パブロフの兎


ICLO

 その時祐未が最初に感じたのは痛みだった。身体中に針を突き刺されたように体が痛む。そのせいでいままで混濁していた意識が浮上し、飛び起きた。

――「……?」

 目に飛びこんできたのは見覚えのない白い天井で、彼女は思わず首をかしげる。
 自分はなんでこんなところにいるのだろう? 家族で旅行をしていたはずだ。父の運転する車で次の目的地を目指していたのだけれど……高速道路を下りてから、それからどうした?
 頭に靄がかかったようになにも思い出せない。体が重くて、とても怠かった。気をぬくと寝てしまいそうになる。実際もう一眠りしたかったが、身体中の痛みがそれを邪魔していた。

――「あらぁ、目が覚めたのね」

 目を閉じてはゆっくりと開け、また目を閉じるといったことを繰り返していた祐未の頭上から女の声がする。頭だけを動かして声の方向を見ると白衣を着た金髪の女が立っていた。

――「無事でよかったわ。大怪我して、死ぬかもしれなかったのよ」

 多分自分の母親と同じくらいの年齢だろう。白い肌に真っ赤なルージュがよく映える。赤で彩られた唇が笑みの形に歪んでいた。

――「ほら、この子助かったわよ。来てごらんなさい?」

 その女の顔を祐未は忘れない。
 彼女は優しげな笑みと口調で愉しみながら人を傷つける。テオの人生も祐未の人生も、この女に狂わされたのだ。

――「恥ずかしがり屋さんねぇ。それでも私の子供なの? テオ」

 ジュリアン・マクニール
 テオ・マクニールの母親であり、加虐趣味の塊のような歪んだ女だった。

――「ここは、どこですか……? おとうさんとおかあさんは……私の……」

 祐未が体中の痛みをこらえて涙まじりの声でたずねると、ジュリアンはとても嬉しそうに笑って質問に答えた。

――「ここはICLOっていうのよ。あなたは今日からここで暮らすの」

――「あ……なん、ですか……?」

 その意味が当時の祐未にはわからなかった。不思議に思って尋ねると、ジュリアンが笑顔を浮かべたまま答える。

――「あとで教えてあげるわね」

 ICLO。
 正式名称を国際総合研究機構というそこは、今でも祐未とテオが所属している国際任意組織だ。多数の先進国からの出資でウイルスのワクチン開発から兵器開発、地球温暖化対策まで幅広い研究を行っている。
 ジュリアンは、当時そこの研究員だった。
 彼女は頭の回転が速く道徳的なブレーキというものが存在しないので、人体実験を躊躇なく行える。まさに加虐趣味が高じて研究員になったようなものだった。

――「その前に、あなたに協力してほしいことがあるの」

――「なん、ですか……?」
 
 体が痛くて動かせず、祐未は涙声でジュリアンにたずねる。
 女はにっこり笑って

――「すぐすむわ」

 とだけ返してきた。

――「テオ。ちゃんとデータをとっておいてね」

 そして、横にいる祐未と同い年くらいの少年に話しかけた後、懐から小さな注射器を取り出す。

――「ちゅうしゃっ……」

 悲鳴をあげると体の痛みが酷くなったような気がした。ジュリアンは相変わらずにっこりと笑ったまま優しげな声で祐未に言う。

――「大丈夫。痛くないわ……打つのはね」

 そして包帯が巻かれた祐未の腕に小さな針を突き刺した。

――「……っ!」

 多分祐未にとってそれが初めての『苦痛』だったと思う。それ以前に自分が苦痛だと思っていたものは、まったく大したことのないものだったのだと実感させられた。

――「ひぃぃぃっ……」

 体中に感じていた痛みがさらに激しくなる。自分の声なのかも疑わしい悲鳴が口から飛び出して、意志とは関係なく体が大きく跳ねた。そのせいで、また体が痛くなる。

――「がっ、ぁっ、痛っ……いだっ……あぁああああぁあああぁああぁっ!」

 体がビクビクと激しく痙攣し始め、包帯から血がにじみ出てくる。身体中に刺さっていた針がずぶずぶと音を立てて体の内側に入りこんできたような感覚だ。
 ジュリアンの注射が原因だろうか。
 だとしたらなぜ自分にこんな注射を打つのだろう。

――「ぁああぁっ、ぎゃぁああああぁあああああぁああぁっ!」

 ジュリアンの横に立っている少年は目を見開いて祐未を見つめている。顔は無表情だったけれど足は震えていた。
 隣に立つジュリアンを目だけでみると彼女の足も震えている。顔も、とても悲しそうに見えた。
 一瞬だけ。

――「あぁああぁあっ、なんて可愛いのかしら! 泣いているの? 悲しいの? 私が憎い? なんでこんなことされたか知りたい? ねぇ、いきなりこんな注射打たれてあなたはどんな気分かしら? 辛い? 悔しい? 憎い? それとももう痛すぎて気持ちイイ? なんで泣いてるの? ねぇ何で泣いてるの? 教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて!」

 赤に彩られた口元が今まで見たこともないくらい嬉しそうに笑みの形を作る。眉をひそめていたから悲しそうに見えただけで、表情自体はとても幸せそうな笑顔だったのだ。それがどんな表情なのか当時の祐未には理解できなかった。
 『恍惚の笑み』という言葉がピッタリ当てはまるのだと知ったのは、五年くらい経ってから。テオに教えてもらったからだ。
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