バナナフィッシュにうってつけの日


2

「なあテオ、バナナフィツシュってなんだ?」

 裕未が尋ねると、目の前の男がピタリと動きをとめた。炎のようにギラギラした紅い目が裕未を捉える。

「なんだ、突然」

 椅子に座ったまま向き直る男の肌は白く、髪は色素を忘れた白銀だ。壁も天井も白いこの部屋に溶け込んでしまいそうな、現実離れした白。
 バナナフィツシュの話をしてくれた男とは似ても似つかぬテオの容姿を見つめながら、裕未は言う。

「今回仕事してた男がいってたんだ。説明してくれたんだけど、あたしにはよくわかんなかった」

 テオは裕未の話を聞きながらも、彼女の服の袖をめくる。そして、青く浮き出た血管に注射の針を突き刺した。裕未の仕事が終わる度に身体検査をするのはテオの趣味だ。本人は仕事だと言っているが、裕未は趣味だと確信している。
 赤黒い血を抜き取りながら、テオが口を開く。

「ああ、お前はバカだからな」

「わるかったな」

 裕未が口を尖らせると、テオは可笑しそうにクスクスと笑い、血の入った注射器を銀色の容器に入れた。

「バナナフィツシュは、サリンジャーのバナナフィツシュにうってつけの日という短篇に出てくる架空の魚だ。帰還兵の男が、海岸で少女に語った寓話に登場する。男性器の比喩だの世界の縮図だの戦争を表しているだの色々な説があるが、サリンジャーは明確な答えを出していないから、結局謎のままだ」

「……ほんとにいる魚じゃねぇの……?」

 テオに説明されても、やはり裕未にはよく解らなかった。首をかしげて尋ねると、テオが呆れたようにため息を吐く。失礼な男だ。

「どんな説明をされたかしらんが……どこの世界にバナナ穴やらバナナ熱なんてものが存在すると思うんだお前は」

「あたしに聞くなよ」

 裕未だってちょっとおかしいとは思ったのだ。けれど世界中にいるというからいるのだろうと思った。陸にも建物のなかにもいるというのは、さすがになにかの例えだろうとは思ったけれど。
 裕未がその場でふてくされていると、やがてテオがクスクスと笑いはじめた。

「なるほど、シビルより純粋な生き物ね。これなら、シーモアは死なずにすんだのかもしれん。いや、しかし案外……さらに死に急いだかもな……」

 裕未には、その言葉の意味が解らない。

「シビルって誰だよ」

 眉をひそめて呟くと、テオは笑いながら

「バナナフィツシュの寓話を聞いた子供の名前だ」

 と答える。バカにされているようで裕未はおもしろくなかった。口をへの字に曲げている裕未を見て、テオが笑い声を大きくする。裕未がますます気分を害して顔を歪めると、それに気付いたのかテオがうすら笑いのまま裕未に言う。

「……で、お前はなんでそんな事を聞いてきたんだ」

「だから、説明されたけどわかんなかったんだよ」

 この男は人の話を聞いていなかったのだろうか。裕未が答えると、テオは相変わらず口の端をあげたまま楽しそうに目を細める。

「それだけではないんだろう? お前は、説明されても解らなければそのまま放っておく女だ」

 どうやら彼は、なぜ裕未がバナナフィツシュに興味を持ったのかが知りたいらしい。裕未は別に話してもいいのだが、理由を知ったテオにまたバカにされるかもしれないと考えるとすこし憂うつだ。

「……この世界に生きてるものは、みんなバナナフィツシュなんだって、いわれた。だから、ほんとはどんな魚だろうって思って」

「……ほう?」

 だがバカにされると思った裕未の予想に反して、テオは彼女の言葉に興味を抱いたようだ。男が口元に浮かんでいた笑みをさらに強めて身を乗り出すさまを、裕未は不思議な気持ちで見ていた。

「バナナフィツシュの寓話は、欲望の制限がきかない人間を比喩的に表したのだという解釈もある。当然、生き物はすべて欲望の制限がきかない『バナナフィッシュ』であるという解釈もでてくるだろう。お前にバナナフィツシュの話をした男、どんな奴かは知らないが、俺と話があいそうだ。一度あってみたいな」

