嫋やかに穏やか



 *アニメ18話時点での情報です。
  原作は未修理なので、原作と設定がズレていると思いますが、お許しください。

 私と棘くんは所謂幼馴染と呼ばれるもので、小さい時から一緒に過ごして来た。と言っても、棘くんはお家の事情があって、放課後一緒に遊ぶことは出来なかったけど、小学校と家を往復するだけの狭い私の世界では、学校で会えるだけで十分だった。
 朝、一緒に登校して、同じ授業を受ける。お昼休みは図書室に行って、教室の隅で同じ本を読む。放課後は少しだけお話して、「また明日」と手を振って別れるような毎日。

 中学校に上がっても私たちの関係は変わらなかった。
 仲のいい幼馴染のままだった。
 私は幼い時から棘くんのことが好きだった。小学生の頃からずっと。
 愛嬌があって、悪ノリをするところもあるが、他人を思いやれる優しさがある。穏やかな彼が好きだった。
 声を上げて笑う姿も、授業中眠たくて船を漕いでしまう姿も好き。
 私の名前を呼んでくれる優しい声も、私の頭を撫でてくれる暖かい手も、車道側を歩いてくれる優しさも好きだ。
 何でかはわからないけど、語彙力がおにぎりの具しかないのに、私と話す時だけちゃんと喋ってくれることに、並々ならぬ特別感と優越感を感じていた。

 いつものように昼休み、図書室の隅で同じ本を見ている時、私がふとした疑問を棘くんにぶつけた。

「他の男子みたいに遊ばなくてもいいの? 私と一緒にいてつまらなくない?」
「なんで?」
「なんでって……」

 疑問を疑問で返されると思っていなかった私は、返答に詰まった。すると、喚起の為に半分開いている窓の外から、男子の大きな笑い声が聞こえた。
 私は窓の下で水を掛け合いしている男子を一瞥して、再び棘くんを見つめた。

「男子同士の方が楽しい、かなって」
「名前は女子といた方が楽しい?」
「えっと……」

 そんなことはない。と即答してしまいそうになる唇を慌てて閉じた。そんなことを言えば、胸の奥にまだ秘めている恋心を暴露してしまうようなものだから。
 でも、棘くんと一緒にいるのは楽しくないって思われたくはない。
 なんて返事をしたらいいのだろうか。と眉間に皺が寄っていることにも気が付かないまま、開いている小説の文字を見つめた刹那。

「――名前と一緒にいる方が楽しいよ」
「えっ!」
「名前は違う? 一緒にいて楽しくない?」

 小首を傾げる棘くんのスミレ色の瞳が私を射抜く。あまりにも真っ直ぐに私を射抜くものだから、何処か照れくさくて、でも棘くんの言葉が嬉しくて、込みあがってくる高揚と、ほんの少しの照れを織り交ぜた私の頬は、鏡で確認しなくてもわかる程に熱を持っている。

「楽しい! 棘くんと一緒にいる時間が一番楽しいよ」
「うん。嬉しい」

 白い肌の頬を少しだけ赤く染め、スミレの目を伏せた棘くん。長い睫毛が影を作っている。初めて会った時からマスクで口元を隠しているから、今笑っているのかわからないが、雰囲気が柔らかい。カーテンの隙間から漏れる光が、白銀の髪を照らし、窓の隙間から入って来る風が毛先を揺らしている。

 なんて絵になる人なんだろう。

 私はまた、何度目になるかわからない好きを彼に抱いた。

 中学生になると同性で遊ぶことが増え、それが“当たり前”になる。異性同士が仲良くしていると、周囲は“そういう関係”なのか。と半ば揶揄うように囃し立ててくる。
 自分と違う。周りと違う。それだけの理由で他人を傷つけるようになってしまうのだ。

 棘くんは学校内でもモテる。それもそうだろう。マスクで口元を隠し語彙力を絞っているとはいえ、あの整った容姿にノリのいい性格だ。自然と周りに人が寄ってくる。それでも棘くんは私の隣にいてくれた。
 朝は一緒に登校するし、昼休みになると約束もしていないのに図書室に足を運んで、図書室の隅で同じ本を読む。
 それが“当たり前”であるかのように。

 でも、それは私たちの当たり前であって、周りの人間の当たり前ではなかったのだ。

「ねぇ。棘くんと付き合ってるの?」
「え?」

 ――放課後、慌ただしく棘くんが下校したあとの教室。
 違うクラスの、話した事もないような生徒から棘くんとの関係について聞かれた。話した事はないけれど見た事はある。クラスでも可愛いと評判の女の子だった。
 質問の意図がわからなくて、首を傾げると、その子は大きな両目を細め、私を見定めるような目つきで上から下まで見ると、綺麗な笑顔を浮かべた。

「そんなわけないよね。ごめんね! 私の勘違いだったみたい」
「あの――」
「だって貴方と棘くんじゃ釣り合わないもん」

 私はその時初めて自分たちの関係性を客観視した。
 もっと言うと、私と棘くんだけの世界に初めて他人が入った事で、気が付いたのだ。二人だけだった世界が酷く不格好だったことに。
 一度気が付けば、穏やかで平穏だった世界にヒビが入り、崩れていく。

