君はリリーを知っているか?


「もう追いかけっこは終わりよ!」

 異変に気づいた警察官が声をあげる。

「リリアンさん! 外出は控えて下さい! どうしたんですか!?」

 警官がリリアンの肩に手を置いた。女は無理やり呼吸を整え、男の手を掴む。

「たっ、助けて、助けて下さい! ドリーが! 西野がっ……」

「なにかあったんですか!?」

「ど、ドリーが……!」

 リリアンの身体が突然重くなった。彼女が膝をつく傍らで警官もバランスを崩し、尻餅をついている。

「なっ、なんだ……!?」

 巡査の言葉にリリアンは答えられなかった。なんと言って良いのかわからない。代わりに自分が走ってきた方向を見ると、ドリーがゆっくりと歩いてくるところだった。足元がふらついている。目元からは血が出ていた。

「逃がさないわよ」

 警官の身体が完全に床へ押しつけられる。

「うぐぅっ!」

 妙な声が聞こえた。男が立ち上がろうとするもうまくできないようだ。
 ドリーが近づいてくる。
 リリアンは転びそうになりながらホテルの外へと飛び出した。
 白い霧に包まれた夜の町が、微かな月明かりでぼんやりと浮かび上がっている。吸血鬼でも出てきそうな雰囲気だ。レンガ造りの建物も、大きく枝を伸ばした街路樹も、霧の水滴がついている。リリアンが走り抜けるたびに水滴が弾けて降り注いだ。
 霧の向こうから半月が追いかけてくる。ぼんやりとした月と外灯の明かりが空気中の水滴を照らし、タイルの路上に長い影を作り出していた。
 吐く息が白い。
 服は水分を吸い込み、リリアンの動きを阻害していた。走っている間にどんどん重くなっていく。
 遠くから響く足音はドリーのものだろうか。霧の中で反響して、今彼女がどこにいるのかわからない。
 振り返る勇気はない。
 そんな暇があったらもっと遠くへ逃げなければいけない。
 西野は無事だろうか。ロビーで倒れた警官は無事だろうか。
 ドリーはリリアンを追いかけてくるから、あれ以上危害を加えられることはないと思いたい。
 彼女はやはり、もう長くないのだろうか。自分でも薬を使ってしまったのだろうか。
 まだ安全性も確認できていないはずなのに。
 得体の知れない成分がどれだけ恐ろしいか、ドリーは知っているはずだ。

「まちなさいリリアン!」

 霧の奥からドリーの声が聞こえてくる。リリアンは狭い路地をむりやり右に曲がった。転びそうになりながらアーチを潜り、短く刈り込まれた芝生の庭に足を踏み入れる。弾けた水滴が足や服を濡らした。
 リリアンやドリーが所属するオリオルカレッジだ。古城というべき風体は夜霧の中にあるとひどく不気味だ。窓の奥からたくさんの目に見られているような錯覚に陥る。建物自体が意志を持ってリリアンを見張っているような気分だ。

 ここからどこに逃げればいい?

 迷う時間はあまりない。周囲を見回しても、夜霧のせいでぼんやりとしか見えなかった。この時間は大抵の建物が施錠されている。とにかくどこか隠れる場所を探してリリアンは走り出した。
 半月とドリーが追いかけてくる。
 追跡者から逃れるように、彼女は礼拝堂の中へと逃げ込んだ。鍵をかけ忘れたのだろう。
 ドーム型の天井は格子状の骨組みが見えている。大人2人分程度の通路が祭壇まで延びていた。その両脇に木製の座席が向かい合うように設置されている。ニスが丁寧に塗り込まれていて、机がついていた。座席の上と祭壇の上にステンドグラスの窓が設置されている。霧の向こうからぼんやりとした月光が差し込んでいた。淡い光が床に木洩れ日のようなモザイクを作り出している。なにぶん弱い光なので、モザイク模様以外はビロードのような闇に覆われていた。
 リリアンは扉の鍵を閉め、その場にズルズルと座り込む。呼吸を整える必要があった。
 ここに隠れているのが見つかったらまさに絶体絶命だ。携帯電話はホテルに置いてきてしまった。持ってくる余裕などなかった。今のリリアンにできることは、どうか見つかりませんようにと、それこそ神に祈ることくらいだ。なるべく音を立てないよう祭壇の近くに移動し、座席の影に隠れる。
 ガタンッ、と扉が大きな音を立てた。

「ここにいるのはわかってんのよ!」

 また大きな音がして扉がへこむ。もう1度轟音がした後、暗がりの中で冷えた空気に流れが生まれた。濡れた草の匂いがしてくる。

「扉なんて意味があるわけないでしょ」

 ドリーの声が先程より近くで聞こえてきた。足音がリリアンのほうに向かってきた。
 彼女がジャッキーと似たような力を持っていることは間違いない。ジャッキーのものよりかなり暴力的な代物のようだ。サイコキネシスとでも言うべきか。これでは本当に超能力だ。

「どこに隠れてるのかしら?」

 リリアンの近くでベリベリと嫌な音がする。木製の座席が独りでにひしゃげているところだった。見えない鉄球にでも押しつぶされているようにヒビが入って歪んでいく。
 自分の身体にも重いものがのしかかってくるのを悟り、リリアンはたまらず悲鳴をあげた。

「きゃぁあああっ!」

 彼女の悲鳴をドリーが聞きつける。物影から逃げ出してきたリリアンの背中に見えないなにかがのしかかってきた。身体が地面に縫い付けられる。頬がひんやりと冷たかった。

「そこにいたのね」

 嘲笑まじりの声が聞こえる。ドリーは大股でリリアンへ歩み寄り、彼女の身体を蹴って仰向けにさせた。リリアンの両手は相変わらずなにかに上から押しつけられている。

「もう追いかけっこは終わりよ!」

 ホテルの時と同様、ドリーがリリアンに跨って首を絞めた。暴れようとしても足が上手く動かない。痛みと息苦しさの中、リリアンはドリーの胸元を見た。シャツのボタンが星の形になっている。
 女は上手く動かない口を無理やり動かした。

「どうし、てっ……!」

「どうしてって、アンタこの状況でわかんないの?」

 ドリーの言葉にいつもの優しさや親しみは微塵も感じられない。リリアンをバカにするように笑ったあと、彼女は両腕に体重をかけた。リリアンの気管を圧迫するためだ。
 リリアンの頬に生ぬるい水滴がパタパタと落ちてくる。ドリーの目尻から流れる赤い血だ。
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