デルタの番犬


テオの災難

 耳元で電話の呼び出し音が響く。しばらくして音が途切れ、変わりに女の声がした。

「はぁい?」

 声は舌足らずで、今起きたばかりであることを物語っている。

「今何時だと思っている」

 思わず小言を言うと

「うるせぇ」

 と、まだ拙いしゃべり方で言い返された。何時もどおりの反応におもわず笑みを漏らし、気を取り直して言葉を続ける。

「30分以内に第三検査室に来い。調べたいことがある」

 電話越しにバタンと大きな音が聞こえた。勢いよくベッドから起き上がってなにか落としたかしたのだろう。相変わらず粗暴な女だ。

「はあ? なんでいきなり!」

「口答えは許さん。いいから、30分以内に来い」

 受話器からはまだ女の怒号が聞こえていたが無視して通話を終了させる。机にあった紙片に目を通すと、身体検査結果がまとめられた紙の隅にボールペンで走り書きを始めた。ボールペンを持つ指は細くしなやかで病的なまでに白い。一見すると女性と見間違えそうだ。グレーのYシャツに黒いネクタイをつけ、そのうえから白衣を羽織っている。胸元につけられた名札には『ICLO人体強化研究部主任 テオ・マクニール』の文字。現在彼は険しい顔つきで手元の資料を見つめている。スタンド型の大型ルーペで紙片の文字を拡大し、炎のようにギラギラと光る紅い目で少し読み進めてはいったん手を止めて考え込むの繰り返し。そうして先ほど呼び出した少女が来るまでに少しでも考えを纏めておくつもりだった。

――ガタリ

 不意に隣の部屋から物音がしてテオが顔を上げる。
 隣は研究サンプルの保管室だ。三号保管室と呼ばれるそこには不安定な物質もいくつか保存されており、誰かが不注意で壁にぶつかっただけでも保存状態に問題が発生する可能性がある。ここで働く人間、特にサンプル保管室に出入りするような人間なら細心の注意を払って行動すべきだと解っているだろうに、どうやら少し注意する必要があるようだ。
 ゆっくりと椅子から立ち上がって三号保管室のドアノブに手をかける。さっきの音以降小さな物音さえもしなかった。人の気配もないように思える。テオの気配を感じる能力などたかが知れているから、息を殺している人間が中に居た場合は解らないだろう。こんな場所で息を殺している人間などいたらそれこそテオには対処しきれない事態だ。ここの警備システムはしっかりしているから侵入者などいるはずがない。あの物音はテオの聞き間違いだったのかもしれない。
 なんにしろ、物音がしたのだから室内を確認しておく必要があるだろう。保管室に入ろうとしてテオは一瞬動きを止めた。

「……?」

 ICLOのサンプル保管室はすべてIDカード式の電子ロックが採用されている。不用意にサンプルの扱い方が解らない人間が近づかないように、またサンプルを施設外に持ち出されないように限られた人間しか出入りできないようになっている。その電子ロックが動きを停止していた。扉は手動で動かせる状態になっている。
 異常事態発生と判断したテオが保管室の中を覗き込んだ。

「……誰かいるのか!」

 彼が声を荒げると暗がりの中でなにかが動く。テオより早く暗がりの人影が動いて、直後パンッ、と風船が破裂したような音がした。しかしそれほど音は大きくない。

「がっ……!」

 テオの身体に衝撃が走ったのは破裂音とほぼ同時。襲ってきた衝撃と痛みに男は膝をついた。思わず手で押さえた脇腹からはじわじわと赤黒い血が噴き出してくる。どうやら銃で撃たれたようだ。空気の破裂音はそれほど大きくなかったから、おそらくサウンドサプレッサーを使用していたのだろう。テオの身体が彼の意志に反して前のめりに倒れ込む。その横を一人の男が足早に走り抜けていった。トドメを刺す気はないらしい。施設内で発砲してしまった手前その時間さえも惜しいのか。

「ぐっ……」

 傷口から血が流れ出してくる。意識が朦朧としてきて視界が霞む。身体の末端が冷えていく。危険な状態だ。

「……っ、ぁ……!」

 もはや息をするのも苦痛だった。撃たれた場所が悪い。助けを呼ばなくては。

「テオ! どこにいンだよ!」

 廊下の向う側からバタバタと騒がしい音が聞こえてくる。若い少女の――祐未の声だった。あの銃声を聞きつけて走ってきたのだろう。テオは血で真っ赤に濡れた手をゆるゆると動かし、壁を叩く。ダン、と弱々しい音がした。
 しかしその弱々しい音は彼女の耳に届いたようで、眼鏡をかけた黒髪の少女がテオの霞む視界に入り込んでくる。

「テオっ!」

 彼女に言いたいことはあるのだが、いかんせんもう喋る気力がない。
 テオに近寄ってきた祐未は着ていたパーカーを脱いでテオの脇腹に縛り付けた。強い力で傷を圧迫されテオが呻く。祐未は気にした様子もなく、パーカーをさらに強く縛りあげながら叫ぶ。

「誰かっ! テオが怪我してる! 担架もってきてくれ! テオ、何があった!」

 もはや口さえ開けない。問いかけに答えることはできず、霞んだ視界に少女の顔をみながらテオの意識がぷつりと途絶えた。
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