 ――あぁ、夢が醒めていく。

「棘くん優しいから、きっと言えなかったのよ。貴方がウザいって」

 そうなのかもしれない。

「だから貴方が離れてあげて。棘くんだって一杯色んな友達と遊びたいと思ってるもの」

 あの時の言葉は私を傷つけない為の優しい嘘だったんだ。
 私がもっと察しのいい子だったら、すぐに気が付いてあげられたのに、人の機微に疎いあまり、大好きな人の本心にも気が付いてあげられなかったんだ。
 ごめん。ごめんね。棘くん。

 優しい人。私には勿体ない人。
 棘くんには、棘くんと同じくらい優しい人がそばにいるべきだ。私のように優しさに付け込むような、醜い人間はきっと棘くんの優しさをダメにしてしまう。
 ダメにしてしまう前に私が離れないと。

「ありがとう……お陰で気が付けたよ」

 頭を下げてお礼をすると、可愛いと評判の彼女は一瞬顔を顰めて綺麗な笑みを浮かべた。目を細めて笑うその姿は、皆から可愛いと呼ばれるだけあって、同性の私が見惚れるくらいに綺麗だった。

「貴方も辛いと思うけど、棘くんの為を思って頑張ってね」
「うん」

 その日の夜、メッセージアプリで棘くんに“明日から別々で学校に行きたい”と伝えた。基本的に棘くんは返信が遅い。それは家の事情があるからで、連絡先を交換した時に先に謝られた。だから私は負担にならないように、棘くんに何か言いたい事があれば、直接話すようにしている。
 だから最後にメッセージアプリでやり取りしたのも、四か月前だった。

 今日中には返事は来ないだろうから、寝てしまおう。
 長方形の端末の画面を暗くさせ、私は眠りに就いた。真っ暗な部屋の中、ブブッ、と短い振動が数回鳴っていた事にも気が付かないまま、朝を迎えた。
 そんな日に限って寝坊した私は、棘くんからの返信を確認する事もなく慌てて家を出た。
 流石に棘くんはいつもの場所で待ってはいないだろう。なんて何処か寂しい気持ちを抱えながらも、私は全速力で走る。
 家から出て三つ目の交差点。そこが私たちの待ち合わせ場所。息を切らしながら走っていると、見慣れた制服を纏っている見慣れた髪の人が一人。

 あれ……もしかして、棘……くん?

 なんで棘くんがこんな時間にいるんだろう。もしかして棘くんも遅刻? いやいや、棘くんはしっかりしているから遅刻なんてマネはしない。
 だとしたら、私を待っていてくれているの? 遅れるって連絡を入れなかったから、きっと心配して待っていてくれたんだ。

 罪悪感で胸が一杯になった私は、僅かに走るスピードを落として、三つ目の交差点に向かった。
 近付けば近づく程、棘くんの姿がしっかりと見えてくる。
 制服のポケットに両手をつっこんで空を見ている棘くんの横顔が綺麗で、私は思わず走る足を止めてしまった。
 棘くんの前を駆け抜ける方が良かったのかもしれないが、醜い私の心は、どうしようもなく棘くんの側にいたいのだと、脳に、神経に、全身に訴えかけてくる。

「――棘くん」

 思わず声を掛けてしまった。
 無意識とは恐ろしいもので、私は棘くんに声を掛けてから、棘くんに話しかけたことに気が付いた。救いようのない馬鹿である。
 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、此処まで馬鹿だったとは。と己を恥じていると、スミレの瞳が私を見つめた。

 ――あ。

 静電気が身体の中を一瞬走った。そんな感覚がした。
 棘くんの瞳があまりにも綺麗だったのだ。

「なんで?」
「はい?」

 大雑把で、範囲の大きい問いかけ。棘くんが何を聞きたいのかもわからない私は、聞き返すしかなくて、首を傾げると、棘くんが眉間に皺を寄せて私の手首を掴んだ。
 私よりもいつの間にか大きくなってしまった彼の手は、私の手首をすっぽりと包んでしまい、力加減を知らないのか、そんなことをする余裕がないのか、痛いくらいに握って離そうとしない。

「棘くん……っ」

 私に背中を向けた棘くんが手首を掴んだまま走り出す。
 元々運動神経が悪い私と、運動神経がいい棘くん。勿論私が棘くんについて行けるわけもなくて、何度か足を縺れさせるも、棘くんは手首を離そうともしないし、走る足を止めてもくれなった。

 始業のチャイムが鳴った校内。玄関やホールには誰もいなくて、学校の中に生徒や先生がいる筈なのに、人の気配を感じられない。
 いつも見ている景色なのに、何処か違うように感じるなんて感傷に浸っていられるのも束の間で、上履きに履き替えた私は、また棘くんに手首を掴まれて何処かに連れて行かれる。

 人気のない階段を昇って、静まり返っている廊下を歩く。
 先生に見つかってしまうのではないか。と不安になる私を他所に、棘くんの足取りはしっかりしていて、目的地に向かって歩いているのがわかる。

 ズンズンと歩く棘くんの後ろをついて行くと、どんどん校内の奥まった所辿り着いた。校舎二階、窓もない廊下の突き当り。教室の扉の上にあるプレートには図書室と書かれている。扉に填め殺ししているガラス板には、教室内では静かに。と書かれた紙が貼られている。

 見慣れたいつもの景色。
 ガラリと音を立てて図書室の扉を開けた棘くんが、我が物顔で教室内に入って行く。小心者の私は授業をサボっていることに罪悪感に駆られているというのに、棘くんは心臓に毛が生えているに違いない。

 図書室の中に足を踏み入れて扉を閉めた棘くんは、私の手首を掴んだまま教室の隅まで移動する。そこはいつも、昼休みの時間、他の人の目から逃れるようにひっそりと、二人だけの空間が生まれる場所だ。

 なんでこんな所に来たの?
 なんで、私の手を繋いだまま離さないの?

