パブロフの兎


知りたい理由

「昨日電話させてもらった祐未です。直樹君なんスけど、入院はしないで経過をみることになりました。今から送ってきますんで。なんかあったら、この電話番号に連絡ください。はい、お願いします」

 八時になるとこの町は駅しか使用されなくなる。施設の周りは完全に人通りが途絶えていた。
 外灯の明かりだけが相当な距離をおいてぽつぽつと道路を照らしており、そのあいだは完全な闇だ。こうなると外灯と外灯のあいだより、むしろ照らされている場所のほうが恐ろしい。周りとの対比でやけに明るく見えるその下になにか人ならざるものがいるのではないかと思ってしまう。

「今日会った、あの変な男……なんなのかな?」

 直樹が自分の横を歩き始めた祐未にたずねる。

「さぁなぁ……まだわかんねぇけど……警察には教えたし、そのうちなんかわかるかもしれねぇな」

 祐未が車の通らない道路側を歩いているのに気づいた。自分とまったく同じ速度で歩く彼女に他意があるのかないのか、直樹にはよくわからない。

「三月兎に殺された男とすごく似てたんだけど……なんか関係あるのかな?」

「わかんねぇ。今まで殺されてきた奴らと見かけがちょっと違うし。もしかしたら似てるだけで関係ないかもしれねぇ」

 古い民家が道をかこむように続いている。窓から明かりがもれている家もあるが、人が通ると玄関に明かりがつく、などという気のきいた建物はもちろん存在しない。だから道路の周りが古い民家だろうと長年放置されて思う存分成長した雑木林だろうと、どちらでも同じことだった。

「何かわかったら教えてね」

 それは何度目の要求だっただろうか。自分でも少しくどいように思えたが、自然に口から出ていた。
 祐未が歩みを止める。

「……なあ、なんでそんなに、事件のこと知りてぇんだ?」

「ん?」

 直樹も数歩進んだところで、祐未につられて歩みを止めた。
 以前も似たようなことを聞かれた気がする。その時はこんなに直接的ではなかったが。

「そりゃ、犯人が捕まったとかそういうことはちゃんと教えるぜ。だけどさ、お前が知りてぇのって、そンだけじゃねぇんだろ?」

 言いながら祐未が歩き始めたので、直樹もあわてて足を動かした。
 施設のあるほうへ道を曲がると坂になっている。短い上り坂のあとは施設とその下にある漁港へ繋がる坂道がずっと続いていた。

「……うん。できれば全部知りたい。三月兎のこともあいつがなんで人を殴り殺してるのかも、僕があった男がなんで襲いかかってきたのかも、全部」

「なんで?」

 泣き出しそうな声だった。そこまでのことだろうか。べつに隠しているわけではないから、理由くらいいくら語ったってかまわない。

「知らないことが嫌なんだ。自分がちょっとでも関わったことなら、なんでも知りたい」

横を歩く祐未の口が小さく開いた気がした。それが気のせいでなかったとしても、彼女は結局言葉を見つけられなかったらしい。祐未の声が空気を震わせることはなかった。

「……さっき電話してたし知ってると思うけど……僕が住んでるのは、菜の花苑っていう児童養護施設だ」

 けれど、彼女が言いたいことはだいたいわかる。

「家族の顔は覚えてない。僕に家族がいたってことも、先生に聞いた。先生って、施設の職員の人なんだけど」

 言いながら、いつ教えてもらったのか、どの先生に教えてもらったのかさえもう忘れてしまっていることに気づく。
 もしかしたらもう施設をはなれた人だったかもしれない。

「家族で旅行に行ったとき事故にあって、それで僕以外全員死んだんだって。僕は覚えてない。事故のことも、家族のことも、なんにも」

 施設にいる子供の大半は外に家庭がある。寂しい、帰りたい、と泣いている子供を、昔から何人も見てきた。彼らの気持ちなんて直樹にはわからない。だから、何も言えずにただ見ているだけだった。

「僕は、僕の人生を左右した出来事を知らないんだ。自分のことなのに。それっておかしいだろ? 自分の人生なのに、自分でどうするか選べなかったうえに、その時のことを覚えてないんだ。悔しいだろ」

 親の顔を知らない。
 そもそもそれがどんな存在なのかもわからない。
 大多数が共有する寂しさも不便さも、その原因である温かさも、直樹は知らない。
 そんな直樹を不幸だという人もいたし幸せだという人もいた。
 直樹自身には、やはりよくわからない。ただ、友人全員が同じまんがの話題で盛り上がっているのに、自分だけその漫画を読んでいなかったときのような疎外感を味わってきた。

「なおき……」

 祐未が小さくつぶやく。けれどやはり先の言葉が出てこないようだった。

「だから僕が知らないことは、あの事故のことと、家族のことだけで充分なんだ」

 施設の手前に小さな墓地がある。しかも少ない外灯の一つがわざとらしく目の前に立っていた。そのせいで墓場に続く階段がうっすらと闇夜に浮かび上がって、とても不気味だ。

「……うん……」

 外灯の下を通りすぎたところで祐未が小さくうなづいた。やはり、それ以降の言葉が見つからないらしい。

「祐未。施設、あれだから」

 戸惑っているような祐未に直樹が言う。彼が指差したのは下り坂の途中にある四階建ての建物だ。

「昼間は建物のあいだから海が見えるんだよ。ここをずっと下がってくと海だから、ながめはいいんだ……昼ならね」
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