君はリリーを知っているか?


「ありがとね。昨日も今日も」

「ウソだろ……」

 背後を振り返ろうとすると、隆弘にとめられた。

「やめとけ。図書館出たときからずっとだ。どうやらイタリア人みてぇだが、調子こいた観光客にしちゃ、やり方がまわりくどいな」

 家まで後をつけるつもりなのか、もっとひと目につかないような場所でどうこうするつもりなのか――隆弘がいるせいで手をだしあぐねているのか。
 男が僅かだが険しい顔つきになった。

「素人に気づかれるくらいだからたいしたこっちゃねぇとおもうが……どういうつもりだか」

 リリアンが生唾を飲む。男はタバコを携帯灰皿に押し込んだ。

「ちょっと走るぜ」

「えっ」

 リリアンの了承を得ないまま隆弘が彼女の手を引き、勢いよく走り出す。後ろからバタバタと足音が聞こえてきた。深い霧の中に足音だけ聞こえてくるのは、まるで幽霊を相手にしているようで酷く不気味だ。ボードリアン図書館を抜け、ラドクリフカメラの手前をナナメに突っ切る。ブレーズノーズ・カレッジ横の小道を走り抜けて建物の影に隠れた。
 リリアンの身体が壁に押しつけられ、隆弘の身体が密着してくる。心臓の音が聞こえてきた。男の身体の隆起を肌で感じる。腕がリリアンを閉じ込めるように背中へまわされた。相手に気づかれないようにか、身体がさらに密着してくる。頭上には真剣な表情で今来たばかりの道を睨みつける隆弘の顔。2人とも走ったせいで少し息が乱れている。
 呼吸をすばやく整えるため深呼吸したリリアンは、目の前の男から香水の匂いがしてくるのに気がついた。オーシャン系の香りがする。嫌味なくらい似合うなと思って、リリアンは場違いにも苦笑してしまった。
 隆弘の腕の力が強くなり、リリアンの顔が必然的に男の胸板に押しつけられる。

「……くるぜ」

 囁くような隆弘の言葉の直後、足音が響いてきた。小声の会話が聞こえる。

「……どっちにいった?」

「見失ったのか?」

 それから暫くして、足音が通り過ぎていく。相手はどうやらそのまま直進してマーケットストリートへ向ったようだ。
 隆弘はリリアンを抱きしめたまましばらく様子を見ていたようだったが、やがてゆっくりと女から離れ、道を見渡す。

「……行ったな」

 リリアンも恐る恐る物影から顔をだし、周囲を見渡した。

「ありがと、西野」

「隆弘だ。このままハイストリートに出て、少し遠いがオールドバンクホテルに入るぞ。そっから警察に家まで送ってもらったほうがいいな」

「うん」

 隆弘はごく自然に彼女の手を握ってハイストリートへ歩き出した。今回はリリアンも抵抗しない。なにかあったときこの男とはぐれたらこまるのは自分だ。

「……なんであの2人、私らをつけたりしたんだろう?」

 外灯の下で霧の粒子が流れていく。男は一段落ついたからか、タバコを取り出して火を付けた。

「まあ、ジャッキーの仲間がお前の居場所を特定しようとしたってのが妥当だな。手出しできるようだったら手出しするつもりだったのかもしれねぇし」

 リリアンが俯いた。隆弘がいたから良いが、ひとりで帰っていたら今ごろどうなっていたのだろう。
 男は俯くリリアンを横目に見て少し口をへの字に曲げる。それから困ったように頭を掻いた。

「あー……とにかく、一応はまいたからよかったじゃねぇか。ホテルから目立たねぇように送ってもらえば、居場所もごまかせるしよ」

「うん……」

 女が頷くと、隆弘がタバコの煙と一緒にため息を吐き出した。安心したような表情だ。
 リリアンは端正な横顔を見上げて、ニコリと笑う。

「ねえ西野」

「隆弘だ。なんだ」

「ありがとね。昨日も今日も」

 男が照れくさそうに口を曲げ、タバコの煙を吐き出した。

「気にすんな」

 彼らがホテルに入って警察に通報し、無事家に送り届けられたのは、それから20分後のことだった。
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