パブロフの兎


病院にて

 直樹が目を覚ましたのはベッドの上だった。白い天井が最初に見える。次に自分の寝ている白いベッドを確認してからここが病院なのだと理解した。
 腕と頭には包帯が巻かれているようだ。服は貸し出しであろう入院着に変わっている。吐瀉物が付着した服でベッドに寝かせるわけにはいかないだろう。

「あら、目が覚めたのね」

 ぼんやりとあたりを観察していると、ちょうど見回りにきたらしい看護婦が直樹に気づき声をかけてきた。

「はじめまして、あなたの担当看護師よ。金沢っていうの。よろしくね」

 染めているのか、ナースキャップから覗く髪は少し明るい茶髪で、地味な色の口紅をつけている。

「よかったわぁ、昨日の夜連絡があってね。女の人が、道ばたで倒れてたあなたを病院まで運んできてくれたのよ。今日お見舞いにくるっていってたから、その人が来たら紹介してあげるわね」

 金沢の明るい声を聞いて直樹はなんとなく意識が途切れる前に聞いた声を思い出す。病院に連絡をいれてくれたのはおそらくあの声の主だろう。

「怪我もたいしたことないみたいだけど、頭を怪我してるから、後で検査を受けてもらうわね」

 直樹に体温計を渡しながら金沢は言った。彼女の言葉に頷き体温計を脇に挟む。これで検温が終わるまでは手持ちぶさただ。
 突然部屋の入り口からノック音が響いた。
 部屋に入ってきたのはスーツを着た二人の男だ。今までにこやかに笑っていた金沢が少しだけ顔をしかめる。男二人はそんな彼女の変化に気づいているのかいないのか、口を開き固い声を出した。

「失礼。白井直樹君の様子はどうですか?」

 思いがけないところで自分の名前が飛び出し、直樹は思わず顔を上げる。金沢は少し暗い表情のまま男たちの言葉に

「ええ」

 とうなずく。

「少しお話を聞かせてもらいたい」

 金沢は今度こそ表情を完全に曇らせた。

「……患者は、さっき意識を取り戻したばかりです。ムリはさせないでくださいね」

「ええ。わかってますよ」

 この口調だと、本当にわかっているかどうか怪しいな。
 直樹はとっさにそう思ったが口には出さない。

「直樹君、少しいいかな……昨日の夜のことなんだが」

 男の一人がゆっくりと直樹に近づいてきて横の椅子に腰を下ろす。まっすぐに直樹の目を見すえながら、彼はスーツの内ポケットに手をつっこみそこから警察手帳を取り出した。

「なんですか」

 本物の警察手帳、初めて見たな。
 少年はどうでもいいことを考えながら刑事の質問に首をかしげて見せた。
 検温の終了を知らせる電子音が聞こえてきたので、体温計を金沢に手渡す。受け取った彼女はありがとう、と小さく微笑み表示された温度を確認した。

「最近、このあたりで撲殺事件が多発しているのは知っているね? すでに五人の死者が出ている。動物もあわせると、ここ三週間で発見された撲殺死体は二十を越える。それで、昨日君が倒れていた路地にも……」

「……撲殺死体があったんですね?」

 二人の男がほぼ同時に言葉を詰まらせる。二、三秒の沈黙のあと椅子に座った男が

「そう。だから昨日の夜何があったかのか、覚えているかぎりでいいから教えてくれないかな」

 体温計をケースに戻した金沢が、部屋の外へと出て行く。
 部屋を出るとき彼女は心配そうな表情を浮かべた。直樹が会釈をすると、巡回のスケジュールが詰まっているのか足早に廊下を歩いて行く。

「覚えていること、ですか」

 刑事の言葉を反すうして直樹はうつむく。昨日の夜に見聞きしたすべてが現実味にかけていた。けれど夢でないことはわかっているから、頭の中でゆっくりと昨日の出来事を整理していく。
 化け物は二匹とも人のような形をしていた。途中ででてきた一匹がもう一匹を殴り殺し……そこから先はあまり覚えていないが、よく生きていられたものだ。自分の悪運の強さにほとほと感心してしまう。
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