を貰えると瞬時に理解した男は、厭らしく笑い目尻を下げて唇を動かした。

「この先を北に行った街で殺人事件が起こったんだ。噂だと、殺されたのは梁山泊の人間だって話だ」
「それはいつの話しです?」

 金目の物をちらつかせたまま牡丹が旅をしている男に問うと、男は「それが貰えないなら話さないぜ」と強気な態度に出た。
 牡丹からはまだ金を巻き上げる事が出来る。と踏んでの発言だったが、相手が悪かった。

「そうですか。では」

 男にちらつかせていた金目の物を懐に戻した牡丹は、そのまま男に背を向けた。

「あんたが聞いて来た事は話してやっただろ!」

 堪ったもんじゃない。と男は土汚れがついている手で牡丹の肩を掴み、無理矢理引き、牡丹を正面に向かせようとしたが、牡丹はビクともしない。精々出来た事と言えば、歩く足を止める事くらいで、牡丹は男に背中を向けたまま止まり、己の意思で後ろに振り返った。

「話が違ェだろ!」

 激高する男に対し、牡丹は心底意味が分からない。といった様子で首を傾げる。

「私は何もお支払いするなんて言っていませんよ」
「テメェ!」

 額に青筋を立てた男は牡丹を掴んでいた手を離し、即座に握り拳を作って振り翳す。だが、一般人の攻撃が戦場で活躍していた人間――ましてや英霊に当たるわけがなく、上半身を逸らした牡丹の目の前で、男の握り拳は空を切った。

「ですが、貴方が嘘偽りなく情報を寄こすのなら、私はこれを貴方にあげましょう」

 いついかなる時も与えられる立場の人間は弱く、与える立場の人間が強い。
 男は出で立ちから金銭に困る立場の人間で、常に欲している立場である。対して牡丹は金銭に困る事なく、与える事が出来る立場であった。
 対価は先に渡さない。それは牡丹にやり方の一つである。他にもやり方はあるが、この男に対し牡丹はこのやり方が一番いいと察して実行し、今、牡丹が求める情報が手に入ろうとしている。
 確実に、速やかに、正確な情報を。それは何よりにも勝る武器になるのだから。
 金品を再び見せつけられた男は、観念した溜息を漏らし、握り拳を解いてその手を頭の後ろに回して何日も洗っていなさそうな髪を乱した。

「では嘘偽りなく。私が望む全ての情報を話しなさい」
「へいへい……ったく、見誤っちまったかねぇ」

 煩わしそうに返事をする男に対し、牡丹は何を言うでもなく淡々と事務作業のように質問した。男はそれに対し思い出す素振りを見せながら、全てを答えた。
 南櫂から北に行ったところで、二日前に殺人事件が起こった事。殺された人間は梁山泊の人間で、名前までは知らない事。
 此処まで聞き出した牡丹は、顎に指を当て、男の足元を見ながら考える素振りをし、目を細めた。

「死体は見ましたか?」
「見てねぇよ……」
「おや? どうやらこれは不要だと見える」
「あー! わかった! 見たよ!」

 手っ取り早く事を済ませて目当てのものを貰おうとした男は、牡丹の質問に対し偽りの言葉を告げるも、牡丹は男が現場を見た事を出で立ちから見抜き、もう一度金目の物を懐に仕舞う素振りを見せた。

「どんな殺され方を?」
「確か、心臓を一突き、だったな……あと、顎が砕けていたようだ」
「刃物を使ったの?」
「そこまではわかんねぇな」
「そう」

 三日前に見た遺体の事を考えても、犯人は同じ人物であると考えてもいいだろう。だが、全く犯人が誰なのかがわからない。そもそも、この大陸に何万、何億の人口がいると思っているのだ。
 普通に考えて、三日前に南櫂を出て北に向かった人間が怪しいのだが、そんな人間何百人いる。絞り切れるのか? 本当に?
 条件だけ合う人間ならさらに絞り切れるが、梁山泊内部犯の可能性だってあるのだ。
 あの頃の梁山泊は亀裂が入っていた。揉め事なんてしょっちゅうだったのだから。
 男の前で沈思黙考し始めた牡丹に、男はつまらなさそうに唇を突き出して、深く考えこんでいる牡丹に気が付かれるように、と顔の前で土汚れがついている手をひらひらと左右に振った。
 それでも反応しない牡丹に対し、男は牡丹の両肩を、両手で包むように掴み前後に揺らして意識を自分に向けさせた。

「っ、何だ! ――あぁ、忘れていた。ありがとう」
「ったく、目敏いんだか、抜けてんだかわかんねぇ嬢ちゃんだな。まぁいい。毎度あり」

 男が牡丹に背を向けて歩き出した時、牡丹が男に向かって声をかけた。

「そこの農夫! 靴をもう一度洗うと良いですよ」
「っ! なんで俺が農夫だって……!」
「まだ血が付着しています――それじゃあまたどこかで」

 笠を被っていても日焼けをしている。これは常日頃外に出ている人間だからだ。牡丹を殴ろうとした時、ただの旅人にしては足腰がしっかりしていた。そして土で汚れた手。爪の中にも土が入っていた。土いじりをしていないと、そんな事にはならない。あの籠の中には野菜か何かが入っていて、それを売りに行っていたのだろう。と牡丹は推測し、農夫。と男に向かって話しかけた。
 それに対し男は素直過ぎる反応を見せた。牡丹はそれだけで笑みを深め口角を上げて笑った。

 収穫があった今、次に動けるように行動しておかなければ。と牡丹は早馬を借り、藤丸たちと待ち合わせしている逆旅に戻った。
 部屋の中で待っているものだとばかり思っていた牡丹の視界に、建物の前で固まって立っている藤丸たち一行の姿が映った。その中でも燕青の姿を真っ先に見つけた牡丹は、自分でしっかりしろ。と叱咤し、馬を二頭引きつれながら藤丸たちの前まで歩いた。

「外にいたのですか」
「うん。じっとしているのも落ち着かなくて……その馬たちは?」
「何処か遠出されるのでしょうか?」

 小首を傾げる少女二人と、牡丹の考えが読めた燕青は溜息を吐き片手で頭を抱えた。
 牡丹の後ろに控えている早馬は、それは大変大人しく前足で地面を蹴りながらも、与えられる指示を待っている。

「まずは逆旅に入って説明します」

 早馬を店主に任せ、藤丸たちは借りた部屋の中に戻った。部屋に着くや否や、牡丹は地図を取り出して、農夫から聞いた話を藤丸たちに伝えた。

「あの二人は此処から北の方に向かったそうです。そして、北の方でも梁山泊が殺されました」
「それってつまり――」
「あの二人が殺して回っているって考えても間違いじゃないだろうねぇ」

 藤丸が噤んだ台詞を、燕青は何の躊躇いもなく口にした。自分とその主がしでかしている事だというのに、と牡丹は燕青を一瞥するも、翡翠の瞳とぶつかる事はなかった。

 ――あぁ、そうか。今の燕青の主は私ではないのか。

 カルデアに召喚された時からわかっていた事だというのに、何なら藤丸に燕青の傷を癒して欲しいとお願いしたのも自分なのに、どうしてか、此処に来てからその事実を忘れていた。
 空気に当てられたのか、あの二人を見て自分も燕青の主であると錯覚したのか。
 そのどちらかは、牡丹にはわからなかったが、あの時には戻れないという実感が、この先どう燕青と接したらいいのかを分からなくさせた。

「梁山泊内部犯の可能性もあります。烏合の衆でしたし、私が生きていた頃、最後の方は皆散り散りになっていましたので」
「うーん……梁山泊って何人いるの?」
「幹部だけでも百八人います。それぞれ星の生まれ変わりで、様々な活躍をされたとか」
「星の生まれ変わり?」

 地図を見る為に下げていた頭を擡げた。橙の瞳が牡丹と燕青の瞳と交わる。
 そう、床に置いた地図は横に長く、藤丸の隣には当然のようにマシュが座り、藤丸に説明する為に、牡丹はその正面に座った事で燕青が腰を落せる場所が一か所しかなくなった為に、仕方がなく牡丹の隣に腰を掛けたのだ。
 胡坐をかく燕青の隣で、牡丹は正座をしている。燕青の身体は刺青だらけで、牡丹は育ちの良さが垣間見られる。正反対とは言わないものの、似た所が少ないように見える二人がどうして共に時間を過ごす事になったのか、藤丸は新たな疑問が喉まで出かかっていた。

「ほらマスター、私が自己紹介した時に言っただろう。天罡星盧俊義って」
「あれ苗字かなんかだと……」
「酷いねぇマスターは。俺もちゃんと天巧星燕青って名乗っただろぉ」
「うう、ごめん二人とも……」

 頬を紅葉のように赤く染め上げた藤丸は、申し訳なさで肩を震わせつつ、両手で顔を覆って俯いた。耳まで赤く染める己のマスターに庇護欲がわかないサーヴァントが何処に居ようか。と言わんばかりに燕青と牡丹は藤丸に励ましの言葉を投げかけ、マシュもそれに便乗し俯く藤丸を慰めた。
 閑話休題。今や南櫂だけではなく、世間を騒がせていると言ってもいい殺人犯の犯人がわからないまま、あの二人を追う事は得策なのか。とまた同じ議題で悩む事になるとは。と息を吐く牡丹に対し、燕青が「なぁ」と言葉を発した。

「なんであんたは、あの二人が犯人じゃないって思えるんだい?」
「何でって、私は意味のない殺人は好きじゃないからだ。あの存在が私である限り、私は私刑を好まないだろう」

 何を今さら。と言わんばかりの態度で燕青の問いに答える牡丹。そんな二人の会話について行けない藤丸とマシュは二人の会話の行方を見守る事に決め、唇を一文字に結ぶ。

「確かにあんたはそうだが……――あぁ、そうか。いやなんでもない。忘れてくれ」
「なんだアサシン。言いたい事があるならはっきりしてくれないか」

 何が言いたいのだ。と視線が逸れた翡翠の目を見つめる牡丹の頭の中に、一つの可能性を見出した。それは生前知る事がなかった。否、考えた事もない可能性の一つであり、この考えが本当に合っているとするのならば、ある種、関係の崩壊を意味していた。
 横に座る燕青の首に巻いている赤い布を鷲掴み、自分の方に引き寄せた。
 激昂とも思えるその動作に、流石に事の顛末を見守っていた二人も腰を浮かして止めに入ろうと、牡丹の名前を叫ぼうとしたが、それよりも先に態度に似合わない静かな声がその場を支配した。

「お前、もしかして……私の命令に従わず、人を殺したな?」

 言葉尻は疑問形らしく半音上がっていたものの、確信を持った話し方だった。
 依然と牡丹は燕青の首飾りを握ったままで、大の男の燕青も抵抗らしい抵抗を見せない。
それは図星だったからだと、生前の二人を良く知らない藤丸とマシュにさえ察する事が出来る程だった。

「どうしてだ」
「――……が、……すぎる」
「アサシン?」

 濡れ烏の髪に隠れて燕青の表情までは見えずとも、口の動きは見る事が出来る。だというのに、男の声は余りにも小さく、唇は震え牡丹は正確な音を聞き取る事が出来なかった。
 なんて言ったのかもう一度聞く為にも燕青の名前を呼ぶと、震えていた唇が大きく開き、己の首飾りを掴んでいる牡丹の小さな手を、ガントレットに包まれた大きな手で上から掴み、噛み付くように言葉を紡いだ。

「あんたが優しすぎるからだろ! あの男たちはまた繰り返す! あの時あの国には正義何て何処にもなかった!」

 気が付けば牡丹は燕青の迫力に僅かに上半身を後ろに反らしていた。眼前には吊り上がった翡翠の双眸があり、眉も吊り上がっている。

「正義なんて、何処にも……誰もがあんたのような人間じゃない。殺さないといけないような奴もいるんだよ――主……」

 あの時、あの時代。まさに正義は息をしてはいなかった。なりを潜ませていたのではない。諸悪に吊り上げられ、弄ばれ、利用され殺され続けていた。
 中央に行けば行く程、腐敗が広がり、上に上がれば上がる程汚い蜜を啜って至福を肥やしている。
そんな時代だった。
 窃盗は当たり前。武力的力がない人間が、力ある人間に支配され搾取される。それが当たり前で変えようのない事実だった。
 そんな時代に、牡丹という存在が現れたのがまさに奇跡と言ってもいい。

「それでも、私は……正しいとは思えないよ。燕青」

 吐き出す息が震えていた。

「――あんたは、そういう人だよなぁ……」

 眉尻と目尻を下げ今にも泣きそうになっているのはどっちだっただろうか。少なくとも牡丹の目にも燕青の目にも、お互いが泣きそうな顔をしていた。それが見ていられなくて、牡丹は首飾りを掴んでいる手を解いた。無機質で人の体温を伝えもしないガントレットに包まれた手は、白魚のような手を掴んだままで、牡丹もそれを振り払う事は出来なかった。
 すっぽりと包まれる牡丹の手をきつく握った燕青は、そのまま顔を俯かせた。
 涙が流していなかったのに、どうしてか、藤丸の目に、燕青が泣いているように見えた。
 なんて声をかけたらいいのかがわからない少女たちは、唇を一文字に結んだまま開く事が出来ない。語り掛ける言葉は何処にもなかったのだ。
 メロドラマが目の前で繰り広げられているような緊張感と臨場感。藤丸は刑部姫が言っていた言葉を思い出し、やはりあの言葉は正解だったのかも知れない。と何度か心の中で頷いた。
 燕青は牡丹に向かって主≠ニ言った。二人は生前主従関係で、愛し合っていたに違いない。と当たらずとも遠からずの推論を組み立てている藤丸は、恥ずかしさでもなく、ただの少女として目の前で繰り広げられるラブロマンスに頬を赤く染め上げた。
 然しそんな空気を壊したのは他でもない、当事者の牡丹だった。

「つまり、お前なら梁山泊を殺して回っても可笑しくはないって事だな?」
「あ、そこに戻ってくるのね」

 肩透かしを食らったように、藤丸は急激に身体の力を失い、右側に一瞬肩から落ちた。

「確かに燕青なら、梁山泊の人間相手に優位に立ちまわる事が出来る。だが、動機は何だ。快楽で人殺しをするような男ではない。となれば私が命令を下したのか? 何の為に……」

 燕青に手を握られたまま沈思黙考し始めた牡丹に、藤丸とマシュは戸惑い、どうしたのだ。と声をかけるも、牡丹の思考は止まる事を知らず、ブツブツと何かを呟きながら頭の中を整理している。