 私に背中を向けている棘くんに視線を向けても、疑問の答えが返ってくるわけじゃない。それでも私は棘くんの背中を見る事しか出来ないでいた。
 彼がいつもの様子とは違う事はわかる。多分、怒っているんだ。でも怒られるような理由がわからない。

「棘くっ――!」

 遮るように棘くんが私を本棚に押し付けた。顔の横に棘くんの大きな手があって、正面には眉間に皺を寄せて怒っている顔がある。眉も目尻も吊り上がっていて、過去にない程に怒っている姿を見て、あんなに優しい人を怒らせてしまう私は一体どうやって生きていけば、他所様に迷惑を掛けずに生きていけるのだろうか。なんて目の前の現実から逃げる為に現実逃避し始めると、棘くんが私の名前を呼んだ。

「名前」
「……はい」

 返事をしないなんて選択肢はなかった。

「なんであんな事言った? 誰に何を言われた?」
「……自分で考えたんだよ。棘くん、私なんかと一緒にいてくれるけど、棘くん本当は無理しているんじゃないかなって、そう思ったら、私棘くんの優しさにつけ入っているんだって気が付いて……こんなに優しい人を私みたいな……寄生虫みたいな人間が、側にいたらいけないって、だから――」

 離れないと。
 その言葉は棘くんの大きな手によって、口と掌の間で消えていった。

 なんで話を聞いてくれないのか。と棘くんを見たくとも、彼は白銀の頭を私の肩口に埋めてしまっている所為で、顔を見る事すら出来ない。
 ただわかるのは、棘くんが吐き出す息が、いやに熱っぽいというものだけだ。

「ふふくん……?」

 現在進行形で口を塞がれている私が棘くんの名前を呼ぶと、空気が籠ってしまい、あほみたいな音しかでない。
 でも、それで十分だったのか、口元を塞いでいた棘くんの手がいなくなり、肩にあった頭もなくなった。
 それでも、私たちの距離はゼロ距離と言ってもいい程に近い。

「名前は俺のこと好き?」
「――え」
「好きなら好きって言って。俺は名前が好きだから」

 何という事でしょう。どうしてこんな展開になったのか、私には全く理解できない。だって離れようとしたのに、棘くんに告白されるなんて思ってもみない。
 これは夢なんじゃないか。なんて今目の前で起こっている現実を受け入れられないで固まっていると、棘くんのスミレ色の瞳が私を射抜く。

「好きって言って。名前」

 私なんかが棘くんに好きって言っていいのかな。
 でも、彼にそう言われたら、好きだって言わないといけないような気がして、私は震える唇に力を入れて口を開いた。

「好き。棘くんのことが、好きです……大好きで、大切で」

 愛おしい。
 その単語は恥ずかしくて言えなかったけれど、私の告白を聞いた棘くんが満足そうに笑うから、私も嬉しくなって涙を流しながら笑みを浮かべた。

「名前、俺と付き合ってください」
「よろしくお願いします」

 中学卒業までの三年間。私たちはゆっくりと穏やかながらも二人だけの時間を重ねていった。
 手を繋いで、抱き締め合って、想いを重ねた。ゆっくりと、私たちらしい速度で関係を確かなものにしていった。
 幸せだと何の疑いもなく言える。愛し愛される。棘くんのスミレ色が私を見る時、柔らかいものになる。きっと私も同じなんだろう。
 好きだって言葉にしなくても、隠しきれないから相手に伝わってしまう。

 終わりのない幸せ。ずっとずっと続く幸せに、何度棘くんに感謝した事だろうか。
 私を見つけてくれてありがとう、私を好きになってくれてありがとう。

「私、棘くんのこと好きだよ」
「――高菜!」

 どうしてか、告白をされたあの日から、私への特別が無くなり、皆と同じようにおにぎりの具で会話するようになった。
 なんで急に特別がなくなったのかは、聞けなかった。
 聞いてはいけないような気がしたのだ。

 残念な事に私は進学校に、棘くんは私立の宗教系の学校に進学した為に、滅多に会えなくなってしまったが、それでもお互い連絡は欠かさなかった。
 と言っても、私も棘くんも小まめに連絡を取るようなタイプじゃないから、頻度は少ないけれど、中学の時に比べれば、格段と頻度は上がった。

 そんなある日のこと、ふと、告白された日のことを思い出した私は、メッセージアプリを起動させ、棘くんにメッセージを送った。

“無理していない?”
“健康第一に頑張ってね”

 寮生活をしている棘くんは、学校生活が忙しいのか、平日は勿論、休日にも会えない日が続いたけれど、棘くんが何かに頑張っていることを知っているから、文句という文句は言わなかった。
 面倒な彼女だと思われたくはない。という心理が僅かながらにもあったと思う。

