名前はまだない
誰かに名前を呼ばれている気がして、深く沈んでいた意識が浮上した。真っ暗だったはずの瞼の裏が意識が浮上するにつれて瞼の裏が明るいように感じる。
……あれ?今何刻なんだろう。
普段目が覚める時に感じない日差しの明るさに、違和感を覚えつつもすぐ傍から聞こえてくる声に起き出した意識を傾けた。
「ちゃ……名前……」
「んん……」
あぁ、沖田さんの声だ。沖田さんが私を呼んでいるんだ……。珍しい。こんな朝早くにどうしたのだろう、と靄のかかった頭の中に疑問が浮かぶが答えが出ない。それどころか沖田さんから、起きて。と言う声すら聞こえてくる。
「名前ちゃん寝坊だよ。早く起きなよ」
「……え?!」
体を温めていた布団を勢いよく剥がし、上半身を起こすと強い日差しが与えられた部屋に差し込んでいた。
……どうやら私は寝坊をしたらしい。と頭で理解すると、温まっていた筈の身体は一気に冷え始め背中に冷たい汗が伝う。新選組の皆さんの好意で千鶴ちゃんと一緒に拾われたこの身でありながら、寝坊し挙句に幹部隊士でる沖田さんに起こしてもらうなんて何たる失態……。どんな罰が下るのか、と震えながら首を回し傍に座る沖田さんを見ると、彼は新しい玩具を見つけたと幼子のような笑顔を浮かべていた。
あぁ……。これは、嫌な人にこの失態を見つけられてしまった。と内心溜息を吐きつつ、何で同室である千鶴ちゃんは起こしてくれなかったのだろう。と疑問が頭を過った。
「僕千鶴ちゃんに怒られちゃったよ」
「……と、言いますと?」
「沖田さんは名前ちゃんを扱き使い過ぎです!……だってさ」
つまり、千鶴ちゃんは私の為を思ってそっと寝かせてくれたのか。と納得し情けなさに眉尻を下げた。確かにここに拾われた時千鶴ちゃんは土方さんの小姓と、私は沖田さんの小姓として身を置かせて頂くことになり、基本的に何も言ってこない土方さんに対し、沖田さんは何かと私を呼びつける事が多かった。そのことを千鶴ちゃんは心配してくれたんだろう。
なんて優しい子なんだ……。と感動に浸っていると、沖田さんの冷たい声色が私の耳に入って来た。
「起きたならさっさと身支度してくれない?僕だって暇じゃないんだけど」
「あ、すみません……!」
「ほら、さっさと動く。それともまだ脳みそ眠ってるの」
私はもう一度沖田さんに向かって謝り、乱れた布団を畳んで押し入れに仕舞うと既に部屋の中から沖田さんの姿はなく、私は手早く袴姿に身支度を整えた。襟元を正し成るべく男として見られるように胸を張り、失態という名の後悔の念を深呼吸と共に吐き出し、障子を開けて廊下に出ると、柱に背を預け腕を組んで立っている沖田さんがそこにいた。
「行くよ」
「はいっ!」
朝餉を頂きたかったが、こんな刻に起きてしまったのだからもう残飯すら残っていないだろう。と永倉さんと平助君と斎藤さんの顔が頭の中に浮かべ肩を落とした。夕餉までお腹が持てばいいのだが、確実に途中で腹の虫が鳴ってしまうだろう。それを私の前を歩く沖田さんに聞かれでもしたら、揶揄われること間違いない。それだけは何としてでも避けたい。握り拳を作り小さく決意をしていると、食欲をそそる匂いが鼻孔を擽る。それはお味噌の匂いで私は小首を傾げた。
「今日何かあるんですか?」
「いつも通りだけど。あぁ、でも名前ちゃんが寝坊するっていう事件はあったかな」
「……意地悪言わないでください。次からは気を付けます」
人を揶揄う笑みを浮かべて私を見る沖田さんの視線から逃げるように私は視線を逸らした。
徐々に遠くに感じていたお味噌の匂いが近付いて来て、それ以外にも焼き魚の匂いが混ざる様になった。やはり今日は何かがあるらしい。と結論付け何か手伝えることはないかと、沖田さんに話かけると彼は立ち止まって組んでいた腕を解き、私よりもずっと大きな手で子供の頭を撫でるように私の頭を撫でた。
「だから今日は何もないって言ってるでしょ。少しは落ち着きなよ」
「ですが、私は今日寝坊という失態をしてしまったので、その分働かないと気がすみません」
「……僕が使い過ぎってよりは、君が働き過ぎなんだよ」
「はい?」
沖田さんの言葉に首を傾げると、沖田さんは口元を緩く上げたままいつも皆さんと一緒に食事を頂く広間の障子に手をかけた。そこには二つのお膳が向かい合って置かれており、その上にはまだ湯気の立つお椀と焼き魚、それに白米が置かれていた。
……これは一体どういう状況なのだろうか。