「燕青、牡丹が……」
「哈哈! これは暫く放っておいた方が良いぜマスター」

 こうなった牡丹は誰の声も聞こえない。と燕青は掴んでいた白魚の手を離し、腹を抱え、声を上げて笑った。もう何も言っても届きはしないんだから寝た方が良い。と燕青は藤丸たちの背中を押して寝台に寝かせると、未だに考えている牡丹の背中に毛布を掛け、その近くに座り目を閉じた。
 隣同士で横になり音だけを拾っていた少女二人は、何がなんだか。と目を白黒させたものの、すぐに口角を上げて声を殺し、息を吐き出すように笑い合った。時折漏れる声は燕青の耳に入ったかもしれない。それでも少女たちの知った事ではない。といった具合に肩を揺らした。

 ――なんだ。やっぱり仲が良いんじゃん。

 怒鳴るから、悲痛な叫びをあげるから。それに対し悲しいくらいに冷静な態度をとるから。そこに情はないのかと、心配したがなんて事はない。二人は思い合っているのだ。と経験の少ない藤丸とマシュは結論付けた。
 実際、そんなに単純なものではない。
燕青は未だに裏切られたと思っているし、牡丹は燕青に許されなくてもいいと、和解を放棄している。
 最初から話合いなんてするつもりがない二人が、藤丸のような人間だったらどれだけよかった事だろうか。

「やはり、馬で先に中央に行った方が良い――って皆寝ているの……?」

 心許ない蝋燭の明かりだけが室内を照らす。ゆらゆらと揺れるのは隙間風の所為だ。
 蝋燭明かりが、近くに腰を下ろして規則的に首を小さく揺らして眠る燕青の影を映し出している。赤を混ぜた橙の明かりが揺れると、燕青をかたどる影も揺れ、牡丹はその光景を暫く眺めていた。
 藤丸たちもぐっすりと寝ていて、静けさがいやに目立つ。
 少しでも動けば誰かが起きてしまうのではないか。という緊張感すら感じる室内。これは大人しく寝た方が得策か。と床に横になろうとした時、肩から何かが落ちた。
 大きな音は立てなかったものの、質量がある音を出したそれは毛布で、誰かが寒くならないように。とかけてくれたのだろう。

 ――マスターかマシュ辺りだろうか。

 まぁ、この二択が妥当だろう。と床で横になり丸まった身体の上に落ちた毛布を掛けた。
 寝返りを打って座ったまま眠る燕青の横顔を見て、燕青ではないな。と僅かにあったかもしれない可能性を自身で掻き消した。
 誰もすき好んで憎んでいる奴の身体。しかも英霊のこの身を心配するだろうか。今までの態度を思い出す限り、そんな素振りは見せた事がない。それを悲しいと思う資格は何処にもなく、牡丹はただそれが当たり前なのだと、享受するだけだった。
 それが更に燕青の腹を立てているのだが、その事を気付きもしない。
 人の上に立つ人間は、仕える人間の心境など考えても正解には辿り着かない。
 初めから考えている事が違うのだから当たり前である。
 片や、成し遂げる為の算段を考え、もう一方は自分の主人の事を考えている。成し遂げたいと藻掻く努力を知っていても、熱量を正確に測る事など不可能で、身を粉にしながらも仕えている事を知っていても、その忠誠心の全て汲み取る事は出来ない。
 男の忠誠心は女にとって予想以上だった。それを未だに知らない牡丹は、男の憎しみを受け入れる事だけが許された行為だと信じている。それが燕青の癪に障る事も知らない。
 隠す事のない嫌悪、憎しみ、恨み、絶望。それらを自分に向けている燕青が、わざわざ毛布を掛ける事があるのだろうか。

 ――そんな事、ある筈がない。

 虚しいだけの自問自答を終えた牡丹は、身体の空気を吐き出す程の長い溜息を吐いて、また寝返りを打った。
 自身の腕を枕代わりに、身体を丸めて横になるなんて、なんて頼りない姿だろうか。
 情けない。情けない。情けない。

 ――なんて情けない。

 毛布を掛けてくれた相手が燕青ならよかった。と思ってしまう心に嫌になる。真名を教えてもらった聞いた時、嬉しいと同時に取らないで。と思ってしまった事が情けない。
 願ったのは己だというのに。押し付けたのは己だというのに。

 ――なんと馬鹿で、哀れで、愚かで、浅ましい女なのだろうか。

 牡丹という名の主は、かつての従者に付けた傷が癒される事を願い、藤丸という名の少女に託したというのに、牡丹という名の女が、燕青が離れて行く事を哀しみ、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥った。
 枕代わりの腕に熱い液体に垂れる。声を殺し、涙を流した一人の女の夜を誰も知る事はない。
 雀の鳴き声が耳を掠める朝。誰よりも早く起きたのは燕青だった。固まった身体を「んー……」と腕を伸ばしながら解す。蝋燭の明かりは何時間も前に消えたようで、燭台には溶け切った蝋が固まっている。
 視線を横に移せば小さく丸まって寝ている牡丹の姿がそこにある。上から覗き込めば、目尻が若干赤くなっていて、昨夜泣いていた事が簡単に推測出来る。どれだけ泣いたら朝になっても赤くなっているんだ。と燕青は目尻に向かい手を伸ばしたが、触れる寸前のところで引っ込めた。
 この女はもう主ではない。
 この時代の空気に当てられたのか。と燕青は牡丹に触れようとしていた手で自身の前髪を掻き乱した。
 藤丸たちを起こす為に立ち上がった燕青のだらりと床に垂れる後ろ髪。足音を立てないように歩き出した燕青の頭が後ろに引っ張られ、足だけが前に出るという酷く間抜けな格好になった。後ろに向かって髪を引っ張る事が出来る人間は、牡丹の他に誰もいない。
 燕青はすぐさましゃがみ、立てた膝に腕を置いて小声で牡丹に声をかけた。

「離してくれないかねぇ。これじゃマスターを起こしに行けない」
「んー……私、も……」
「起きるのかい?」

 黒く長い髪を一房掴んでいる牡丹は、寝起き特有の唸り声に近いものを喉から発しながら目を擦る。ぼんやりとした瞳が朧げな燕青を捉え、気の抜けた笑みを浮かべた。

「えんせいだ……」

 幼子のような柔らかさを孕んだ声だった。生前共に時間を過ごして来た燕青でも見た事がないような姿に、翡翠の瞳が大きく開いた。

「――あんた、そんな顔出来たのか」

 笑っている時、怒っている時、悲しんでいる時、憂いている時、痛みに耐えている時、泣きそうな時、幸せに顔を綻ばせている時。どんな時だって燕青は牡丹の側にいて、その一瞬を焼き付けていた。
 全てを知ったとばかり思っていた。だが、実際、死後にわかる表情だってある。
 もう一度眠りに入る牡丹の瞼は落ちかけていて、何とか自力で起きようと目を擦るも、眠気に軍配が上がりそうだ。

「知らない事もまだあるんだなぁ」

 結局眠気に勝てなかった牡丹は、燕青の髪を掴んでいた手から力が抜け、自由に動けるようになった燕青は、真っ先に藤丸を起こしに行った。

 朝食を済ました後、牡丹は一晩中考えていた事柄を簡潔に話し出した。

「現状、あの二人が犯人だと仮定するのであれば、追跡ではなく先回りした方が良いかと。その為には、此処から更に北にある中央に行くのが最善です。あそこには梁山泊の人間が沢山いますから」
「仮に、あの二人じゃなかったとしたらどうなるのでしょう?」

 挙手をして質問を投げかけたのはマシュだった。それも当然の疑問だった。特異点の牡丹と燕青が犯人である証拠がない今、犯人であると断定しているだけで確定ではない。そんな中、他の要素を振り切って行動した時のデメリットが気になるのは至極一般的で、藤丸思いであるマシュらしい思考だった。

「梁山泊の人間が三人も連続で殺された。となれば、梁山泊に恨みがある人間の犯行だ。内部犯にしろ、外部犯にしろ、梁山泊は中央に集まっているのだから、そこを叩いた方が早い」

 梁山泊の人間である筈の牡丹と燕青がどうして単独行動をしているのか、その点に関しては牡丹もわからなかった為に話題には上げなかったが、それでも藤丸は納得した様子で何度も頷いた。

「それで馬なんだね!」
「北に行った二人を追うのに必要かと思ったのですが、結果的に違う活用が出来そうでよかったです」

 それでは行きましょうと、牡丹の一言で藤丸たち一行は動き出すも、そもそも藤丸は馬に乗った事がない。マシュも経験がなく、二人を同じ馬に乗せる事は出来ない為、藤丸を牡丹が、マシュを燕青が乗せる事になった。
 早馬でも二日はかかる距離。逸る気持ちをそのままに馬を走らせた。
 だが、道中ずっと無言というわけではない。揺れる視界になれた藤丸は初めて出会った時よりも目線が近くになった牡丹を見た。

「牡丹って本当に女の子なんだね」
「ん? えぇ。ただ私は幼い頃から戦場に出ていましたし、アサシンに言われ男装もしていましたし、女らしい事は何も残さなかったので」

 手綱を握る牡丹の手に力が入った。規則的に揺れる身体で過去の事を思い出す牡丹の表情は穏やかで、藤丸は手綱を握る手に力が入っている事に気が付いていない。

「燕青の事、好きだったのに?」
「……これが所謂ガールズトーク、というものですね」
「そうかも」

 いつ己の気持ちがこの少女に知られてしまったのだろうか。と一瞬動揺した牡丹は、右前方を一瞥し口を開いた。
 成るべく自然に、怪しまれないように話題を逸らさねば。と算段を組み立てる表情は何も変わらず穏やかなままで、橙の瞳が内心を探ろうとしたところで、見抜けそうにはない。

「私は女性に囲まれて話をする機会が何度もありましたが、男として参加していた為、女の子らしい会話に入る事が出来ず……実は憧れていたのですよ」

 これは本当の事だった。
 カルデアに召喚された時、体そのものが男であった為、盧俊義として振る舞った。
アルトリアや他の女性サーヴァントと幾ら仲良くなろうが、何処まで行っても自分が盧俊義である限り、生前のような花の会話には参加出来ない。
 だが、今は違う。
 名前こそ盧俊義のままであるが、姿は牡丹そのもので、違和感なく花と共に会話をする事が出来る。

「マスターやマシュ、アルトリアたちと話が出来る今、凄く楽しいのです」

 花が綻ぶような笑みだった。その笑顔を見て藤丸は初めて牡丹が女である事を認識した。
 今まで知識として知っているだけで、その実感があののかと言われれば、なかった。
 どうしても初めて召喚した時の姿が目に焼き付いているからだ。それが今、女の子と会話出来るだけで嬉しい喜ぶ女が目の前にいる。藤丸にとって同性で会話する事は何も非日常な事ではない。当たり前にある日常なのだ。そんな日常を羨み、叶え、喜ぶ人間がいるなんて考えた事もなかった。
 藤丸にとってちっぽけとも呼べる願いを抱くようになったのは他でもない。
 燕青の独占欲の所為であった。

「燕青が男装するように、強要……言葉選びが難しいね。えーっと、勧められたのは嫌じゃなかったの?」

 結果論だが、その誘いに乗らなければ牡丹がこんな願いを抱く事にもならなかった筈だ。

「嫌ではありませんよ。だた、寂しくはありましたが。あれが――アサシンが私の為に言ってくれたもの。嫌なわけがありません」

 信頼と恋心と主としての務めだったのだろうか。
 藤丸にはその心境を推測する事しか出来なくて、然し、それも正確なものではない。藤丸はまだその感情を知らない。額面通りの事しか知らない藤丸は早馬の手綱を握る牡丹の小さな手を一瞥した。

「それは、燕青を信頼していたから?」
「それもありますが、単純に彼の心配事がなくなればいいと思いまして」
「好きだったんだね」
「上手く逸らしたと思いましたが、騙されてはくれなかったですね。――えぇ、好きですよ。現在も、過去でも。恐らく未来も」

 ガールズトークとは、基本的に恋の話で盛り上がるものだろう。
 藤丸はカルデアに来る前まで一般人と変わらない生活を送っていた。その生活の中には牡丹が憧れたガールズトークがあるのだ。そんな藤丸に対し、牡丹はそんな会話した事すらない。軍配がどちらに上がるかなんて考えるまでもない。
 女の子というのもは、幼い頃から女の子であり、いつまで経っても恋の話が好きなのだから、年頃の――藤丸の年頃は特に敏感である。牡丹が逃れられるわけがない。

「言わないの?」

 至極当然の疑問だった。
 若い発想でもあった。傷付く事を恐れない人間の発想とも言っていい。

「言いません。今は仮初の牡丹。言うのであれば本来の姿で」

 ――その時はもう来ないだろうけど。

 もう一度生身の人間になる事なんてあるのだろうか。英霊として存在し、サーヴァントとして召喚される事すら想像しなかったが、それとこれとでは話が違う。輪廻転生なんて教えも存在するが、生憎と牡丹は信心深い人間ではなかった。目に見える、耳に聞こえる、肌に感じる情報しか信じない人間であった。

「そんな日っ――……いつか来るといいね」

 令呪が刻まれた手が牡丹の衣服を掴み、眉尻を下げ今にも泣きそうな藤丸の顔が牡丹の顔に近付くも、吐き出したかった言葉を寸での所で飲み込んだ藤丸は、俯き遂には掴んでいた服も離した。

「そうですね」

 咄嗟に言葉を濁した藤丸だったが、牡丹には発したかった台詞全て手に取るようにわかった。そんな日はいつになったら来るのだ。とでも言いたかったのだろう。
 それがわかった上で牡丹は酷く穏やかに笑った。
 
 馬を走らせる事二日。中央に着いた。首都向江。嘗て牡丹が高俅の手で殺された土地であった。克羽大臣が統治している向江は牡丹の記憶では国で一番栄えている場所だった。
それこそ、南櫂よりもずっと栄えていた記憶がある。
 だというのに。

「なんだ……これは……!」

 皮と骨だけの物乞いが布切れのようなマントを頭から被り、飢え死ぬと声を上げている。
 道を歩く人間はそんな物乞いを、ごみを見るかのような目で見下し、幼い子供が平気な顔をして窃盗をし、何処かに死体が転がっているのか腐敗臭が鼻を劈く。
 牡丹が生きていた頃よりも政治は腐敗が進み、民は生きる活力を失い国は終わりに向かって走っている。

「酷いですね」
「どうしてこんな……。此処首都じゃないの?」
「その筈、なんだがねぇ」

 どうしてこんな事に。と息を飲んだのは誰だったのだろうか。少なくとも牡丹はその光景の衝撃のあまりに息が止まり、肩が小刻みに震えている。
 あの私は何をやっているのか! と激情のまま叫びたくなった衝動を何とか堪え、俯き唇を強く噛んだ。
 強く噛んだ所為で肉に歯が食い込み口内に鉄の味が広がる。こんな事があってたまるか。眉間に皺を作り悔しさで視界が滲む。

 ――愚か者、愚か者、愚か者!