 その日、トーク画面上では既読が付いたのに、棘くんからの返信が来る事はなかった。

 返信が来ないまま半年の時間が過ぎた。
 その間会ってすらいない。私は時間に融通が利くが、寮に入っている棘くんはそうはいかないのだろう。
 宗教系の学校とはどんなことをしているのかわからないけど、以前テレビでお坊さんを目指している生徒が入る学校の特集をやっているのを見た時、起きている時間全て勉学に費やしていた。
 もしかしたら、棘くんも毎日忙しい生活をしているのかもしれない。そう考えると、メッセージを送る事すら躊躇った。
 そうやって連絡をしないでいると、メッセージを送ることに勇気がいるようになってしまった。初めて連絡先を交換した時とは違う。
 躊躇う必要も、戸惑う必要も、まして、メッセージ一つ送るのに遠慮なんてする必要もない関係なのに、今は、初めてメッセージを送った時よりも、緊張や躊躇いを感じている。

 どうしよう……。何しているの? って聞いたら、面倒な彼女って思われないかな?
 どうなのかな。

 そんなことも悶々と考えること一週間。その間、棘くんからの返事はなかった。
 そして私は漸く気が付いたのだ。
 これが所謂、自然消滅というものか! と。

 そんな話を学校の友達にすれば、「気が付くの遅くない?」と呆れた目で見られてしまった。

「それ、絶対に破局してるから! 賭けても良いよ」
「そうなんだ……。うーん、向こう優しいから言い難かったのかも?」
「怠かったんじゃない? もしくは、向こうにめっちゃ美人がいて、そっちに夢中になっている……とかどうよ」
「どうよって言われたって」

 友達の言い分は置いておいて、棘くんが曖昧なままこの関係を終わらせるような人には、私にはどうしても思えなかったが、事実として、最後にメッセージを送った日から半年以上連絡を取り合っていなくて、会ってもいない。
 世間一般的に言えば、自然消滅なんだろうけど、何かしらの理由があるに違いない。
 大丈夫。私はまだ棘くんを信じることが出来る。

 そう思っている時点で、私は棘くんのことを信じていないのも同然だったことに気付きもしなかった。否、見たくないと、気が付きたくないと私は自らの意思で、目を背けたのだ。

 進学校に進学した私は、長期休みの間塾に通うことにしたのだ。
 どうせ、棘くんからの連絡なんて来ないのだから、夏休みの予定だって空白のまま。そんな空白を埋めたかった私は、棘くんと向き合うことから逃げるように勉学に専念した。

 数分前に終わった駅前の塾。自動扉の前で息を吐き出した。

 早く帰って寝よう。

 今日は疲れた。と軽く溜息を吐いて歩き出す。駅前は活発だけれども、住宅街が近付くにつれて、煌々と光る街灯も、建物から零れる明かりも、広告を照らす光もなくなる。
 明かりが無くなるにつれて、ちょっとした不安が沸いて出てくる。街灯しか照らすものがないと、呆れるくらい明るい駅前が恋しくなってしまうのだ。
 飽きる程通い慣れている道だというのに。

 怠い身体で歩く帰路の途中。大きい総合病院がある。そこまで行けば、家まで残り半分だ。
 消灯時間が過ぎているらしい、総合病院は暗く、雰囲気がある。
 毎度のことながらこの病院の前を通るには、ちょっとした勇気が必要で、私は飽きることなく、いや、慣れることなく毎度気合を入れて足を前に進ませる。

 早く帰ろう。と雰囲気のある総合病院を足早に駆け抜けようとすると、見慣れた髪色をした男の子を見つけた。
 白銀の髪をした彼は、ネックウォーマーで口元を隠している。あれは間違いない。棘くんだ。あんな月夜に映える髪色をしている男の子なんてそうそういない。
 棘くんは真っ暗な総合病院から出て来た。その後ろには背の高い女の子がいる。

 こんな時間に病院に行ってもやってないんじゃ……。
 え? 病気? 棘くんかあの子具合悪いの?

 こんな所で会うなんて思いもしない人物に会った私は、思わず進む為の足を止めて、遠くから二人を見つめた。
 具合が悪いなら救急外来とかに行った方が良いんじゃ……と心配をする私を他所に、背の高い眼鏡をかけた女の子が棘くんの肩に腕を回して溌剌と笑う。
 棘くんも特に抵抗しないし、そのままされるがまま総合病院の敷地から道路に出ようと歩いている。

 えっと……。取り敢えず、元気そうでよかった。
 あれ、でも、元気なのにどうして病院に? 忘れ物……を、学生二人で取りに来るのかなぁ?

 それとも、こんな夜遅い時間に二人で出歩くような関係ってこと……?