障子を開けた沖田さんは悠々と広間の中に入って行き、お膳の前に腰を落とした。そして広間の前に立っている私を見て、早くしなよ。とお膳の前に座る事を促し、私は促されるまま空いているお膳の前に正座した。こうして座ってみると普段は狭く感じるこの広間も、沖田さんと二人きりだと広く感じる。
「早く食べなよ。君にはこの後頼みたい事が待っているんだから」
「沖田さん……もしかしてこれ用意してくれてたんですか?」
朝餉を食べる刻は決まっている。その刻を過ぎてしまっている今この部屋にお膳があるのはおかしなことで、正直首を傾げざるを得ない。今日は何度も頭の中に疑問が浮かんでいる気がする。沖田さんからの頼みたい仕事、というのも気になるし、なんで朝餉がこの刻にこの場所にあるのかもわからない。
答えを求めて沖田さんを黙って見つめると、彼は目を細めて笑いゆっくりと口を開いた。
「自分で考えたら?」
「じゃあ、私の目が覚めるまでご飯を食べないで待ってくれていたって事にしてもいいですか?」
普段揶揄われている分、揶揄い半分でそう聞くと彼は笑みを深め、そうかもね。と言ってお箸を手に取り白米を口に運んだ。
揶揄ったつもりなのにそう切り返してくるなんて思わなくて、思わず口を噤んだ。何も言えないまま俯きおずおずとご飯に手を付け、全てのご飯を平らげた頃にはすっかり悔しさもなくなり、自然と笑顔を浮かべていた。
「ご馳走様でした」
「ん、君この後島原に行ってくれない?」
話に聞くところ、千鶴ちゃんのお友達であるお千ちゃんがまた、島原で新選組を狙う集団の密会を聞いたらしく、その真偽を確かめる為に私が芸者に化けて密会の内容を聞いて来い。との事だったのだが、正直私よりも一度経験している千鶴ちゃんがやった方が、得策なのではないかと思うのだが、千鶴ちゃんは千鶴ちゃんで違う仕事を与えられているらしく、それは難しいとの事だった。
「わかりました」
「じゃあ今から島原に行こうか。お千ちゃんが待ってるよ」
「はい」
女である私は男の園である島原には行ったことがあまりなく、勝手に煌びやかな世界なんだと想像していたが昼間の島原は私の想像とは違い、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。沖田さんの後ろを逸れないように歩くと、彼はとある茶屋の前で止まって遠慮なしに建物の中に入って行く。私もそれに続き建物の中に入ると何か香を焚いているのか、仄かに甘い匂いが鼻孔を通り抜けていった。
「あらいらっしゃい」
「今回はこの子をお願い」
「任せてくださいな」
お千ちゃんにされるがまま芸者に見えるような着物に着替え、私の着替えを待っていた沖田さんに見せると、彼はいつもと変わらない笑顔を浮かべた。
「馬子にも衣装だね」
「はいはい。千鶴ちゃんの方が可愛いですよ」
「そんな事言ってないじゃない」
それって……どういう意味なのだろうか。少しでも可愛いと思ってくれたと思ってもいいのだろうか。と沖田さんを見つめると彼はふらりと立ち上がって私の頭を撫でた。綺麗に整えられた髪形を崩さないように配慮された撫で方に少しだけ緊張が解れ薄く笑みが零れる。
「何かあったらすぐに呼ぶんだよ。山崎くんも控えているし、左之さんに新八さんと平助くんも今日此処に遊びに来るって言ってたから」
「……はい」
「勿論僕の名前を叫んでくれたって構わないけどね」
新選組に仇なす組織の密会に潜入するだけだから、沖田さんの名前を叫ぶようなことにはならない。そう言って沖田さんの言葉を否定し、意気込んで密会の会場に足を踏み入れた。男たちはお酒が進むごとに口が滑り、大きな声で新選組に討入する日付を検討し始めた。
……これなら私が此処に来た意味がないんじゃ。と呆れつつと空いたお猪口にお酒を注ぎ、笑顔を浮かべて浪士の話を聞いていると、お酒で頬が赤くなった一人の浪士が私の手首を掴み、お酒臭い息を吐きながら自分たちの行いが如何に正しくて、新選組が如何に悪かをくどくどと説き始めた。
私は新選組に拾われた身で、彼らが普段からどんな思いでこの京の治安を守っているのかを知っているから、身勝手な彼らの言い分に何時までも黙って頷いていられなくて、思わず口を開いてしまった。
それがいけなかったのだろう。お酒に酔った浪士は頬を上気させながら大声で私を怒鳴りつけ、私の手首を掴んでいる手に力を込めた。周りにいる浪士も私の発言が気に障ったようで、酔ったまま抜刀し始める浪士が視界の端に映った。
藻掻いて掴まれている手を振り払おうとするも、浪士の力は強く仕舞いには空いているもう片方の手で首を掴まれた。
このままだと殺される……!
