パブロフの兎


ICLOその3

――「やっぱり祐未ちゃん可愛いわねぇえぇ、うちの子のほうがもっと可愛いけど!」

 そんないつ気が狂ってもおかしくない、いつ殺されてもおかしくない状況で、彼女は本当にたまたま生き残った。
 テオが生き残ったのもたまたまだろう。
 ジュリアンは、自分の息子だからといって手心を加えるような人間ではない。テオも祐未と同じようにたまたま生き残って、今はICLOで働いている。

――「ゆみ、とりひきしよう」

 テオにそう言われたのはいつ頃だっただろう。出会ってからそんなに時間は経っていなかったと思う。
 祐未がジュリアンの趣味に大人しくつきあったのは、最初の一回だけだ。それ以降は暴れて抵抗して、絶対に素直に従ったりはしなかった。
 祐未には家族がいるのだ。家族に会わせてくれとずっと叫んで暴れ続けた。
 テオが取引を持ちかけてきたのは、祐未の抵抗に研究員が辟易とし始めたころ。

――「おまえがちゃんと協力してくれれば、……てやるから」

 祐未が来るずっと前からテオはICLOの実験体だった。
 今まではたまたま生き残れた。だからこのあともなんとか生き残ろうとしたのだろう。
 彼は昔からとても頭が良かったから。
 テオが言い出したその取引のせいでジュリアンはICLOを追われた。結果がでるまで随分と時間がかかったけれど、現在ジュリアンはテオが被検体になるはずだった実験の被検体になっている。
 放っておけばそのうち死ぬだろう、とはテオの言葉だ。ICLOにジュリアンを被検体として差し出したのはテオ。
 母と息子の立場が逆転した場面を、祐未はすぐ近くで見ていた。

――「これであんたも終わりだ! せいぜい泣きわめけ!」

 彼の顔は憎しみと悲しみと喜びがない交ぜになって、よくわからない表情を作り出していた。
 それを見たとき祐未は……テオは、きっとジュリアンのようにはならないだろうと思ったのだ。
 他人を傷つけるのに憎しみと悲しみが必要な人間はジュリアンのようにはならないし、なれない。

――「あんたが今までいたぶってきた奴らと同じ末路だ、悔しいだろう! これで俺は両親とも実験体なワケだ!」

 テオの笑い声が、祐未には悲鳴に聞こえた。
 テオの父親は誰なのか祐未は知らない。なんでも実験体の一人だったらしいが、顔を見たことはなかった。
 きっとジュリアンのペットで慰み者だったのだろう。テオや祐未と大して変わらないあつかいだったに違いない。
 ジュリアンは人をいたぶるのが好きで、人を苛むのが好きな加虐趣味の塊だ。子供を作ったのだって半ば無理矢理であろうことは容易に想像できる。
 そんな母親に育てられたテオだから、見下される前に他人を見下し、傷つけられる前に他人を傷つけるという護身術を身に着けた。
 そんなに人間嫌いでそんなに人間が怖いなら関わりを絶ってしまえばいいのに。テオにそれができないのは結局のところ寂しいからなのだということも祐未は知っている。他人が自分に従って当然だと思っているのはそう思わないと寂しくて仕方がないからだろう。
 一人で死ぬのが怖いのだ。独りでいるのが嫌なのだ。
 人が嫌いで人が怖いくせに、一人になるのも嫌いで独りになるのも怖いから、彼は他人を見下し傷つけながらも人の傍にいる。
 テオはジュリアンにはなれない。
 人を傷つけて悦に浸れるほど、強い人間ではないのだ。
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