君はリリーを知っているか?


「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」

「リリアン・マクニール……さん?」

 若い男の声だ。リリアンが肩をゆらして立ち止まる。振り向くべきか叫ぶべきか一瞬迷った。その間に背後の男がさらに話しかけてくる。

「まって! 僕だよ……ジャッキー・ボーモントだ!」

 言われた名前にリリアンが思わず振り返った。

「は?」

 女と見紛う線の細い男が立っている。背丈はリリアンと同じくらい。ふわふわした髪が顔のまわりで踊っていた。昨日間近で見た顔だから見間違うはずがない。ジャッキー・ボーモントだ。しかし彼は薬物中毒で病院にいるはずだ。仮に昨日の騒動が薬物を無理やり服用させられた結果なのだとしても、事情聴取はまぬがれないだろう。そもそも心肺停止状態からこんなに早く退院できるまで回復するはずがない。病院から脱走したのだろう。後ろ暗いところがなければ脱走などしない。つまり昨日ジャッキーは自主的に薬物を服用したのだ。
 リリアンが警戒心を露わにして癖毛を睨みつけていると、ジャッキー・ボーモントは頬を赤く染めて口元に穏やかな笑みを浮かべた。

「き、昨日は助けてくれてありがとう! 綺麗で頭もいい君に好いて貰えるなんて僕はとってもうれしいよ」

「いや、当然のことをしたまでで、好いてるとかそんなんじゃないから」

 ジャッキーが笑みを深める。周囲の空気が華やぐような可愛らしい笑顔だ。

「大丈夫! 僕はちゃんとわかってるよ! 好きじゃない人間に人工呼吸なんかしないものね!」

 リリアンが眉をひそめた。

「命ナメんな?」

「僕も前から君のこと綺麗だなって思ってたんだ! 光栄だよ!」

――ダメだ。人の話聞いてねぇ。

 こうなると多少話の通じる西野隆弘のほうがマシだったとさえ思える。経済力では五分くらいだろうし顔もタイプが違うだけで同じくらいのレベルだから、隆弘に軍配があがるのは『話が少し通じる』という一点のみだが。今日リリアンに絡んでくるのは残念な男ばかりだ。隆弘はファッションセンスが息をしていなかったが、ジャッキー・ボーモントは薬の影響で脳みそが壊死しているようだ。そのくらい会話が噛み合わない。彼はすっかり忘れているようだが、ジャッキーはリリアンの部屋に不法侵入している男だ。会話をするのはこれが2度目で、1度目は彼の意識がもうろうとしていた昨日の夜。当然家の合い鍵など持っているはずもない。決定打は先程の思い込みが激しいにもほどがある発言だ。間違いなくストーカー。その上薬で頭が壊れている。つまり彼は一分の隙もなく完全に犯罪者なのだ。
 ヤク中ストーカーがニコニコと笑いながら話しかけてくる。

「僕も君を素敵だと思ってるよ! だから、僕が君を守ってあげる!」

「生憎他人に守られなきゃいけないほどアグレッシブな人生は送ってないんでね」

「君を守れるなんてとっても光栄だよ!」

「聞けよ」

 リリアンの身体と頭が疲れを訴えている。会話の通じない相手とのコミュニケーションがこんなにストレスになるとは予想外だ。
 ジャッキーは明るい様子で話しかけてくる。

「僕が頼んであげたから、もう安心だよ! 一緒にいこう、リリアン!」

 言葉に主語がない。彼が誰に何を頼んでなにがもう安心だからどこに一緒にいって欲しいのかリリアンにはまったく解らなかった。解りたくもない。
 男が1歩自分に近づいてきたので彼女は思わず肩を振わせた。

「やめて! くるな!」

 女の悲鳴に、ヤク中が首を傾げる。

「リリアン、どうしたの? まだ不安?」

 リリアンは1歩ジャッキーから後退して首を何度も横に振った。

「言ってる意味がわからない!」

 ヤク中が笑う。

「ああ、僕の説明が足りなかったね! 薬のサンプルをリリアンが持ってくれば安全を保証するって、約束してくれたんだよ!」

「く、くすり?」

 そうだよ、とジャッキーが頷く。

「ネズミが空を飛んだときの薬だよ」

 リリアンの肩がビクリと震えた。

――ジャッキーもネズミのことを知っている。
 あの男ふたりとジャッキーはグルなのだろうか。
 ジャッキーがあのふたりに情報を流した?
 しかしジャッキー・ボーモントは専攻が違う。バルボ教授の研究室にくる必要性がない。
 たまたま通りかかったのか、それとも。

 リリアンが身体を硬直させたままジャッキーを凝視していると、ヤク中は笑ったまま口を開く。

「あれはすばらしい薬だね! 生物の進化を促進させる薬だ! あの薬に携わっていた君は、是非とも保護されるべきだと、僕は思うよ!」

 男がリリアンとの距離を詰めてくる。女はたまらず1歩下がった。細い指先が伸びてくる。

「怖がらなくても大丈夫、僕がなんとかしてあげるから」

 冗談じゃない。知られている。
 情報が、どこからか漏れている。
 生物の進化を促進させる薬。ネズミが空を飛ぶ薬。
 どうしてそんな話になったのか。
 ルーベンの部屋は荒らされていた。
 リリアンは警察の調査についてはよく知らないけれど、部屋が物色されていたのは確かだ。
 なにか盗まれていたとしたら。

 眉をひそめたリリアンがジャッキーを睨みつける。

「っ、まさか、アンタらが……クラブで飲んだのはっ!」

 男が頷く。

「そうだよ。データから復元した薬だ! まだ変化はないけど、すばらしい結果になってるはずだよ! 僕はきっと新しい力を手に入れられる!」

 リリアンはゆるゆると首を横に振った。

「信じられない……自分の身体で、人体実験したの……?」

 てっきりジャッキーが無理やりドラッグを飲まされたのだと思っていたが、もしかしたらジャッキーのほうがミックたちを騙して薬を飲ませたのかも知れない。
 男は相変わらず笑ってリリアンとの距離を詰めてくる。

「人体実験なんかじゃないよ。新しい自分になるための試練さ!」

 細い指が肩に触れたのを感じて、リリアンが思わず叫ぶ。

「こっ、こないで!」

 バタン、と1階から大きな音がする。ついで階段を上る音と西野隆弘の声が聞こえてきた。

「リリアン! どうした!」

 ジャッキーの手がリリアンから離れる。駆け上がってきた隆弘が華奢な男の姿を見て驚いた声を上げる。

「ジャッキー……!?」
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