「だから僕の名前を叫べって言ったじゃない」
固く瞼を瞑り、来る痛みや息苦しさに怯えていると、耳に馴染んだ沖田さんの声が聞こえた。咄嗟に目を開けて声をした方向を見ると抜刀した状態の沖田さんが笑顔を浮かべながら立っていて、私を拘束している浪士は掴んでいた手を離して腰に差している刀に手をかけた。
「お前……沖田総司だな」
「そうだけど、君たちは誰?」
「お前の命!此処で頂戴する!!」
「前口上はいいからかかってきなよ」
それからというもの刀と刀がぶつかりあう甲高い音や、斬られた浪士の呻き声に血飛沫が部屋の中に飛び散る。目の前に繰り広げられているその光景に、驚き固まっていると沖田さんが私の名前を呼んだ。
「そっちは危ないから僕の後ろに隠れていて」
「はいっ!」
「……っさせるか!」
直ぐに立ち上がって沖田さんの所に行こうとしたが、側にいた浪士に髪の毛を掴まれた。
どうしよう、と逡巡する間もなく髪が引っ張られる感覚がなくなり、代わりに浪士の呻き声が聞こえた。私の視界に影が差し見慣れた背中が目の前に現れた。
「全く君は鈍臭いんだから」
「す、すみません……」
壁と沖田さんに挟まれながらも謝ると、彼は楽し気に笑って刀を構えた。
さっきまで恐怖で体が固まっていたと言うのに、沖田さんに守られていると思うだけで安心していられる。
「なんだかこれじゃあお姫様を守っているみたいだね」
「そんな事より目の前の浪士に集中してくださいっ!」
「こんなの有象無象だよ」
それに山崎くんも来るしね。と呟いた沖田さんの宣言通り勢いよく障子が開けられ、山崎さんと斎藤さんが突入してきた。浪士は突然増えた新選組隊士に動揺している間に、沖田さんは私の手を掴みするりと部屋を出て走り出した。
そのまま適当な部屋に入り、誰も追いかけて来る気配がない事を確認すると私は漸く息を吐いた。
「君馬鹿なの?あいつ等の言葉なんて適当に流しておけばよかったじゃない」
「そうかもしれないですけど、気が付いた時にはもう……」
何も知らないくせに。新選組の皆さんがどんな思いで京の平和を守っているのか。何も知らないくせに勝手な想像で新選組を悪と決めつける彼らが許せなかった。だから気が付いた時にはあの浪士に向かって反論していた。
それがいけないことだとわかってはいるけれど。許せないものは許せなかったのだ。
「あれ?簪落としちゃったみたいだね」
「あ……」
「折角可愛かったのに勿体ないね」
……今、なんて言ったの?私の聞き間違い?
彼の言葉の意味を確かめようとして、緑翡翠の彼の瞳を見つめると沖田さんは口の端を上げて揶揄うように笑った。
「可愛い女の子を守るなんて僕のガラじゃないけど、名前ちゃんのその恰好が見られたなら役得かな」
「沖田さん、私の事揶揄ってます?」
「どうかな……今度君に似合う簪を買ってあげるよ」
そう言って沖田さんは私の髪を一房掬い、そこに唇を落とした。
直接自分の肌に口づけされたわけじゃないのに、頬が熱を持ち心臓が早鐘の様に鼓動を打ち鳴らす。今までに感じたことのない感覚に落ち着かなくて、それを沖田さんに悟られたくなくて俯くと、彼はそんな私を見通したかのように薄く笑った。
「きっと可愛いよ」
「沖田さんの意地悪」
この感情に名前を付けるにはまだ早い。
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