 私はどの時代でも牡丹ではないのか!
 この国を救う為に、腐敗を清算する為に生まれたのではないのか。

「牡丹……?」

 俯いたまま顔を上げようとしない牡丹を心配した藤丸の声が耳に入る。
 そうだ。俯いている暇なんて何処にもない。私は常に前を見続け栄華を手に入れた¥翌セ。現状に絶望するな。打開策を見つけろ。この国の礎と再びなる為に。
 血が出ている唇をそのまま、牡丹は空を見た。生前の頃とは違う空が頭上に広がっている。円を描いているこの空の下は全く違う歴史を刻み続けているのだ。

「ご心配おかけしました。私は大丈夫です」
「……うん」

 唇に付いている血を舐めとった牡丹は、藤丸と向き合った。牡丹がこの中で特にこの国に対して思い入れが強い事を知っている藤丸は、何かを探るような目で牡丹を見るも、微笑んだまま微動だにしない牡丹を前に、まだ幼い藤丸が何かを知る事は出来ず、首を縦に一つ動かした。

「先ずは拠点を見つけましょうか」
「南櫂で泊っていたホテルのような施設でしょうか?」
「それも良いが、扶持はあるのかい?」
「あぁ。それなりには持って来ている」

 生前の頃から牡丹は金目の物を持っていた。好きだから集めるのではない。何かあった時に換金出来るように持っているのだ。それを察した燕青は首をゆったりと左右に動かし、翡翠の瞳で何かを探した。

「あれなんかいいんじゃないかね」
「では、そこにしよう」

 牡丹が持っていた宝石類を換金した一行は、情報を集める為に街行く人々に声をかけた。
 一行の「盧俊義という存在は知っているか。この国は今どうなっているのか」という質問に対し、口を揃えてこう言った。

「盧俊義は死に、この国は依然と何も変わらない。あの男は無駄死をしただけだ」と。

 ――盧俊義は死んだ……? ではあの時見たあの歪な私は一体何だというのだ。

 疑問ばかりが深まり、何も前に進まない。暗闇の中宛先もなく走っている感覚に、藤丸は悔し気に眉を顰めた。
 それは藤丸だけではない。牡丹も同じく悔しい思いを強いられていた。
 内心、盧俊義の格好をして中央に入ってやろうか。と思わなくもないが、今そんな事をしたって意味がない上に、得策ではない。するとすれば、最高のタイミングでやらねば。と考えつつも、まだ殺人事件が起こっていない事に気が付いた。

「そう言えば、向江ではまだ梁山泊が襲われていないのですね」
「あんなに飛ばしたから、知らない所で追い越したのかもね……だって凄いスピード――」

 言葉が途切れた藤丸は、壊れた玩具のように動きを急に止め、地面に座り込んだ。

「マスター!」

 俯く藤丸の顔は橙の髪が覆ってしまい、確認する事が出来ない。心なしか身体が小刻みに震えていて、サーヴァント三騎が一人の少女を囲い声をかけている。何事なのか。と道行く人が首を傾げながら通り過ぎて行く中、漸く藤丸は声を出した。

「痛い! 痛い! 筋肉痛が! 急にやって来た!」
「え? あ、あー……」

 よくよく見れば、藤丸の太腿は独りでに震えており、地面に付いている膝が笑ってしまっている。馬に乗った事がない藤丸が早馬で丸二日、馬に揺られ続けていたわけだ。筋肉痛にならないわけがない。

「ったく、しょうがねぇなぁ」
「わ!」

 燕青の太く逞しい腕が、地面に座り込んでいる藤丸を持ち上げ歩き出した。マシュがその後ろを「大丈夫ですか?」と心配で眉尻を下げながら続き、牡丹はやってしまった。と一般人の藤丸を振り回した事を申し訳なく思っていた。
 適当な逆旅に宿泊する事になった一行の前に、行く手を阻む男たちが幾人。服装を見るに盗賊違いないだろう。厭らしい意味を浮かべながら燕青の前に立っている。
 よくもまぁこの男に向かってそんな笑みを浮かべる事が出来るものだ。と呆れた表情を浮かべた牡丹を他所に、男たちは短刀や槍に剣といった獲物を片手に勝気な態度を取る。

「さっき見てたぜぇ。随分な額を手に持っていたじゃねぇか」
「俺たちにも分けてくれよ。このご時世だろー? 食うもんもねぇんだよ」

 慈悲の心を求めている割に、態度は高圧的で本当に食べるものに困っているのかも疑う。
 実際弱者から金を奪い取り、その日の食い扶持を稼いでいるのだろうが、喧嘩を売った相手が悪すぎた。
 ガラの悪い男たちを見た街の人間は、巻き込まれたくないと背中を向けて逃げ出す中、牡丹やマシュは勿論、燕青の腕に抱えられている藤丸ですら呆れた目で男たちを見ている。

「小物感丸出しだね」
「ぁあん?! 」

 濁点混じりの唸り声を上げて威嚇をする男たちを前に、薄ら笑う事を止めない牡丹に、怒りの沸点を超えた盗賊の一人が無謀にも、牡丹に近付き胸ぐらを掴んだ。流石にこれはいけない。とマシュと藤丸が声を出すも、男の耳には入らず、大きく口を開けて怒鳴り声を上げながら牡丹を詰る。

「お前今何て言った!」
「格の違いがわからないのなら、今すぐ手を引いた方が良い」

 弱いのだから。と牡丹が吐き捨てると、逆上した男が握っていた短刀を振り翳す。太陽の光が反射するその短刀に、一瞬牡丹の目が眩むもすぐに躱し、ついでとばかりに短刀を持っている男の背後に回り込み、背中に一撃を入れる。

「此処は私が引き受けます。皆さんは先に進んでください」

 振り向きざまに言った牡丹に対し藤丸が心配の声を上げるも、そんな事は構いもしない燕青が歩みを始めた所為で、盗賊に絡まれている牡丹との距離が出来てしまう。

「マシュも行って。此処は私一人で大丈夫だから」
「ですが……」
「マスターの側にはサーヴァントが多い方が良い」
「何ごちゃごちゃ話してんだよっ!」

 牡丹とマシュの間を遮るように男が殴りかかるが、その寸前に牡丹がマシュの背中を押し藤丸の方に行くよう促した。
 背中を押されたマシュは後ろ髪を引かれる思いで、藤丸の元に走り出した。
 盗賊たちの中から逃げ出すようにも見えるマシュを追いかけようとした男の後頭部に、牡丹が投げた小石が命中する。
 痛みのあまりに男は立ち止まり、後頭部を手で押さえながら振り向き牡丹を睨む。
 そんな眼力に臆する事なく、平然とした姿でそこに立つ女に、激しい怒りを感じる盗賊の男たちは、それぞれが手にしている武器で牡丹に襲い掛かった。
 一人は槍を、一人は短刀を、一人は己の拳を、一人は棒を――女一人に対し数で押し通そうとした男たちの攻撃は哀れな程牡丹には届かない。殴る蹴るが得意ではない牡丹の攻撃方法はただの一つ。弓矢で攻撃する事だ。
 百発百中の命中率を誇る牡丹の矢は、盗賊の足や肩を射抜き、次々に大の男が地面に平伏す。
 小さな呻き声を上げながら地面に倒れる男は、痛む肩で牡丹に向かって短刀を投げた。
 その刃は偶然牡丹の衣服を掠め裂け目が出来る。急に背中の風通しが良くなった牡丹は、短刀を投げた男を一瞥し、無駄な足掻きだと見下ろし笑みを浮かべた。

「これに懲りたら、もうこんな事は止めるのだな」

 とは言ってもこの時代、黙っていれば死に、働き金を得ても税金と称して中央に取られていく。明日を生きる為にはこの盗賊たちも必死なのだろう。仕方がない事ではないが、理解出来ない事でもない。
 こんな国になってしまったのは一体誰の所為なのか。と責任の所在を確かめようにも目の前に転がる謎の数が多すぎる。

「だが……責任の一端を担っているのだろうな」

 吐き出された言葉は余りにも小さく、地面に転がる男たちの耳には入らなかった。
 盗賊たちを一掃した牡丹は、疲労回復に良いとされている食べ物を幾つか買い、逆旅に急いだ牡丹を待ち受けていたのは、完全に半裸状態の燕青だった。
 何度も見た事がある上に、普段から露出度が高い燕青がガントレットやその他の装備を脱いで半裸になっていようが、牡丹は驚きもしない。

「――マスターは何処に?」

 一番気になっている事は藤丸の所在だった。小首を傾げ尋ねる牡丹の両手には、数種類の食材があり、燕青も燕青で内心首を傾げたが、おくびにも表情には出さず、藤丸が出て行った方向に視線を向け、僅かに顎を前に着き出し言外に藤丸の居場所を牡丹に伝えた。

「風呂場か」

 風呂場にいるのならその間にこの食材を調理してしまった方が良い。と牡丹はテーブルの上に買って来た食材を丁寧な手付きで置いて、腰から短刀を取り出した。テーブルに置いた食材の一つを手に取り、短刀の刃を当てる。

「――聞きたくはないが、此処で調理するつもりかい?」
「マスターが風呂から上がって来た時に直ぐにでも食べられるようにしたい」

 火を通さないと食べられないような食材が燕青の目線の先にある。此処には火を扱うような場所がない。逆旅の台所を借りないといけないのだが、そもそも牡丹は火を通さないと食べられない食材があるという事すら知らない。
 家でも外でも燕青に頼りきりで、食べるものは待っていれば勝手に出て来ていたのだから。その食材がどういう調理法をしないといけないのか、というものがわからないのだ。

 ――甘やかした結果、かねぇ。

「そんなんだから、あのエミヤの旦那からキッチンを出禁にされるんだろうな」
「それはっ! そもそもお前が何もさせてくれないから……否、知ろうとしなかった私が悪い」

 すまない。と肩を落とす牡丹に近付く影が一つ。影は伸び牡丹の手にあった短刀と食材を奪い、テーブルの上にある食材から幾つか手に取り、「しょうがねぇなぁ」と呆れた声を隠す事もなく呟き、部屋から出て行こうとする。

「何処に?」
「ちょっと調理場を借りてくるとするさねぇ」

 扉を押し開けながらも振り返る燕青の背中から一度視線を逸らし、何かを言えばいいのか。と視線を彷徨わせた牡丹はぐっと何かを堪えるような表情を浮かべ、再び燕青を見た。

「……礼を言う」

 閉じ行く扉の向こうにいる燕青に牡丹の言葉は伝わったのだろうか。伝わったとしても、眉一つ動かす事はないのだろうな。と牡丹は音を立てて閉じた無機質な扉を見つめた。

 藤丸が浸かっている風呂場に向かった牡丹は、扉をノックし中にいるであろう藤丸に声をかけた。

「マスター、いらっしゃいますか?」
「その声は牡丹さんですか?」
「マシュもいるのですね」
「入っていいよー」

 戸に手をかけ開くと、足湯に浸かっている少女二人の後ろ姿が目に入った。牡丹は棚の上に置かれていたタオルを手に取り、それを二人に渡した。少女らはタオルを受け取ると、湯気の出るお湯に浸かっていた足を綺麗に拭き、お礼の言葉を牡丹に向けた。
 緩く首を左右に振った牡丹は、藤丸たちに背を向けて浴室を出ようと戸に手を当てた。

「牡丹、その傷跡どうしたの……?」

 色白の汚れを知らない背中には、二つの傷跡が刻まれている。
 身体中に傷跡が残っているサーヴァントがいるが、まさか牡丹にも傷跡があるなんて思ってもみなかった藤丸は、驚き咄嗟に呼び止めるも言葉に詰まる。
聞いて良いものなのかがわからなかったからだ。
 然し、口から零れた疑問は止まる事を知らず、言葉尻に勢いを失いながらも最後まで言い切った。
 聞いてはいけない事だったのではないか。と視線を彷徨わせる藤丸を前に、背中を向けていた牡丹が振り返り、首を傾げた。

「傷跡、ですか……? 何でしょうか」

 心の底から何を言われているのかがわかっていない牡丹は、顎に指を当て傷跡なんてあっただろうか? と宙を見つめて考え出す。

「背中に二つ、傷跡が……」
「背中……? ――あぁ、わかりました。そうですか。残っているのですね」

 疑問が解決した牡丹は一気に表情を明るくさせ口の端を上げるも、女性の身体に傷跡があるという事に驚きを隠せない二人は、何も気にしていない牡丹の様子に目を白黒させた。

「一つは勲章で、もう一つは……そうですね。甘え、でしょうか」
「勲章と、甘え……?」
「はい。長い事背中も守る事を意識していなかったので、敵にばっさり斬られてしまって」

 情けない。と困ったように笑う牡丹を見て、藤丸は燕青の事だろう。とすぐに勘付いた。
 だが、その事を此処で牡丹に言うのも違う気がした藤丸は、牡丹の背中にある傷跡を見た事を胸の奥に隠した。
 その後、厨房に行っていた燕青が戻り、疲労回復に良いとされている食材で作った料理を食べた後、牡丹が一人盧俊義という名の人物について、情報収集する為に街に出ようとするも、一人は危険だと言う藤丸は反対し、牡丹は二時間経っても戻って来なかったら燕青を派遣するように頼み、太陽が沈んでいる街飛び出した。
 向江は国の首都なだけあり、夜でも活気づいている。梁山泊を狙った殺人事件が起こっていないこの街は、昼間とは打って変わって肩で風を切るように歩く男の姿が目立つ。
 それもその筈。
 生活に苦しむ人間は、夜で歩く金も、体力もない。だというのに夜でも活気づいていると言う事は、金を持っている人間がうろついているからだ。妓館に行く男たちは皆、女を金で買う財力があるのだ。

 ――中央に近い人間かも知れない。

 盧俊義が死んだ後の世界だというのであれば、中央の人間は死に損ないの男を覚えているだろう。と考えた牡丹は篝火だけが灯す薄暗い街中と女の姿である事を利用してでも、引っ掛けようか。と足を妓館に向かう男の方に踏み出したその刹那、脇腹に強烈な痛みが走り、身体が宙を浮き吹き飛ばされた。
 地面に叩きつかれた身体が、何度か小さく跳ねながら回転し、全身に痛みが走る。
 一体誰が……。とすぐさま体制を立て直した牡丹が辺りを見るも、怪しい人影が何処にもなく、ただ、何かに衝突されたような気にさえなってくる。

「……このままでは危ない、かな」

 明らかに自分を狙ってきた攻撃に、関係のない人間を巻き込む事は出来ない。と即座に動き出し、篝火の明かりが届かないような場所に移動する事にした。
 蹴られた衝撃で覚束ない足を動かし、辿り着いたところは、空き地のような場所だった。
何かの建物が建っていたであろう場所。遮蔽物もないが、時間が時間な為に暗くはっきりとは見えないものの、慣れてしまえば月の明かりだけでなんとか、見る事が出来る。
 弓を構え、左右に視線を動かし、何処から来るかわからない攻撃に備えている牡丹の耳に、パチパチと音が聞こえた。次いで聞き慣れた笑い声が聞こえ、弓を握る手に力が入る。

