パブロフの兎


祐未

「……殺されていたのは、男ですよね? 銀髪赤目の」

「そう。なにか思い出せるかい?」

「あの男、とても正気とは思えませんでした。口から唾液をたらしてうなり声をあげて、突然僕に噛みついてきたんです。腕の傷はあいつにやられました」

 刑事が無言で顔を見合わせる。けれど直樹の言葉をさえぎることはせず、男たちは無言で話の続きをうながした。

「……なんとか引きはなそうとしたんですけど、はなれなくて、暴れたり殴ったりしているうちに、いつのまにかもう一人、銀髪で赤目の……誰かがきて、男を殴ったんです」

「その人の特徴は?」

 刑事が直樹に向ける目線は、懐疑的だった。

「暗かったので、よくわかりません。銀髪で、赤目だったことしか。たぶん男じゃないでしょうか。女の人には、人なんて殴り殺せないですよね。そいつもうなり声を上げてて、たぶん、マトモじゃないですよ」

「……直樹君が路地に入った時、男はもういたのかな?」

「いませんでした。後から来たんです」

「逃げようとは思わなかった?」

「逃げようとしました。でも、動けなかったんです」

 病院の個室で淡々と会話が交わされていく。横に立っている刑事が黙々とメモをとり続けていた。

「あの路地の前で、同級生とぶつかっちゃって、それで因縁つけられて……あそこにいたのはそいつらに連れこまれたからで、あの男がくるまで殴られたり蹴られたりしてたからうまく体が動かなかったんです」

「じゃあ、彼らもその男を見たのかな?」

「見たけど、あいつらはすぐに逃げたから」

「君は体が痛くてうまく動けなかった?」

「はい」

「じゃあ、その男を殴り殺したっていうもう一人の男について、なにか思い出せることはないかな? なんでもいいんだけど」

「だから、暗くてよく見えなかったんです。銀髪で赤目ってのは覚えてますけど、男かどうかもよくわからない」

「暗くてよく見えなかったのに、銀髪と赤目だけは見えた? 性別もわかった?」

「……どういう意味ですか?」

 多分目の前の二人は、自分の言うことを信用していない。表情を見てそれを感じとった直樹は、眉をひそめて低い声をだす。けれど椅子に座った男は直樹の変化になんの反応もしめさず、ただ淡々と言葉を口にする。

「君のいうことが本当なら、自己防衛は認められるよ? その、君を殴ってたって同級生にも話を聞けば裏がとれるし」

「男だと思ったのは、殴り殺しているのを見たからです! 別に確認したわけじゃない。ただの予測ですから!」

「銀髪と赤目が見えたのは確かなんだね?」

「明るい色だったから、たまたま見えただけですよ! あいつらはなんなんですか! ヤク中ですか? 外人なんですかっ?」

 後半、直樹はほとんど怒鳴っていた。
 疑われている。
 状況が状況だから仕方がないだろうが、それにしても不快だ。
 刑事二人は直樹の質問に答えようとはせず、ただ顔を見合わせてうなずきあうだけだ。苛ついて、もう一度直樹が声を荒げようとしたとき、部屋のドアが大きな音を立てて開いた。

「てめぇらっ! 目ぇ覚ましたばっかりの怪我人にムダな体力使わせるんじゃねぇぞ!」

 それは若い女の、というより、直樹と同い年か少し上くらいの少女の怒鳴り声だ。
 毛先に少し癖のある黒髪をミディアムボブにし、黒縁の丸めがねをかけている。一触即発という四文字熟語の書かれたTシャツにジーパンといったラフな格好をしており、半袖から覗く腕はとても細かった。細いといっても、折れてしまいそうな弱々しさはなく、マラソン選手と言われれば納得してしまうような引き締まった体をしている。

「ゆっ、祐未さん! お疲れさまです!」

 今までどれだけ直樹が怒鳴っても表情一つ変えなかった刑事たちはそれが嘘のようにあわてふためいた。
 椅子に座っていたほうはあわてて立ち上がり、二人で祐未という名前らしい少女のほうを向いてキッチリとした敬礼をしてみせる。自分よりはるかに年上の男二人に敬語を使われた祐未は、けれど不機嫌さを隠そうともせず彼らを怒鳴りつけた。

「調書とるのは勝手だがなぁ、ムリに話聞いてソイツになんかあってみろ! テメェらの目ん玉スプーンでスイカみてぇにくりぬいて口に突っこんでやるからなぁ!」

 少女の脅し文句を聞いて直樹は思わずスイカをスプーンで食べたときの感覚を思い出した。くるん、とスプーンを動かして丸い形にくりぬける赤い果肉を想像してしまったあと、気持ち悪くなってとっさに頭を振る。刑事二人も直樹と似たようなことを考えたらしく、心なしか顔が青くなっていた。少女はまだ怒鳴りたりないのか、腰に手を当てて大きく口を開く。
 けれど彼女が叫ぶ前に、廊下からバタバタと騒がしい足音が近づいてきた。

「病院内はっ! 静かにしてくださいっ!」

 むしろその声のほうが今までの怒鳴り声より大きいだろう。
 入ってきたのは直樹の検温をした金沢で、顔はさきほどの曇った表情や笑顔からは想像もつかない恐ろしい形相になっていた。

「すっ、すんませんっ……!」

 刑事二人に敬語を使われる少女もさすがに恐れをなしたらしく、少し青い顔で謝罪の言葉を口にする。刑事二人は少女の脅し文句と金沢の怒鳴り声のダブルパンチでさっきよりもはるかに青い顔をしていた。
 病室が静かになったことが分ると、金沢は気を静めるためか軽く息をついて怒りの形相からナイチンゲール然とした優しげな笑顔に変わる。

「……今度から気をつけて下さいね」

 さっきまでのやりとりが嘘のような穏やかな声だった。
 祐未と刑事二人がこくこくと何度もうなずくのを確認し、彼女はゆったりとした足取りで病室に入ってくる。
 そして直樹の近くにやってくると祐未にてのひらを向けて見せた。

「直樹君。この人が昨日の夜、君を病院に運んできてくれた祐未さんよ」

 祐未があわてて直樹と金沢に向かい、頭を下げる。こちらもさっきまで怒鳴り散らしていたのが嘘のような大人しい態度だ。
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