君はリリーを知っているか?


「名前で呼べって何回言ったらわかる」

 明らかに敵意を含んだ視線がリリアンを射貫く。ドリーの腕が相変わらず気管を圧迫していたが、リリアンは歯を食いしばって目の前の女を睨みつけた。
 冷たいアイスブルーの瞳にリリアンの苦しそうな顔が映っている。リリアンは頭の片隅で、ドリーってこんな顔だったっけ、と疑問に思った。そもそもドリーの目が水色だというのを今初めて知った気がする。
 同居していた相手なのに、今まで顔をまともに見たことがなかったのだ。人としてどうかと自分でも思う。他人の目を見るのが嫌だった。
 姉と比べられそうで。姉より劣っていることを非難されそうで。
 姉より劣っている自分は、他人の顔色を伺っていないと誰にも必要とされないような気がしていた。
 両親や教師の指示に従っていたように友人のいうことにも従っていれば、比べられることも非難されることもない。
 ヘラヘラ笑ってごまかして、いつだってその場しのぎだった。他人の顔色を伺って言葉を選んで、そんな人間を見れば誰だって人形のようだと思うに違いない。
 今リリアンは、ドリーの前で初めて感情を爆発させる。
 息苦しさとは別の理由で身体が震えた。他人に自分の言葉を伝えることがこんなに怖いことだなんてリリアンは思ってもみなかった。
 まだ人の目を見るのは怖いけれど、ちゃんと目を見て話さなければ言いたいことなんて伝わらない。

――目を見て話せば信じる気になると、あの男が言っていたから

 初めてきちんと見たドリーの顔が、まるで初対面の他人のように見える。 

「他人の研究成果横取りするハイエナより、人形わたしのほうがよっぽどマシだからでしょ!」

 ドリーの顔が赤くなった。アイスブルーの瞳が剣呑に輝く。女は右手をリリアンの首から離し、勢いよく振り上げた。
 バシン、と乾いた音がする。
 頬に衝撃が走り、リリアンの頬が痛みを持ち始める。ジンジンと痺れるような痛みだった。

「よくもっ! よくもそんなことっ! 絶対許さないわっ!」

 ドリーが喋るたび口からボタボタと赤黒いものが零れてくる。生々しい鉄の臭いがリリアンの顔全体に降りかかった。息が苦しい。口にも鼻にも苦い鉄の味が入り込んできた。

「どうせ私は長くない……! だからってタダじゃ死なないわ! アンタだけは絶対に道連れにしてやるから!」

 息が苦しい。リリアンは酸欠の魚のように何度も口を動かしたが、状況が改善されることはなかった。妙な重力はどんどん弱まっている。手足をバタつかせることはできるようになったが、拘束を抜け出すまでには至らなかった。女は朦朧とする頭で、助かる道がないものかと必死に考えを巡らせる。
 思いつくのは一つだけだ。多分酸欠でうまく頭が働かないのだろう。
 湖に差し込む木漏れ日のような深緑だけが脳裏に浮かんでいる。不思議なコバルトグリーンに、何度助けてもらったことだろう。何度庇ってもらったことだろう。
 見かけはギリシャ彫刻のように完成されていて、けれどリリアンと違って確かに生きていると思えるあの男なら。
 見ているだけで体温を感じられるあの男なら、この状況をなんとかしてくれるのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
 身体中の酸素をかき集め、ブラックアウトしそうな意識の中でリリアンが必死に声を張り上げる。

「助けてっ! 西野っ!」

 ガシャン、となにかを踏みしめる音が聞こえた。扉が転がっているほうからだ。

「名前で呼べって何回言ったらわかる」
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