「いやぁ〜。流石だねぇ」
「何用だ」

 揶揄い混じりの賞賛の言葉は余りにも軽い。最早それは賞賛なのではなく皮肉か揶揄い文句なのではないのか。と目を細める牡丹に対し、口角を上げ、拍手をしながら近付いて来る燕青は、牡丹から丁度五歩くらい距離を空けた所で歩みを止め、立ち止まった。

「ひ弱な主殿はあの一発で死んでくれると思ったんだがなぁ」
「ひ弱? お前を負かした事がある事を忘れているようだな」

 自身の正面に立つ燕青に向けて矢を構える牡丹。矢を持っている指を離せば、その瞬間にでも燕青の心臓を貫く。
 その事がわかっている燕青は、笑みを浮かべたまま立ち去ろうともしない。それどころか、足を一歩前に踏み出し、牡丹との距離を縮める。
足元に生えている雑草が潰される音が耳を掠める。
 二人を取り囲む緊迫感は燕青が歩みを進める程高まる。神経が集中し、雑草を踏む音以外にも風を切る音すら耳に入る。
 体術を使う燕青に対し、牡丹の武器は中から長距離武器だ。このまま近付かれるのは分が悪いと判断した牡丹は、飛び下がって燕青との距離を一気に開けた。

「やぁ主」
「何用だ」

 二度目の問い。一度目よりも警戒心を露にした口調。弦を目一杯張り、殺気を燕青に向ける牡丹の視界には、余裕綽々と笑みを浮かべる翡翠の目。その瞳の奥には抑えきれない殺意が見えている。

「お前私を殺しに来たのか」

 疑問ではなかった。それは確信だった。
 盧俊義が死んでいる世界だとして、私がこの国の為に死なないわけがない。そんなのは牡丹ではないから。だとしたら、同じように燕青をあの場から遠ざけた筈。

 ――恨まれる事を承知でも。

 だからこの燕青は殺しに来たのだろう。と推測を立てる事が出来る……が、同時に疑問も生じる。
 絽の被り物を矢で射抜かれたというのに、動きもしない、中途半端な私の存在だ。
 死んだ筈の人間が生きている。だが、人形と言われても可笑しくない位に感情が見えないし、あり得ないと糾弾出来る位に中途半端だ。盧俊義であり、牡丹であるなんてあり得ない。
 あり得ないのは、その存在が燕青と共に在るという事だ。

「あの私は何だ。何故生きている」
「生かしたから……と言えば満足かい?」
「はぐらかすな。正しく答えろ」

 弓を握る手に力を入れ、威嚇するように声を上げた。

「主でもないのにかい?」

 まさしくその通りであった。燕青との繋がりを絶ったその口は何の力もない。

「だというのに、お前は――君は私に従っているのだね」

 主でないと語るその口で、牡丹に従っている。なんていう矛盾。
 そんな矛盾を抱えたままの燕青は、矛盾の元凶とも呼べる牡丹の前に立ち塞がる。否、矛盾の現況を殺そうと、藍色のガントレットに包まれている手を、開いたり握ったりをしている。
 哀れな男だと牡丹は感じた。
 主を否定し主に拘り、主に縋り付く。それはまるで救いの手を求めるかのようで、救いきれない己の狭量な器に、じくりと胸の奥が痛む。

「君はいつまで囚われるつもりなのだ」

 その一言が燕青の癪に障った。ゆらりと近づいていた一歩が、明確な殺意を持って踏み込まれ、瞬きの間に開けたはずの距離が縮まる。
 繰り出される右手を寸前のところで躱し、振り上げられた左足を後ろに跳ぶ事で回避した。
 このままだと殺されてもおかしくはない。と、牡丹は飛び上がると同時に弦を引き、矢を放つ。真っ直ぐ燕青に向かって放たれた矢は掠り、勢いを落とす事なく地面に刺さる。
 このままでは分が悪い。と牡丹は不規則に飛び回り、燕青の四肢から逃れ矢を放つ。

「ぐ、ぁっ!」
「止まれ燕青! 次は心の臓を射る!」

 肩と腹を射抜かれた燕青に向かって牡丹は叫んだ。
 これ以上傷つけたくはない。と叫ぶも燕青の動きは止まらない。矢で射抜かれた患部から血を垂れ流しながらも、牡丹に向かって拳を振り翳す。

「燕青!」
「何で俺を置いて行った!」
「──っ!」

 悲痛な叫びだった。その翡翠の瞳から涙が零れていない事に違和感を抱くくらいに、悲痛な胸の内だった。

「あの日俺がアンタに誓った忠誠を軽んじていたのか!」
「そんな事はない! お前がどれだけ私に尽くしてくれたか、私がよく知っている!」
「だったらなんで──っ!」

 繰り出される拳が言葉を重ねる毎に重くなっていく。遂には牡丹の鳩尾に拳が入り、衝撃を殺しきれない小さな身体が吹き飛ぶ。
 痛みに震える足で立ち上がった牡丹は弓をきつく握り、弓を支えにして燕青を見つめた。
 ぽつりぽつり。と空から雫が降り出した。呼吸を三つする間に天の雨戸が開いたかの如く勢いを増し、容赦なく雨粒を地面に叩きつける。
 頭からしとどに濡れる二人は、お互いから視線を逸らさない――逸らせない。

「アンタは知らない。俺がどれだけアンタに心を寄せていたのか。俺がどれだけ憧憬していたか。アンタが傷付く度、俺の心蔵が泣き、その度に必ず守ると誓った──結局その思いも捨てられたがな」

 頭から濡れている燕青の頬には幾つもの雫が伝っている。泣いているようにも見えるし、淡々と恨み言を言っているようにも見える。
 初めて聞く燕青の情に牡丹の目尻が熱を持つ。身体は雨で冷え、そこだけが異様に熱い。

「お前を裏切った、私を……憎んでいるのか?」
「殺したいくらいにな」

 雨で羽が重たくなり空を飛べない濡鴉のように、二人の動きはとても鈍い。
 滝のような雨音に紛れてしまう程小さな声を出したのは、牡丹だった。

「だったら、お前が私を殺せ」
「──は?」

 雨音に紛れながらも、燕青の耳には確りと牡丹の声が聞こえた。
 常にその声だけは聞き漏らさんとしていたからだ。
 それは非常に耳心地のいい声だった。その声で名前を呼ばれるだけで多幸感に包まれた。
 必要とされている。求められている。従者としての欲をこれでもかと言う程に満たした声で今、なんと言ったのだ。殺せと言ったのか?

「私はお前が私に尽くしてくれた事を知っている。……知っているつもりだった。が、私は何も知らなかったのだ。どれがけ燕青が私に心を砕いてくれていたかなんて」

 知らなかった。で済む話ではない。裏切られたと罵られる覚悟はあの時決めた。それでも足りないと、紛れもない燕青が言うのであれば、差し出せるものなどこの身しかない。

「燕青が罪だと言うのであれば、私は喜んでこの身を捧げよう」
「──っ! 私刑は、好まないんじゃなかったのか?」

 怒りで震える拳を強く握った燕青、かけなしの強がり。
 何でそうなる! どうしてアンタは直ぐにいなくなろうとする! と怒鳴る心の内を、かけなしの理性で留めた精一杯の強がりは、あっさりと牡丹に崩される。

「誰も私を罪人だと裁けない。だったら残るはお前しかいないだろう」
「ふざけんなっ! どうしてアンタは!」

 違う。そんな事は爪の先程度にも求めていない。
 傲慢で偽善的で的外れな優しさだ。
 こちらの心情を分かろうともしない牡丹に、腸が煮えくり返る燕青は感情のまま拳を振り上げ振り翳す。
 避けようと思えば避けられたその拳を、牡丹は甘んじて受け入れた。
 身体を支える為に両手で掴んでいた弓は、傾き水飛沫を上げながら水溜まりに沈む。下腹部を抉るように殴った拳の衝撃で内側から血が込み上げ、そのまま吐き出される。
 生温かい鉄の味が口内に広がるも、そんな事を気にしていられる余裕は何処にもない牡丹は力なく、己を殴った燕青に寄りかかる。

「なん、で……」

 強烈な痛みの中聞こえたのは困惑だった。
 痛む腹に耐えながらも、牡丹は燕青の頬に手を伸ばした。酷く冷たい体温。残り少ない熱が移ればいいのに、なんてどうする事も出来ない現状に夢を見る。
 復讐とも呼べぬ断罪が果たされたのだ。

 ──お前の悪が今滅びようとしているのだ。

「──笑え」

 容赦なく降りかかる雨に牡丹の身体が崩れ落ちた。
 ばしゃん。と大きな水飛沫が上がる。宙を舞った水滴が落ちてくるよりも先に、牡丹の意識が暗い微睡みに包まれた。

「……っ、なん、で……なんで、あんたは――俺を殺すんだ」

 音もなく燕青の姿が消えた。残された足跡には水が溜まり始める。数分も経たないうちに足跡で出来た窪みに水が溜まり、溢れた雨水が小さな流れを作る。行き場を失って彷徨う雨水は土を巻き込み、茶色の水溜りを作った。

 ひっきりなしに牡丹の頬に打ち付ける雨に目を縁取る睫毛が揺れた。

「ぅあ……此処は……」

 下腹部に鈍い痛みが残ったまま目覚めた牡丹は、ゆっくりと身体を起こして左右を見回した。篝火もなく、月の明かりだけが頼りな此処は、意識が落ちる前の記憶と合致した。

「――情けない」

 雨音にも負ける独り言を呟いた牡丹は、痛む腹を片手で抱えながら藤丸が待つ逆旅に急いだ。
 この事を藤丸に伝えるには何も収穫出来ていない。はぐらかさないといけないと思うと心が痛むが仕方がない。と帰路を急いだ。
 逆旅に着き、寝泊まりしている部屋の扉を数回ノックすると中から藤丸の声が聞こえた。

「戻りました」
「遅かったねー。燕青が探しに出てくれたんだけど、行き違いになっちゃったのか、さっき燕青が帰って来て――」

 牡丹と藤丸を隔てているのは、木で出来た一枚の扉。その扉に掛けられている鍵を解除している音が痛む腹を抱えている牡丹の耳を刺激する。解除しつつ牡丹を心配する藤丸の声に耳を傾けていると、木の扉が泣くような音を立てながら開き、牡丹の姿を見た藤丸が息を飲んだ。

「牡丹! マシュ! タオル持って来て!」
「わかりました!」
「何もそこまで慌てるような事ではないのですよ」

 咄嗟に下腹部に当てていた手を離した牡丹は、その手で藤丸を落ち着かせようとゆらりと振るも、全身ずぶ濡れ状態の挙句に汚れているサーヴァントの大丈夫なんて当てにならない。と藤丸が燕青に向かって叫んだ。

「燕青! お湯張ってー!」
「んあ? はいよー」

 遠くから燕青の声が聞こえ、さっきまで対峙していた燕青の悲痛な叫びを思い出し、牡丹の胸の奥に重たくなる。

「アサシンは濡れなかったのですか?」
「濡れていたけど、牡丹程汚れてはいなかったよ」

 マシュが慌てて持って来たタオルを受け取った牡丹は、髪や顔を拭き、このままでは室内が汚れると服を脱いだ。殆ど下着姿のまま浴室に移動した牡丹は、そこで身を清め、十分に身体が暖まった頃、藤丸たちの前に顔を見せた。

「何があったの?」

 至極当然の質問だ。逆旅まで急いでいた牡丹でもその質問は予想済みだった。

「わかりません。何者かに急に襲われました」
「本当に見ていないのかい?」

 機械越しのロマニの問いにも牡丹は首を縦に振った。

「あぁ」
「そっか。お疲れ様。今日はもう寝よう」

 その一言で場は解散となった。最後まで燕青の顔を見る事は出来なかった。
 あの憎しみは自分だけに向けられたもので、他の人に背負わせるものではない。と頭ではわかっていても、藤丸に秘め事を作ってしまった事に対する少しの罪悪感と、燕青が言った言葉の数々に、何も理解していなかったのだ。と己を責め立てた夜となった。
 翌朝、一人の男が遺体となって転がっていた。
 朝早くに目覚めた藤丸は、散歩に出かけようといい。サーヴァント三騎と共に朝焼けが綺麗な街を歩いていた所に出くわした。

「この人も梁山泊の人?」
「えぇ。名を地楽星楽和。音楽の才能に恵まれた男で、その歌声に多くの兵士が癒されました。彼とは話した事がないので、いつかは話を聞いてみたいと思っていたのですが……まさか、こんな形で再会するなんて……」

 昨夜の雨の影響か唇は青く、肌も色を失っている。濡れ固まっている地面には血が染みている。

「腹部と心臓。それと喉、か」

 足跡は雨でぐしゃぐしゃになってしまっていて、犯人が男か女かも判別出来ない。
 牡丹は楽和に近付き、穴が空いている心臓に指を突っ込んだ。

「牡丹  」
「牡丹さん――何をっ!」

 人差し指を突っ込んだ牡丹は、ぐりぐりと指を動かして中の状況を確かめた後、喉と腹の刺し跡を観察した。
 ――心臓に穴が二つ。と声帯を潰すように刺し傷が一か所。腹部は保険か偽装工作か……。

「調べたい事は調べましたし、もう行きましょう……と、その前に、克羽大臣に通報した方がいいですね」

 楽和の血が付着した人差し指を布で拭い、綺麗になったその手で楽和の顔に触れた。
 温度もなく、人の肌にしてはやけに固くなってしまっている遺体に触れた牡丹は、眉間に皺を寄せ、申し訳なさそうに顔を顰める。

「楽和すまない。平穏に生きていただろうに。どうか安らかに眠ってくれ」
「……早く犯人を見つけないと」
「はい。これ以上犠牲者は出したくありません」

 いつも死体を見る度に藤丸とマシュは心を痛めている。そんな少女二人を見守る翡翠の目が鋭いものに変わった。

「マスター何かが近付いて来るぜ」
「役人でしょうか」
「見つかると不味いかなぁ」
「犯人と疑われてもおかしくはないかもしれませんね」

 兎に角今は逃げよう。と藤丸が言うや否や、役人が藤丸たちの姿を捉えた。

「貴様ら此処で何を――なんだ、そこにあるのは……」
「あの、これは――」
「丁度良かった。俺たち今死体を見つけてしまって、役人を呼ぼうとしてたんだ」

 役人に詰め寄られたじろぐ藤丸を押しのける形で燕青が一歩前に出た。咄嗟に吐いた嘘を信じた役人は、藤丸たちの背後にある死体に目を付け、隠す事もなく顔を歪ませる。餓死している死体は見慣れていても、血を垂れ流している死体は見慣れないのか、僅かに顔を青くさせている役人は、視線を彷徨わせると、その視界に牡丹の姿を収めた。

