パブロフの兎


彼女のBBC英語

 日は完全に沈みきり、明かりは太陽の光から街頭や店の明かりへと変化していた。時計を確認すると午後七時。部活帰りの学生や帰宅途中のサラリーマンなど、まだ人通りは多いが数時間すればそれもいなくなるだろう。
 すっかり汚れの落ちた学生服を着て直樹は走る。
 とにかくあの路地に行こうと思った。すでに処理はされているだろうが、あたりを歩いている人間に聞けばなにかわかるかも知れない。
 なにもしらない現状が嫌だった。
 吐き気がする。

「……はぁっ……」

 三月兎に会った路地は直樹の予想通りすでに処理がされていた。なにもなかったかのように静まり返っている。男が叩きつけられた壁だけが痛々しくへこんでいたけれど、血の跡もなければあの化け物二匹が争った形跡も壁のへこみ以外には確認できない。もう警察が入ったのだから当然だろう。
 直樹は少し考えてから大通りに戻ると、一番近くにいた男に話しかける。

「あの……昨日の夜、ここであった事件のこと、なにか知りませんか?」

「は? 昨日? なんかあったの?」

 呼び止められた男は不機嫌そうな顔で直樹をみると怪訝そうな声を出す。

「あの、男の人が一人、ここで殴り殺されたはずなんですけど」

「それならニュースでやってたけど、違うトコなんじゃねぇの? 俺昨日もここらへんブラついてたけど、そんな話聞いてねぇよ」

 この反応はおかしい。
 すでに日付は変わっているから現場が処理されていても不自然ではない。けれどだからといって事件の情報がまったく流れていないというのはどういうことだろう。男は昨日もここにいたというから、話を知らないのはいくらなんでもおかしい。小さな町だから一日であっという間に噂は広がる。それでなくても人が死んで警察が出れば野次馬くらいはよってくるはずだ。
 それさえも規制されるのだろうか?
 詳しい場所は新聞に載らなくてもだいたいの情報は載っているはずだろう。今までこの辺りで起こっていた事件だって、ちゃんと新聞に情報が……

「あの、本当になんでもいいんで、なにか知りませんか? 物音を聞いたりとか」

 いや、載っていなかった。
 今まで起こった事件も新聞の記事にはなっていたが、どこで死体が発見されたのかは大体の場所すら記されていなかった。
 小さい町なのに、噂にすらなっていない。不自然な状況だ。不気味ですらある。
 吐き気がした。
 誰も彼もが、直樹から真実を隠そうとする。

「しらねーよ」

 男が出した声はさきほどよりもっと不機嫌そうな声だ。これはマズい相手に話しかけてしまったかもしれない。
 けれどもそれよりも知りたい欲求が先にきた。

「なんでもいいんです!」

 なおもたずねると男はしびれをきらしたようで直樹の肩を乱暴に押した。

「っるせぇなっ! しつこいんだよっ!」

 とっさに体勢を立て直そうとするが足がうまく動かない。

「うわっ」

 一瞬だけ足の感覚がなかった。
 思ったように動かせない足がバランスを崩し、直樹はその場にしりもちをつく。男もまさかこれで倒れるとは思っていなかったのか、少し驚いた顔をしていた。

「……ぶさけやがって、このクソガキっ」

 けれどその表情はすぐに凶暴なものへと変わり、大股で直樹に近づいてくる。
 この雰囲気は危険だ。多分殴られる。
 長年のあまり蓄積したくないたぐいの経験からそう判断した直樹は、これからくるであろう痛みにそなえてぎゅっと目をとじた。
 けれど、いつまでたっても痛みは襲ってこない。

「おい、にぃちゃんよぉ」

 代わりに聞き覚えのある声が耳にとどいた。
 うっすらと目を開けると、さっきまで自分を睨みつけていた男の肩に、女の手が置かれている。一騎当千のシャツを着た祐未だった。

「あたしの知り合いにナニしてくれてんだよ?」

 口調は完全にチンピラそのもの。けれど声は少女のもので、背は男よりはるかに低い。

「あぁ? なんだてめぇ、このガキのツレか?」

 だからなのか、男は大して驚くことも警戒することもせず祐未を睨みつけて低い声を出した。祐未の口元に笑みが浮かぶ。眼鏡越しに瞳孔が見開かれ、男の肩に置いた手に、力がこもった。

「|お茶会の始まりだ《Time for mad tea party》」

 それは銀髪赤目の男が言ったのとまったく同じ言葉だった。彼女が喋る日本語よりもなめらかな発音の英語。

「あ?」

 彼女の言葉が聞き取れなかったらしく、男が不機嫌そうな表情をさらに歪めて低い声をだす。

「てめぇ、なにいって……」

 彼は最後まで言葉を言えなかった。男が喋り終わるより早く祐未が彼の頬を殴り飛ばしたのだ。

「ぶへっ!」

 男は間抜けな声を出して直樹のすぐ横へ倒れこむ。ぶざまに転げた男の背中を祐未が上から踏むようにして蹴りつけた。

「あたしのっ! 知り合いにナニしてくれてんだよ? あぁ?」

「がっ……」

 蹴られた衝撃で肺の中にあった空気がすべて出てしまったらしい。男の口から出るのはカエルが潰れたような情けない悲鳴だけだ。

「聞いてンのかコラァ! なンとか言えやぁっ!」

「ひっ、ひぃいっ!」

 祐未が出す犬のうなり声のような低い声に男が悲鳴を上げる。その姿は、殴られかけた直樹でさえ同情してしまいそうになるものだった。震える足を必死に動かし、男は一目散に路地裏を駆けぬけ逃げていく。

「あ……」

 足が震えた。
 刑事たちを怒鳴りつけた声よりももっと低い犬のうなり声。まるで自分の縄張りを荒らされた獣のようだ。地面にへばりついた相手を踏みつけ、さらに怒鳴りつける。まるでチンピラかヤクザだ。

「……あ、ありが、とう……」
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