君はリリーを知っているか?


「せめて紅茶にしろよ」

 次の日は朝から雪が降っていた。どんよりと立ちこめた灰色の空から白い綿がチラチラと舞い降りてくる。雪がすべての音を吸収していた。
 耳の痛くなるような静寂と冷たさの中、リリアンは早くからカレッジへ向った。今後住む場所について相談するためだ。大家に立ち退きを宣言されたからといって隆弘の家に居着くわけにもいくまい。隆弘はそれでよくても、リリアンがよくないだろう。
 残された隆弘は日課通り図書館へ向うことにした。今日は純粋に政治学の勉強なので『ハウス』の図書館で事足りる。リリアンより少し遅れて家を出た彼は静まり帰った図書館で本を読みふけった。
 しばらくして腹が減ったのに気がつく。正午を過ぎていたので昼食を取ることにした。『ハウス』の近くにカフェもあるが、少し南下すれば中華料理屋がある。真っ二つにカットされたパイナップルの中に酢豚が突っ込まれていたときはさすがに口元が引きつったが、それも含めてまあまあ面白い店だ。
 格子窓のついた赤煉瓦の建物も、ロード・オブ・ザ・リングに出てきそうな石積みの外壁も雪をかぶっていた。遠くにはいくつか城と見紛う尖塔が見える。セント・アデレートの大通りは車が通った跡だけが除雪されていた。そのまま進むと赤い看板のアリスショップがある。外壁はくたびれたオレンジ色なのに窓枠や看板は鮮やかな赤。雪をかぶって寒そうな時計ウサギの立て看板が目を引く。最近では海外のアリス展でよく出品を頼まれるらしい。
 チャシャ猫のぬいぐるみがあったら買うと言っておいたのだが入荷してくれただろうか。
 隆弘が赤い窓枠の中をのぞき込む。チャシャ猫でなくとも時計ウサギあたりのぬいぐるみがあったら欲しい。昼食をとる前に一度見ていこうか。悩む彼の背後から、明るい声がかかった。

「やっほー! たかひろー!」

 リリアンの声だ。驚いて振り返ると、金髪の女が向かい側の歩道に立っている。満面の笑みで手を振っていた。赤い傘に少し雪が積もっている。長い金色の睫毛に覆われた瞳がエメラルドのようにキラキラと光っていた。
 今までみたこともないくらい明るく笑うリリアンを見て、男は自分の頭が真っ白になるのを感じる。

「隆弘今帰りー? ちょっと荷造り手伝ってよー!」

 顔に血液が集まってくるのがわかった。湯気が出そうだ。

 なんだ。なんだこれは。
 なぜこんなに顔が熱いのだろう。
 あの女、さっきなんと言っただろうか。
 隆弘と言っただろうか。

――自分の名前を、呼んだだろうか。

 気がついたら彼は、脇目もふらず逃げるように走り出していた。昼食をとる予定だった中華料理屋を通り過ぎ、警察署の前に辿り着く。白地の看板には青い文字で『テムズバレーポリス』と書かれていた。その下にくたびれたコートの男が立っている。隆弘の顔見知りである刑事、アーマン・ニコルだ。2人組の部下と少し話してから、彼らを街中へ送り出していた。
 まだ顔の熱い隆弘は走ってきた勢いをそのままに、知り合いめがけて勢いよくラリアットを食らわせる。
 当然ながら、アーマンは大きなうめき声をあげた。

「うぐぅっ!?」

 中年男の苦しげなリアクションを無視して、隆弘は男を警察署の中に引きずり込んだ。

「おっさん! ちょっと付き合え!」

 付き合う場所が警察署というのも妙だし、そもそも相手は勤務中の公務員である。はいそうですかと素直に学生の話を聞いてくれる道理などない。
 アーマンはラリアットを受けた首をしきりに撫でながらひとつため息をつく。

「……まあ落ち着いて、ソファにでも座れ」

 ここで隆弘は、周りの人間が自分に甘いということに気がついた。彼が大人しく深緑色のソファに腰かけると、アーマンが紙コップに入ったコーヒーを持ってくる。一口飲んでみて隆弘は眉をひそめた。

「まずい」

 アーマンが笑う。

「警察のコーヒーだ。話のネタになるぞ」

「せめて紅茶にしろよ」

「生憎まずいコーヒーは許せるが、まずい紅茶は許せないって連中が多くてな」

 隆弘がもう一口コーヒーを飲む。コーヒーのまずさと仕事を邪魔してしまった申し訳なさで顔をしかめた。

「仕事中に悪かったな」

「かまわん。今回は随分危ない目にあわせたしな。で、どうした?」

「別に事件に関係することじゃねぇぞ」

「そんなもんお前の顔を見ればわかる」

 隆弘の言葉は一蹴されてしまった。もう一度顔をしかめた彼はアーマンの目をまっすぐに見つめる。小さい頃からよく見ていた灰色の目だ。すべてを見透かすような、透明に近いアッシュグレー。隠し事をする気がなくなる。
 照れくささが最高潮に達した隆弘が、まだ赤い頬を軽く掻いた。

「……いや、さっき、リリアンに会ってよ」

「そうか。彼女、次の借家は決まったのか?」

「今日相談しに言った。カレッジの空いてる部屋使わせてもらえるんじゃねぇのか」

「彼女にも大変な思いをさせたな」

「別に警察のせいじゃねぇだろ」

 隆弘がもう一度コーヒーを飲む。少し熱が取れてまずさが増した。美味ければ飲みやすくなったと言いたいところだが、この味ではそんな気にはなれない。
 アーマンは彼と向かい合わせに座って言葉を待っていた。急かしたりする様子はなく、周囲も事情聴取か相談だと思っているのか咎める様子はない。実際には業務とまったく関係ない話をしている。
 隆弘が先程のことを思い出すと、熱の引いてきた顔にまた血が集まってきた。
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