「お前、何処かで見た事があるような気が……」
「気の所為ではないでしょうか。貴方と会うのは初めてです」
「いや、この顔……間違いない! お前盧俊義だろ!」

 この役人は大きな声で牡丹を指差した。その声に反応した同じ服装をしている男たちが集まり始め、あっという間に役人たちに取り囲まれた。

「克羽大臣の所へ連れて行くぞ」
「そんなっ! 待って! その人は盧俊義さんじゃないよ!」
「ええい黙れ! 斬られたいのか!」

 日本刀よりも湾曲した刀を取り出した役人は、藤丸に向かって刃先を向ける。それに反応しないサーヴァントはいないだろう。
 取り押さえられようとしている牡丹でさえ、役人の手を振り払って、藤丸の前に立った。

「どうするマスター。蹴散らすかい?」
「あんまり手荒な事はしたくなかったけど、此処で牡丹を失うわけにはいかない――各位戦闘準備!」

 マシュは大盾を具現化させ、燕青は深く呼吸を一つし、牡丹は弓をきつく握る。臨戦態勢に入った藤丸たちを前に、集まった役人もそれぞれ湾曲した刀を握り、じりじりと距離を詰める。
 数にものを言わせて刀を振り翳す役人たちを前に、怯えもしない藤丸は肝だけは据わっていると言える。
 切りつけたり張り飛ばしたりにしては相手が力不足だった。役人の服装をした最後の男が地面に向かって倒れる。それを以て終焉かと思いきや、僅かに肩で息をする一行の意味にパチパチと拍手が聞こえる。

「何奴!」
「これはこれは。盧俊義殿。貴方の腕は落ちてはいないようだ。それとも私が今見ている姿は幽霊かな?」

 上等な衣服を身に着けている男は、臆する事もなくその足を前に動かし、牡丹たちの前に立ち塞がる。
 異様なほどに落ち着いている男の名は、向江警備職克羽大臣。嘗て盧俊義が関わった人物の一人だった。

「克羽大臣……」
「え? 牡丹の知り合い?」

 突然現れた克羽大臣と牡丹の顔を交互に見つめる藤丸を他所に、大臣の足がまた一歩、また一歩と牡丹に近付く。

「貴方には梁山泊殺人の容疑がかかっています。同行して頂いても?」
「断ると言ったらどうなる?」
「貴方は断りません。自分の不始末は自分で片を付ける。そういう人間でしょう」

 今此処で戦線離脱し、藤丸に迷惑をかける事は避けたいが、克羽大臣に付いて行けば、確実に中央――内務府に行く事が出来る。内務府に行けば何かわかるかも知れない。
 あの燕青は強い恨みを持っていた。捨てられたと。だけど今も盧俊義の側にいる。
 もしあの時。牡丹が死ななかったら? 死なないで、まだ高俅が生きていれば?
 幾つものもし≠ェ牡丹の頭の中を駆け巡っては消えて行く。

「時に克羽大臣。高俅殿は御息災で?」
「……お前、何も覚えていないのか?」

 怪訝に顔を顰める大臣に対し、燕青は目を細めた。この燕青は知らないのだ。牡丹が最後誰の腕の中で死んで逝ったのかも。誰に看取られて死んで逝ったのかも。
 知りたくもない情報であり、求めていた情報でもあった。

「あの、克羽大臣? 私たちこの時代の人間じゃないのです……えっと、説明すると長いのですが、此処にいる牡丹さんは梁山泊殺しの犯人ではありません」
「なんだと小娘。私に楯突くのか」
「そんなつもりは――」

 眉間に皺を寄せ眉尻を上げて怒りを露にする大臣を前に、マシュは首を左右に振る。つられるように藤丸も首を左右に振るも、大臣の怒りを鎮めないとまた戦闘になりかねない。と牡丹が大きく足を踏み出した。

「教えてくれないか。この時代の事を。私たちは何も知らないのだ」

 首を振っていた藤丸たちの前に燕青が立ち、大臣の前には牡丹が立った。
 生前の頃から変わらない意思の強さを剥き出しにした瞳に、大臣は納得していないものの、牡丹を捕縛する事を止め、邸に一行を案内した。
 門を通り過ぎ中庭に抜けると大きな木が一本どっしりと居を構えている。生前の燕青はよくあの木の上で昼寝をしていたな。と懐古する暇もない牡丹はその木を一瞥だけし、すぐさま視線を大臣に向けた。
 翡翠の目だけが苦しそうに大木を見上げていた。
 人払いを済ませた邸は静まり返っている。盧俊義が発展させた硝子製品の茶器が戸棚に仕舞われている。

「婆や。茶だけ用意して立ち去るがいい」
「畏まりました。旦那様」

 見慣れた老婆は牡丹の正体に気が付く事なく、人数分の茶を用意すると言われた通りに部屋を後にした。
 二人掛けの椅子に一人腰を下ろしている大臣と、同じく二人掛けの椅子に腰を掛ける藤丸と牡丹。残ったマシュと燕青は腰を掛ける所がない為に立っている。

「さて、お前たちは何者だ」
「私たちは人理継続保障機関フィニス・カルデアの人間です。この機関は――」

 淡々と説明される言葉に大臣は口を挟む事はなかった。要点だけを掻い摘んだ説明を聞き終えた大臣は、腕を組み怪訝な顔をしたまま牡丹を見た。

「お前たちが聞きたいというのは?」
「この時代の事です。先ず、私は死んだのでしょうか?」
「では、お前の知っている事柄を話せ。お前はどうやって死んだ」

 背凭れに上半身を預けている大臣は、傍から見るとふんぞり返っているように見えるが、視線は牡丹から外れていない。

「私が記憶しているのは――」

 高俅の悪事を暴く為に皇帝に拝謁したものの、悪事を暴かれた高俅が皇帝に向かって斬りかかり、捨て身で庇った結果、背中を斬られ、笛の音を聞いた克羽大臣が駆け付け高俅を捕らえた事。

 ――最後は燕青にも看取られて死んだのだった。

「私はその後、死にました。……最後に燕青が来てくれたような気がしたが……」
「は?」

 予想外な所から名前が出て来た燕青は驚き、素っ頓狂な声を上げた。

「成程。私が知っている事実と些か違うな。私が把握しているのはこうだ」

 皇帝を殺しきれなかった高俅は雲隠れした為、捕らえる事は出来なかった。盧俊義――女の姿では牡丹と名乗った人物は皇帝の腕の中で死に、死後後宮に部屋と位を与えられ、後宮の一画は牡丹宮と呼ばれている。

「全てが丸く収まったと思った途端、皇帝が何者かに暗殺され、高俅は何食わぬ顔して内務府に戻り、皇帝が崩御された際後宮が一時大混乱を起こし、その際牡丹宮にあった盧俊義の墓が荒らされ中に入っていた遺体がなくなっていたそうだ」

 遺体が消え、盧俊義が動いているとなると、考えられるのは聖杯以外ない。
 聖杯の力によって生かされているのだろう。と藤丸たちはすぐに察した。

「君が死んだ時私も看取ったが、その遺体を強く抱き締めていたのは他でもない。徽宗様だ。燕青という男が彼なら……私は知らないな」
「――え」

 大臣の言葉に牡丹は目を丸くさせた。
 弾かれるように牡丹は燕青を見つめるも、状況を理解出来ていない表情を見て俯いた。

 ――そうか、あれは全て、まやかし……幻想だったのか。

 恨まれる覚悟をしたと言っていても、したつもりでいただけなのだ。
 最後の最期、来る筈もない燕青の姿を追い求め、縋っていたのだ。薄れゆく意識の中、求めたのは国の平穏ではなく、遠くに追いやった燕青の事だったなんて。

 ――やはり私は、ほとほと愚かな女でしかない。

「牡丹……大丈夫?」
「えぇ。状況が理解出来ました」

 何一つとして理解出来ていないが、こんなものは私用でしかない。と牡丹は頭を振って目の前の事に集中した。

「大臣、梁山泊の人間が殺され始めたのはいつ頃ですか?」
「……盧俊義の遺体が紛失してすぐの事だ」
「だとしたら……!」

 牡丹が殺人に関わっているに違いない。だが、牡丹にはあの犯行は出来ない。
 最初に見つけた遺体には太い何かが刺さったような穴があったのだ。槍を握って戦場を駆け回っていたとはいえ、そんな力が女の牡丹にある筈がない。
 となれば、あの盧俊義の側にいる燕青以外あり得ないのだが、向江で殺人事件が起こった時間帯的に燕青と牡丹が対峙していて、燕青に殺人は不可能なのだ。
 一体どういう事なのだ。と唸る牡丹を他所に、人払いを済ませている邸に慌ただしい足音が幾つも聞こえて来た。

「大変です!」

 複数人の足音が大臣を前にピタリと止まり、呼吸をおく間もなく、一人の役人が口を開いた。
 額から汗を流し、目を大きく開いている役人は唇を震わせながら両目をきつく瞑った。

「報告します! 医官の安道全様が何者かに殺されました! 大臣には警備に当たれと通知が来ております」
「──何だって……!」

 安道全と言えば梁山泊で医師を勤めていた人間だ。梁山泊が崩壊した後も、あの男は中央に残る事が出来たのか。なんて牡丹は状況を整理する傍ら、自分亡き後の出来事を想像した。
 然し、地霊星安道全が殺された場所が悪い。
中央で殺されたとなると、敵は中に入る事が出来る人物だと言う事だ。
 外部犯。つまり、聖杯で生かされた盧俊義や燕青ではない。という何よりの証拠になってしまった。

「……私は現場に行く。君たちはこの邸にいなさい。決して出る事はないように」
「え、でも──」

 言い淀む藤丸をそのままにし、大臣は慌てた様子で邸を出て行った。その場に取り残された藤丸はどうしたものか。とお互いに顔を見合わせていると、扉が金切り声で泣くような音を立てた。
 扉の向こうには老婆が立っており、白髪の目立つ老婆は恭しく拱手すると、皺の目立つ唇をゆっくりと動かした。

「お部屋を用意するまでの間、こちらの部屋でお待ちして頂きます」

 生前この老婆とは何度かあったが、あの頃の勢いはすっかり失せ、迎えが来るのを待つばかりのようにも見える。
 何があったのだろうか。と内心首を傾げる牡丹を一瞥した燕青は、一瞬視線を宙に彷徨わせ、小さな溜め息を零した。

「婆さん。大臣には娘がいたと思ったが、嫁いだのかい?」
「っ、えぇ。三月程前になります」

 成程。守り育てるあの娘がいなくなった事で、力が抜けたのだろう。覇気もなくなるものだ。
 聞かなくてもいい事をわざわざ聞いてくれた燕青に牡丹は視線を向けるが、頑なに燕青は牡丹を見ようとはしなかった。
 手持ち無沙汰になった一行だったが、まだ警戒は怠ってはならない。と燕青が邸の回りを見てくる事になった。足場や人の動きを見ておきたい。というのが本音だろう。と牡丹がアタリをつけ、そのまま見送ろうとしたが慌てて立ち上がった藤丸が燕青の腰当てを握り引き止めた。

「ん? どうかしたのかい?」

 まさか引き止められるとは思ってもみなかった燕青は、上半身を捻って斜め後ろにいる藤丸を見る。その目はいつだって優しい。
 牡丹に向ける戸惑いと、憎しみが入り混じった目を藤丸に向けた場面など一度もない。

 ──それを悲しいと思わない辺りがもう駄目なんだろうな。

 諦めているのだ。関係の修復を。望んでいる事は何もなく、ただ荒波を立てないで過ごせればそれでいい。
 そんな牡丹の願いにも似た心境をぶち壊すかの如く、藤丸は一石を投じた。

「私は知りたい! 二人の事、ちゃんと知りたい!」

 その訴えに燕青と牡丹はお互いの顔を見合せた。両者の間にはただの困惑がぶら下がり、一秒という時間が経てば経つ程、怒りや後ろめたさや気まずさがのしかかっていく。が、それらは全て一個人の感想であり、マスターという名の藤丸を前に、二人はただのサーヴァントに過ぎなかった。

「マスターが聞きたいのであれば、何でも答えましょう」
「何が聞きたいんだい?」

 とはいえ、このマスターは私欲を満たす為に、過去を抉るような人間ではない事を二人は知っている。
 それと同時に二人の過去が解決の糸口になる事も理解していた。
 抵抗などする筈もなかった。

「ありがとう。二人が初めて会ったところから聞いてもいい?」
「……長くなるが、いいのか?」

 主従関係だった二人は長い時間を共に過したが、実質十年も共に過ごしてはいない。それでも長い時間共にしたと思えるくらいに、濃密で輝かしい時間を過ごしたのだ。
 出会う前の記憶が霞んでしまう程に。

「なるべく客観的に話しますが、間違いがあったらアサシン、その都度訂正して欲しい」
「……あぁ」

 二人掛けの椅子に座っている牡丹は、立っている二人に椅子にかけるように促した。
 マシュを含めその場にいる全員が腰をかけている事を確認した牡丹は、少し息を吸い込み、まるで昨日の出来事を語るように、何百年前の出来事を語り出した。
 それは徽宗が書いた英雄記譚にも、牡丹自身が書き連ねた日記にも出てこない、まさしく二人だけの記憶であり、二人の思い出であった。

「────私は牡丹という名を盧俊義に変え、性別も変え、アサシン――いいえ、燕青という素晴らしくも口煩い従者を連れて東奔西走しました」
「口煩いは余計だと思うがねぇ」
「事実でしょうに。それから──っ」

 物語の中盤に差し掛かったところで、木製の扉が金切り声を上げて泣いた。

「部屋の用意が出来ました。移動をお願い致します」

 白髪が目立つ老婆が扉越しに姿を現した事で、話が途切れた。
 このまま話し続けても仕方がないと、牡丹は藤丸を見てへらりと笑みを作った。

「……では、この話の続きはまた後にしましょうか」
「話の続きが気になるけど、仕方がないよねぇ。部屋に着いたらまた教えてね」
「勿論です」

 老婆の後に続いた一行は一つの部屋に案内された。

「急でしたので一部屋しかご用意出来ませんでしたが、大丈夫でしょうか?」
「寧ろ部屋を用意して下ってありがとうございます! 十分です」
「何かありましたら、この婆をお呼びください」

 再び拱手し客間を出て行った老婆の後ろ姿は、牡丹の記憶の中よりも腰が曲がっているように思えた。

「あぁ、そう言えばこの家の娘さんは、マスターのように好奇心に溢れた娘だったな」
「それって褒めているのかな?」

 不満そうに顔を顰める藤丸の頭を撫でる牡丹の身長は、そう変わらない。燕青からしてみれば、小さい者が小さい者に頭を撫でているだけだが、一度だって牡丹は燕青の頭を撫でたりはしなかった。
 褒め言葉さえかけられた事がない。

