君はリリーを知っているか?


「そこで大人しくしていろ!」

 走って借家まで辿り着いた隆弘は赤い屋根の家を真っ先に見た。門の前に黒い車両が一台停まっている。赤い傘が地面に落ちていた。エンジン音がうなりを上げ、自動車が動きだす。
 男の頭が真っ白になり、身体は車に向って一直線にかけ出していた。

「そこの車ァ! 動くんじゃねぇ! 止まれ!」

 助手席の窓がゆっくりとしまっていく。一瞬、彼はカーフィルムの隙間から赤い髪でブルーの瞳の男を――
 
 死んだはずの薬学教授、ルーベン・バルボの顔を、確かに見た。

「!? なんでっ……」

 大きなエンジン音が響いて車が隆弘から逃げ出す。走っていては間に合わない。死人の顔を見たことも、今考えている暇はないようだ。

「っ……クソが!」

 男が盛大に舌打ちする。逃げていく車のナンバーを確認し、自分の借家に飛び込んだ。車庫で眠っていたアッシュゴールドのバイクにキーを差し込み、エンジンをかける。流線型が美しいアドベンチャータイプで、並列3気筒エンジンを搭載したトライアンフのタイガースポーツ1050。車体と同じ塗装のフルフェイスヘルメットを手に取った隆弘は、バイクを出す前に携帯電話でアーマン・ニコルに連絡をした。
 3コールで相手が出る。確認もそこそこに隆弘は声を荒げた。

「おっさん! リリアンが攫われた!」

 電話口から男の慌てたような声が聞こえる。

『なんだと!? 相手の顔は見たのか!』

「ああ、助手席に……いや、見間違いかもしれねぇ……ナンバーはAC55MZVだ。とにかく、俺は先に車を追うぜ」

『おい! やめろ隆弘! そこで大人しくしていろ! おい!』

 刑事の悲鳴を無視して男は通話を終了させた。ヘルメットを被ってアクセルグリップを回し、車が逃げた方向へ飛び出す。ふわふわと舞う雪を追い越し、川からまっすぐにのびるアビングドン・ロードを走った。
 オックスフォード市内は至る所が歩行者専用で車での移動に向かないし、そもそもすぐ近くに警察署がある。今ごろは車両ナンバーも連絡が行き渡り、向こうに逃げているのだとしたら捕まるのは時間の問題だ。だとすれば隆弘が探すのはロンドン方面。
 直線道路を暫く走るとユニバーシティ・カレッジが所有するスポーツグランドにさしかかる。その横で、隆弘は黒い車を発見した。猛スピードで田舎の道路を走っていれば嫌でも目立つ。
 逃げる車に追いつくため男もスピードをあげた。相手も追いかけてくるバイクに気づいたらしい。さらにアクセルを踏み込む。三叉路の左側に入ったところで隆弘はピッタリと車の後ろについた。
 甲高い音がして車の後輪が煙を吹く。急ブレーキをかけられたのだ。危うく車にぶつかりそうになり、寸前でなんとかハンドルを切った。そのせいで隣の車線に大きくはみ出してしまい、トラックに大きなクラクションを鳴らされる。車線の上を走るように車体を立て直し、トラックとの激突は避けた。しかし黒い車が真横から体当たりしてきたので今度はそれを躱さなければいけなくなる。
 視界に入ってくる雪が邪魔だ。
 このままでは命がいくつあってもたりない。片足で黒い車の後部ドアを蹴り飛ばし、無理やり距離を取る。また車のすぐ後ろについた。黒い車がスピードを上げる。無理な追い越しを繰り返して隆弘から逃げていく。クラクションが至るところで響き渡り、中には急停止する車もある。一台が雪の固まりになった中央分離帯へ激突し、甲高い音を立てた。運転席から怒鳴り声がする。

「なにやってんだ!」

 男は思わず舌打ちをした。
 スリップしやすい状態でカーチェイスを続けていれば、もっと大きな事故が起こるだろう。彼の危惧とはうらはらに黒い車はどんどんスピードを上げていく。
 このままでは見失ってしまうだろう。隆弘もアクセルを思いきり回して車の間を縫うように目標を追いかけた。雪がバチバチとヘルメットに当たる。クラクションが鳴り響き、合間から怒号が飛んでくる。真っ直ぐに伸びた四車線道路で無茶な運転を続けていると、4差路のロータリーが見えてきた。黒い車はブレーキを踏む様子もなく、黄色信号に突っ込んでカーブを曲がる。
 後輪が大きく振り回され、キキキキキキィィ、と甲高いブレーキ音が響いた。
 道路に黒いタイヤ痕。
 信号が赤に変わる。
 隆弘もブレーキはかけずにロータリーへ突っ込むことにした。このスリップしやすい状態で今から止まれそうにない。そもそも止まったら車を見失ってしまうだろう。
 クラクションとブレーキの音が響き、急停止した車の間を縫うようにバイクが走る。
 一台の車が止まりきれず隆弘に迫ってきた。
 クラクションとブレーキの音が残響なのか今響いているものなのかわからない。
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