 それって、どんな関係?
 突っ立ったまま首を傾げて二人の関係を邪推している私の気分はさながら探偵のようで、ふと、気が付いてしまったのだ。

 ――あ、私、悲しんでない。

 私から送ったメッセージに返信は出来ないけど、あの彼女とならこんな夜遅い時間に出歩くことが出来る。間違いなく私は捨てられた瞬間に今いるのに、涙すら出て来ない。

 信じるって思っていながら、心の底では、棘くんとの関係を諦めてしまっていたんだ。それこそ、こんな現場を見ても、涙一つ流さないくらいには。

「そっかぁ……」

 私、薄情だなぁ。なんて、一等星しか光っていない夜空に向かって小さく零す。何も棘くんが悪いわけじゃない。私が悪いんだろう。と自然と思えた。だって、思い当たる節が幾つもある。

 棘くんの優しさに甘えて、曖昧な関係のまま縛り付けていたこと。
 メッセージ一つに勇気が出せなかったこと。
 会いに行く努力すらしなかったこと。

 ほら、寄り添えなかったのは私の方じゃない。棘くんが何をしているのか、私は知ろうとすらしていない。そんな些細な行動すら起こしていない。
 棘くんが優しいから、私を傷つけるようなことは絶対にしない。そんな自分勝手な考えに胡坐をかいていたのは、紛れもない私で、そんな私に棘くんが優しくする必要なんて何処にもなかったんだ。
 その点彼女は違うのだろう。ちゃんと棘くんの言葉を理解する努力をして、寄り添っているんだろう。

 考えれば考える程、私という人間は酷く醜く、腐っているように感じる。

 人の優しさに甘えるしか能がない私と一緒にいない方が良い。
 ──私だってこんな自分、嫌いだもの。

 総合病院と接している道路には、黒塗りの車が一台止まっている。二人は肩を並べたまま、黒塗りの車に乗り込んで行った。

 棘くんは最後まで私に気が付かなかった。

 ポツリと履き慣れかけたローファーの先に、透明な雫が落ちた。街頭に照らされている雫は、人工的な光を反射している。
 ポツリ、ポツリと何度も雫が下に向かって落ちては、地面を濡らしていく。

「──雨」

 今日、ううん。この瞬間だけでもいいから雨が降って欲しい。土砂降りでも構わない。兎に角今は、涙を流しているところを誰にも、私にも知られたくないの。
 何度袖で涙を拭っても、次から次へと際限なく、涙が込みあがってくる。目の奥が熱いし、涙を流し過ぎて目尻も頬も痛い。
 頭は酸欠になりそうだし、何より、胸の奥が締め付けられて、苦しくて痛い。

 痛い。痛いよ。助けて。苦しいの。息が出来ないの――。

 助けて欲しいのに、助けを求める相手が何処にもいない。
 私はもう、一人になってしまったのだから。
 
 誰にも気が付かれないだろうけど、棘くんを見かけたように、万が一があるかもしれない。こんな情けない姿、誰にも見られたくない。
 その一心で俯き歩き出すと、黒塗りの車のヘッドライトが点いて動き出した。煌々と光る人工的な光は、俯き下にだらりと垂れる前髪の隙間から、私の目に刺激を与える。
 眩しさで一瞬両目をきつく瞑ると、目尻に溜まっていた涙がまた零れた。

 泣くな。泣くな。泣くな。泣くな。

 泣くな。お前に泣く資格なんって何処にもない。眼鏡のあの女の子と並んで立っているところを見ても悲しまなかったお前に、気が付かれなかっただけで泣く資格なんてない。
 そう自分を諫めても、私の涙は引っ込んでなんかくれない。
 自分のことなのに、自分の感情を制御出来ない。

 黒塗りの車が私の横を通り過ぎた。

 後ろの方から車の排気音が聞こえる。信号があるから止まっているのだろう。
 振り返らずにそのまま、家まで歩け。棘くんのことは綺麗さっぱり忘れてしまえ。

 俯かせていた頭を上に向けて、一等星が光る夜空を再び見上げ、気合を入れる為に両頬を叩いくとパンッ、と小さな音が一つ。排気音が飲み込まれていった。

 突然やって来た小雨は、どういうわけか私の頭上にしか雨雲がないみたいで、袖がぐしょぐしょに濡れている。
 雨雲から逃れようと足を前に進めるも、頭上の小さな雨雲は私の歩く速さに合わせて付いて来てしまう。

 あぁ、困ったな。

 家に着くまでには止んでいるといいんだけど。なんて困り果てていると、車の扉が閉まる音が響いた。
 夜遅いとはいえ、住宅街も近いこの場所では珍しい音ではない。と気にも留めないまま、頭上の雨雲から逃れようと歩いていると、急に二の腕を後ろから掴まれ引き寄せられた。

「な――っ!」

 突然の恐怖に強張る身体。喉が張り付き上手く声が出ない。
 不審者。その三文字が頭に浮かんだ。兎に角振り払って逃げないと不味いことになる。その一心で私は叫んだ。

「離してください! 誰かっ!」
「明太子!」
「やだ怖い! 誰か!!」

 何度も腕を上下に振るも、私の二の腕を掴んでいる人の手は緩まず、むしろ離さんとばかりにきつくなった。
 誰でもいいから助けてくれと叫ぶと、身体の向きを反転させられ、大きな手で両頬を挟まれる。何をされるのかわからなくて、ぎゅっと目を瞑った。

「ツナ……高菜、いくら」

 酷く弱り切った男の声がした。
 すぐ傍で聞こえる謎の単語。恐る恐る目を開くと、今にも泣きそうな棘くんの姿があった。

 スミレ色の瞳には薄っすらと水の膜が張っているように見えるが、私の気の所為だろうか。
 なんで棘くんが私の前に立っているの? どうしてそんなに泣きそうなの?

