パブロフの兎


検査

「先生、直樹君を連れてきました」

 金沢が開け放たれたドアをノックしながら病室を覗きこむ。

「ああ、ありがとうございます。直樹君、こんにちわ。担当医の水島です」 

 デスクの前に座っていたのは、眼鏡をかけて微笑む中年男性だった。笑顔は優しげだが顔は精悍なつくりをしていて、体もガッシリしている。

「じゃあ、その椅子に座ってくれるかな」

 言われたとおり、医者と向かい合うように置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。水島は直樹が座ったことを確認すると、デスクの上に目を走らせて口を開いた。

「検温の結果は異常なし。朝食も全部食べたみたいだね。傷は痛む?」

「いいえ。大丈夫です」

 直樹の答えを聞いてうなずくと、手元のカルテになにやら書きこんでいく。

「じゃあ直樹君、ちょっと痛いけど我慢してね」

 おそらく傷の経過などを調べられるのだろうと思っていた直樹は驚いた。水島が綿棒を持ち出して、直樹に少し顔を上げるように指示したのだ。

「二回やるからねー、でも、直ぐ終わるから」

 鼻孔に異物が入ってくるのがわかった。水が入ってしまったときのようなツンとした痛みを鼻の奥に感じる。少しだけ涙が飛び出た。

「じゃあ、もう一回ね」

 すぐに終わってしまうのが唯一の救いか。できれば二回もやりたくなかったが、医者がやるというのだから仕方がない。
 それにしても、何のためにだろう。
 直樹は怪我をしただけだ。
 これではまるでインフルエンザかなにかのようではないか。

「血も少し取るよー」

 なんのために?
 直樹が質問するよりも早く、金沢が直樹の腕をアルコールで消毒する。

「ちょっとごめんね、直樹くん」

 腕に小さな痛みが走って空だった注射器の中に赤黒い液体がたまっていく。時間にすればほんの数秒だろう。

「はい、終わり! また明日来てもらうかもしれないけど、よろしくね」

 直樹の腕から針を引き抜いて、水島が言った。
 金沢が直樹の腕をひき、病室に帰るよう促してくる。
 水島に背を向け祐未のいる病室に帰ろうとしているとき、直樹は後ろでかわされる会話を聞いた。

「一回目のやつ、分離検査用ね。二回目はリバポリメやってくれる? 血液サンプルは蛍光免染用だからまわしといて」

「はい」

 とっさに振り返って詳しく尋ねようとしたが、その前に部屋のドアが閉まった。

「お見舞いに来てくれた人あんまり待たせたら悪いものねぇ。急ぎましょうか」

「はぁ……」

 金沢がのんびりとした口調で言いながら、直樹の手を引いていく。彼女の言葉に曖昧な返事をして、直樹は首をかしげた。
 聞きなれない言葉だったが、リバポリメという略語は彼に逆転写ポリメラーゼ連鎖反応という言葉を連想させた。
 DNA情報を持たない病原体遺伝子を検出する場合に用いられる方法だったはずだ。蛍光免染という俗称は、おそらく蛍光抗体法のことだろう。蛍光色素で標識した抗体を使用して、細菌やウイルスなどを検出する方法だ。どちらもウイルスや細菌の検出に使われる方法だが、なぜ怪我をしただけの直樹がそんなことをされなくてはいけないのだろう。体温だって別段高いわけではないし、そもそも咳すらでていないこの状況で、どんなウイルスがひそんでいる可能性があるというのだ。
 体調になんの変化もないのに、三種類の検査を行う意味がない。

「おっ、直樹ぃ! 検査終わったのか? 結構早かったな!」

 部屋に帰ると、ナースステーションで果物ナイフを借りたらしい祐未が笑顔で手を振っていた。

「りんご、一個切ってあるからさ。好きなの食えよ」

 そういって、祐未は紙皿の上に乗ったりんごを直樹に差し出してくる。
 部屋に来たときはそんなものを持っている様子はなかったので、これもナースステーションでもらったか、もしかしたら病院の売店で買ったのかも知れない。

「ありがとう」

 礼を言ってカットされたりんごをひとつ口に含む。しゃりしゃりと耳に心地よい音がしてりんごの味が口の中に広がった。

「祐未も食べなよ」

「うん。これむき終わったらな!」

 祐未の手にはりんごがあって、ピーラーで皮を剥いている最中だった。なにがそんなに嬉しいのか、祐未はずっと笑っている。けれど、自分を気遣ってくれているのはちゃんと理解できた。

「……ありがとう」

「んぁ?」

 もう一度礼を言うと、祐未が間抜けな声をあげて直樹を見る。しばらくしてから言葉の意味に気づいたらしい。

「え、あ、ははは」

 彼女は少し照れくさそうに笑って、けれどそれをごまかすように、さっきよりもぎこちなくピーラーを動かしはじめる。目はどこを見ているのか、少なくとも手元は見ていないようだ。
 直樹の胸を小さな不安がよぎり、注意しようと口を開く。

「……祐未、危な……」

 すると祐未が照れくさそうに笑ったまま、首を直樹のほうに動かした。
 目が完全に手元からはなれる。

「いってぇぇえ!」

 そして彼女は案の定というかなんというか、ピーラーで指の皮を剥いた。
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