 ――だからどうだって話なんだがなぁ。

 何処か煮え切らない心情を吐き出すように、燕青は両腕を頭の後ろで組んで、背中を僅かに後ろに反らせながら短い息を吐き出した。

「好奇心があるのは良い事ですよ」
「ねぇ、大臣の娘さんとはどうやって出会ったの?」
「それはなぁマスター――」

 燕青が面白可笑しく大臣の娘と盧俊義が出会った話をしている時、牡丹は不意にマシュに視線を向けた。顔の半分を隠してしまえる位に長い前髪で片眼が隠れてしまっているが、もう片方の目が僅かに潤んでいるのを見て、マシュが腰を掛けている椅子に近付いた。

「どうかしたの?」
「いえっ、……ただ、お二人の最後を思うと胸が痛くなってしまって……」

 両手で胸の真ん中を抑え込むような仕草をするマシュに、牡丹はなんて答えればいいかわからなかった。然し、そんな心境を知りもしないマシュは、何かを堪えるように唇を震わせると、アメジストの瞳で牡丹に訴えた。

「私は先輩のサーヴァントです。だから、燕青さんの気持ちが少なからずわかるような気がして……どうしてお二人は、袂を別ってしまったのですか? 信頼関係が崩れるような何かがあったのでしょうか?」

 アメジストの瞳は牡丹を追い詰めた。本人にその自覚はなくとも、今の牡丹には息が詰まる程に苦しい問いかけだった。
 信頼していないわけがない。何があろうとも燕青を信じている。頼りにしている。唯一背中を任せた人なのだから。
 相棒として疑う必要がない程に信頼していたし、その働きは頼もしいものだった。
 それと同時に、愛おしい存在だったのだ。
 幸せを願っていた。喜びで溢れる人生を送って欲しかった。安寧の生活をあげたかった。

「……違うよ。違うのよ」

 その全ては牡丹から一番遠いものだった。
 この国を変えると決めたその日から立っている場所は常に危うい場所だった。他人の流した血の海に立ち、いつ足元を掬われてもおかしくはない氷山の一角に立ち、最後は茨の前に立った。
 連れては行けなかった。これ以上傷付く姿なんて見たくなかった。だから手放した。解放した。自由を与えた。それが孤独という名前の自由だと知っていても。

 ――それ以外の選択は出来なかった。

 幸せになって欲しい。その中に存在出来ないとしても、それでもよかった。

「私はね、主にはなりきれなかった。それだけの事だよ」

 そう言った牡丹の瞳は窓から差し込む夕陽に照らされ、潤んでいるように見えた。
 それから牡丹と燕青は、途中途中休憩を挟みながら二人が生きた時代を話した。包み隠さず語られるその様は、どの物語よりも生々しい。
 カルデアの中でダ・ヴィンチが書物に書かれていない話を聞けるのは最高の特権だね。なんてコーヒーを片手に出歯亀を楽しんでいる事を藤丸たちは知りもしない。

「ある日妓館で燕青の飲んでいた酒に毒が盛られました」
「えっ!」
「犯人もすぐに特定したのですが、すぐに手が出せる相手ではなかったのです」

 今思い出すだけでも忌々しい。と顔を顰める二人を前に、少女らは「一体誰が……」とまるで推理物の作品を見ているかのような反応を見せた。

「……私はいつでも殺す事が出来る≠ニいう高俅からの宣戦布告だと受け取りました」

 実際、この時ばかりは痛いところを突かれた。と内心舌打ちをしたものだ。
 腹心である燕青を失ってしまったら、痛手ところの騒ぎではない。猫はたまたま燕青の器に酒を注いだわけではない。高俅の策により初めから燕青の器に毒が入るようにされていたのだ。
 だから本来のメッセージはこうだ。
君の腹心はいつでも殺す事が出来る。君にはそっちの方が苦しいだろう=B

 ――全く持ってその通りだ。

 だが、お陰で手放す決心も付いた。
 本当は最期まで主として接しようと思っていた。が、燕青の死を目の当たりにし激しく動揺したあの瞬間から、主でいる事は不可能だと思った。
 腹心を失くす事を恐怖したのではない。燕青を亡くす事に恐怖したのだ。

「その日から李師師たちの協力を仰ぎ、高俅が犯した不正の証拠を集めました」
「それで……?」

 固唾を飲み込む藤丸に対し、マシュは話の終わりが見えている所為で、俯いてしまっている。どうやって語ればいいのか。と逡巡させていると、一人の足音が聞こえすぐに部屋の扉が開いた。

「燕青殿! 燕青殿は此方にいらっしゃいますか!」

 役人の格好をした男は額に汗をかき、肩で大きく息をしている。只事ではない雰囲気に役人の姿を上から下まで見た燕青は、警戒心を表に出さず、寧ろ驚いた表情を浮かべた。

「……俺がどうかしたかい?」
「内務府に燕青と名乗る男が現れ、内務府の人間を次々に殺害しています!」

 のんびりと懐古している場合ではなくなってしまった。と一行は立ち上がり、役人に詰め寄った。

「連れて行って!」
「ですが、大臣にはそのような命令を出されていません」

 あくまでも大臣の命令に従うと言って聞かない役人に藤丸たちがやきもきしていると、藤丸の視界に牡丹の腕入り込み、瞬きもしないうちに視界が牡丹の後ろ姿で埋まった。

「役人。君の忠誠心は素晴らしい。だが、内務府はこの国の心臓であり脳だ。そこが今崩されそうになっているのであれば、君は国に忠誠を見せる時だ。動きなさい、国の為に。走りなさい、民の為に。考えなさい、未来の為に。私たちはその力になろう。さぁ! 選択の時だ!」

 牡丹の台詞に一瞬怖気づく役人だったが、すぐに覚悟を決めた顔つきに変わり「ついて来て下さい」と走り出した。
 夕闇の中走り続け着いた場所は、牡丹と燕青にとって酷く見慣れた場所でもあった。勝手知ったる態度で内務府の中を走る二人の後を追う藤丸とマシュ。役人はとうの昔しに肩で息を切らし、後れを取っている。
 悲鳴や断末魔が一行の耳を劈く。他の扉に比べて一層豪華な作りの扉を勢いよく開ければ、むせ返る程の鉄錆の臭い。血の臭いが混じった生暖かい空気に対し、室内に生きている人間は三人しかいない。
 床にはおびただしい量の血が広がっていて、何処かに引きずられたような跡もある。
 まさに悲惨な現状である。
 克羽大臣は何処にいると室内を見渡すと、視界に瞳孔が開いた翡翠が映った。狂気に歪んでいるその笑みの危うさに気が付いた時には、牡丹の腹部に強烈な痛みと圧迫感が衝撃として与えられ、軽い身体は宙を舞い背中から落ちた。
 ドサッと質量が音を立てた。後ろに飛ばされた牡丹に向かって藤丸は振り返り叫ぶも、すぐ傍で金属音同士がぶつかり火花を上げる音が聞こえた。

「マスター! 後ろに下がってください!」
「牡丹!」

 吹き飛ばされた牡丹に駆け寄る藤丸に向かって目にも留まらぬ速さで近付く影。
 数多の人間を殺した燕青の身体は赤黒く染まっている。殺人鬼と言われても何らおかしくないその四肢から繰り出される攻撃を、マシュは大盾で防ぎ、同じ顔をした燕青が横から殺人鬼に攻撃する。
 最初に吹き飛ばされた牡丹は、痛む身体に鞭を打って立ち上がるも、よろけてしまい、咄嗟に藤丸が支えていなければ、もう一度床に転がっていただろう。

「すいません」
「無理しないで! それよりも……」

 マシュが構えている大盾の向こうに見える血の海の中に見える役人に混じって、先刻まで見ていた守護職の役目を与えられた高貴な服装が一人。顔の色をなくしピクリとも動かない。
 やられたか。と唇を噛む牡丹の視界には、同じ顔がもう一つ。

 ――やはり。

 女の顔をし、男の服装をしている盧俊義は殺人鬼を止めるでもなく、ただそこに佇んでいる。存在だけしているその出で立ちは幽霊を連想させる。
 まるで生気がない。死人のようだ。
 血の海の中にいて平然としているその様は、嫌悪感を露にしている此方が異常だと思える程だ。その双眸には何も映っていないのか、感情を何処かに捨て去っているのか。少なくとも、盧俊義の全てを牡丹は受け入れる事が出来ないでいた。
 引切り無しに聞こえてくる金属音。同じ顔の二人が攻防を繰り広げている。一人は狂気的な笑みを浮かべ、一人は眉間に皺を寄せ苦しそうに顔を顰めている。どちらも燕青の本質であり、どちらも燕青の一面である。
 となれば、生気のないあの盧俊義も牡丹の一面と言えるのだろう。
 兎にも角にも、あの盧俊義と牡丹を止めない事には、何も進まない。と二本の足で確りと立った牡丹は弓を構えた。標準を盧俊義に合わせて呼吸を静めて矢を放つ。
 盧俊義に向かって真っ直ぐに放たれた矢は、盧俊義が足元に転がっていた人間を持ち上げ盾にした事で、男の呻き声があがった。

「なに?!」
「あーあー。高俅の旦那可哀想になぁ」
 ぴたりと攻撃の手を止めた殺人鬼は、素早い動きで盧俊義に近付き、呻き声をあげる高俅の胸座を掴み、身体に刺さった矢を無遠慮に引き抜いた。
 刺さった矢が栓代わりになっていたのにも関わらず、引き抜いた所為で血が垂れ流しになっている。よく見れば顔に幾つか痣があり、衣服は擦り切れ上等な服を着ていただろうが、見る影もない。

「なぁ、主殿。この男が憎いだろ?」

 呻き声の中に悲鳴が混じる。殺気だ。隠すつもりがない殺気に高俅は震えている。それもそうだろう。自分が殺した筈の人間が動き、漸く再び皇帝を傀儡に出来ると思った矢先に、殺した人間が自分を襲っているのだから。
 憎いかと聞かれれば、憎いに決まっている。だが、こんな殺人紛いな事をしたいのか。と問われれば迷う事なく首を左右に振る。
 憎いのは国を腐敗させたからであって、殺されたからではない。

「何が言いたい?」
「主殿の手で殺したらどうだい? あんたを殺した張本人だ」
「断る」

 殺されたから殺すでは何も変わらない。退化こそすれ、進む事などしない無駄な行為だ。
 今すぐにあの殺人鬼の口を閉じてしまいたいが、牡丹の武器ではまた高俅が盾にされてしまう。となれば、燕青に戦ってもらうしかない。が、決めるのは藤丸の仕事だろう。

「マスター指示を!」
「燕青! 頼んだ!」
「はいよぉ」

 飛び出して行った燕青の攻撃を受け止める為に高俅を手放した。牡丹はその隙を突いて矢を放つも、阿吽の呼吸が邪魔をし、牡丹の攻撃が読まれ躱される。
 どうしたものか。と苦虫を噛む牡丹の横で、藤丸は状況の整理をし始めた。

「えぇっと、梁山泊殺しは、この特異点にいる燕青の仕業だった……?」
「恐らくですが、少し違います」
「え?」

 この梁山泊殺しの実行犯は二人いる。
先ず、最初に見た死体は、首の骨を折られていて、打撲痕が身体の至る所にあった。胸に刺し傷があり致命傷がどれなのかわからないような死体だったが、手を下したのは男で間違いない。女の腕力で例え死体といえど、人の首を折るような事は出来ない。
 二つ目に見た遺体は、喉と心臓と腹部に傷があった。人間の首を折る事が出来る人間が態々武器を使うだろうか。まぁ使わないだろう。そして首にあった傷は、刺された様なもの。普通喉を切るなら動脈を切ってしまった方がいい。態々声帯を狙う必要がない。動脈を狙う事は出来ないが、声帯を刺す事が出来る武器と言えば、真っ先に出てくるものは弓矢や弩が思いつく。
 そして、犯行時間だ。発見した前の夜には雨が降っていた。豪雨とも呼べる雨だ。現場には足跡が残っていなかった。それは雨の中の犯行だったからに違いない。
 疑わしい燕青はその時牡丹と対峙していた。
 雨の中声帯と心臓を撃ち抜ける技術が並の人間にある筈がない。出来るとしたら、百発百中を誇る盧俊義だけだ。
 先ず声帯を潰し、素早く心臓も撃ち抜いた盧俊義は、絶命している事を確認し、持ち前の短刀で心臓と腹部を刺したに違いない。
 念には念を入れたかったのか、偽装工作をしたかったのか、捜査の手を撹乱させたかったのかはわからないが、間違いなく牡丹の手で殺された。

「どちらも実行犯で間違いないと思いますよ」
「二人の犯行……どうして?」
「分かりませんが、それは本人の口から直接聞くとしましょうか!」

 どちらにしろあの盧俊義は生気を失っているような顔をしても、人を殺す意志や能力は失っていないという事だ。
 あの殺人鬼の傀儡だと思っていたが、そうじゃない事がわかった今、放置しておく理由がない。
 弓で狙ってまた、高俅が怪我をされたらたまったものじゃない。と牡丹は短刀を片手に走り出すが、何も映さないはずの双眸は、一人と男を見つめていた。

「燕青……私の、燕青側においで」

 白魚のような小さな両手を殺人鬼と化した燕青に向けて伸ばした。幼子のような仕草なのに蠱惑的な魅力がある。紅をひく唇の所為なのか本来牡丹が持っている筈の一面なのか。
 どちらにしろ、この場にいる全員の動きを止めるには十分な一言だった。
 戦場という場所において、盧俊義の存在は酷く浮いている。

「さぁ、早くこの男を──」

 殺してくれるな? と音を紡いだ唇は笑みを作っている。今にも殺される事を予測した高俅は悲鳴をあげるしか出来ない。

「あっさり殺しちゃっていいのかい?」
「勿論。これで私の復讐が果たされるのだ」
「俺はあんまりあっさり殺したくはないんだがねぇ。主が言うなら仕方がないか」

 人の命を握っている会話とは思えない程軽やかな会話に、牡丹は冷や汗を垂らした。だが、立ち止まっている場合ではないと、再び駆け出し高俅と燕青の間に入り、短刀を迫りくる燕青に向けるが、男の身体に掠る事すらせず、藍色のガントレットが牡丹の手首を掴んで引き寄せ、腹部に膝蹴りを喰らわせると、回し蹴りをしそのまま吹き飛ばす。

「──っガ、ァっ!」
「ぐ……っ!」

 吹き飛ばされた直後、何か硬いものに背中からぶつかった牡丹の耳元で聞き慣れた声が呻く。
 燕青にぶつかったのだ。と理解した瞬間。また身体に衝撃が走る。

「燕青!」
「牡丹さん!」

 部屋の中央にいた筈が、一撃で燕青を巻き込みながら壁まで吹き飛ばされた。衝撃を殺しけれなかったが故に、壁に亀裂が入り瓦礫が音を立てて床に落ちる。

「んじゃ、サクッと殺しますかねぇ」

 床に落ちていた短刀を拾った殺人鬼は、それをくるりと回して高俅と向き合った。
 背後には盧俊義がいて、正面には短刀を片手に立っている。どちらに転んでも死しかないのは明白。