「棘、くん」
「しゃけ」
「なんで、いるの?」

 唇が震えて、上手く言葉を発せない。なんなら、私の視界もぼやけてしまっている。
 いつ私が此処に立っているって気が付いたの?
 なんで話しかけてくれたの?
 なんで、なんで、なんで?

 なんで、私を抱き締めているの?

 背中に回る腕は、私が知っていた頃に比べて幾らか逞しくなっている。肩幅も心なしか大きくなっているし、私をすっぽりと包んでしまえるくらい成長している。
 半年会わなかっただけでこんなにも変わるものなんだ。
すっかり知らない人になってしまったけど、棘くんから伝わる熱や、匂いなんかは、私が知っているままだ。
 懐かしさに触れた私は、無意識に腕を持ち上げ、棘くんの背中に回そうとした瞬間。女の人の声が聞こえた。

「棘―! 何やってんだよ。置いて行くぞ」

 棘くんを呼んでいる女の人はきっと、あの眼鏡の彼女だ。これから二人は何処かに行く予定なのだろう。私に時間を割いている場合ではない。と一生懸命棘くんの身体を押し返すも、ビクともしない。
 それどころか、私の頭の後ろと腰に手を回しきつく抱き締めてくる。

「棘くん呼ばれてるよ! 行かなきゃ」
「おかか!」

 駄々を捏ねる子供のように首を左右に振る棘くん、彼の毛先が顔を掠めてくすぐったいが、今は笑う時ではない。

「棘早くしろ!」
「──! ツナマヨ、すじこ!」
「あぁ? その子送って帰るってか? それじゃ私ら先に帰ってるからな」
「しゃけ」
「はい?!」

 黒塗りの車は棘くんを置いて発進してしまい、静けさが漂う住宅街には、私と棘くんの二人しかいない。未だに私を離さないと言わんばかりに抱き締めている棘くんの背中を軽く叩くと、彼は首を横に振った。
 何をどうして欲しいのか、私にはわからない。
 彼が今何を求めているのか、私にはわからないのだ。

 学生の半年という時間は、あまりにも長すぎた。

「棘くん」
「高菜」
「えっと……?」

 どうしていいのかわからずに、ぶらりと腕を下げされるがままになっていると、私の身体を抱き締めていた棘くんの手が、私の手首を掴んで自身の後ろへ持って行く。
 抱き締めて欲しいのだとわかった瞬間、どうしようもない愛おしさが胸の奥から湧き上がると同時に、この状況についていけなくて、頭が混乱している。

 感情と思考ってばらばらになることもあるんだなぁ。なんて、何処か他人事のように考えていると、棘くんが「いくら!」と大きな声を出した。

「あ、えっと……多分抱き締めてって言ってるんだよね? でも、私たち、もうそんな関係じゃないよね……?」
「は?」
「えっ?」

 今までに聞いたことがない声の低さに、思わず肩が震える。
 きっとどころか、確実にこの震えは棘くんに伝わっているだろうけど、今更隠したところで、私が何か棘くんの気に障るような言葉を言ってしまった後なんだから、突っ走っていくしかない。
 負けるな自分。頑張れ自分。

「半年連絡なかったら、自然消滅だと思うんだけど……」
「いくら、高菜、明太子」
「ごめん、私棘くんの言っていること理解出来ない」

 あの眼鏡の彼女は理解できているのに。高校で知り合ったとして半年で棘くんの言葉を理解出来るというのに、私は、何年も彼の側にいたくせに、未だに棘くんの言いたいことが理解出来ない。

 愛想つかされて当然だ。

「そりゃ、別れようの一言もなかったのは棘くんらしくないなって思っているけど、私みたいな女の子よりも素敵な子に出会えたんだから仕方がないというか、棘くん誰にでも優しいから、こうなっても不思議ではないというか……えっと、つまりね。私たち、ちゃんと別れ――」

 別れよう。そう続く筈だった音は棘くんの唇によって塞き止められた。ネックウォーマーに隠されていた口元を外気に曝し、私の唇を食わんとばかりにかぶりついている。

「……ん、棘……く、嫌!」
「――黙れ」
「……!」

 声帯を取られたみたいに声が出ない。音を震わせることすら出来ない現状に戸惑い棘くんを見るも、彼のスミレ色は長い睫毛に隠れてしまっている。
 性急なキスに息が続かない。何とかして棘くんから離れようと足を引いてみるも、頭の後ろに回されている掌が私を引き寄せる。

 伏せられていたスミレ色と目が合った。

 怒っているのかと思っていた。私に対して憤っているんだと。その理由はわからないけど、何か拙いことを私はまた言ってしまったのだと。
 でも目の前の現実は違ったのだ。

 スミレ色の双眸から涙が伝っていた。

「なん、で。泣いてるの……?」
「ツナ……ツナ……」
「棘くん?」

 流れた涙はたった一滴だけ。その一滴が私の胸にナイフを突き立てるような痛みを与える。ズキズキと痛む胸は、泣かせた罪悪感なのか、なんで棘くんが泣くんだという怒りなのか。

