パブロフの兎


リンゴとナイフ

「殺されかけたうえに疑われたんだ。気になるじゃないか」

 知らないことは嫌だ。
 吐き気がする。
 直樹は、家族の顔を覚えていない。
 幼いころに家族が死んだらしいがすべて人づてに聞いただけで、自分ではなにも覚えていない。
 自分の運命を左右した事故を、自分が覚えていないのだ。
 初めてそれを悔しいと思ったのはいつだっただろう。
 とにかくその日から直樹は知らないことが大嫌いになった。
 もう蚊帳の外にいるのは嫌だ。
 知らないまま翻弄されるのは嫌だ。
 とにかく、自分が少しでも関わったことならどんなことでもすべて知りたい。
 何も知らないままでいるのは絶対に嫌だ。

「なにも知らないまま忘れろなんていうのはムリだよ。教えても問題ない範囲で大丈夫だから、せめて僕がなにに巻きこまれたかくらいは教えてね」

 祐未は複雑な表情を浮かべたまま、ゆっくりとうなずいた。

「でも話せることはあんまりないと思うぜ……?」

 二度目の言葉は忠告のようであると同時に、なにかの予防線のようでもあった。少しだけ空気が重くなったのを感じる。
 祐未がまとわりつく空気を払拭するように、わざとらしい明るい声を出した。

「ここくる途中にさぁっ、フルーツ盛り買ってきたんだよ! どれ食いたい? 今から皮剥くからさっ」

「え? えっと……」

 唐突な話題転換について行けず、直樹はあわてて声をあげる。さっきまでの曇った表情とは違い、ニコニコと笑う祐未になんと言って良いかわからず果物カゴに視線をうつした。

「あー……じゃぁりんご……」

「りんごだなっ!」

 とりあえず、最初に目に入ったものの名前を言う。すると祐未が弾んだ声で答え、カゴからむんずとりんごをわし掴んだ。

「ちょっとまてよー皮むくやつもさぁ、さっき買ってきたんだよ、百均で」

 折り紙の羊が散乱したテーブルにりんごを二つ置いたあと、果物カゴの中をさらにあさる。少しのあいだ果物カゴと格闘して彼女が探し当てたのは、包装されたままのピーラーだった。おそらく買ってすぐに手近な果物カゴに突っこんだのだろう。けれどどうせ果物をカットする必要があるのだから買うなら果物ナイフのはずだ。

「……ナイフは?」

「……え?」

 カゴの中に果物ナイフが入っている様子はない。祐未は最初こそ目を丸くしていたものの、すぐに己の失態に気づいたらしい。

「あっ」

 間抜けな声をあげ、眉尻をさげて情けない表情を浮かべた。そんな表情をされても直樹だって困る。

「……とりあえず、金沢さんに頼んで、ナイフ借りたら?」

 力なく一番無難と思われるアドバイスをするくらいしかできなかった。祐未は己の失態をごまかすように苦笑し、直樹の提案に何度もうなずく。
 ガララッ、と音を立てて、部屋の扉が開いた。

「直樹くーん、そろそろ検査よ?」

 立っていたのは直樹を担当している金沢だ。

「あ、はい……」

 直樹がベッドから降りると同時に祐未が椅子に座ったまま首だけ動かす。

「すンませんっ、ナイフって借りられますか?」

「え? あら、ナイフ忘れちゃったの? いいわよー。私は今から直樹君の検査につきそうから、ナースステーションに聞いてみて」

 金沢は相変わらず軽い調子で質問に答えた。

「うぃっす」

 彼女の返答を聞いた祐未がどこかおっくうそうに椅子から立ち上がる。彼女はすぐに笑みを浮かべて直樹に手を振った。

「帰ってくるまでに、りんご剥いとくからなっ!」

「ありがとう」

 笑顔の祐未に手を振り替えし直樹は金沢の案内にしたがった。
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