君はリリーを知っているか?


「そんなチャチな薬なんかに、俺の20年間が否定されてたまるか!」

「手間ぁかけさせやがって」

 同時に彼の身体が動いた。
 強風に立ち向かうように一歩足を踏み出す。そうしてまた一歩踏み出し、突風の原因であるドリーに近づいていく。
 リリアンも彼の行動には驚いたが、ドリーはそれ以上に驚いたようだった。

「なっ、なんですって!? どうして動けるの!? どうして向ってくるのよっ!」

 風がさらに強くなる。建物自体がギシギシと妙な音を立てた。地面に縫い付けられたままのリリアンは倒壊の危険性に背筋が寒くなる。
 隆弘は歩みを止めない。忌々しげに舌打ちをして奥歯を噛み締めた。
 タバコを咥えていたならきっと噛みきっていただろう。

「寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ。この俺がドーピング女なんかに負けるわけねぇだろうが。進化だと? そりゃあ他人の努力を踏みつけるくらいの価値があんのかよ」

 血を吐いたドリーが隆弘から逃げるようにジリジリと後退していった。隆弘も同じ速度で彼女に近づいているので差が縮まることもひらくこともない。とうとうドリーの背中が壁に到達してしまった。
 風がさらに強くなる。隆弘の身体が一瞬よろめくが、彼はすぐに体勢を立て直した。
 男は決して倒れない。
 まっすぐにドリーを見据えていた。

「そんなチャチな薬なんかに、俺の20年間が否定されてたまるか!」

 ドリーの真正面に辿り着いた隆弘が握り拳を振りかざす。
 殴られると思ったのだろう。ドリーが反射的に目を閉じた。
 ガツン、と重い音がして隆弘の拳が突き刺さる。目を強く瞑ったドリーのすぐ横、礼拝堂に壁に。
 壁に右拳を叩きつけた状態で、隆弘が小さく呟いた。

「……ようやく、警察のご到着か」

 隆弘の言うとおり、外からサイレンの音が聞こえてくる。
 自分の真横に拳が突き刺さったドリーは、脱力した様子でヘナヘナと座り込んでしまった。風が止んでいる。逃げる気力も残っていないのだろう。意識があるのかどうかも怪しい。目をあけたまま気絶しているのかもしれない。
 隆弘はドリーに抵抗する意志がないのを確認し、堂々とした態度でリリアンに歩み寄ってきた。彼女に男が手をさしのべる。

「立てるか」

 切れ長の目がリリアンを見ていた。彼女は素直に男の大きい手をとる。

「ありがと。大丈夫」

「念のため病院にいったほうがいいな」

「西野もね」

「隆弘だ」

 彼がこんな時でも呼び名を訂正してきたので、リリアンは思わず笑う。
 サイレンの音が止まった。警察がくるのももうすぐだ。礼拝堂はボロボロだが緊急事態だからきっと仕方がない。
 男に手を借りて立ち上がったリリアンが小走りでドリーへ駆け寄った。さっきから血を流しすぎている。ジャッキーの前例もあるから、彼女の身にこれから何があるかわかったものではなかった。

「ドリー、大丈夫?」

 ドリーは目を見開いて硬直している。話しかけても答える様子はなかった。仕方がないので口元と目元の血を袖で軽く拭う。
 隆弘が歩み寄ってきて、ドリーをのぞき込んだ。

「警察に、救急車も呼ぶよう言っといたから大丈夫だとは思うぜ」

「うん。ありがとう」

 ホテルのロビーにもドリーの血は残っていただろうから、それなりの対応はしてくれるはずだ。
 女の目と口元から流れる血はまだ止まらない。リリアンが懲りずに服の袖で血を拭うと、隆弘の腕が止めた。

「やめろ。汚れるだけだぜ」

「でも、鼻に入ったりしたら大変だよ」

 ドリーの手がピクリと動いた。目の焦点が合い、リリアンを見る。

「ドリー、気がついたの?」

 リリアンはドリーの顔をのぞき込んだが、隆弘はリリアンをドリーから引き離すよう、彼女の肩に手を置いた。
 ドリーは言葉にも隆弘の態度にも反応を示さず、代わりに彼女の水色の瞳がグルリと裏返る。
*前 - 41 -次#
しおりを挟む
目次
戻る
[しおり一覧]
LongGoodbye