「あの、場所変えよ? ここ病院の前だし……それか、また後日にするとか?」
「おかか」
「じゃあ公園に行こう。そこで話し合うのはどう?」
「しゃけ」

首を左右に振ったり、縦に振ったりすることで私に簡易的に気持ちを伝えてくれる優しさは、依然と変わりはしないものだった。
 私よりもずっと大きくなってしまった手を取ろうかどうか迷った末に、私は棘くんの手を握った。以前のような恋人繋ぎは流石に出来なかったけれど、何となく、棘くんの気持ちはまだ、私に向いているような気がした。
 私の希望が多いに混じっているのかも知れないけれど。

 軽く手を繋いだまま歩き出すと、棘くんは大人しく私の隣に並び歩いてくれる。背丈も違うのだから、歩幅だって違うのに、私に合わせて歩いてくれた。

 夜の公園は当たり前だが閑散としている。静まり返った広い敷地の中、何処に行けばいいかわからなくて、棘くんの手を離すと、今度は彼が私の手を握った。
 淡い街灯が作り上げる影は、真ん中で繋がっている。

 取り敢えずとベンチに腰を掛け、何を話したらいいのかと足元を見つめると、棘くんの指先が私の頬に垂れる髪を耳に掛けた。
 何かあったのか。と棘くんの方を見て首を傾げると、棘くんは目を細めて薄く笑った。

「髪邪魔だった?」
「ツナ」
「私怒ってないから大丈夫だよ。……あぁ、そうじゃないのね」

 話している最中に棘くんが首を左右に振るから、私の予想が的外れであることがすぐにわかったが、じゃぁなんで髪を耳にかけたのか。という疑問が再浮上する。
 甘ちゃんな発想かもしれないし、外れていたら相当恥ずかしいが、今目の前にいる棘くんの表情を見るに、当たらずとも遠からずな答えが一つ頭に浮かび上がる。

「私の顔が見たかった……?」
「しゃけ!」
「……っ!」

 大きく頷く棘くんを見た私の頬に熱が急激に集まってくる。
 だってそうでしょう? 私の顔が見れた棘くんがこんなにも笑ってくれるんだから。嬉しいと思ってしまうでしょう。
 なんだかんだと御託を並べた所で、私は棘くんのこと、今でも好いているんだと、さめざめと実感した。

 じゃあなんで眼鏡の女の子が一緒にいる所を見ても、涙一つ流さなかったのだろう。と、棘くんから視線をずらして、足元を見つめていると、また棘くんの指先が私の頬を掠めた。

「おかか」
「こっち見てって言ってる?」
「しゃけ」

 なんなんだ。なんでこんなにも棘くんは私に甘いの。
 付き合っていないと、自然消滅したと思っているのは私だけみたいな……いやいや。勘違いは身を滅ぼすだけだから。期待して勝手に持ち上げて、奈落に落ちるなんて最悪過ぎるから。

「あのね、私たちの関係性ってなんですか、ね?」
「ツナマヨ」

 棘くんの言うところの「ツナマヨ」が意味するところを分からない私は、首を傾げるしかなくて、棘くんの言いたいことを理解出来ない私はなんて惨めなのだろうか。
 惨めだと自嘲する権利すらないのがまた悲しい。

 何も言わない私の心情を察してか、ポケットからスマホを取り出した棘くんは、画面に指を滑らせ真剣に何かを打ち込んでいる。
 何を打ち込んでいるのだろうか。と画面を覗きかけたが、見てはいけないと理性を働かせてスマホを弄る棘くんの横顔を眺めることにした。

 “何か勘違いしている”“別れたつもりはない”“連絡取れなかったのは理由がある”と言葉が並んである。私は一体何を勘違いしているのだろうか。というか、棘くん的にまだ付き合っていたんだ。半年も連絡取れない理由ってなんだろう。

 一つ一つ私たちの認識を擦り合わせるように、私たちは言葉を重ねた。
 たどたどしくも、途切れ途切れになりながらも吐露し合った。

「ごめん……私、棘くんのこと何も知らないのに、ううん。知ろうとしないで、優しさに甘えて――」

 ――最低だ。

 棘くんが教えてくれたこと、全てが初耳だった。呪いとか、呪霊とか、呪術師とか……私の知らない世界がそこにはあって、その世界に棘くんが生きている。
 絶対に平和な世界ではない。なのに私はそんなことも知らないで、のうのうと生きて、半年連絡がなかったからって、勝手に自然消滅したものだと決めつけた。

「スマホ、そのお祓い? の時に壊しちゃって、そこから連絡取れなくなっちゃったんだね。任務に追われてたって言ってたけど、ちゃんと休めてる?」
「ツナツナ」
「私、何も知らなかった。小さい時から一緒にいるのに」

 呪言師の末裔として生まれた棘くんは、生まれた時からその力が使えたらしく、だから影響の出ないおにぎりの具に語彙力を絞って会話してるって言ってたけど、私の記憶によれば、普通に会話してくれていたはずなんだけど……。
 相当気を付けて会話していてくれたのかな。そう考えると過去の自分がすごく愛されていたのだと、今更ながら実感する。