「金ならやる! 好きなだけやる! だから命だけは……!」

 醜い命乞いだった。
 金が目当てならここまで痛めつけられていないだろう。そんな簡単な事分かっていても、高俅の口は止まらなかった。

「金か? 女か? なんでもやる! だから私を助けてくれ!」

 殴られ附子色に変色した顔は見るも悲惨な容姿だ。皇帝を傀儡としていた男が、上等な服をボロボロにされ、必死に命乞いをしながら頭を下げている。
 皇帝の寵臣と謳われた男の見る影もない。

「高俅の旦那が何を勘違いしているかわかんないが、俺はそんなもの求めてないんでね」

 男が短刀を振り上げた。床に転がっていた短刀は牡丹の目には見慣れた柄だ。
視線を手元に移せば、何も握っていない己の白い手。

「──っ! 止めろ! 止めるのだ燕青!!」

 痛む身体を引き摺りながら牡丹が飛び出そうとするも、巻き込んで倒れた燕青が牡丹の腕を掴み引き止めた。

「止めるな! アサシン、手を離せ!」
「もう間に合わない! 諦めろ」
「っ! 止めろ! 燕青!!」

 狂気に満ちた目が弧を描く。挑発的に笑った男は、無慈悲にも短刀を振り下ろした。
 赤い飛沫が飛び散り、盧俊義の頬を濡らす。どろりとした液体が頬を伝い床に落ちるその一瞬まで、牡丹は瞬きをする事が出来なかった。
 私刑は好まない事を知っていて、燕青は目の前で高俅を殺したのだ。
 それも、主と呼ぶ盧俊義の短刀ではなく、主殿と呼ぶ牡丹の短刀で殺した。それはまるで、牡丹の代わりに殺したと言わんばかりのようだった。
 張り詰めていた糸が切れる音が内側から聞こえた。
 首を擡げた牡丹の肩は震えている。
腕を掴んでいる燕青からは牡丹の表情を見えないが、恐らく悔しくて震えているのだろう。とアタリをつけ、そっと手を離した。
 刹那。牡丹が飛び出し宙高く飛び上がり、弓を構えて矢を放つ。狙いは燕青ただ一人。
 素早く放たれる矢は真っ直ぐ燕青に向かって飛んでいくも、燕青はそれを器用に躱す。致命傷と呼べる傷を作る事は出来なかったが、刺青の入った皮膚から血は垂れ流れている。
 痛み等感じていないと言わんばかりの素早さで、床に着地したばかりの牡丹に襲い掛かる。藍色のガントレットを纏った右手が突き出されるも、二人の間にマシュが入った事で牡丹は燕青の攻撃を免れ、何度も大盾の後ろから矢を放つ。
 そんな牡丹は何かを察知し、マシュから離れるように後ろに向かって走ると、牡丹がいた場所には五本の矢が刺さる。

「私たちの邪魔はさせない」
「くっ!」

 生気の宿っていない双眸で牡丹を見つめる盧俊義。その動きは酷くゆっくりとしているが、弓の威力と正確さは牡丹のそれと等しい。それならば、動き回るあの燕青を倒すより、動きが遅い盧俊義を倒した方が良いに決まっている。聖杯はこの二人のどちらかが持っているに違いないのだから回収は早いに越した事はない。

「マシュ援護を! アサシン、燕青の相手は頼んだぞ!」
「させるか!」

 牡丹の目的を察した殺人鬼は、瞳孔の開いた翡翠の瞳を吊り上がらせ牡丹に向かって駆け出した。長い髪が長い尾のように動く男の動きを止めたのは、同じ顔、同じ瞳、同じ髪、同じ姿の男だった。

「邪魔だァ!」

 ガントレット同士がぶつかる音が何度も辺りに響く。
 盧俊義が標準を牡丹に定めている間、マシュは牡丹の援護をしなくてはならない。同じ顔をしている二人の身体には傷が増え続けている。鮮血がぽたりと落ちても動きを止める事はない。

「マスター! 魔力をください!」
「――牡丹、最大火力で宝具をぶっ放して!」
「諸事万事整った!」

 藤丸の手が牡丹の肩に触れ、青白い光を放つ。魔力回路に並々と魔力が回るのを感じた牡丹は「ふっ」と息を吹き出して目を閉じた。ゆっくりと瞼を開けて弓を構えると、強く握り絞めた弓がギチギチと音を鳴らしている。

「我が心は常世にも変わらず、我が使命は常に意思を持つ」

 ――短い生涯だった。それでも輝かしいものだった。使命とも呼べる志を見つけてからは、成すべき事の為に突き進んだ時間だった。

「我が誇りは誰にも穢されない」

 ――それでも幸せだったと間違いなく言える。例えこの国の為に死ぬ事になったとしても、例え最愛の人を失ったとしても、私は!

「永久に続く偽りなき理想を今こそ示そう。約束された栄華の道」

 勢いよく放たれた矢は、風を生み出しながら盧俊義に向かって進んで行く。生気のない双眸は迫り来る矢を捉えるも、身体が動いていない。
 血飛沫が舞った。

「……ぁ、……大丈夫、かい?」
「えん、せ……い」

 胸の真ん中に大きな穴が空いている。誰がどう見ても致命傷だ。どろりとした血が重力に従って床に垂れ、鮮血で汚していき、口の端からも血が垂れている。
 宝具で撃たれてもなお、盧俊義に怪我がないかを確認する男の姿はなんて哀れで、愛おしいものなのだろうか。

「――お前なら盧俊義を庇うと思っていたよ」

 牡丹の狙いは最初から燕青だた一人だった。燕青なら盧俊義を庇うと読んだのだ。

「俺は……俺の、何がいけなかったんだ……」

 床に膝をつき痛みに顔を顰める燕青は、息を荒くしながらも縋るように牡丹を見つめる。
 どんなに理想の主を作ろうとも、求められたいのはただの一人。顔と服装がちぐはぐな盧俊義ではない。

「お前は何も悪くない。ただ、お前が忠義を尽くした主が愚かだったのだ」
「俺は! 俺は、あんたの側にいて初めて息が出来る。他の誰でもない、ただの俺になれる!」

 牡丹が一歩燕青に近付く度に、男は拒絶するかのように叫んだ。縋り求めるような悲痛な叫びを耳にしている同じ顔の男は、翡翠の目に蓋をして俯いている。
 血の海で足元が汚れているのを気にも留めない牡丹は、燕青に近付き見下ろした。

「それは誰の台詞だ。お前は今誰のつもりで言っている。お前が頭を垂れるのは誰に対してだ。お前の前に立つ人間は誰なのだ! 燕青!」
「それは……」

 燕青は答えられなかった。己が生み出した主は、理想の主の筈なのに、何もかもが違う事を自覚しているからだ。

「そこにいる人間を主と呼ぶのか愚か者! 今お前の目の前に立つ私がお前の主人であった女だ!」

 私は決して復讐を望まない。私は決して私刑を望まない。私は決して道を間違えたりしない。確かにこの盧俊義も私の一面なのだろうが、私は盧俊義を私とは認めない。認められない――認めたくない。

「そんな事もわからないのか。燕青……」
「だったら! だったらどうして俺の忠告を聞かなかった! どうして俺を置いて逝った! あれ程賢かった貴方が! 小さな栄光の為に、何故身を滅ぼした! それともあれは、俺に計り知れない献身だったのか! 教えてくれ……教えてくれよ、主!」

 翡翠の瞳から止めどない涙が流れ、頬を伝い血の海に落ちていく。
 何度も何度も責め続けたのだろう。自分が悪いのだと。置いて行かれたのは信頼されなかったからだと。力がなかったからだと。そうやって責めて、責めて、責めて、そうして泣き疲れて主が悪いのだと、考えるようになったのだろう。
 そうしないと生きていけなかったのだろう。
 だが、真実を知ってどうするというのだ。歴史は元には戻らない。歩んできた道は引き返す事が出来ない。事実は変わらない。
 何より、これ以上傷付いて欲しくない。

「それを知ってどうするのだ。それでもお前は自分が至らなかったのだ、と自責の念に駆られるのだろう。私はそんな事望んではいない」

 ――望んだ事はただ一つ。

「私を忘れて幸せになってくれ。それが私の望みだ。私は燕青と共にいるよ」

 見下ろしていた男と同じ目線になるように、汚れている床に膝をつけた牡丹は、両腕を伸ばして燕青の頬に触れた。人肌よりも冷たくなっている体温なのに、額には脂汗が雫となって浮かんでいる。
 するりと頬を撫でた牡丹は、そのまま燕青の頭に手を回して自身の方へ引き寄せると、抵抗する事なく燕青は牡丹に体重を預けた。
 胸で頭を抱え、腕の中にいる燕青を牡丹は優しく抱き締め撫でた。

「牡丹……」 
「私は此処にいるよ」
「牡丹……冷たいなぁ……こんな感じだったのか……馬鹿だなぁ」
「だが、怖くはなかったよ。燕青のお陰で私の人生は満ち足りていたからね」
「あぁ……俺も、もう……怖くはねぇなァ」
「ゆっくり眠るといい。私の愛おしい剣」

 静かに眠った燕青から金色の粒子が飛び散る。身体の縁が粒子となり消えて行くその光景は神秘にも思えるし、今生の別れを連想させる。
 腕の中にいた燕青は完全に金色の粒子となり消えて行った。コロンと牡丹の腿に転がったそれは聖杯そのもので、牡丹はそれを拾い粒子となった燕青を眺める事しか出来なかった盧俊義という名の出来損ないに背中を向けて藤丸の元に歩き出した。
 これで漸く終わった。と藤丸が息を吐き出したその瞬間、牡丹の肩が撃ち抜かれ、手に持っていた聖杯が軽い金属音を立てて床に転がった。

「させない!」
「牡丹!」

 盧俊義の攻撃は一度では終わらず、牡丹の腹や足を射抜く。
 聖杯を取られる事を危惧した牡丹は聖杯を藤丸に向かって投げると、血で汚れた床に倒れた。
 倒れた牡丹の元にマシュを藤丸が駆け付け、燕青は牡丹に向かって高く飛び踵落しを喰らわせようとするも、盧俊義が燕青の名前を呼ぶ事で一瞬怯んだ。

「お前まで私を否定するのか……!」

 盧俊義の瞳は潤み、桃色の唇は震えている。

「くそ!」
「惑わされるなアサシン! それは私ではない!」
「これだったら、自分を倒す方が幾らかマシだよなぁ……」

 それもその筈。この盧俊義はかつての主と同じ身体をしているのだから。
 非常にやり難さを感じる燕青の耳殻が震えた。

「……愛してしまったのだろう。だから最期を共に出来なかった。死んで欲しくなかった。生きていて欲しかった――愛して欲しかった」

 床に倒れる牡丹を起こそうとする藤丸は、その言葉に動きを止めた。
 それは紛れもない愛の告白。
 牡丹の口から語られるのは、燕青に秘め続けていた思いの数々。愛の言葉。
 決して本人には伝えまいと決め、押し殺していた感情を、淡々と事実を述べるように牡丹は口にしていく。

「なのに貴様は今、愛した者の手を復讐の為に血で汚している。私はお前を私とは認めない!」

 そこに愛おしさはなく、あるのは怒りだけだった。
 燕青を従者として認めつつも、認めたくない自分がいた事は知っていた。感じていた。だが、燕青が主を求めるなら、その主に徹しようと決めたのだ。
 例え望んだ関係になれなくとも。傍にいてくれるだけでいい。何も知らない娘に沢山の感情を教えてくれた。それらを心の奥底、誰も触れられない所に隠しておこうと決めた。

「お前は誰だ!」

 藤丸に支えられている牡丹が叫んだ。
 従者が死んでも泣きもしない盧俊義。復讐の為に最愛の手を血で染める事を厭わない盧俊義。そんなものを牡丹と認めないなら、目の前にいる人間は誰になるというのだ。
 糾弾された盧俊義は、縋るように燕青を見つめた。
 その目は、憎くも燕青が主に求めていたものだった。

「燕青! お前なら私が正しいと言ってくれるだろう? 私たちを引き裂いたこの国が、民が憎いと思うだろう?」

 ――思うさ。あの男さえいなければ。と、何度も何度も呪った。

「私はこの国の為に戦い、命まで捧げたというのに、この国は私を認めようとしない! だから変えるのだ! 民を殺す国を。国を殺す民を」

 ――俺だったらそうするだろう。全てを否定し尽して、最後は忠誠を誓った主さえ否定し、何もかもを壊すだろう。だが、彼奴は違う。……牡丹は違う。

 一歩一歩と盧俊義が燕青に近寄り、最後には燕青の肩を掴んだ。捨てないで。と、否定しないで。と歪む表情にどうしようもない罪悪感を与えられる。

 ――あぁ、あの時殺してでもあんたを止めていれば、こんな事にはならなかったかも知れないのにな。

 憐みなのか、同情なのか、燕青にはわからない。
 ただ一つ言えたのは、これはどちらも主に向ける感情ではないものだ。と言う事だけだった。

「俺の知っている主は国も民も恨まない」
「燕青……?」
「主は目的を前に過去を振り返らない。未来しか見つめない」

 ――俺ですらその視界には入らない。

 いつの日だって、燕青の記憶にある牡丹は「この国を良くするのだ」と息巻いて笑う牡丹だけであって、そこの憎しみや哀しみ、恨みや殺意はない。進むべき未来だけがあった。
 眩しいばかりのその光景に、何度燕青は瞳を細めただろうか。何度その背中に手を伸ばした事だろうか。

「お前は俺が信じた牡丹ではない。あの日、俺の全てを捧げたのはお前じゃないんでねぇ」

 口の端を上げて笑う燕青の翡翠の瞳が潤んで見えたのは、光の所為なのだろうか。
 否、牡丹の視界が歪んでいるからそう見えたのかもしれない。

「マスター指示を!」
「――っ! 聖杯を持って帰ろう!」

 藤丸は牡丹を支えている手とは反対側の手に抱えている聖杯をきつく握り絞め、帰還するように言うも、盧俊義がそんな事を許すわけもなく、燕青の手を離して弓を構える。

「お前が私を裏切ると言うのか! 燕青!」

 それを見た牡丹が藤丸から離れ、同じように弓を構えるも、燕青が動き出す方がずっと速かった。

「俺は進み続けるだけだ。例え光がない暗闇の中でも、侠客らしくな――闇の侠客ここに参上。十面埋伏・無影の如く!」

 地面に影すら残さない打撃方は、主の為に編み出された技。その技の前に牡丹は崩れ落ち、力ない手を燕青に向かって必死に伸ばした。

「私はもう要らないのか? 忠誠は消えてしまったのか……? 本心からマスターを信頼しているのか?」

 亡者の妄言と捨ておくには、盧俊義の言葉は燕青の根っこを突いていた。燕青は考えた事がないわけじゃない。
 藤丸に逃げているのではないか、と。優しさに付け込んでいるのではないか、と。
 主でもない分際で何を言うのだと、牡丹が口を開くも、藤丸の声が辺りに響いた。

