パブロフの兎


知りたい理由その2

 今は夜だから、海もあたりの雑木林もよく見えない。
 祐未は話を聞きながらなにか考えこんでいるようで、直樹がとぼけてみせても表情は明るくならなかった。

「送ってくれてありがとう。それじゃあ……」

「なあ!」

 直樹が一歩施設にむかって足を踏み出し、祐未に向かって軽く手を振る。直後、祐未が声を上げて、少年は思わず立ち止まった。

「あのさ、怪我とかまだ治ってないから痛かったらすぐに言えよ?」

 別れる直前の言葉としてはあんまりな言葉に、直樹は思わず苦笑する。これでは施設の教員とあまり変わらないではないか。

「大丈夫だよ。怪我って言っても軽いし」

「でも……傷からバイ菌とか入ってたら、大変だぜ? 変な病気になったりとか……」

 祐未は心配そうに眉をひそめて、直樹の腕を軽く引っ張ってくる。

「……変な病気って?」

 直樹の周りにいる人間は、執拗に怪我からの感染症を疑うようだ。

「い、いや……わかんねぇけど、さ……」

 病院でも水島と三月兎がそんな話をしていた。知っているなら話せばいいのに、祐未も水島も直樹にはなにも話さない。

「……持ち出されたウイルス、なんでしょ?」

「え?」

 祐未にたずねてみると、面白いくらいすっとんきょうな声をあげる。
 視線を不自然に泳がせた少女は直樹の問いに答える気はないらしい。
 吐き気がした。

「さっき言ったよね? 知らないのは嫌だって。知ってることがあるなら話してよ」

 祐未に一歩近づく。彼女は気圧されたように一歩後ずさった。そして、あわてて首を左右に振る。

「なっ、なんで! なんでそんなことしってんだよ!」

「病院で水島先生が話してるの聞いたんだよ!」

 語るに落ちるとはこのことだ。うっかり自白してしまったことに気づかないまま祐未は驚いた表情で直樹を見つめている。

「全身黒ずくめのマクニール博士ってやつが言ってたんだ。『こちらの管理不足』でウイルスが蔓延してるって。それって、もともと管理されてたものが不手際で予想外の動きをし始めたってことだ。あのうなってた男は感染者だろ。そいつに噛まれた僕はまず間違いなくウイルスに感染する! だから病院であんなに入念な検査を受けたんだ。ただの連続殺人事件に祐未みたいなICPO捜査官がくるわけない。持ち出されたんだろ? 人工的なウイルスなの? 祐未が追ってるのは連続殺人の犯人じゃないんだ!」

「なお……」

 祐未が直樹の名前を言いかける。

「本当なんだね? びっくりした顔してる」

「顔色が悪いぞ……」

 声を荒げたせいか、なんとなく息苦しかった。

「へへっ、祐未は驚いた顔してるよ」

 背中に嫌な汗が浮かんでくる。

「……イタズラ上手くいったガキみたいだぜ。顔色悪いくせに」

 祐未が驚いた表情のまま、あきれた声を出した。

「ははっ……ははははっ」

 その表情を見るだけで無性に笑い出したくなる。ただひどく息苦しかった。

「おい、本当に顔色悪いぞ……?」

 祐未が不安そうにつぶやいて直樹の顔を覗きこむ。

「大丈夫だよ、別に……っ」

 直樹が突然体を震わせる。
 息を吸いこんだすぐ後に、肺が痙攣したような気がした。強風を真正面から受けているような感覚だ。吐き出されるはずの空気が出てこない。肺が空気をためこんだまま機能を停止したようだ。

「……っ!」

 息が上手くできない。そのせいか、手足がしびれるような感覚に陥った。

「直樹っ、直樹どうしたっ?」

 気づいた祐未が直樹をささえる。
 今日男に肩を押されたときも似たようなことになった。
 足と手の感覚がない。動かそうと思っても動かない。今回はそれにくわえて、呼吸もうまくできなかった。

「おいっ、直樹、直樹大丈夫かよ!」

 呼吸ができないから、返事ができない。

「直樹、やっぱり病院いこうぜ」

 けれど彼女の提案だけはなんとか首を振って否定した。真実を教えてもらえない、あんな場所は嫌いだ。

「……だい、じょうぶ……」

 やっとのことでそれだけ答える。
 肺がゆっくりと動き始めて、手足の感覚も戻ってきた。足が動かなくなったときもすぐに治ったし、一時的な発作のようだ。病院にいかなくても放っておけばすぐに治る。

「けど、直樹ぃ……」

 うつむいた直樹の顔を覗きこむようにしながら、祐未が情けない声を出した。

「大丈夫」

 今度こそはっきりと意志を表明して、自分の肩におかれた手をどける。提案をはねつけられた祐未がますます泣きそうな顔をした。

「怪我をしただけだよ。本当なら入院するほどのことじゃない」

 頭の傷も腕の傷も縫ったりはしなかった。化膿止めでも塗ってその上から包帯を巻いておけばいいだけの話だ。

「大丈夫だよ」

 まだなにか言おうとした祐未より先にはっきりと宣言した。そうなれば彼女はもう何も言えなくなる。

「……なんかあったら連絡しろよ。携帯の番号は施設の人に教えといたから、あとで聞いてくれ」

 色々と言いたいことはあるだろう。けれど祐未はそれだけ言い残して直樹に背中をむけた。

「うん。送ってくれてありがとう」

 相手から見えはしないだろうが、彼女の背中にむかって軽く手をふる。
 そして結局、祐未から詳しいことを聞き出せていないことに気づいた。

「まあ……いっか」

 そしてすべてを知りたいはずの少年は、不気味なほどあっさりとあきらめの言葉を口にして、ため息をついたのだった。
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