パブロフの兎


歪んだ彼女と歪んだ彼その2

 運転手はなにも聞こえていないかのように祐未とテオの会話を聞いても微動だにしない。それが彼の仕事なのだから仕方がないが、人間味がなさすぎて少し気持ちが悪かった。

「事件のことは隠蔽しておく必要がある。情報規制を徹底しておけ。あんなガキに嗅ぎつけられたらたまらない」

 言いながらテオは可笑しそうにクスクスと笑った。どうせ自分が誰かに出しぬかれることなどないと思っているのだろう。口では祐未に警戒しろといっているのに、顔からは油断になりそうなほどの余裕がみてとれる。彼の笑顔は直樹のことをなにも考えていないように見えた。実際なにも考えていないだろう。それがわかるから、祐未の頭にカッと血が上る。

「直樹は……例のヤツに腕噛まれたんだぞっ! 病気かもしれねぇのに病院ぬけ出しちまって連れ戻しもしないなんて! なにかあったらどうすんだよっ!」

 祐未の怒鳴り声を聞いてテオがゆっくりと顔を動かした。いきなり本屋で友人が『なんで万引きしちゃだめなの?』と聞いてきたかのような表情で祐未を見る。バカにあきれている表情だ。

「適切な治療を受けていないにも関わらず体調に大きな変化は見られない。感染に関しては心配ない」

「なんでそう言い切れンだよ!」

 祐未がさらに怒鳴ったのを聞いてテオがため息をついた。口元に浮かぶ笑みは消え、あきれそのものの表情で吐き捨てる。

「お前よりかはウイルスにも治療方法にも詳しいからだ」

 そこで祐未は言葉を失った。バカな自分よりテオのほうが何倍も冷静な判断を下せることは知っている。
 けれど彼の判断は冷静すぎて非情なのだ。
 テオの判断にだけ従っていては直樹が命を落とす危険性がある。直樹が感染するかもしれない病気は発見されて十年も満たない新種のウイルスによるものなのだ。
 突然変異があるかもしれない。亜種だってまだ発見されていないだけでいるかもしれない。
 もし今発見されている種類より、潜伏期間が長い亜種に感染していたら?
 このまま放っておけば、直樹が死んでしまう。

「まだ、まともに検査もしてない……やっぱり病院に入ってもらったほうが……」

 うつむいて両の拳を握りしめる。自分の手を凝視してつぶやいたときだった。すぐ横でなにかが動いたのを感じる。
 避けようとするが狭い車内では思うように動けない。青白く細いテオの腕が祐未の顔面を思いきり殴りつけた。

「……っ」

 祐未の鼻頭に強烈な痛みが走ったが、声をだすことだけはなんとかこらえる。生暖かいものが彼女の頬を伝った。多分鼻血だろう。

「誰に向かって口をきいている?」

 祐未が流れてきた血を拭うよりも早くテオが彼女の胸ぐらを掴んで車のドアに押しつけた。運転手は相変わらず微動だにしない。いつのまにか祐未のすぐ近くまで詰め寄ってきたテオは、嘲笑と暴力的な愉悦をないまぜにしたような笑みを浮かべて口を開く。

「お前は、どうせ俺に逆らえないんだ」

 首が締めつけられて呼吸ができない。苦しい。
 けれどテオはその細い体のどこにそんな力があるのか、祐未の首をぎりぎりと締めつけてくる。

「だから従え。逆らうだけムダだ」

 優越感と嘲笑の入り交じったテオの笑みがより強くなった。酸欠で目の前が暗くなってきた祐未を見て、テオが楽しそうにクスクス笑う。青白い男の顔が近づいてきて、すぐ耳元で見下すような笑い声が聞こえる。

お茶会の始まりだTime for mad tea party!」

 祐未の意志とは関係なく体が大きく震えた。男はクスクスと楽しそうに笑いながら彼女の体を解放する。
 身体中の血が沸騰しそうに熱い。呼吸がどんどん荒くなり、体の痙攣も強くなっていく。
 体をくの字に曲げてなんとか落着けようとするが、呼吸も痙攣もひどくなるばかりだ。
 頭上からテオの笑い声が聞こえる。
 体を震わせながら、祐未は人を見下すように笑っているテオを睨みつけてやった。

「クッ……ソ、やろぉお……」

 だがやはりテオは大して気にしていないようで、むしろさっきよりも楽しそうに嬉しそうに祐未を見下して笑っている。
 この男はどうしようもない性格破綻者だ。他人を見下して、自分に敵う人間は世界中に存在しないと思っている。祐未がこの男に逆らうことは許されない。彼は祐未の上司であり飼い主であり責任者だ。テオも祐未は自分に従うのが当然だと思っている。
 いや、きっと彼にとっては世界中が自分にしたがって当然なのだろう。

「地獄に、落ちろ……」

「誰に向かって言っている?」

 悔しくてつぶやくと、頬を思いきりはたかれた。口の中が切れて血の味が広がる。
 本当にどうしようもない性格破綻者だ。けれど彼の性格が歪んだ理由を、祐未は知っている。
 それに、それを言えば祐未の性格だって歪んでいるのだ。この男が地獄に堕ちるなら、祐未も地獄に堕ちるだろう。
 ずっと昔から同じ時間を同じように罪を犯しながら進んできたのだから……
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