パブロフの兎


Rabies

「直樹!」

 ならなんの扉が開いたのか?
 簡単だ。
 不安感と興奮性で攻撃的になっている獣どものゲージが開いたのだ。

「……っ!」

 陸を追いかけようとした直樹の目の前に、赤い目を光らせた犬が飛び出す。
 鋭い歯がずらりとならんだ口を開け獲物に向かって襲いかかる。直樹が危ない。
 だから祐未の体は、その時勝手に動いていた。

「どけっ!」

 乱暴に直樹の手を引きながら体を一回転させ、遠心力で直樹の体を自分の背後に放り投げる。

「祐未っ!」

 背中からバリバリと嫌な音が聞こえて肩口のあたりに何かが食いこんだ。湿った息と唾液が背中にあたって不快だ。犬の鋭い歯が、血管と肉を傷つける。犬の唾液と一緒に祐未の血が背中を伝った。

「グァルルルルルル!」

 犬のうなり声がする。噛みつかれた肩口に強烈な痛みが走った。首を振って肉を食いちぎろうとしているのだろう。犬が祐未の背中に爪を立てているのも、痛みの原因だ。

「ぎっ……」

 祐未の血と犬の唾液が混ざり合って背中を伝う。それが傷口の上を滑り落ちてさらに痛みが増した。

「うわぁあああぁああぁあぁっ!」

 直樹が叫ぶ。
 今なら壊れたドアから逃げられるだろう。
 どれだけ傷ついても訓練も受けていない獣どもに負ける気はしない。だから今のうちに逃げろ、と直樹に伝えようとした。
 口を中途半端に開けたまま直樹を見る。
 それは見ようによっては酸欠の金魚か死ぬ直前の人間に見えたかも知れない。
 でも、きっと直樹にそう思う余裕はなかっただろう。

「姉さんからはなれろぉぉぉぉぉぉぉぉおおっ!」

 彼は祐未が逃げろというよりも先に走り出していたのだ。

「キャンッ!」

 赤目の犬は横腹に思いきり蹴りを入れられ、悲痛な叫び声をあげる。そのまま祐未の体を離し、二、三度地面に叩きつけられたところで体勢を立て直した。

「姉さん、姉さんっ!大丈夫っ?」

 叫んでいたときのさまざまな感情が入り交じった視線とは違う、ただ純粋に相手を心配して気遣っている目だった。

「おっ、おう……大丈夫、だぜ……!」

 少し背中が痛い。

「姉さんっ!」

 直樹の目にみるみる水の膜が張られていく。
 祐未は弟が泣くのを見るのは嫌だった。なんとか元気づけようと笑顔を見せる。そのまま立ち上がって無事をアピールしようとしたが、背中の痛みが邪魔をしてしばらく立ち上がれそうになかった。
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