パブロフの兎


マクニール博士

「じゃああたし用事あるからこれで帰るな。また明日くるよ」
 窓からみえる空は朱色に染まっていて、そろそろ日が沈みそうだ。

「うん。ありがとう」

 直樹は手を振って部屋を出ていく祐未を見送り、いつ退院できるのだろうとぼんやり考えた。怪我をしただけだから、目が覚めたら即日退院でも可笑しくないと思っていた。どうやらそうではないらしい。今日の医者の口ぶりからすると明日退院というわけでもなさそうだ。
 軽い怪我のはずなのに、いったいなぜ?
 血液検査やウイルス分離など怪我をした人間に行うものだとは思えない。

「まるで……感染病かなにかにかかってるようなあつかいだ」

 窓の外を見ると、空が藍色に染まっていた。

「じゃあ、明日は少し強いお薬を出しますからね」

 隣の病室から聞き覚えのある声が聞こえてくる。今日あった医者の――水島の声だ。

「お大事にー」

 のんびりした声が聞こえて、足音がこちらに向かってきた。ドアを少しだけあけて様子を伺う。彼の横には金沢がいた。

「水島先生、マクニール博士がお見えです」

「そう。分離検査の結果出てる?」

 さっきまでの優しげな声とは違い緊張感のある声だった。どこかおっくうそうにも聞こえる。

「ええ。逆転写ポリメラーゼ連鎖反応と蛍光抗体検査の結果も」

「そう、早かったね。結果、準備しておいてくれ」

 事務的な会話を繰り返して、彼らはだんだんと遠ざかっていく。
 分離検査と逆転写ポリメラーゼ、蛍光抗体検査は直樹が受けた検査だ。
 彼らが廊下の角を曲がる。数秒後、直樹はゆっくりと病室から抜け出し水島たちを追った。彼らはナースステーションの前で立ち止まっている。金沢が水島になにかを渡しているようだ。

「これが検査結果です。どうぞ」

「ありがとう」

 金沢がナースステーションに入っていく。水島は金沢を見送ると、身を翻してエレベーターに乗りこむ。エレベーターが次は一階に止まることを確認して、直樹は階段を駆け下りた。物陰に隠れているとしばらくして水島がエレベーターから降りてくる。金沢に渡された検査結果に目を通しながら病棟とは反対側に歩いていく。物音を立てないよう細心の注意を払い、直樹はゆっくりと水島のあとをつけた。
 しばらく歩いた後水島はある部屋の前で歩みを止める。

「失礼します」

 どうやら、応接間のようだ。
 ドアが閉まったのを確認し、耳を近づける。

「どうも、水島さん」

 聞こえてきたのは若い男の声だ。多分水島より年下だろう。だというのに、相手を見下しているような嫌な響きの声だった。

「……どうもお久しぶりです。マクニール博士」

 水島の声は患者に対する優しげなものでも、看護婦に対する事務的な声でもない。怯えて小さく震えているようにさえ聞こえる。

「白井直樹の検査結果はどうですか?」

 自分の名前が聞こえたことで、直樹の肩がびくりと跳ねた。どうやら予想は当たっていたようで、これは自分の話らしい。

「傷の洗浄は早期に行いました。発症もしていませんが……」

 ばさり、と紙のこすれる音がした。テーブルの上に検査結果を置いたのだろう。

「本人も男に腕を噛まれたといってます。間違いないでしょう」

 どうやら病院側は、死体の男に関わったことで直樹が病気に感染する可能性を考えているらしい。

「暴露後ワクチン接種は?」

「行いました。次の摂取は明後日の予定です」

 物音を立てないよう最新の注意を払って移動する。窓からこっそりと覗きこむと、水島の後ろ姿を確認できた。向かい側には銀髪赤目の男が座っている。おそらく、十代後半か二十代前半だろう。線は細く、肌が病的なまでに白い。
 直樹の腕に噛みついた男と、そしてその男を殴り殺した三月兎と、同じ容姿だ。

「では、今度は明後日うかがいます。その時はまた報告を」

 服は全身黒で、ソファの横には黒い帽子と全体がカーブを描いたゴーグル状のサングラスが置いてある。赤い目は水島を見下しているようで、口元には冷笑が浮かんでいた。手元にはメモ用紙があり右手にボールペンを持っていたが、会話などをメモしている様子はない。ただ円を描くようにペンを走らせているだけだった。顔立ちはどう見ても日本人には見えなかったが喋っているのは日本語だ。イントネーションに気にならない程度のなまりがあるためそれが母国語ではないとわかる。
 紙の上でぐるぐるとボールペンを走らせている男に水島が震える声でたずねた。
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