「例え、燕青が私の事を本当の意味で信頼していなくても、何も問題はない! 誰に何を言われようと、燕青が私のサーヴァントである事に変わりはない! 私が燕青を信頼しているから!」

 そこの台詞を聞いた牡丹は瞼を閉じた。その拍子に頬に雫が伝い、音を立てないまま床に落ちる。
 燕青が驚いた後、嬉しそうに笑った事に気が付かないまま、何度も頬に雫を伝わせた。

 ――私は、最後まで主はなれなかった。欲をかいてしまった。この国の為に犠牲になって欲しくないと思ってしまった。

「……そうか」

 そう言って笑みを浮かべた盧俊義は、金色の粒子となって消えて行った。
 多くの犠牲を生み出してしまったものの、特異点の修復は完了し、藤丸たちは聖杯を手にカルデアに帰還する事となった。
 帰還後、ダ・ヴィンチとロマニの検査を終えた藤丸は、件の二人を一室に呼び出した。
 勿論、マスターである藤丸の呼び出しに応じない二人ではない為、なんで呼び出されたのかわからないまま、部屋の前で鉢合わせした二人は、気まずい雰囲気のまま、藤丸が待っている室内に足を踏み入れた。

「来てくれてありがとう。二人に言いたい事があるの」

 何だろう? と首を傾げる燕青と牡丹を前に、藤丸は大きく息を吸い込んだ。

「二人は落ち着いて話し合う必要があると思うの」
「……今更かい?」
「今更でもなんでも! お互い大事に思っているんでしょう? 私知っているからね。燕青が髪を伸ばしている理由とか、牡丹が男装を受け入れた理由とか! 此処で洗いざらい話してもいいけど?」

 どうする? とでも言いたげな藤丸を前に二人はあからさまに狼狽えた。それは自分だけが抱えておきたい秘密だからだ。

「けど……何を話したらいいのやら……」
「これ以上ごねるなら、私にだって考えがあるからね。令呪を持って――」
「わかりました!」
「話し合う! 話し合うから!」

 令呪を使ってでも話し合いをさせようとする藤丸を前に二人が折れた。きちんと話し合わないとこの部屋から出さない。と言われてしまえば、本格的に話し合わないといけない状況が出来るわけで、藤丸が部屋を出て行った後、重たい沈黙が室内を支配していた。
 一体今更何を……。と思っていても始まらないか。と息を吐いたのは牡丹だった。

「生前についてなにか誤解があるなら、マスターの好意に甘えて話そうよ」

 隣に立つ燕青を横目で見る牡丹に対し、燕青は何も言わないまま、備え付けの椅子に腰を下ろした。
 取り敢えず話し合う気はあるのだな。と認識した牡丹も燕青の正面になるように、テーブルを挟んだ椅子に腰をかけた。
 この部屋にあるのは、ポットと備え付けの茶器。それと丸いテーブルに椅子が二脚。観賞植物が一つと、誰が書いたのかわからない絵画が壁に飾られている。
 無機質と言えばそれだけだが、話し合い≠するだけならこの設備で充分である。

「先ずは私からだね。お前は……アサシンが、私が最後君を裏切ったと思っている事を私は知っている。だけどね、私は……君を好いていたから連れて行きたくなかったのだよ」

 それで恨まれても構わないと思っている。と視線を下に向けて言う牡丹に対し燕青は、俯いたまま口を開いた。

「例えそうだとしても、最期まで共に在りたかった。あんたの事を、主としても、守りたかったんだ」
「ごめん。アサシンを連れては行かないと今でも思っている」

 忠臣の忠誠を前に牡丹は自分の意見を変えようとはしなかった。それ程までに意思が固いのだ。

「アサシンが私の事を嫌っているのは知っているし、好きになって欲しいとは思わない。ただ、私が君の事を好いている事だけは覚えていて欲しい」
「違うそうじゃない! 結局あんたは俺を信じ切れなかった! だからあんな裏切りにあってその誇りを踏みにじられ殺されたんだ! 俺と二人なら何処までも行く事が出来た筈だ! そうだろう?! 」

俯いていた顔を上げ、声を荒げる燕青とは相反するように、牡丹は酷く冷静な態度を保ったままだった。

「例えば二人で逃げたとして、その先に何が待っている。皇帝に進言したものの信じられなかった私は、謀反者だとして国を追われる。他国との情勢が思わしくはないあの時代、自ら国を荒げて何とする」

 この国を変えられるのは皇帝だけじゃない。一民だって変えられる筈だ。と信じたのは、滅びゆく国を憂いた時からだった。自警団として国軍に立ち向かっては多くの血を流してきた。それは敵の血でもあったし仲間の血でもあった。
 商人として活躍するようになってから、生活に困る国民を多く見て来た。その度にこの国を変えるという意思を強くしていった。
 そんな牡丹が国を捨てる筈がない。そんな事燕青にもわかっていた事だった。
 わかっていても思考は止められない。燕青にとって牡丹が全てだったからだ。生きていて欲しいと願う気持ちは同じだったのだ。
 どちらの思いが強いとか、そういう話ではない。
 燕青はずっと前に知っていた。

「そうだよな。あんたはそういう人間だったよな」

 こうと決めたら絶対に曲げない性格だから、ただの商人が国を変える事も出来たのだ。
 呆れと諦めを混ぜたような笑い方をする燕青を怪訝に見る牡丹は、何がおかしい。と首を傾げるも、笑いっ放しの燕青は口元を手で隠したまま何も言わない。
 牡丹も知っていた。こうなった燕青は何も言ってくれない事を。

「ねぇアサシン。私たちは此処からまた関係を変えて行く事が出来るよ」

 何も英霊になる直前の関係のままでいないといけないなんて決まり事はない。仮初の身体とはいえ、己の意思がある限り関係を変えて行く事が出来る筈だ。

「……そうかも、しんねぇなぁ」

 力を抜いて笑った燕青の顔は、浪子と言われるだけあって整っている。
 これで仲直りとはいかない事はわかっている。だからこそ話し合いの場を藤丸は設けたのだ。

「私は不器用な人間だから、アサシンにとっては嬉しくない選択をしてしまう」
「あぁ」
「それでも、また、新しい関係を作っていけたら……それはまるで夢のようにも思える。あの頃に戻りたいわけじゃないのだけど……関係を変えていけると言った手前、こんな事を言うのもどうかと思うが、私は主従関係以外わからない」

 どうしたらいいのかもわからない。間違った選択をしたと思っていない所為なのか、友人と呼べるような人間がいなかったからか、どちらも合っているようで、的外れのような気もしている。

「私は、何も知らない人間なのだね」

 寂しげにへらりと力ない笑みを浮かべた牡丹は、すぐさま俯いた。何も知らない恥しさと、中身がないような人間に思えて仕方がなかったからだ。
 そんな牡丹の耳を呟くような酷く小さい燕青の声が震わせた。

「俺は……あんたの最期を看取る事は出来なかった。あんたの心情を知らないまま、恨み続けた……そんな俺の事をあんたは――」

 情けないと、酷い男だと思うか?

 ――知らなかった。牡丹が俺を思っていてくれていたなんて。一方的な感情だとばかり思っていた。

 己が信じた主の真意を慮る事なく、怒りに任せて出て行き、挙句の果てに主の最期すら看取れなかった。従者の風上にもおけない俺を、あんたは最期まで思ってくれていたんだろう。
 牡丹を見る事が出来なくなった燕青は、目の前にいる女同様に俯き、テーブルに乗っている己の握り拳を見て、瞼を閉じた。
 思い出すのは眩しいばかりの光。それは牡丹の他ならない。

「私は……何も思わない。アサシンに対してそんな感情は抱かない。どんな時でもだ」

 あの日、燕青が看取りに来てくれたと思っていたが、そうじゃなかった事が判明し、今思う事は、燕青が無事でよかった。その言葉に尽きる。
 恨みなどしない。情けないとも、ましてや怒りなどしない。
 そんな感情、果たしたい事の前に不要な感情だ。

「そんな心配はするな。アサシンは私の立派な従者だったよ」
「……!」

 心の底からの賛辞に翡翠の目が大きく開いた。咄嗟に顔をあげると、目を細めて満面の笑みを浮かべている牡丹がそこにいた。
 たった一言で赦された気さえする。己の主を恨み憎み嘲り誹り、いっそ従者にならなければよかったとさえ後悔した長い日々が消えていく。
 何か言おうと燕青は口を開くも、喉が感極まって震えず声が出ない。目尻に熱い雫を滲ませた燕青は再び顔を俯かせた。
 テーブルの上で握っている拳は小刻みに震えていて、牡丹はふと思い出したように「そう言えば」と口を開いた。
「マスターの夢、君も見たの?」
「……懐かしいもんだったなぁ」
「あの時も思ったがアサシンは、どうしてそう予想を超えてくるの?」
 マスターである藤丸が夢を見ていたあの時間、二人もまた同じ夢を見ていた。懐かしい夢であると同時に胸を痛み付ける記憶でもあった。いつまでもこの夢を見ていたいと願うと同時に、この時間に戻る事は出来ないのだと思い知らされる。
 あのひと時はもう戻らなくても、新しい関係を此処から作って行く事は出来る。

「今でも牡丹の花は好きなのかい?」
「好きだよ」

 あの時と何も変わらない。自分と同じ名前の花。
 牡丹の花が好きだと言った時、あの時燕青は――。

「だったらいつでも見れるようにしてやるよぉ。――だから今度こそ手放すな、この俺を。呼んでくれ、俺の名を」

 気が付けば燕青が隣に立っていた。身体ごと燕青の方に向けると翡翠の双眸と結び合う。
 明るいトーンから一転し、真剣な表情を見せる燕青に牡丹の胸の奥が締め付けられる。
 新しい関係を作っていけると言っても、二人の間には深い溝がある。お互いが、お互いの行動を理解出来ても納得はしていない。
 いくら理想の主を見つけ、傷を癒せたとしても燕青が求めていたのは、牡丹との関係他ならない。二人を繋ぐものであれば何でもいい。約束でも、愛情でも。自分が一番牡丹の近くにいて、理解していたい。守ってやりたい。支えてやりたい。
 従者として、一人の人間としても。
 そう思わせたのは、後にも先にも目の前の女だけだ。
 そんな簡単な事誰に言われなくてもわかっている。
 だから身体に刻み込んだのだ。強くあれと。この大輪の牡丹を守れるくらいに強くなれと。

 ――俺の心臓の上に咲く牡丹。

 きっとこの意味に牡丹だって気が付いている。その意味はこれからも変わらない。
 だからどうか、受け入れてくれ。と半ば願うような気持で牡丹を見つめる燕青は一文字に唇を結んでいる。
 たっぷり三拍の間をおいて牡丹は立ち上がった。一度向き合うような形になったが、すぐさま牡丹が床に膝をつけ、拱手する事で二人の関係が動き出した。
 左手を包む右手の指先が力の込め過ぎで白くなっている。

「誓うよ。この世が私たちを別つその時まで、私は君の手を離さない。アサシン――燕青からの信頼を必ず返す事を」

 頭を一度下げた牡丹は、手を離してガントレットに包まれた燕青の右手を取り、その手を労わる手付きで撫でた。直接肌に感じないまでも、撫でられている感覚はガントレット越しに感じる。

「君の手は、いつも大きいね」

 私の手なんかすっぽり包めてしまいそうだ。と何処か嬉しそうに撫でる牡丹の手は確かに小さい。
 ガントレット越しでは少しも体温を感じないが、牡丹はこの装備の下にある燕青の手がどれだけ温かいかを知っている。肌が覚えている。
 至らない牡丹を守ってきた手であり、慰めを与えてくれる優しい手でもあり、牡丹の為に沢山の人を殺めてきた手。触れるだけで、愛おしいと身体の内側から熱を上げている。
 そう思う度に、牡丹は連れて行かなくてよかった。と思っているのだから平行線のまま進むしかない。
 燕青の右手を包む白魚の両手を、燕青の大きな手が包んだ。その大きな手は牡丹の手首を掴んで立ち上がらせると、逞しい両腕の中に牡丹を収めた。
 小さい。あまりにも小さくて細い、頼りない身体。

「燕青……?」
「この次は違うのか?」

 震えていた。声だけではなく、牡丹を抱き締めるその腕も震えていた。
 藤丸というマスターでは癒せない深い傷がじくりと痛んだのだろう。

「私たちは英霊だ。仮初の命だ。座の記録は残っても、私の記憶には残らない。わかっているでしょう?」

 燕青は牡丹を抱き締める腕を更に強くした。がっちりと抱き締められている牡丹の身体が悲鳴を上げるも、それをおくびにも出さず、燕青の背中に手を回し何度も撫でた。
 大きな背中だ。自分の身体とはまるで違う燕青の姿に、何度挫折と安堵を覚えた事だろうか。

「今だけ……だよなぁ」

 何処か気落ちた燕青の声を諭すように、牡丹は何度も大きな背中を撫でる。

「今までと確実に違う。私たちはこうして触れ合えるという未来を歩めた。だからこれから先の事は誰にもわからないさ」

 予想していない未来だった。燕青とカルデアで出会えただけでも奇跡だというのに、もう一度この腕の中で息をする事が出来るなんて。
 泣きそうだ。泣いてしまいたい。この胸の中で声を上げて泣いて強く抱き締めてしまいたい。拒絶されるだろうか。ううん、そんな事をするような男じゃない。

「……燕青。ずっと会いたかった」

 あの日。決別した日から時が止まっているようで。魔術師に召喚され色んな時代に顔を覗かせても、自分の刻がまるで動かない。
 それがどうしてか、燕青にもう一度会った瞬間から動き出したのだ。動いてしまったのだ。

「あぁ……俺も会いたかった。――牡丹」

 きつくお互いを抱き締め合い、涙した。頬に伝う涙の数なんて数えられない程、二人は抱き締め合い涙した。
 これから先、幾度となく召喚され、その中で燕青とまた巡り会う事もあるのだろう。その度に苦悩し、藻掻き、打ちひしがれ、糾弾し、落胆し、絶望し、涙を流すのだろう。然しそれでも、胸を焦がし、足掻き、ぶつかりあい、探求し、理解し合い、手を取り、変えていける未来に笑みを零す。
 これから先どんな未来が待っていようと、二人なら大丈夫だと力強く言える。

「さぁ、この部屋を出よう」

 藤丸に押し込められた部屋の扉を開ければ、カルデアの広い廊下に繋がる。牡丹と燕青は二人同時に足を前に出し、廊下に一歩足を踏み入れた。
 もう振り返り一人ではない事を確認する事はない。もう先を歩む背中を追い続ける事はない。
 これから先は二人並んで歩いて行けるのだから。





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