パブロフの兎


怪物再び

 けれどそれはきっと、直樹を助けるためなのだろう。

「あは、は……もっと早くくればよかったな!」

 震える声で礼を言うと、彼女はいつものように照れくさそうに笑った。
 そしてすぐに笑顔を驚きの表情にきりかえ、さっきとはまったく違う裏返った声を出す。

「お前っ、なんで病院抜け出しちゃったんだよ! まだ怪我も治ってねぇんだぞ!」

 やはり病院から追いかけてきたらしい。直樹の腕を掴み強い力で引っ張った。

「病院が嫌なら家まで送るから、傷が治るまで大人しくしてろよ!」

「いやだ!」

「なんで!」

 薄暗い路地で口論している姿をみたら第三者はなんと思うだろう。
 さっきまでの緊張感など微塵もない、まるで子供がダダをこねあっているような低次元の口論だ。

「周りのいうとおりにしてたら、誰もなんにも教えてくれないだろ!」

「はぁ?」

 困ったような表情をする祐未をまっすぐに見すえて直樹はなおも声を荒げる。
 知らないことは嫌だ。
 吐き気がする。

「僕は本当のことが知りたいんだ! もうなにも知らないままでいるのは嫌なんだよ!」

「はっ……っ……!」

 口を開いた祐未は言葉が見つからないようで、妙な呼吸音を響かせたあとすぐに黙りこんでしまう。
 直樹は彼女の言葉を待った。あるいは、彼女が諦めて直樹を見すごしてくれるのを。この少女ならわかってくれるはずだと、直樹は確信していた。

「……ぁ、」

 しばらくすると、祐未が困り果てたような顔をしてゆっくりと口を開く。彼女の言葉をさえぎるように、バタン、と車のドアが閉まる音がした。

「……祐未さん? どうしたんですか!」

 直樹の事情聴取をしにきた刑事の声だ。

「な、直樹くんっ?」

 祐未の近くにいた直樹の姿もみつけたらしく驚いた声をだす。

「病院にいたんじゃ……!」

 このままでは連れ戻される。
 そう判断した直樹はとっさに祐未の腕を掴みかえす。

「うぉっ?」

「あっ、おい、ちょっと!」

 後ろから刑事の声が聞こえたがかまうものか。祐未の手を引いて、すばやくその場を抜け出した。

「おいっ、直樹! どこ行くんだ、おい直樹!」

 祐未が声を荒げる。多分その気になればいつだって直樹の手をふりはらえるだろう。そうしないのは、抵抗する気がないからだ。

「病院には戻りたくない! あそこ、なんかおかしいんだ!」

「おかしいってなんだ、おかしいって! そんなわけねぇだろ!」

 バタバタと建物の壁に二人分の足音が反響している。路地を抜けて別の路地へと入り、直樹はどんどん入り組んだ場所を進んでいった。
 昔からずっと暮らしていた町だ。どの道をどう行ったらどの道に出るのかだいたい覚えている。

「だいたいお前っ、夜出歩いたら危ねぇぞ! 物騒なんだから早く家帰れよ!」

 息が乱れた様子もなく、祐未が声を荒げる。ずいぶんと体力があるようだ。でなければ大の男をいきなり殴り飛ばすなどという芸当はできないだろう。

「もうちょっとしたらね! 大通りに出たらまたあの人たちに見つかっちゃうかもしれないし!」

 外灯がない路地を曲がり、暗闇の中で足を止める。そろそろ息が切れてきた。深呼吸して体を落ち着かせる直樹の横には、汗一つかいた様子のない祐未が立っている。

「いきなり走るからだよ! 病み上がりなんだから大人しくしてればいいのに」

「……病み上がりって、軽い怪我だけだろ……」

 完全な健康状態でも全速力で走れば息は乱れるものだ。別に病み上がりだからだとか病院を抜け出したからだとかではない。
 小さな声で反論したが、祐未は大して気にしていないらしい。暗闇を見回して困ったように眉を下げた。

「で、ここどこだ?」

「ここをもうちょっと進むと、商店街に出るかな。まあ商店街っていっても今はほぼシャッター街だけど」

 直樹の説明は伝わったのだろうか。祐未はどこか上の空で、

「ふぅーん。そっか」

 と気のない返事を返してきた。
 直樹はなんとなく空気が変わったのを感じ取る。
 祐未の表情が変化し、あたりがピリピリとした緊張感に包まれた。

「直樹、そっから動くんじゃねぇぞ」

 そして、祐未の声が一オクターブ下がる。
 彼女が見すえる先を見ると、人影があった。

「……ぅ……」

 どこかで聞いたような低いうなり声が聞こえる。けれど相手は銀髪ではないようだった。

「うぅぅ……」

 もしかしたら怪我をしているのかもしれない。フラフラとした足取りで、ゆっくりとこちらに近づいてくる。壁に足音が反響し、それがだんだんと大きくなっていく。

「うぅ、ぅ、ぅ、うぅ……」

 近づいてきた人影が男だとわかる距離にきた。祐未が、直樹を庇うように手を広げる。

「様子がおかしい。声だすな」

 さらに男との距離が近づいて顔が確認できるようになった。

「……っ!」

 男の眼球が左右に激しく震えている。視線があわない。よくみると口からは唾液がぼたぼたと垂れ流されていた。髪と目の色こそ違えど、それ以外は直樹が腕を噛まれたあの男そのものだ。

「ゆ、祐未っ……!」

「しっ! だぁってろ!」

 背筋にぞくぞくと悪寒が走る。あわてて祐未の腕を引っ張ると、小さな声で沈黙を要求された。
 そして彼女は直樹が黙ったのを確認し、にやりと笑う。
 そう、たしかに口元は笑っているはずだ。
 なのにそれは、縄張りを侵された獣が歯をむき出しにしているように見える。

お茶会の始まりだTime for mad tea party!」

 獣を連想させる口元からうなり声のような声が聞こえた。ふらふらと歩くその男は祐未の声に反応したかのようにピタリと歩みを止める。

「ぅ、うぁああぁああぁあぁあっ!」

 そして、吠えた。
 左右に激しく震える眼球が祐未を見すえ、思いきり腕を振り上げて走り出す。

「うらぁっ!」

 襲い掛かってきた男に向かって、祐未が勢いよく腕を振り下ろした。同時に彼女の口からもれたのは腹に響く低い怒号だ。

「ぁがっ!」

 妙な声が聞こえて、男が地面に叩きつけられる。祐未の足が男の頭に振り下ろされ、また妙な声が聞こえた。

「ひぎっ」

 そして男は、そのままぴくりとも動かなくなる。

「……死んだの?」

「いや? 寝てるだけだぜ」

 おそるおそる直樹がたずねると祐未がなんでもないような声を出す。
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