「明太子、こんぶ」
「……え? 私に呪いをかけたことあるの? さっきだけじゃなくて?」
「しゃけ……」

 申し訳なさそうに頷く棘くんを見て、あんな身体の言うことが利かなくなった体験他にあっただろうか。と思い出していると、非常に言い難そうに棘くんは単語を重ねていく。

「ツナ、高菜……すじこ」
「小さい時、小学生……中学生の時、本屋さん? んん、図書室? で一度呪力を使った……って言われても、うーん……」

 全くもって覚えていないのだ。
 いつ使ったのだろうか。と両目を閉じて中学生の時のことを思い返してみると、一つの出来事を思い出した。
 むしろどうしてこの出来事を真っ先に思い出さなかったの。自分! と自分を責めたくなるような強烈な思い出。

「図書室で告白してくれた時の話?」
「しゃけ!」
「あの時は──!」

 確かに棘くんに「好きって言って」と言われたから、好きって言わないといけないような気がしたけど、呪力とは何の関係もない話だ。
 だって、だって私は――。

「馬鹿。棘くんの馬鹿、あほ。ばか」
「いくら?」
「棘くんに言われたから、強制的に言ったんじゃないよ」

 私の告白をこの何年も信じてくれていなかったってこと? 私の気持ちを信じてないままずっと傍にいたの?
 言ってよ。不安だったなら言ってよ。抱え込まないでよ。私は頼りないかも知れないけど、それでも言って欲しかった。

「私は棘くんが好きだよ! 多分、初めて会った時からずっと好きで、だから好きって言ったんだよ。呪力なんて関係ない。あれは紛れもない私の本心なのに」
「……明太子」
「信じてもらえなかったの? 私の愛情表現は足りてなかった? 棘くんの不安を取り除けなかった? 私の気持ちは信じられなかったの?」

 悔しい。悔しすぎて涙が零れる。
 手を繋ぐのも抱き締めるのも、ましてキスをするのも好きだから、棘くんが大好きだからしたのに、その気持ちすら伝わってなくて、引け目を感じられていたなんて。

「ばか。ばか。ばか」

 何度も何度も熱い雫が頬を伝ってスカートに染みを作っていく。

「棘くんと話せなくなって、悲しかった。声を忘れて、匂いも忘れて、顔まで薄れていって、私の中の棘くんの存在が消えていくのを実感して、凄く怖かった」

 思い出したくても、トーク画面の履歴をスクロールすることしか出来ない。電話だってかけることが出来ない。写真の一枚でも撮っておけばよかった。なんて後悔して、またトーク履歴を見て、棘くんの存在を植え付ける。

 そんな作業を繰り返していくうちに、心の何処かで諦めが出来てしまった。私たちは終わったんだって。履歴を見る頻度が下がって、返信も期待しなくなって、勇気がないなんて理由を付けて、棘くんから目を逸らしたんだ。
 そのくせ、棘くんの中から私という存在が消えていることが悲しくて、涙まで流して……。

 馬鹿はどっちだ。
 言い訳ばかり並べて、現状から逃げていたのは私の方。

「私は二番目でもいいの。一番じゃなくてもいい。棘くんに愛されるのなら何番だって構わないの」
「すじこ! おかか!」
「棘くんは複数人に愛情を向ける人じゃないのは知ってるよ。ものの例えの話し」

 だから眼鏡の彼女と親密そうにしていても涙は出て来なかった。
 私という存在が彼の中から消えることの方が、私にとってずっと怖いんだ。

「好きだよ」

 心の奥底。誰にも触れられないように、宝箱の中に仕舞っていた気持ちをぽつりと零した。
 
 昔の文豪は「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したらしい。私だったらなんて訳すのだろうか。棘くんに対する「愛してる」をなんて訳すのかな。
 そうだな。きっと──。

 私の気持ちが伝わったのかどうか。語彙力を絞っている筈の棘くんの唇が、おにぎりの具以外の言葉を紡いでいく。

「好きでいて、欲しい。俺が名前を好きでいることを、許して欲しい」

 懇願だった。
 棘くんの台詞から、彼が今も私を好いてくれていることが伝わり、私の胸の奥をじんわりと暖かくするのと同時に、締め付けてくる。
 痛いくらい締め付けてくるのに、私はその痛みを不快には思えない。むしろ、愛されているのだと喜んでしまう。

「私、棘くんになら、呪われたって構わない」

 そう言うと、棘くんはスミレ色の瞳を大きく開き、泣きそうな顔をして笑った。

 力なく、頼りない指先が私の頬に触れる。触れることすら躊躇うようなそんな動作に私は目を閉じた。何をされてもいい。棘くんにだったらどんなことをされてもいい。
 唇に柔らかいものが触れた。
 熱を持っているそれは、小さな震えを伴っていて、つられて私の唇も震えてしまった。
 まるで初めてのキスのようで、スミレ色の瞳と視線が絡み合った瞬間。吹き出すようにお互いが笑った。

「すじこ?」
「好き。棘くんのことが、好きです……大好きで、大切で、愛してる」

 あの時は気恥ずかしくて言えなかった愛の言葉を、花束に変えて伝えたい。
 もうお互いが不安にならないように、しっかりと手を繋いで、離さないで、そうやって一つになっていきたい。

 公園に設置されている街灯が、ベンチに座っている私たちを照らす。地面には寄り添って座っている男女の影が一つ落ちていた。



- 22 -
(Top)