「……死んだよ、そいつ」

 笑いながら呟くテオに裕未が言うと、彼は浮かんだ笑みを隠す様子もなく

「そうか、残念だ」

 と、まったく残念だと思っていないような様子で呟いた。ヒトデナシ、と裕未が吐き捨てるけれど、テオには綺麗に無視されてしまう。彼女の呟きに答える変わり、テオはことさら大きな声でクスクスと笑った。

「やけにその男にご執心だな。まさか寝たことがあるわけでもあるまい?」

 皮肉めいた言葉に、裕未は思わず眉をひそめる。

「そんなんじゃねぇよ」

 吐き捨てると、テオはまた笑い声をあげた。この男の性格の悪さは、折り紙付きだ。

「だろうな」 

 裕未の言葉を聞いたテオはどこか嬉しそうで、裕未はそれがまた癇に障る。この男は裕未に自分で選んだパートナーとの性交渉などできないと思っていて、実際裕未はそういう感情や方法がよくわからない。テオはそんな裕未を知っていてなおかつ、裕未が自分の知らないあいだに変わる事を酷く嫌っていた。子供がおもちゃを取られたくないのと同じ原理だ。おもちゃ認定された人間には堪ったものではない。

「自分勝手だよな、お前って」

 裕未の言葉を聞いて、テオがまたクスクスと笑う。

「人間だからな」

 言葉を吐き出す唇は半月型の弧を描いていて、とても嬉しそうだった。笑う銀髪の男を見つめながら、裕未はゆっくり先ほど説明された内容を咀嚼していく。
「……人間が……バナナフィッシュなのかな……」

「人間も、バナナフィッシュなんだ」

 裕未の言葉には、すぐさま目の前から訂正がなされた。テオが相変わらず嬉しそうな顔をしたまま、口を開く。

「生き物はそれが己にとって危険でない限り、己の欲望や本能を自制したりなどしない。共存とはあくまで生き延びるための手段であり、弱肉強食とそれに伴うサイクルは必然の結果であって、生き物が意図してやっているわけではない。一定の種が他の種を圧倒する力を持った時は、いかなるサイクルであろうと共存関係であろうと、力を持った種によって力の及ぶ範囲で破壊される。それは生き物全体が、自らの欲望や本能を自制し得ないという確固たる証拠だ」

 テオの言っている意味がわからず、裕未は思わず首をかしげた。裕未が理解していない事を悟ったのか、テオは口の端を歪めたまま裕未のほうに手をのばしてくる。

「バナナを食わずにいられるバナナフィッシュが存在しないように、欲望や本能を自制できる生き物なんて存在しないということだ」

 男の手が裕未の首筋に触れた。ちょうど頸動脈のあたりに触れているから、脈を計っているのだろう。

「それって、悪いことなのか?」

 裕未が尋ねると、テオがこの上なく嬉しそうに笑った。てっきり馬鹿にされると思っていた裕未としては意外な反応だ。彼は裕未の質問に答える代わりに、上機嫌な笑みを浮かべながらこう言った。

「……お前は、俺が知り得るなかで最も美しいバナナフィッシュだ」

 驚きに裕未が目を見開くが、テオはそれにかまわず笑っている。裕未はあわててテオの目をまっすぐ見つめ直し、あらためて彼に問い掛ける。

「あいつにも……おんなじこと言われたんだ。どういう意味だよ?」

 裕未が口を動かしている途中に、首筋を触っていたテオの手が動いた。裕未の顎を少し強い力で持ち上げて、笑顔のまま口を開く。

「その男の話は終わりだ、裕未」

 上機嫌な笑顔なのに、口調はどこか乱暴で不機嫌そうだった。

「……なあ、バナナフィッシュみたいな生き方は、悪いことなのか?」

 裕未が再度尋ねると、テオは上機嫌な笑みをことさら強くしてみせた。

「いっただろう? 生き物すべてがバナナフィッシュなんだ。良いも悪いも、生き物はその生き方しかできない。高等な生き物ぶって欲望を制御しようとするほうが、よほど無様な結果を産むさ」

――どんな生き物にも、隻手の声は聞こえない。

 テオはそう言って、裕未の顎に添えた手に力を込める。

――聞こうと思えば、どんな音だって、きっと聞こえるよ……

 裕未はテオのギラギラ燃える紅い目を見ながら力なく答えて、静かに目を瞑った。
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